ダーク ピアニスト
〜練習曲1 紫の呟き〜

Part 3 / 3


「これで全部だったよ」
ルビーが言った。
「指紋を残さなかったろうな?」
ヘリコプターを操縦しながらギルフォートが問う。
「大丈夫。ちゃんと手袋してたもん。それに、髪だって落ちないようにマスキングしてた」
「よし」
彼らは村から少し離れた場所に着陸した。そして、ギルフォートが書類を確認する。
「必要な書類はちゃんとあった?」
ルビーが訊いた。
「ああ。揃ってる」
「お金や宝石はどうする? 時間がなかったから一緒に持って来ちゃったんだ」
「返してやろう」
「そうだね」
そして、二人は次の行動に移った。


夜が明けた。ルムァール村では恒例の朝市が開かれていた。新鮮な野菜や果実、焼きたてのパン、衣類や雑貨など様々な物が売られている。賑やかで活気のある市だった。
「フランツ!」
ルビーが市場の開かれている広場から駆けて来て言った。フランツは同僚と朝のパトロールをしていたところだった。
「やあ、ルビー。早起きだね。君も朝市に来たのかい?」
「うん。ここの市場にはいろんな物が売ってるって聞いたから……」
とうれしそうに話す。
「それで、いい物は買えたかい?」
「うん。オリーブオイルとラヴェンダーの花の絵を買ったの」
ルビーがうれしそうに言った。

「それはよかった」
と言って行こうとするフランツを呼び止めてルビーが言った。
「それでね、さっきお金を拾ったの。だから、僕、警察に持って行こうとしてたんだよ」
「お金?」
「うん。ほら、こんなに……。他に紙も落ちてたの。みんな拾ってたから僕も拾ったの」
と数枚の紙幣と書類の束を渡す。
「これは……」
さっと書類に目を通したフランツの顔色が変わった。
「これが何処に落ちてたって?」
「市場の前だよ。空から落ちて来たんだって……」
「空だって?」
フランツと同僚はそちらに向かって駆け出した。

「これは……!」
市場はごった返していた。皆が札を拾い、宝石を拾うために走り回っていた。
「一体、何があったんですか?」
近くにいた老婆を捕まえて話を聞く。
「それが、ついさっきいきなり空から降って来たんでさ。お金や宝石や紙切れなんかがね」
ルビーが言っていた通りだ。そして、人々が無視している紙切れは書類だった。見れば、その書類だけを必死になって集めている人物がいる。ランビリエの部下達だ。彼らは主人から何が何でも書類を取り返して来るようにと命令されて、この広い市場の中を駆けずり回っていた。

「ねえ、僕の言った通りでしょう?」
背後でルビーが言った。
「ああ。ありがとう。あとで君にも落し物を届けてくれた旨の書類を書いてもらうけど、今は持っていないからあとでホテルに伺わせてもらうよ。それでいいかな?」
「書類? でも、僕、字が書けないの」
「え?」
フランツが驚く。そこへギルフォートがやって来て言った。
「ルビー、勝手にいなくなっては駄目じゃないか。随分探したんだぞ」
「ごめんなさい。僕、拾ったお金を警察に届けようと思ったんだよ」
と泣きそうな顔をする。そんな彼を見てフランツが言った。
「ルビーを叱らないでください。彼はよいことをしてくれたのですから……」
と、まだ落ちている紙幣や書類に群がっている人々を見つめて言った。

「それでね、書類を書いて欲しいって言われて、僕、困ってるの」
とルビーが男を見上げる。
「ああ、申し訳ありませんが、彼は文字の読み書きが出来ないのです。必要があれば自分が代筆しますが……」
ギルフォートが言った。
「わかりました。では、あとでお願いします」
ルビーは市で買ったという絵を広げて見てはうれしそうに笑っている。フランツは手にした書類を握り締め、無垢な天使に感謝した。


それからルビー達は一旦ホテルに帰り、朝食を済ませた。が、ホテルの何処にも支配人の姿はなかった。
「ねえ、僕、お爺さんのところに行っていい? もう畑を手放さなくていいんだって早く教えてあげたいの」
ルビーはタクシーに乗って葡萄畑を訪れた。すると、老人はもう畑に来て作業をしていた。
「ボンジュール! お爺さん」
ルビーが言うと老人も笑って挨拶した。
「ボンジュール! ルビー坊や。また、来てくれたのかい?」
「うん。ねえ、僕にも何か手伝わせて」
と彼は老人の脇から手を出した。しかし、老人はその手を止めて言った。
「メルシー。じゃが、その美しい手が傷になったら大変だ。その手は神様からいただいた大切な手なのだから大事にしなさい。傷をつけたりしないようにな」
と老人は微笑した。

