HANS ―闇のリフレイン―
夜想曲1 Herz
5 風の疼き
「ハンス?」
「そうだよ。君は?」
「ちひろ」
子どもは浴衣姿の彼を興味深そうに見つめた。
「おいで。僕と遊ぼ?」
彼が誘うとちひろも手を伸ばして来た。が、男はさっと子どもを反対の腕に抱え直した。
「ふざけるな! 貴様、女将の手の者か?」
男が叫ぶ。
「知らないよ。僕はただ、その子と遊びたいだけ……。ねえ、鬼ごっこしようか。僕を捕まえてごらん」
そう言うと彼はさっと暗闇に姿を消した。
「ハンス? どこ?」
ちひろがきょろきょろと辺りを見回した。が、彼の姿はどこにもない。
「消えただって? 馬鹿な……!」
男は闇を注視した。
「うふふ。どこを見てるの? 僕はここだよ」
いきなり背後から声がした。男はびくっとして振り向いたが、そこにはもう姿がない。
「こっちだよ」
また別の方向から声がした。
「みつけた!」
子どもが叫んだ。
「何?」
男は翻弄されてあちこち視線を動かして見た。が、10メートルほど離れた場所にある空の台車と幾つかの機材が転がっているだけだ。
「くそっ! いったいどこに……」
男は苛ついたように靴先で小石を踏み砕いた。
「あそこ!」
子どもが上を指差した。
「何?」
男が見上げると、彼は空中からこちらを見下ろしてけらけらと笑った。
「どうしたの? 僕を捕まえてごらん?」
「う、浮いている。まさか……!」
男は思わず足が竦んで動けなくなった。
その時、唐突に電気が消えた。そこは真の闇になった。
「ハンス、どこ?」
泣きそうな声で子どもが呼んだ。
「ここだよ」
彼はそのちひろの手を握った。
「くらくて、なんにもみえないよ」
子どもが怯える。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
彼はちひろをその腕に抱いた。
「ふざけやがって……! その手を放せ!」
男が怒鳴る。
「いやだね。この子は僕と遊ぶんだ」
男の周囲から子どもの気配が消えた。
「待て! どこへ行った!」
男は焦って数歩進み出た。が、闇に怯え、不安に足を止めた。何の音も聞こえて来ない。外にいた車のエンジン音もしない。
「くそっ! 灯りを……」
男がポケットを弄り、その足元で風が滞留した。ハンスは足音を立てずに出口へと向かった。その時、静寂を破るように男が動いた。
振り返るとそいつの手にライターが握られていた。
「やめろ!」
ハンスが叫ぶ。そこには揮発性のガスが漂っていた。男が火を点けた瞬間、倉庫の中を爆風が突き抜けた。
美樹は彼と別れた後、急いで部屋に戻ろうとエレベーターに乗って8階に出た。廊下は静まり返っている。絨毯が敷かれているのでさほど足音はしない。彼女達の部屋はその廊下の奥にあった。部屋の前まで行くと、その先のラウンジから話し声が漏れて来た。
「ちひろちゃんが拐われた?」
それは父の声だった。美樹は反射的に足を止め、耳を澄ました。
「ええ。どんな汚い手も使うような連中です。孫のちひろはまだ三つ。どんな恐ろしい思いをしているかと思うと、どうしてもじっとしていられなくて、つい健蔵(けんぞう)さんに……」
健蔵というのは美樹の父の名前である。女性の方はこの旅館の女将だった。彼らは昔からの馴染みで、父からも何度か話を聞いていた。
「警察には?」
父が尋ねた。
「いいえ。そんなことをすればどんな目に合わされるか……」
彼女は口ごもった。
「あの、どうかしたんですか?」
美樹は耐えきれなくなってそう訊いた。二人が同時に振り返る。
「ごめんなさい。偶然、話が聞こえて来たものですから……」
「おまえは部屋に戻っていなさい」
困ったように父が言った。
「わたし、ハンスに頼まれて、ルドルフを呼びに来たの。きっとそのことが関係あるんだと思う」
