ダーク ピアニスト
〜練習曲1 紫の呟き〜
Part 1 / 3
「きれいな村だね」
磨かれた窓硝子に手を当ててルビーが言った。そこは南仏の小さな村。なだらかな丘陵地に一面の葡萄畑が広がっている。収穫期である今はそのあちこちに宝石のような紫の粒が誇らしそうに実っていた。
「僕、ここ気に入ったよ」
そこは村で唯一のホテル。
その最上階の出窓に膝を突き、彼は下を眺めていたのだ。
「ねえ、見て! 荷車にいっぱい葡萄を積んでる。あんなにたくさんの葡萄を運んで行って何をするのかしら?」
ルビーが言った。
「ワインを造るんだ」
男が言った。
「ワイン?」
ルビーがうれしそうに振り向く。そして身軽に飛び下りると男の近くに寄って言った。
「僕、ワインって大好きだよ」
「ああ、知ってるよ」
背の高い銀髪の男は小型の端末にしきりに何か打ち込んでいた。
「それに葡萄も好きなの」
彼はにこにこと男を見上げる。そんなルビーの漆黒の髪は肩まで届き、前髪は目と眉の間で切り揃えられていた。加えて黒くて大きく開かれた瞳は光を反射して輝いている。小柄でしなやかな身体に纏った服はすべて漆黒。リボンの付いた上着もそうだ。見た目も童顔でその言動も行動も子供のようなルビーのことを、皆はお人形と呼んだ。
「だからねえ、ギル、外に行ってもいいでしょう?」
甘えるようにその腕を揺する。
「駄目だ」
端末から目を離さずにギルフォートは言った。
「どうしてさ?」
不服そうにルビーが言った。
「もう日が暮れる」
そう言うとギルフォートは端末の蓋をして真っ直ぐ視線を向けた。その瞳は印象的なエメラルド色。しかし、その光り目はまるで鉄線のように鋭い。
「それに、まだここへ来たばかりで周囲の様子もわからないだろう」
と付け加えた。
「わかるよ! 僕、ちゃんとここへ来る時、車の窓から見てたもの」
「いいや、駄目だ。そう言って外へ出て、これまで何度迷子になった?」
「違うもん! あれは迷子になったんじゃなくて……」
そうルビーが言い訳しようとした時、ギルフォートの携帯が鳴った。彼はルビーに待てと目で合図して電話に出た。
――「あんたがムッシュ グレイスかね?」
電話の向こうの声は皺枯れていた。
「そうですが……。あなたは?」
――「ムッシュ リースから紹介されたマクミールだ」
ギルフォートは受話器を持ち直すと小声で言った。
「依頼の件ですね。一応の話は聞いています」
どうやら仕事の話らしかった。
「あれは違うのに……」
ルビーは不満そうに呟くと背を向けて出て行こうとした。
「待て! 何処へ行く?」
通話口を押さえて男が訊いた。
「ジェラードのとこ」
振り返らずにルビーが答える。
「ジェラードは今、支配人と打ち合わせ中だ」
ギルフォートの言葉に彼は一瞬だけ振り向くとにっと笑って言った。
「それなら、僕はパーティーで弾くピアノと打ち合わせして来るよ」
と言って彼は部屋を出て行った。
ラウンジを覗くとジェラードはまだ男と話をしていた。
どちらも同じような年代の中年の男だったが、ジェラードの方が貫禄がある。品のいいダブルのスーツでゆったりとソファーに掛け、葉巻をくゆらせている。その髪は金色で水色の瞳が柔和な印象を与えていた。
一方、支配人と呼ばれた男はその髪と目の色に合わせたような黒褐色のスーツで口髭を生やしている。どことなく商人特有の抜け目なさを感じさせる男だった。
「おや、どうしたね? ルビー、入っておいで」
ジェラードが気づいて呼んだ。
「でも、お仕事中じゃないの?」
ルビーがおずおずと訊く。