「ありがとう。やさしいんだね」
とルビーも微笑む。
「でも、いいんだよ。僕の手、もう、きれいじゃないもの」
と寂しそうに笑う。
「どういうことだい?」
怪訝そうな老人にルビーはそっと袖のボタンを外して腕を見せた。
「これは……!」
老人は驚いて目を見張った。彼の腕には刻印が刻まれていたのだ。それは、あまりに痛々しいものだった。赤く盛り上がった傷跡が幾重にも重なって見る者の胸を突いた。

「手だけじゃないよ。胸も背中も、僕の体にはそこいら中に傷がある」
「痛みはないのか?」
老人が訊いた。
「痛くはないよ。でも……人は僕を化け物だって言う……。みんな、気味が悪いって逃げちゃうの……」
「……!」
老人は彼を抱き締めた。
「ああ、何てことだ.本当に、何て……」
その背を撫でながら、老人は涙をこぼした。
「おじいさん……? どうして泣くの?」
「さあて、どうしてじゃろうな。おまえさんはこんなにやさしくていい子じゃというのに……。神は何故このような試練をお与えになられたのかの? 誰よりも愛されて地上へ遣わされたというのに……だが、わしにはわかる。わかるとも。おまえさんが本当は神の御子、天から舞い降りて来た本物の天使なのだということがな」

しかし、ルビーは老人の言葉を否定した。
「ありがとう、お爺さん。でも、残念だけど、僕は天使じゃないんだ。お爺さんが言うような立派な人でもないし、無論、神の子でもない。僕は人間であって人間でない、中途半端な存在……。みんな僕を馬鹿だって言うし、誰も僕の存在を認めてくれない。誰も僕の本当をわかってくれない。誰も僕を心から愛してはくれないんだ……!」
老人は黙ってその背や頭を撫で続けた。ルビーは老人に抱かれたまま、彼の背中越しにじっと自分の手のひらを見た。運命を、幸運を掴み損ねたその手を……。
(わかってる。そんなことを口にしたところで何も変わりゃしないんだって……。でも……)
朝の光に照らされて葡萄の房が輝いている。
(僕が掴み損ねた幸運をあなたにあげる。僕のために涙を流してくれたやさしい人に……)

ルビーは老人の頬に伝わるそれをそっと指で掬った。
「笑って……葡萄達が悲しむから……」
老人がくしゃくしゃになった顔を歪めると、ルビーはその頬にそっとキスをした。
(たとえこの手が汚れたって構わない。あなたがそれで幸せになれるなら……。この美しい紫を守れるならば……)
そよそよと風が吹いて葡萄の葉が揺れる。
「もう、ここに悪い人は来ないよ」
老人が頷く。例の事件以来、頑なに閉ざしていた心がゆっくりと氷解していくのを感じた。不思議な子だ、と老人は思った。
「ところで、昨日のワインはどうだったかね?」
老人が訊いた。
「最高だったよ」
ルビーが笑う。
「なら、また家で一杯飲んでいくかね?」
「ありがとう」
そうして二人は老人の家で朝の時間を過ごした。


それから、ルビーは銀行へ寄った。すると、厳重に守られた二重扉の向こうでばったりランビリエに会った。
「ボンジュール! ムッシュ ランビリエ。どうかしたんですか? 顔色が悪いですよ」
ルビーが話し掛けた。
「ああ、ルビー坊ちゃん、どうしたんですか? こんな所に来るなんて……」
「こんな所? だって昨日あなたと約束したじゃありませんか。葡萄畑を買うお金を銀行で下しますからって……」
「ああ、そうでしたね……」
ランビリエは、元気がなかった。
それは昨夜奪われた書類のせいだった。現金や宝石はもちろんだが、あの金庫には裏取引に関連した二重帳簿や契約書などが一緒に保管されていたのだ。それがことごとく無くなっていた。しかも、今朝早く、朝市の会場でばら撒かれていると知り急いで部下に集めさせたのだが、現金や宝石はほとんど拾われてしまったあとだったし、ばらまかれた紙片は片っ端から集めさせたが、肝心な書類だけが抜けていた。