「関係?」
父は怪訝そうに娘の顔を見た。
「子どもがさらわれたってハンスが……。それで彼は犯人を追い掛けて行ったんです」
「本当ですか? どこに……?」
女将が訊いた。
「2階の奥の通路に……」
美樹は早口で言った。急がなければと焦っていたからだ。父はすぐに部屋に戻ってルドルフを連れて来た。美樹が片言のドイツ語で状況を説明しようとしたが、なかなかうまく伝わらない。
「あの、こちらの方、英語はできますか?」
女将が訊いた。美樹が頷く。そこで、女将は事の成り行きを英語で説明した。彼は部屋に戻って浴衣を脱ぐと上着を羽織って出て来た。
「何処ですか?」
ルドルフが訊いた。
「こっちよ!」
美樹が先頭に立って案内した。四人はエレベーターに乗ると2階に出た。そして廊下を走り出した時、不意に電気が切れた。
「停電? こんな時に……」
美樹は不安になった。が、一行はそのままリネン室のある場所まで進んだ。ルドルフが小型のライトを点けたのでそれを頼りに歩けたのだ。当然ながら、エレベーターは動いていない。
「階段は?」
ルドルフが訊いた。
「向かいの扉の奥にあります」
女将が答える。彼がそこへ歩み掛けた時、突然床を突き上げるような振動が襲った。衝撃は2度。同時に非常ベルがけたたましく鳴り響いた。
「ハンス……」
不安そうな声で美樹が呟く。
「奴は大丈夫だ」
彼女の肩に手を置いて、ルドルフが言った。
「大丈夫」
彼は日本語で言うと非常階段の扉を開けて下に降りた。その間に女将は緊急連絡用のインターホンでカウンターに連絡し、客を避難させるようにと指示した。
「恐らく北村の仕業だろう」
父が女将に言った。彼女は黙って頷いた。
「申し訳ありません。健蔵さん達にまでこんなご迷惑をお掛けしてしまって……」
女将が詫びた。
「あんたのせいじゃないさ。遅かれ早かれ騒ぎが起こるのは見えていた。それより、あんたは旅館のことを考えた方がいい。今は泊まり客の安全が一番だろう?」
「その通りです」
灯りが消えていたので表情は見えなかったが、その声には力がなかった。
「ここから行くのは無理だ。火と煙がもう階段まで上がって来ている」
ルドルフが戻って来て言った。その時、非常電源が入り、灯りが点いた。同時に全館放送が非常を告げた。従業員達も各フロアに散って客達の避難誘導を始めている。
「美樹、君は急いでお母さんを連れて避難するんだ」
ルドルフが促す。
「でも……」
「大丈夫」
彼は力強く頷いて見せた。
「……わかった」
彼女はすぐに踵を返し、もと来た方へと走り出した。
「他に下へ通じている経路は?」
ルドルフが訊いた。
「西南の出口から裏に回ることができます」
女将が言った。
「あとは俺達が何とかする。あんたは早く客の避難を……!」
健蔵が言った。
「わかりました。では、よろしくお願いします。この方を裏口へ案内してください」
「わかった」
男二人は目で合図すると通路を走り出した。女将も自分の役割を果たすため、その場を離れた。
非常電源に切り替わったのでスプリンクラーが働いた。だが、火の勢いは止まらない。
「あつい……」
腕の中で泣き疲れた子どもがぐったりとして言った。
「まずいな。空気が薄くなって来たみたいだ……」
途切れそうな意識の中で、彼はようやく辿り着いた扉の取っ手に手を掛けた。しかし、金属製のその扉は閉じられていてびくともしない。
「くそっ! ロックが掛かっているのか?」
ハンスは強引にレバーを動かそうとした。が、どうやっても固く食い込んで外れない。先程の爆風ですっかり歪んでしまっているのだ。窓は高い所にあり、通気口程度の大きさしかなかったので、とても通り抜けられそうになかった。階段はすっかり炎で覆われている。出口はそこしかなかった。