「いや、構いませんよ。ムッシュ ラズレイン。ご子息ですか?」
支配人であるランビリエが営業用の笑いを浮かべて言った。
「ええ。ルビーです。さあ、こちらに来てランビリエさんにご挨拶しなさい」
養父に言われてルビーは男の前に立った。
「グーテンターク」
そういうルビーを男はじろじろと舐めるように見た。
「ボンジュール、ムッシュ ラズレイン。」
「グーテンターク、ヘル ランビリエ」
ルビーはドイツ語で挨拶した。
「はは。ご子息はフランス語は話せないんですか?」
どことなく不満そうな、それでいて心の底では見下しているような不快さを感じた。
「いいえ。でも、今は話したくないだけ……」
ルビーが言った。
「ははは。面白い方ですね。構いませんよ」
ランビリエは社交で言った。そんな男の様子をルビーは観察した。
「ところで、パーティーではあなたがピアノを弾いてくださるそうですね。期待していますよ。何しろここは一流のホテルなものですから、有名なピアニストやオペラ歌手なんて方もよくお泊りになられるんですよ。必然的に従業員達の耳も大層肥えておりますからね」
含みのある笑みを浮かべて支配人は言った。
「一流だって? ねえ、ジェラード、この村にある何もかも素敵だけど、ただ一つこのホテルだけは環境に馴染めなかったようだね」
「何!」
ルビーが早口で言ったのでランビリエにはその全てが聞き取れなかった。が、ルビーがくくっと笑ったので何かケチをつけられたのだと感じて腹を立てた。
「大人って案外大人気ないとこあるんだね」
ルビーはそうフランス語で言うとジェラードに言った。
「ねえ、僕、少し遊びに行っていい?」
「ビリヤードかい? それとも、ゲームコーナーにでも行くのか?」
「うん。まあ、そんなとこ」
「じゃあ、これで少し遊んでおいで」
ジェラードは財布の中から無造作に札束を取り出すと彼に渡した。
「ありがとう」
ルビーはご機嫌でそこから出て行った。
「ははは。申し訳ありませんね、ムッシュ ランビリエ。あれも相当な我がままなもので……」
ジェラードは気にする様子もなく口にした。
「いえ。芸術家っていうのはあんなものですよ」
と言ってランビリエは笑ったが、心の中では大人気ない怒りが渦巻いていた。
ホテルの前には、ちょうど今着いたばかりのタクシーが停まっていた。客を降ろして発車しようとすると、その窓を叩く者がいる。ルビーだ。
「ねえ、ちょっとそこまで乗せてってくれない?」
彼は後部座席のドアを開け、勝手に乗り込むと運転手に言った。
「ああ、さっきの坊ちゃんですかい? 構いませんけど、どちらまで?」
そのタクシーはホテルにチェックインする時、彼らが乗って来たタクシーだった。
「ああ、よかった。さっきここへ来る時大きな葡萄畑が見えたでしょう? 僕、あそこへ行きたいんだよ」
「葡萄畑? お一人で?」
運転手が訊いた。
「うん。ジェラード達はお仕事で忙しいから、僕、一人で行くの。ねえ、あの葡萄畑は素敵だね。すっごくきれいな紫で粒々がみんな囁いてる」
「そりゃあそうでさ。ありゃあ、ワイン作りに掛けちゃこの辺りじゃ一番のジョゼフ爺さんの自慢の畑ですからね」
車を発進させると運転手が自慢そうに言った。
「へえ。1番なんだ」
ルビーが感心したように言う。
「そうなんでさ。爺さん頑固だからいまだに昔ながらの製法で醸造してましてね。国のお偉いさんとか外国の有名な貴族にだって愛されてるすげえワインなんでさ。おれ達にとっても誇りなんですがね。おかげで地元のおれ達の口にゃあ滅多に入らねえんですけどね」
「そうなの?」
とルビーが身を乗り出す。