(くそっ! もし、あれらが警察の手に渡ったらおしまいだ)
それでランビリエは顔色が芳しくなかったのだ。
「本当に大丈夫ですか? 具合が悪いなら早く病院に行った方がいいですよ。僕もよく言われるの。でも、僕、病院は大嫌いだからちっとも行きたくはないんだけど……」
ルビーの言葉にランビリエは苛々と言った。
「私だって嫌いですよ。でも、今は忙しいんだ。どうでもよいことをごちゃごちゃ言ってないで早く何処かへ行ってくれ」
「お金は?」
ルビーが言った。
「何?」
思わず目を剥く。そんな男にルビーは容赦なく言った。
「僕の演奏料」
見つめる瞳が蛍光灯に反射して光る。

「ああ、それならホテルのフロントに預けてありますよ」
忌々しそうにランビリエが吐き捨てる。
「メルシー」
ルビーが言った。
「ところで1000万ユーロは? 私の金はどうした?」
はっと思い出したようにランビリエが食いつく。
「あれ? 聞いていなかったんですか? そんな大金、すぐには用意出来ないから明日になりますって銀行の人が言ったの。おじさん、さっき頷いてたじゃない」
「あ、ああ。そうだったな……」
ランビリエが頷く。
「それじゃ、僕、ホテルに帰りますね。コンサートの前に少し休んでおきたいから……」
と言うと彼は銀行を出て行った。


それから、ルビーはホテルのフロントでトランクを受け取った。ランビリエが言った通り、中には札が入っていた。ルビーはそれを引きずってギルフォートの部屋に来た。
「ねえ、ギル。これ、僕のトランク、預かっててくれない? それから、後で手紙を書いて欲しいの」
「トランク? 中身は何だ?」
男は振り向かずに訊く。
「演奏料だよ。ランビリエさんにもらったの」
「ふん。また吹っ掛けたのか?」
「人聞きが悪いなあ。正当なものだよ。僕のピアノにはそれだけの価値があると認めてくれたんだ。ねえ、それより、ちゃんと100万ユーロ入ってるかあとで数えてくれない?」
「あとでな」
テーブルの上で銃の調整をしていた男は手を止めずに言った。

「だが、もっといい方法もあるぞ」
「何?」
「おまえが自分で数えるんだ」
ルビーは軽く肩を窄めて言う。
「日が暮れちゃうよ。それに……」
と、ルビーが何か言い掛けた時、
「伏せろ!」
彼は手入れを終えたばかりのそれをサッと構えてドアに向けた。同時にドアが開いて侵入者の男が発砲して来た。が、それより速くギルフォートの銃弾が男の手から銃を弾き飛ばした。と、瞬時にテーブルを跳び越え、その男の身体を拘束する。

「ランビリエの奴、ビクビクしてたから少しはかわいいところもあるのかと思ったけど、こんな事するなんて酷いや」
背後からルビーが顔を覗かせて言った。
「汚い商売をする奴ほど気は小さいものだ。そのくせ凝りもせずに同じ過ちを繰り返し、金に執着するあまり身を滅ぼす。破滅するまで己のミスに気がつかない愚か者さ」
そういう男の目は鋭く、その横顔を掠めて銃身の先に蛍光灯が反射した。
(憎しみ……?)
滅多に見せないギルフォートの感情の断片……。その過去を知らないルビーには計り知れない想いが男の広い背中に去来するのを感じた。


そして、夜。パーティーが始まる30分程前だった。いきなり警察がやって来て支配人であるランビリエを逮捕した。詐欺と横領、それに文書偽造、並びに殺人容疑に因るものだった。昨夜、ルビー達が持ち出した金庫の中にあった書類が証拠となったのだ。
「み、身の程知らずめ……! たかが地元警察のくせに私にこんな事をして……! ただで済むと思うなよ?」
ランビリエは捨て台詞を吐きながらもフランツともう一人の警察官に手錠を掛けられて連行された。しかし、副支配人に今夜のパーティーは決行するようにと命令した。それはただのパーティーではなく、内密の取引がある特別なものだったからだ。