「扉ごと吹き飛ばすか……」
しかし、彼は体力を消耗していた。爆発から子どもを守り、熱と煙に巻かれて激しく噎せた。風を操る彼の能力をもってしても、子どもを抱えていては爆風から身を守るので精一杯だった。今は直接炎が掛からないよう風の防壁を巡らしているが、それも長くは持たないだろう。
「助けを呼ばなくちゃ……」
彼は熱くなっている扉を叩いた。
旅館の裏口から外へ出たルドルフ達は地下へ続くスロープを降りて行った。車を降りて様子を伺っていた男がこちらに気づいて、慌てて逃げようとした。
「北村!」
健蔵が叫んだ。それは以前から女将に付き纏っていた男だった。そいつは停めてあった車の運転席に乗り込むと急発進した。
「待て!」
健蔵が叫んだが、車に追いつける筈もなかった。が、背後からバシュッという鈍い音がして、北村の乗った車は左右に大きく蛇行し、外壁に衝突して止まった。ルドルフが撃った銃弾がタイヤに命中したのだ。
「あんたは……」
健蔵は振り返ってルドルフを見た。眉一つ動かさず、獲物を狙う男の目がそこにあった。
「出て来た。足止めするか?」
ルドルフが訊いた。
「いや。俺に任せてくれ」
健蔵は逃げようとする北村を追い掛け、抵抗する拳を避わすと抑えつけて捕らえた。
一方、ルドルフは駐車場の扉を叩く音を聞いて、そちらに駆け付けた。
「ハンスか?」
「ああ。僕だよ。ロックが……。爆風で歪んでしまったんだ」
「離れていろ」
彼は間を取ってから銃を撃った。カチンと鋭い音がして錠が壊れた。彼は扉を掴んで開けようとした。が、それ自体が歪んでなかなか開かない。
「ありがとう。ロックさえ外してくれたら大丈夫。あとはやれる」
ハンスが言った。今度はルドルフが扉から離れた。次の瞬間。周囲に細い光が広がり、ギシギシと音が鳴った。それから一気に圧力が掛かって扉が外れ、地面に落ちた。途端に中で渦巻いていた炎が噴き出す。
「ハンス!」
同時に飛び出して来た彼を抱きとめて脇に退く。
正面玄関の前は避難した人々で溢れていた。消防車も駆け付けて来た。が、幸いにも延焼は地下駐車場だけで済み、旅館そのものには影響がなかった。北村は逮捕され、共犯者の男の死亡が確認された。誘拐された子どもに怪我はなく、事件は無事に解決した。
「ハンス!」
駆け付けて来た美樹が抱きついた。
「ハンス先生、ご無事で……」
黒木もその手を取って涙を流した。
「僕は大丈夫です。風の守護者だから……」
「知ってるわ。でも、過信は禁物でしょ?」
「もちろん。でも、僕は死なない。君と出会えたから……」
彼は美樹の髪に何度も指を通し、接吻を繰り返した。着ていた浴衣は降り掛かった火の粉の跡を辿るようにあちこちが焦げてぼろぼろになっている。それを見つめていた黒木が胸を詰まらせて言った。
「本当に無事でよかった。その才能が損なわれるようなことにでもなったら……」
黒木はハンカチを取り出して涙を拭った。そこには警察や消防や旅館の関係者、まだ大勢の人々が残り、作業を続けている。
「ところで、黒木さん……。どうしてまだここにいるですか?」
ハンスが顔を顰める。
「あなたのことが心配だったのです。私に何かお手伝いできることはありませんか? ぜひ、あなたのお役に立ちたいのです」
「ありますよ。たった一つ」
ハンスは眼前に指を一本突き出して言った。
「それはどのようなことでしょうか?」
黒木は目を潤ませて訊いた。
「それは、あなたが今すぐ僕の前から立ち去ることです」
彼は真面目な顔をして言った。
「そんな……」
黒木は呆然として彼を見つめたが、無視されて肩を落とした。
「僕は今、美樹ちゃんと二人でいたいんだ。邪魔しないで!」
「わかりました」
音大教授は仕方なくその場を引き下がった。