「坊ちゃん、ワインが好きなんですかい?」
「うん。大好き!」
ルビーはうれしそうに答える。それを見ると運転手は大げさに両手を上げて首を横に振った。
「ワインが欲しいんですかい? 気持ちはわかりますがね、爺さんは偏屈だから気に入った者にしかワインは売らねえ。たとえ、いくら大金を積まれても……。それに、今年は……」
僅かに運転手の顔が曇る。
「……悪いことは言わねえ。諦めた方がいいですぜ、坊ちゃん」
「それは訊いてみなければわからないでしょ? それにね、僕はワインが欲しい訳じゃないんだ。あの葡萄畑に会いに行くんだよ」
「葡萄畑に?」
運転手は怪訝そうにバックミラーを覗いた。ルビーはうれしそうに微笑している。外はもう一面の畑が続いている。
「車で来れば迷子になることはないでしょう? ありがとう。ここでいいよ」
車が停止するとルビーはポケットから札を取り出すと運転手に渡し、急いでドアを開けた。
「ちょっと! 坊ちゃん、おつりですよ」
運転手が叫ぶ。が、ルビーはもう道の向こうまで駆けて行き、葡萄棚の手前で振り返った。
「チップだよ。取っておいて」
「こんなに?」
運転手はにっこり笑ってそれを収めた。
「メルシー! 坊ちゃん、幸運を!」
そして、車は元来た道へと走って行った。
そこは本当に何もかもが自然に溶け込んでいた。土と葉と甘酸っぱい果実……。風が揺する木の葉の向こうに霞む山肌と深い空は、まるで1枚の絵のようだった。降り注ぐ光の粒子がその紫と出会う度、その小さな一粒一粒が憧れを語る。
「僕が来たよ。さあ、話してごらん。君達の夢を……。思い出しておくれ。遠い約束……」
ルビーは、その高貴な紫の粒が連なった一房にそっと触れると頬を寄せた。その頬に掛かった黒髪を風が揺らす。遠い岩山の向こうから、風は歴史の香りを漂わせ、彼にすべてを語ってくれた。
喜びと悲しみを紫に詰めて、じっくりと熟成させる。その比率はほんの少し悲しみが上回っていなければならない。そして、消えない悲しみは今もそこに残されたまま……じっと誰かを待っていた。
老人はじっと沈む夕日を見つめていた。柔らかなオレンジの光が彼の育てた葡萄を照らす。その房のひとつひとつに光点ができて、彼に何かを訴えているように見えた。
――確かに。契約は成立しました。我々は三日間ここに滞在する予定です。その間に遂行するとお約束しましょう
あの男が言った。もう引き返すことは出来ない。長年育ててきたこの畑とも今日で別れなければならない。風が未練のように葡萄の葉を震わせる。紫が泣いていた。それでいいのか? 悲しくはないのか? と責め立てるように……。
(悲しくない訳がない……)
老人は長年の農作業で日焼けした手を握る。
「だが……」
夕日が岩山で燃えていた。それはあの呪わしい炎に似て、老人の何もかもを奪おうとしているように思えた。2年前、彼の大切な息子夫婦を奪ったあの忌まわしい火災のように……。
「ミレーヌ……」
老人は目を伏せた。最愛の息子の忘れ形見である彼女をもう一度夢に向かって歩み出させるために、そして、自分自身の心を納得させるためにもあの金はどうしても必要だったのだ。老人は岩山の炎をじっと見つめた。
と、その時。ふわりと風が靡いた。見ると畑の中でなにかが軽い羽のように駆け抜けて行く……。
「何だ……?」
黒い蝶が舞っている。そして、その小さな黒い羽根を持つ者が紫にキスをした。老人は一瞬、それが畑に舞い降りた葡萄の妖精ではないだろうかと凝視した。が、それは黒髪で黒い服を着たただの人間だった。少年とも少女ともつかない華奢な体つきで葡萄の房に手を掛けている。