「残念でしたね。ランビリエさん。僕のピアノが聞けなくて……」
パトカーに乗せられる瞬間、ルビーが言った。
「でも、大丈夫。あなたがいなくても、きっとコンサートは成功させますよ」
そう言って微笑むと窓に向かって手を振った。
ランビリエは一言も発さなかったが、そのはらわたは煮えくり返っているにちがいない。全てはルビーが現れてから一変したのだ。
もしかしたら、本気で彼を殺そうとあの刺客を送って寄越したのかもしれない。もしかしたら、昨夜の犯人がルビーだと気づいたのかもしれないし、単に金を取り返そうとしただけなのかもしれない。が、どちらにせよ、もう遅い。運命は動き始めてしまったのだ。


そして、パーティーは始まった。
ヨーロッパの名だたる経営者達が集まる社交の場。しかし、その多くは武器の製造や密輸組織、闇の薬の製薬会社など表と裏、二つの顔を持つ者達の集団だ。そこで様々な裏の取引が行われ、闇のルートに乗って国から国、企業から企業へと秘密裏に流れて行くのだ。一見煌びやかに見えるパーティーも暗黒の華で飾られた偽りの模様に過ぎなかった。

裏切りや密告、陰謀の渦巻く闇の中、ルビーの弾くピアノだけが唯一の光だった。誰もが心奪われ、繊細で美しいメロディーに涙した。彼は闇のピアニストでありながら、彼らに安らぎを与え、聖域を作り出した。鋭利で美しいガラス片を散りばめて造られた人形――。その悲しみと狂気とが絶妙なバランスで回る。不思議なメリーゴーランド……。

幻想の森に酔い、ロマンシズムの絶頂へと彼は導く。
そして……光の矢が誰かの胸を貫いたとしても、誰も異変に気がつかない。夢から覚める事を拒むように鳴り続けるピアノ……その音だけの世界に全てを預けようと願う聴衆……。

(ここは幻想の森……かつてショパンが生きた夢の砦……。願わくは……。醒めない夢の続きが見たい。いつか君に会えるまで……。僕のこの手がもう一度……)
と、突然、幻想が途切れた。
(もう一度……?)
ふっと天井に取り付けられた偽りの光が瞬く。

(何がしたいというのだ? 君をこの手に抱き締めたい……と? それとも、汚れてしまったこの手がもう一度白く生まれ変わるとでも……?)
光のヴェールがすべてを覆う。乱反射する光の中で偽りの微笑が回る。
(そんな日が来る筈がない。そんな日は来はしない……永遠に……永遠に……一度失くした夢は、二度と戻って来ることはない……。だけど……)
静かな調べが会場を満たす。
(僕は信じていたいんだ……)
美しいドレスを着た人形達が霧の中で吐息を漏らす。
(ここは夢に続く幻想の森……僕だけの世界……)

グラスの中で醒めない余韻……。
聴衆の誰もが彼の奏でる甘いメロディーに酔いしれていた。

「アンコール!」
鳴り止まない拍手……。終わらないメロディーの先にあるものを彼らは望んでいた。彼らもまたルビーと同じように夢を見ていたかったのかもしれない……。と、突然、悲鳴がそれを遮った。
「だ、誰か……! 人が死んでる……!」
会場は騒然とし、ざわめきやすすり泣く声が響いた。

静かな夜。あの葡萄畑にいた小さな動物や虫達もとうに眠りについたろう。自然の闇の中でここだけが人工的で場違いなほどの明るさに満ちていた。 ルビーはピアノの椅子に腰掛けたまま、ぼんやりとそこに映る時間を見ていた。そして、黒鍵に反射するシャンデリアの光を……添えられた指先でそれを弾くと、彼の黒い瞳に反射した光と呼応した。
(終わったよ)
彼は人込みの中、ピアノに映った影を見つけて頷いた。
(ジェラード……。奴は死んだよ。あなたに言われた通りに僕はちゃんと仕事をしました)

それがもう何度目の仕事になるのかルビーにはわからない。しかし、一つの命が消える度に傷が一つ増えて行く……抗えないままに時が過ぎ、抗えないままに運命が回る。
(それは、きっと僕が悪い子だから……昔、君を酷く傷つけてしまったから……今がこんなにも苦しい……僕が悪い子だから……)
鎮魂歌……。静かに流れるピアノの音が人々の心に偲び込む。悲しく切ないメロディーが……。人々は皆心打たれ涙したが、ルビーの心は冷めていた。
(おやすみ。もう二度と翔べない者達に心からの皮肉を込めてこれを贈るよ。よい夢を……)