一方、ルドルフは誰もいないロビーで美樹の父、健蔵と話をしていた。
「国際警察?」
健蔵は僅かに眉を寄せた。
「私達はそのために来ました」
今、世界中で起きている能力者やそれに関わる組織による無作為な暴力。それらの犯罪を防ぐために彼らはこの国に派遣されたのだと言った。
「娘もそのことを知っているのかね?」
繊細なガラスのシャンデリアの塔に茜色の光が灯る。
「お嬢さんもメンバーの一人です」
「何だって?」
健蔵は驚いて訊き返した。
「ただ、彼女は犯人逮捕などの活動はしません。別の意味での協力者なのです」
「よくわからないな」
父親の表情が硬くなる。
「その件についてはあとでハンスが説明します」
しばし沈黙が続いた。健蔵は手にしたまま、燃え尽きた煙草を灰皿に捨て、ちらと時計を見て言った。
「あと一つ。これだけは確かめておきたいんだが……。ハンスが娘と結婚したいと言っているのは、仕事のためなのかね?」
彼らは互いの表情を読み、ルドルフがもつ端末を駆使して会話していた。
「ハンスの彼女に対する愛情は本物です。私はやめておけと言いました。しかし、奴は聞く耳を持たなかった」
外では、非常灯が点滅している。健蔵の中ではまだ、不穏な夜が続いていた。
「あんたが反対した理由は?」
薄く吐いた息には紫煙が混じっていた。
「彼女を危険に巻き込むのはフェアじゃないからです」
ルドルフは常に視線を逸らさなかった。
「それでも、ハンスは娘が欲しいと言ったんだね?」
「その通りです」
父は深いため息をつくとルドルフに煙草を勧め、自分も一本取った。彼は無言のままライターで火を点けた。それからふうっと長く煙を吐き出してから言った。
「こちらからも質問があります。健蔵さん、あなたは何者ですか? 今回のことといい、とても素人とは思えません」
健蔵はゆっくりと煙草をくゆらせてから応えた。
「もちろん素人じゃない。だが、警察関係ではない。別の組織に属していた。今はもう足を洗っているがね」
ルドルフは納得した。
「それと、今回の首謀者、北村という男についてです」
ルドルフ達が追うのは国際的な犯罪者とテロを企てているような危険分子。今回関わった男をマークすべきかどうかの判断材料が欲しかった。
「ただのチンピラさ。ここの女将はある組織のボスの妾なんでね。それでちょっとしたいざこざに巻き込まれたんだ」
そう言って、健蔵は灰皿に押し付けて火を消した。
「なるほど。情絡みですか」
それは彼らの捜査範囲ではなかった。
「どうやら、あんたも女好きみたいだが、身の破滅に繋がらないよう気をつけるんだな」
健蔵がそう忠告すると、彼は自嘲するように唇の端を微かに上げ、煙草を消した。
「ありがとう。心に留めておきますよ」
メディアはこの事件の全容を報道することはなかった。北村が起こした誘拐未遂事件と旅館の小火騒ぎで宿泊客が一時的に避難したことだけがひっそりと報じられた。ハンスやルドルフの存在は伏せられ、一泊まり客の気転により事件を未然に防ぐことができたとだけ伝えられ、その客が誰だったのかは明かされなかった。
「ハンス、またきてくれる?」
ちひろが言った。
「うん。きっとね」
彼は子どもの頭を撫でて言った。
「本当にありがとうございました」
女将をはじめとした旅館のすべてのスタッフ達が見送ってくれた。
「僕、温泉、好きになったです」
別れ際にハンスが言った。歓待されて、あのあと、大浴場を貸し切りで入浴できた彼は満足していた。
――背中を流してやろう
そう言う父は彼の傷跡を見てそっと瞼を拭った。
――僕もお父さんの背中流します
湯煙に霞む父の身体にも小さな傷跡がたくさんあった。若い頃から修羅場をくぐって来た名残りなのだと父は言った。
――これらは皆、生きて来た証の傷だ
――証?