「貴様、そこで何をしている!」
老人は怒鳴った。黒い妖精が振り向く。そして、あどけない顔でその顔を見つめる。
「何だ? 貴様、可愛い顔して葡萄泥棒か!」
老人に睨まれると彼は僅かに首を竦めて言った。
「違うよ。僕、葡萄達に話し掛けてたの」
その答えに老人は意表を突かれた。
「葡萄に?」
怪訝な顔で訊く。
「そうだよ」
彼は真っ直ぐな瞳で老人を見た。悪びれた様子もない。老人は彼を観察した。奇妙なことを言う子供だと思ったからだ。
「それで? おまえは、この葡萄達と何の話をした?」
「いろいろ」
ルビーが答えた。
「風のことや鳥のこと。虫と空と時間のこと。ここから遠い国のことも……。それからお爺さんのことも全部だよ」
「わしのことも?」
「そうだよ。お爺さんがこの葡萄達を育てたんでしょう?」
「そうじゃが……」
老人は腰をかがめ、親指と人差し指でゆっくりと顎を摩った。
「僕ね、すぐにわかったよ。だって、お爺さん、葡萄達と同じ目の色をしているもの」
「同じ目の色…か……」
老人はすっと目を細めた。
「おまえさん、この辺りの人間じゃないな。外国人か? 何処から来た?」
「ドイツ」
ルビーの答えに老人はまた顎に手を当ててその顔を見た。
「ドイツ人? その割には小さいな。おまえ、アジアの血が入っているだろう?」
「うん。母様は日本人なんだ」
「日本人……そうか……」
老人はじっと何かを見つめたまま押し黙った。
「ごめんなさい。勝手に畑に入ったこと……。でも僕、どうしても近くで見てみたかったの。この素晴らしい葡萄畑を……」
「それで満足できたかね? 近くで見れて……」
「うん。まるで一粒一粒が紫の宝石みたい……。これもみんなお爺さんが大切に愛情を注いで育てたからなんだね」
ルビーはうれしそうだった。そんな彼を見ていると老人は悲しくなった。
「ねえ、僕、明日もここへ来ていいかしら?」
「明日?」
「そう。僕はホテルに泊まってるの。もう何日もここにいられない。だから、ここにいる間だけでもこの葡萄畑を見ていたいんだ。なにだかとても懐かしい気がするの。ここにいると落ち着くの。ねえ、いいでしょう?」
「明日……」
老人は逡巡した。ルビーが不安そうにその瞳を覗く。
「何だ? 爺さん、まだ出てってなかったのか?」
突然、背後で男の声がした。すぐそこに停まった車から、柄の悪い男が3人降りて来てずけずけと言った。
「期限は明日だ」
老人は言ったが、男達は構わず畑に足を踏み入れた。
「あんたが意地を張るからおれ達だってこんなことをしなきゃならねえんだぜ」
「お爺さん……」
不安そうな顔でルビーが見上げる。老人は答えない。ルビーは男達に向き直った。
「あなた達は誰? ここはお爺さんの畑だよ。出て行ってよ」
畑から追い出そうと男を押す。
「何だ? このガキ……」
ルビーに手を上げようとする男の腕を止めて老人が言った。
「やめてくれ! この子には関係がない。そうじゃろう?」
「うるさい! どけ!」
しかし、男は庇おうとした老人を突き飛ばした。
「お爺さん!」
転んで咳き込んでいる老人を見てルビーが叫ぶ。
「何てことを……! お爺さんに謝れ!」
ルビーが男に迫る。
「何だと?」
立腹した男はルビーを払い退けようとした。が、彼は聞かなかった。
「謝れ! 謝れ! 謝れ!」
むしゃぶりついてくる彼を離そうと襟首を掴む。ルビーは抵抗し、男の腕に噛みついた。
「あぅちっ! このガキ……!」
男が逆上し、彼を叩いて突き飛ばした。
「あ……ん」
ルビーは飛ばされて畑に尻餅をついた。