やがて、警察が来て検証が始まった。死んだ男は拳銃のような物で撃たれていた。左胸を貫通しておりほぼ即死の状態だと言う。それは、ある有名な兵器工場の社長だった。しかも彼は最近は武器の密輸関係の事でいろいろな機関とトラブルを起こしていたらしい。つまり、恨んでいた者も多く、敵も多かったという事だ。ましてや、今夜ここに集まっていた者達は皆一癖も二癖もある連中ばかりだ。誰が犯人でもおかしくない。
聞き取り調査は慎重に行われた。

幸いだったのは、そこでコンサートが行われていた為、ほとんど人の出入りがなかった。つまり密室状態であったという事だ。
そこで会場にいた全員がその場に残され捜査に協力する事になった。ホテルの従業員や給仕、各国から招かれていた客達……全て合わせて117人。そしてピアノを弾いていた彼、ルビー ラズレイン。しかし、彼は真っ先に白だと判定された。
――彼はずっとピアノを弾いていた
――ピアノは両手で弾くものだろう
――銃なんか持てる隙なんてないわよ
誰もの証言が一致しているので疑いようがない。つまり、同時刻における犯行は不可能だと判断されたのである。人々は彼のピアノを絶賛した。そのピアノがあまりに素晴らしかったため、誰もすぐ近くで起きた殺人事件に気づかなかったという程に、彼らは熱狂していた。

「僕、頭が痛いの。部屋に戻って眠りたい」
疲れた顔でルビーが言った。
「ああ。もう11時を過ぎているね。申し訳ありません。この子をベッドで寝かせてやってくれませんか? この子は身体が弱くて、あまり無理はさせられないんです」
とジェラードが近くの警察官に頼んだ。
「いいでしょう。彼はずっとピアノを弾いていたのですし、この件に関しては白でしょうから……それに、コンサートでお疲れでしょう。どうぞ、お部屋に戻っておやすみください」
「ありがとう」
彼は欠伸をしながらのんびりと部屋を出て行った。


そうして、ルビーは一旦自分の部屋に戻るとすぐに明かりを消してベッドに入った。捜査員の一人がそれを確認すると会場へ戻って行った。
いつもと同じ。全てが順調に進んでいた。
幾ら調べても証拠も犯人も見つからない。
完全なる犯罪……。
ジェラードは被害者に対しては絶対的死角の位置にいて犯行は不可能だと判断される。無論、彼は実際に手を出していないのだから当然なのだが……。対してギルフォートは例によって女とベッドで戯れの時間を過ごしている。いずれも証人がいて、すぐに事件とは無関係だという事になり、解放されるだろう。全て筋書き通りに……。

ルビーはじっとベッドの中で窓から覗く月を見ていた。
「眠れない……」
誰も彼の為に子守唄を歌ってくれる人はなく、誰も彼の額を撫でてくれる者もなかった。
「愛してよ、月……愛してよ、僕を……」
伸ばした手に触れる者はなく、彼は自分を抱き締めるしかなかった。撓んだ毛布が頬に当たると彼はそれに頬ずりする。
「キスして……お願い。そっと僕を抱いて欲しいの……」
彼は淡い月光に恋するように甘い幻想の中で時を過ごした……。
しかし、それからしばらくして、彼は再び起きると服を替えて窓際に立った。そこは6階だったが彼は構わず窓を開けてヒラリと飛んだ。微かな光の残像が彼の痕跡を映すように瞬いたが、それもやがて漆黒の闇に吸われて消えた。


警察の留置所はしんと静まり返っていた。こんな田舎の村では滅多に犯罪など起きない。今夜、この留置所で過ごしているのはランビリエただ一人だった。風の静かな夜だった。鉄格子の嵌った高い窓から月明かりが微かに差し込んでいる。消灯時間はとうに過ぎていたが、彼は眠っていなかった。じっとその小さな窓を見つめている。明日になればすべてが快方に向かう筈だ。それだけの金はばら撒いたのだ。
自分が拘束されるのは不本意であり、理不尽だと彼は信じていた。
「そうだ。明日になれば……」
ランビリエがそう呟いた時、頭上に影が飛来した。
「残念だけど、あなたには永遠にその明日が訪れることはない」
「誰だ?」
月が雲に隠れるように影が覆った。漆黒の中の闇――。その暗がりに浮かぶ顔には見覚えがあった。

「まさか、おまえは、あの……」
「そう。僕は闇のピアニスト……。悪を狩り、闇を奏でる者……」
「闇のピアニストだって?」
「そう。けれど、あなたの為に弾く曲は持ち合わせていないんだ。だから、あなたは、あなた自身の手で懺悔の言葉を奏でてよ」
冷たい目だった。が、口元は微かに笑んでいた。男は後ずさりながらも、まるで彼から目が離せなかった。