――言うなれば勲章みたいなものさ
それを聞いてハンスはうれしくなった。
――それなら、僕もご褒美もらえるですか?
――そうだな
――だったら、僕は美樹ちゃんがいい。金貨や宝石もいいけれど、僕はやっぱり本物の女の子が欲しいです
それから、彼らはまた新幹線に乗ってそれぞれの家に向かった。最初の長いトンネルに差し掛かった頃、ハンスは眠りに落ちていた。
「いろいろあったから疲れちゃったのね」
母が上着を掛けてやった。
「骨休めのつもりだったんだがな。じゃあ、このまま東京で乗り換えて房総の方でも行ってみるか?」
父が言った。
「冗談じゃないわ。次の締め切りは三日後なの。こちらはまだ手つかずだから焦ってるの」
美樹が早口で抗議する。
「ルドルフはどうかね?」
「遠慮します」
日本語で返って来た。
「ほう。遠慮するとは?」
「こちらで住む家を探さなければいけません」
彼は勉強熱心で短い間に幾つもの文や単語を使えるようになっていた。
「そうよ。彼らはまだ日本に来たばかりなのよ。連れ回したら可哀想だわ」
娘に言われ、父も引き下がらざるをえなかった。
その間にまた幾つかのトンネルを抜け、目的の駅に近づいていた。
「夢を見ていました」
両親やルドルフと別れ、美樹と二人きりになった夜。ハンスが言った。
「気づくと僕はベッドに寝かされていました」
それは、ピアノが運ばれ、リビングに収まった日でもあった。その光沢のある蓋を撫でながら彼は続けた。
「目を開けると照明が酷く眩しかったんです。そこはオペレーションルームでした。僕は舞台でピアノを弾いていた筈なのに……」
彼は一年前、ホールの舞台に立っていた。最初で最後の幻のソロコンサート。鳴りやまない拍手の中で、彼は何曲もアンコールを弾いた。そして、最後に彼が選んだのはショパンの「幻想即興曲」。
愛する者と愛される者の魂が交わるその瞬間を、その指先に通じる思いをその曲に託した。肉体の苦痛も悦びも、心の嘆きや悲しみも越えた、あらゆる時間の幸福に変わる瞬間を、その時彼は生きた。彼は汚れることがなかった。その胸に差した白薔薇のように……。
「僕はそこにいました。あの銃弾が僕の胸を撃ち抜いた時も……」
そうして彼は鞄の中から心臓を取り出した。
「ずっと君の傍らにいたのです」
二つの弾丸がはめ込まれたそれを、その日届いたばかりのピアノの上に置いて言った。
「ルビー・ラズレインは死にました」
漆黒の夜に浮かぶその髪はブロンド。
「僕は君が欲しかった。その情念が生きるための弾丸を引き寄せた。僕は君を手に入れて、半分だけ大事なものを失った」
彼はピアノの蓋を開けるとそこに左手を乗せた。
「続けて30分以上の演奏ができないんです。昔の僕ならきっと耐えられなかったでしょう。でも、今は君という新たな心臓を手に入れたから……」
そう言うと彼はそこに置いた二つの弾丸が封じ込まれたクリスタルの心臓をポケットに入れた。そして、彼は目を閉じ、奏で始めた。新たな生へと続く幻想を……。
「ねえ、わたしの本当の名前を知りたい?」
深夜に飲むお茶の時間。香気の向こうの彼はじっと彼女を見つめた。
「それにどんな意味があるのですか?」
彼女は微笑すると一口だけ紅茶を飲んだ。
「僕は再現できるのです。ルビーを、ショパンを、リストを、そしてルートビッヒを……。愛を奏でるためには、他に何が必要ですか?」
「ダブルベッド」
彼女が言った。
「正解です」
彼はうれしそうに笑うと彼女の隣に来て、その肩に腕を回した。
「君が何者であるかなんて問題ない。ただ、こうして一緒に同じ夢が見たいだけ……。いつまでも、同じ夢を見ていたいんです。いつか、この心臓が打ち砕かれるまで……」
Fin.
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