「頼むから乱暴はやめてくれ! この子はただの観光客なんだ」
老人が訴える。
「観光客だって? ホテルの客か……」
男が言った。僅かに困惑しているようだった。ルビーはじっとそんな男を見つめた。そんなルビーの耳元に風が囁く。そして、紫がたわむ。
「おじさん達は悪い人なの?」
ルビーが言った。
「何?」
噛まれた腕を摩りながら男が見下ろす。
「答えてよ。悪い人なの?」
彼はそこに座り込んだまま、黒い大きな瞳でじっと見つめる。まるで人形のように瞬きしないその瞳で……。
男はふっとため息をついた。
「教えてやるよ。悪いのは爺さんの方さ。爺さんはここを売ったんだ」
「売った?」
「そうさ。だから、金だってちゃんと払ってある。だから、ここはもうランビリエさんのものなんだ」
「ランビリエ? あのホテルの?」
ルビーが訊いた。
「ああ。なのに、まだ居座って出て行こうとしない。それでランビリエさんはとても困ってるっていう訳なんだよ。わかったかい? 坊や」
「ここを売ったの? どうして?」
納得がいかないルビーは老人に訊いた。
「ここの葡萄達はこんなにもお爺さんを愛しているのに……」
「……」
老人は目を伏せた。
「お爺さんの作るワインを楽しみにしている人がたくさんいるのに……?」
「……仕方がないんだ」
「もうすぐ収穫なのに……?」
「……」
老人は手で顔を覆った。
「これでわかったろう? どっちの言っていることが正しいのか」
男が言った。
「ランビリエが……?」
ルビーが呟く。
「そうさ。我らがランビリエさんが正しいに決まってる」
背後に控えていた二人の男もにやにやといやらしい笑いを浮かべている。
「でも……ワイン作りはどうするの?」
ルビーの問いに男の一人が近くの房からその粒を乱暴にもぎ取って言った。
「心配するな。ちゃんと収穫して工場へ持って行って加工するさ。量産すればこんな物でもかなりの金になるからな」
男は地面に落とした紫の粒を靴の先で踏み潰した。悲鳴のように葉が鳴った。老人は顔を背け、ルビーはじっと男を見つめた。
風がそんな彼らの周辺を回る。
「わかった。おじさん達は悪い人だ」
ルビーが立ち上がるとさっと風が吹きぬけた。そして、葡萄達が一斉に男達を見つめる。空が青ざめ、虫達は身を潜めた。冷たい空気が男達の背中を舐め回す。
「な、何なんだ? この……」
――ぼく、悪い人は嫌い
葡萄の弦が一斉に伸びて男達の首に絡みつく……。そして、闇の中でその子供が笑う……。……そんな幻覚に囚われて男達は怯えた。
「い、一旦引き上げましょう」
引きつった顔で一人が言った。
「そ、そうだ。期限は明日なんだし……。今日のところは引き上げた方が……」
上司の表情を伺うようにもう一人も言う。
「そうだな。明日まで待ってやる。だが、明日には必ず出てってもらうからな!」
捨て台詞を残し、男達は慌てて車に逃げ込んだ。エンジンは何度も空回りした。そして、ようやく発進した車は右へ左へ大きく蛇行しながら闇の中へ消えて行った。
「お爺さん……」
残り火のような赤い夕日が山の頂に消えた。老人は彼の服に付いた土埃を払ってやりながら詫びた。
「すまない……」
ルビーは俯いたまま、じっと老人の皺枯れた手を見つめていた。
「どうしてなの?」
囁くように言った。
「何があったの? お話してよ。でないと、僕は納得できないもの」
夕暮れの風の中、老人はほつりほつりと語り始めた。
「おまえさんはドイツから来たと言ったな。母親は日本人だと……」
ルビーは頷き、老人を見上げた。
「わしも昔、住んでいたことがあるんだ。ドイツに……」