吸い込まれるようなその瞳の奥に何があるのか捉えようと……。しかし、それは上手く行かなかった。背後の壁に背中が当たる。ルビーは何も言わない。ただ、拘置所の中に影があるだけ……。淡い月の光を鍵盤に見立て、彼は自分自身の為に奏で始める……。沈黙の為のエチュードを……。

「ゆ、許してくれ……金なら幾らでもやる。だから……」
男は諂うようにルビーの影に額をこすりつけた。が、それが本心からではない事は明らかだった。
「許さないよ。だって、あなたはすぐに僕を裏切るもの。そうでしょう?」
ルビーがそう言い終らないうちに男は向かいのドアに向かって叫び、監視を呼ぼうとした。が、正にその瞬間。見えない鎖が男の首に絡みつき、ぐいと締め上げてドアから離し、床に引きずり倒した。
「く、苦しい……! やめてくれ……!」
自らの首に両手を回し、見えない意思を剥がそうともがいた。
「僕はね、自分が傷つくのならいくら傷ついても構わない。たとえ心臓を引き裂かれてもね………。けど、他の誰かを傷つけるような人は許せないんだ。たとえ、神様が、法律がそれを許したとしても僕は絶対許さない。だから、ねえ、あなたは消えて」

そう言うとルビーはふふふと笑い、閃光が男を撃った……。死体が奏でる闇の鎮魂歌……。部屋には、また静かな月明かりだけが差し込んでいる。冷たい床に倒れたままの男の身体はもう何も感じる事のないただの物体として転がっていた。ルビーは、しばらくの間、警察署の屋根からじっと空を見ていた。月明かりのせいで小さな星の光までは視認出来なかった。

それでも尚たくさんの星が広い宇宙には存在している。
(あの星の何処に真実はあるのだろう? そして、この世界の何処にあの人はいる?)
すり抜けていった夢……遠い約束……。闇の夜風に震える心……。冷たい銀色が鋭く光る。
(僕を責めてるの? それとも彼を……? あなたが僕を嫌うなら、僕もあなたを嫌うでしょう。けれど、あなたが僕を好きだと言うなら、僕はあなたが大好きになる……)
ルビーは袖のボタンを外し、白い腕を天に掲げた。
(もしもあなたがその銀の月光の鞭で打つというなら、それだって構わない。また一つ心に傷が増えるだけ……。それでもあなたは打ちますか?)
天に向かって問い掛けて彼は唇を噛んだ。それからふっと息を吐いて、静かに拳を握る。

「嫌われたって構わない。後悔なんかしない。あいつを生かしておけば、また悪い事をして、あいつのせいで泣く人が増える。僕は正しい事をしたんだ。正しい事を……なのに、どうして涙が出るの? どうしてこんなに心が痛いの? どうして? どう…して……!」
彼は両手で顔を覆うと声を殺して泣いた。月だけがそれを見ていた。風だけが彼の声を聞き、過去の思い出と共に慰めた。昔懐かしい香の中で、彼に未来へ行こうと誘う風……。過去と未来への分岐点……。と、その時、建物の中から靴音が響いた。監視員が見回りに来たのだ。彼はさっと裏手に回ると屋上から翼を広げて飛ぶと闇の中に紛れて消えた。


翌日。ルビーはマクミールの葡萄畑を訪れた。そして、老人にトランクを渡す。
「100万ユーロあります。このお金で畑を買い戻して欲しいんです」
「何だって?」
ルビーの言葉に老人は驚き、慌てて首を横に振った。
「とんでもない。こんなお金を受け取る訳にはいかんよ」
「大丈夫。これは、僕が演奏料としてもらったものです。決して汚いお金ではありません。それに、もう、おじいさんには畑を手放さなきゃならない理由なんかなくなったのだから……」
と言う彼の言葉に老人は複雑な顔をした。
「とにかく受け取ってください。僕はもう行かなきゃ……」
と言ってルビーは急いで家を出ると走って行ってしまった。

「あ! おい、待って……」
老人が慌てて後を追って行ったが、もうその時には彼の姿は見えなくなってしまっていた。と、その時、一台の車が滑り込んで来た。フランツだ。
「あの子は行ってしまったよ。これを残して……」
とトランクを指差す。
「そうですか……」
とフランツが頷く。
「あの子は、一体何者だったんじゃろう?」
老人の問いにフランツは言った。
「あの子は、天使だったんですよ。多分ね……」