「ドイツに?」
風に乗り、通り過ぎた季節を想うように声が響く。
「そこで妻と出会った。彼女は日本人じゃった……」
「日本人?」
ルビーははっとして過去を振り返った。決して届く筈のない時の風……。その幻影が彼の心をかき乱す。
(母様……)
そのやさしさに、白い頬に触れたくて手を伸ばす。しかし、それは幻でしかなく、淡い虹のように彼の目の前で儚く散った……。
(わかってる。もう戻れないのだと……)
ルビーはきゅっと唇を噛んだ。葡萄の葉がさわさわと鳴っている。老人の話は続いていた。
「愛らしい娘じゃった。彼女はピアニストになりたいのだと言った。花の香るコテージで来る日も来る日もピアノを弾いた……」
「ピアノ……」
心が震えた。ルビーにとってそれはあまりにも特別な響きだったからだ。
(ピアノ……。それは僕の人生を変えたもの……悲しみと喜びと、僕に光と闇とをくれたもの……。それは強く。それは深く。いつまでも悲しい……。僕のすべてを表した……。そして……)
「そして、わしらは恋に落ちた」
老人が言った。その声が弾む。
「素晴らしい日々が続いた。毎日が薔薇色に輝いていた……。しかし……」
老人の頬に浮かんでいた幸福な幻影が消えた。淡い街灯に照らされて、老人はじっと何かを見つめている。その明かりを求め、小さな虫が羽音もさせずに飛んで行った。甘い紫の香りが穏やかに過去を包んでいく……。
「それで、彼女はピアニストになれたんですか?」
「いいや」
老人は肩を落として言った。
「……彼女は病気だったんだ。可哀想にまだ22際という若さでこの世を去ってしまった」
「死んだんですか?」
ルビーははっとして老人を見つめた。感情が膨れ上がる。しかし、老人は静かに言った。
「ああ……だが、彼女はわしに息子を一人残してくれた。その子を連れてわしは故郷のフランスへ帰り、この農園を継いだ。この光溢れる楽園で息子も葡萄もすくすくと成長し、いつしか息子は美しい花嫁を迎えた。そして、若い夫婦は小さな会社を起こしたんだ。会社は順調に伸びて、やがて可愛い孫娘も産まれた。そして、その子は、ミレーヌはピアノを習い、パリの音楽院に合格した」
老人はうれしそうだった。
「パリの……」
ルビーの心に悲しい夢が響いた。
――この子は天才です。パリに連れて行ってコンセルバトアールに入れませんか?
「コンセルバトアール……」
「知っているかね? フランスでは1番の音楽学校なんだ。外国からもたくさん音楽を習いに来るような、ほんとにすごい学校なんだよ」
「知ってます……」
ルビーは誇らし気な老人の横顔と自分の手のひらを見つめた。そして、そこに映る夢の残骸を……。
――デビューが決まったよ。おまえはもう立派なピアニストだ
――ソロのリサイタルと3ヵ月後にはオーケストラと競演だ
――おめでとう! ルートビッヒ。本当に……
――おまえのことを誇りに思うよ
(誇りに……)
しかし、彼にとってその日は永遠に来なかった……。掴み損ねた夕日の最後の明かりを彼はその手に握り締めた。今度こそ逃がすまいと強く握ったのに、そっと開いたその中に、もうオレンジに輝いていたその光はない。明るい色の光は消えて、今は少し青ざめた空と夜の狭間に傾いている。
「それじゃ、ミレーヌはピアニストになれたんですね?」
しかし、老人は首を横に振った。
「どうして?」
「家が焼けたんだ……」
苦渋の表情を浮かべて老人が言った。
(まただ)
とルビーは思った。
(闇が夢を壊してく……。善良な人が描く夢はいつも報われずに散る……何故なの?)
「会社が倒産したんだ。大量の借金と不渡りを出し、思い余った息子は家に火をつけて……。そして息子夫婦は……」
「そんな……。それじゃミレーヌも……?」
恐る恐るルビーは訊いた。
「いいや。あの子は無事だ。そして、今でもパリで音楽の勉強を続けている」
老人の言葉にルビーはほっとして微笑んだ。
「よかった……」
自分の果たせなかった夢を彼女には叶えて欲しかった。
「だが、わしは信じん。息子が家に火をつけたなど……。やさしい子だったんだ。本当に心から妻や孫のことを可愛がっていた……その息子がそんな非道なことをする筈がない。これは何かの間違いなんだ」
老人の瞳に鋭い光が刺した。
「わしは調べた。そして突き止めた。ランビリエとその仲間によって陥れられたのだということを……息子は殺されたんだ。あのランビリエに……!」
「殺された?」
「そうだ。だが、せっかく手に入れた証拠の書類をランビリエの部下に奪われた」
「奪われた?」
「そうだ。奴は商売のためならどんな汚い手も使う。非道な男……。あいつのせいでどれだけ多くの人間が泣かされてきたことか……」
憂いの中に怒りの炎が燃えていた。
「お爺さん……? 僕……」
ルビーがその顔を覗く。
「いや、悪かったな。見ず知らずのおまえさんにこんな話……」
「いいえ……。でも、もし、僕に何かが出来るなら……」
そう言うとルビーはふっと掌を見た。背を向けた街灯のか細い明かりに照らされて自分自身の影が斜めに差した。
「いいんじゃよ」
老人は寂しく微笑んだ。
「でも……」
「そうだ」
突然、老人がぽんと手を打つと笑顔で言った。
「せっかくだからわしのワインを飲んでいかないかね? 寝かしておいたとっておきのがあるんだ。それとも、葡萄ジュースの方がいいかな?」
「ワインをもらいます」
ルビーも微笑んだ。
そうして二人は老人の家へ向かった。
そこは葡萄畑の端にあった。中に入ると年代物の家具と丸いテーブルと椅子。壁に掛けられた古い時計……。棚の上には息子夫婦と孫娘らしい少女が写った写真が飾られていた。
「そこらに掛けておいで。今、ワインを出して来る」
そう言って老人が行ってしまうとルビーはそっと棚に近づいてフレームを見た。幸せそうに笑っている家族の写真……。
(お父さんとお母さんと、そして……)
ルビーはそっと指でその女性に触れた。今はもういないその人の微笑みに触れることで亡くしてしまった母の面影をなぞろうとした。
「母様……」
ふと涙が零れそうになって顔を背ける。と、奥の部屋に置かれたグランドピアノが目についた。
ルビーは吸い寄せられるように近づくとそっとカバーをめくった。濃艶な黒いピアノ……。その魂が強く彼に訴える。微かに指で触れるとじんと何かが伝わった。鼓動がゆっくり駆け上る。それは喜びに震えているのだ。長い眠りから覚めようとして……。
「お爺さん、このピアノを弾いてもいいですか?」
声を掛けると老人が頷いた。
「ありがとう」
彼は蓋を開けるとその前に座った。途端に喜びが伝わった。愛しい人をずっと待っていたと言いた気に、魂を震わせ、夢を語る。
黒鍵の悲しみと白鍵のロマン……。
そして、その愛と苦しみの二重奏がすべての隙間を満たす。
ルビーは目を閉じ、じっと耳を傾けた。
鍵盤に乗せた指に流れ込んで来る微かな記憶……。
やさしい月の光に照らされて、彼は静かに演奏を始めた。
風の言葉。木の言葉。そして葡萄達の呟きを心で弾いた。その上を舞う白い指先は頑ななまでにこびり付いた鍵盤の上の憎しみさえ解した。ロマンティックな曲想の奥に潜むサディスティックなまでの悲しみと怒り……。紫の夢に酔いしれる快楽の果て……。古の地で誓った遠い約束……。夕暮れから闇の帳へ……。その誘いにショパンの曲はよく似合った。それは、上等なワインのように豊かで芳醇な香りがした。
「ミレーヌ……」
老人は涙を流す。
取り返せない時間を遡るように意識はずっと過去を追っていった。
遠ざかる黒い馬車の陰影……。
(もう一度会えたら……)
ルビーもまた遠い記憶の時間を旅していた。
「ミレーヌ……」
戸口の前に立つ男。彼は呆然とルビーと老人とを見つめた。
「すみません。ピアノの音が聞こえたものですから、てっきりミレーヌが帰って来たものと思ったんです」
背の高い巻き毛の男が言った。
「フランツ。今帰りかい?」