内心、フランツはルビーがあの二つの殺人事件の犯人ではないかと疑っていた。だが、それはあくまで彼の推測でしかなく、証拠もない。二つの事件の真実と真犯人はもしかしたら永久にわからないままかもしれない。警察としては面子がないが、この街の人々にとっては幸運な事であり、フランツと老人にとっては直接の敵が討てた事になる。
「そうじゃな。あの子のおかげで罪人にならずに済んだよ」
と老人が言った。
「わしは、奴を殺そうとしていたんだ。この畑を売った金で殺人を依頼した。だが、奴が死んでしまったから契約は反故になったと今朝連絡が入った。金も返すと……。だから、これはあの子に返してやってくれないか?」
と老人が言った。
「わかりました」
とフランツは言ったが、中を確かめてみると、返済は一切不要である事、そして、もしあなたにとって有用でなくなった時には、何処か必要としている施設にでも寄付してくださいと手紙が添えられていた。地上に舞い降りた天使……ルビー ラズレイン……光と闇とを持つ者……そして、人間の良心を測るために天から遣わされた本物の天使なのかもしれない……。そう二人は感じた。


「パリに行くなら、僕、寄りたい所があるんだけど……」
TGVのコンバートメントでルビーが言った。
「ディズニーランドかい?」
ジェラードが訊く。
「ううん。ちがうの」
「なら、エッフェル塔? それともシャンゼリゼ通りで買い物でもしたいのかな?」
「病院……」
意外な返答にジェラードもギルフォートも驚いた。あの病院嫌い、いや、恐怖症の域であるルビーが自ら病院に行きたいと言うのだ。余程の事にちがいなかった。
ジェラードは彼の額に手を当てて熱はないかと確かめたし、いつも冷静なギルフォートでさえ、何があったのかとしつこく訊いて来た。が、結局、あの老人の娘が入院している精神病院を訪れ、彼女にピアノを聴かせたいのだとわかった。

「そうしたら、きっと思い出すと思うの。僕がそうだったように……彼女も自分を取り戻してくれたらいいなって……それで……」
彼は15才までの数年を精神病院で過ごしている。酷い事件のせいで心のバランスが保てずに崩壊寸前だった彼を救ってくれたのが、たまたま慰問でピアノを弾いてくれた人だった。
(シュミッツ先生……)
彼は自分も彼女のために何か出来ないかと考えたのだ。が、その病院でされた仕打ちを思うと、彼は全く医者や病院というものを信じられなくなってしまった。その名前を聞いただけでも激しい拒絶反応が出る程だった。それを自ら受け入れようと言うのだ。
ギルフォートが彼女の入院している病院を探り出し、アポイントを取った。慰問し、ピアノの演奏をさせて欲しいと申し出ると病院側では歓迎すると喜んでくれた。しかし、いざとなるとルビーにとっては大変だった。エントランスをくぐるのさえ震えが止まらなくなり、足が硬直して動かなくなってしまう。呼吸さえも困難になり、皆を驚かせた。が、それでも彼は何とか会場まで辿り着き、見事な演奏を披露した。

「大したもんだ」
帰りの車の中でぐったりと眠ってしまった彼にギルフォートが呟く。汗ばんだ額をそっと撫でる。
「がんばったな」
しかし、その言葉も手のやさしさもルビーは知らぬままに眠っていた。


その夜、老人のもとに一本の電話があった。孫娘のミレーヌからだった。
――「おじいちゃん? わたしね、天使を見たの。黒髪の天使よ。彼はショパンの心を継ぐ音楽の精霊だった……。だって、本当に彼の演奏は、まるで天の調べのように純粋そのものだったんだもの。彼はわたしにキスをしてくれたのよ。きっと大丈夫。何もかもが上手く行くって……。だから、わたし、がんばるね。おじいちゃん。きっと立ち直ってピアニストを目指すわ」
久し振りに聞いたいきいきとした彼女の声に、老人は涙した。そして、彼、黒髪の音楽の天使、ルビー ラズレインに感謝の祈りを捧げた。月の夜。さわさわと風に揺れる葡萄達も、またいつか彼に会えることを夢見て、今は彼の思い出の言葉をひっそりと呟いているに違いない。

Fin.