老人が言った。
「この子はホテルの客なんだがね」
「ああ。ドイツからピアニストが来ると聞きましたけど、あなたが……」
「はい。ルビーです」
彼が挨拶すると男も右手を差し出した。
「フランツです。いや、驚きました。あなたはムッシュ マクミールと知り合いだったんですか?」
「いえ、今日初めて会ったんです。でも、もうお友達なの」
と笑う。フランツも苦笑して言った。
「そうですか」
「あなたもコンサートに来る?」
「いえ。残念ながら、警察の仕事がありますので……」
「警察? フランツは警察の人なの?」
ルビーが言った。彼が頷くとルビーは少しだけ逡巡し、それから何か思いついたようにぱっと顔を輝かせて言った。
「それじゃ、ホテルがどっちか知ってる?」
「ええ。もちろんです。村にホテルは1軒しかありませんので……」
「よかった。僕、もう帰らなきゃいけないんだけど、ホテルがどっちかわからなくなっちゃったの。教えてくれない?」
「なら、車で送ってあげますよ」
「ほんとに?」
フランツが頷く。ルビーはうれしそうに礼を言った。
「ありがとう。それじゃあ、お爺さん、また明日ね」
と言って飛び出そうとする彼に老人はワインのボトルを差し出した。
「持ってお行き」
「ありがとう」
ルビーはうれしそうだった。そんな彼を見て、老人も笑った。
「ミレーヌとお友達なの?」
ルビーが訊いた。車は夜の農道を走っていた。
「彼女は……私の婚約者なんです」
「結婚するの? いつ? おめでとう! お爺さん、きっと喜ぶね」
「ええ。とても喜んでくれました。でも……」
フランツの表情は固かった。ルビーはそんな彼を怪訝そうに見つめる。
「ミレーヌはパリの音楽院にいるんじゃなかったの?」
「確かに、彼女はパリにいます。しかし、それは音楽院じゃない。彼女は……あの日以来神経を病んでずっと病院に……。いつ退院できるかもわからない状態なんです」
「それじゃ、どうしてお爺さんはあんなことを言ったんだろう」
――あの子は無事だ。パリの音楽院で勉強してる
「そう思っていなければとてもやってられないのかもしれません。私だってそうだ。もし、自分が警察の人間でなかったら、今頃は……」
ハンドルを握る手に血管が浮き立った。
「酷い奴なんですね」
フランツは頷いた。が、すぐに否定して言った。
「奴の商売のやり口はみんな知ってます。けど、合法な取引である以上、警察は何も出来ないのです」
「合法?」
「書類です。ミレーヌの父親の会社が倒産した時もそうでした。正式な契約書がある以上、何を言っても無駄なのです」
「それじゃ、火事のことは? お爺さんはランビリエに殺されたと行ってたよ」
「あれは……。警察でも一応調査しました。けど、アンリー マクミールの、つまりミレーヌの父親ですが、彼の遺書が見つかって……彼が火を放ったのだという結論に達しました」
「あなたもそう思ってる?」
民家の明かりが見え出して来た。
「……わかりません」
ルビーは膝に抱えたボトルの中で揺れる液体を見つめて言った。
「警察は何でも証拠が大事なんだね」
「ええ」
「人の気持ちより、紙切れに書かれているものを信用するんだ」
過ぎる街灯の明かりが反射して、彼の抱えたボトルとそこに映る彼の瞳が鋭く光る。前方にはまだ延々と長い闇のトンネルが続いていた。
「でも、このまま終わるつもりはありません」
沈黙のあと。フランツが唐突に言った。
「いつか必ず証拠を掴んで、そして……」
「ミレーヌを幸せにしてあげてね」
ルビーがそっとハンドルを握る彼の手に自分の手を重ねた。その手の温もりがフランツの心の中の緊張を緩やかに解した。
「ルビー……」
車がホテルに到着した。
「送ってくれてありがとう」
そう言うとルビーはドアを開けて明るいエントランスの中へ駆けて行った。その背に一瞬だけ羽の陰影が見えたような気がした。
「不思議な子だ……」
村にはそぐわない大きな建物の影に飲み込まれてしまった車……。
「まさか彼が……?」
――フランツ、わたし、光の中に音楽の天使を見たの
「ミレーヌ……」
あの悲劇が起きなければ……。彼は長いことじっとそこにいた。その彼の車の遥か上空にはまだ巨大な闇が広がっていた……。
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