HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲5 April

1 傷付いた小鳥


霧の向こうにたゆたう幻想の森を見つめ、彼は告白した。
「たとえ僕の肉体が朽ちたとしても、心は永遠に君のものだ。空の上から淡い月の光となって、ずっと君を見守っています。君だけを……。君の幸せを……いつまでも……」
そうして、彼は指輪を外すと、海に放った。それは一瞬だけ煌めいて暗い水面に吸われて消えた。
「ルビー……」
「いいんです。あれはもう、僕にとっては遠い昔。幼い恋でした。いや、恋というより憧れに過ぎないものだった。僕は気が付いたんです。だから、指輪を外すことにしました。本当の愛を手に入れるために……。ああ、美樹。もう離れない。離れたくない。だから、お願い。一度だけでいいんだ。今夜、たった一度だけ僕と愛を奏でて欲しい」
潤んだような瞳を伏せる彼女の肩を抱くと、彼はそっと唇を重ねた。
「愛してる」
小さく肩を震わせて彼女も頷く。幸せを噛み締めて彼は美樹を抱くと、潮風と戯れながらゆっくりと愛の畔を渡って行った。


あれからもう、1年半になる。
「変わらないな。ここは……」
暗い水面を眺めてハンスが呟く。
街灯が周囲を照らし、潮風がゆっくりと公園の中を流れて行った。電車が到着する度に疎らな人影が足早に通り過ぎて行く。ハンスは欄干の袂に立ってじっと海を眺めていた。もう、何度ここに足を運んだことだろう。美樹と約束を交わしたこの場所に……。
漣が海面を揺らし、細い三日月のような光が水面に浮かぶ。だが、その月光は幻だ。沈んだ指輪の影は見当たらない。
(あの悲しみは、錆び付いた思い出と共にとっくに海に溶けてしまったのだろう)

風が強く吹き付けた。黒い影が夜の海に吸われて消える。
(ああ、美樹……。僕の小鳥……)
彼は片手で顔面を覆った。が、指に絡み付いて来るものは、隠し切れなかった漆黒の髪と潮辛い風。

――ルビー

繰り返す波のように思い出が囁く。
甘く切ないその声と共に、彼に忌まわしい名を思い起こさせるのだ。

「ダーク・ピアニスト……」
そのコンサートの先にあるものは闇――。彼は死を招くローブを纏って舞台に立つ。
最後の仕事は4年前。奇しくもこの日本で行った。彼は代議士だった篠山周五郎の屋敷に招かれ、そこで開かれたパーティーで私的なコンサートを行った。日本人にはどんな曲目が喜ばれるのか、綿密にリサーチした上で彼は来日した。秋の紅葉が美しい季節だった。
案内してくれたのは森下という品のいい男だったが、依頼人とはついに面会出来なかった。それでもミッションは遂行され、報酬はスイス銀行の彼の口座に振り込まれた。
飴井進とは、その時に知り合った。

「あめいさんのあめって、レインの雨っていう意味ですか?」
「いえ、キャンディーの飴という字です」
「ああ。キャンディーさんですか」
ルビーはそう言うと、座っていた丸椅子を左右に半回転させて微笑した。
当時、神奈川県警に所属していた飴井は刑事としてこの事件を担当し、最初に彼の事情聴取をした人物だった。ルビーは事件発生時にはピアノを弾いていた。参加者達の証言もすべて一致していた。ピアノは両手で弾くものだ。したがって演奏中の殺人は不可能であるという結論に達し、彼は簡単な事情を訊かれただけですぐに解放された。

「もし、困ったことがあれば、いつでも連絡してください」
帰り際、飴井が連絡先を記したメモを渡した。話してみると、ルビーはピアニストとしては一流かもしれないが、文字が認識出来ないこともあり、少々手助けが必要なタイプの人間なのだと判断したのだ。


そして、3年後。再び来日した彼は、そのメモを頼りに飴井を訪ねた。しかし、その時にはもう、飴井は警察を辞め、個人で探偵事務所を開設していた。
「キャンディー、どうして警察辞めちゃったですか?」
「まあ、いろいろあって、上司とぶつかってしまったのが原因で……」
例の事件のせいだとは言えず、飴井は話題を変えた。どういう圧力が加わったのか、篠山邸での事件はなかったことにされてしまったのだ。検死の結果、死因は狭心症による心臓発作であると判定された。あり得ないことだと飴井は抗議したが無駄だった。さらに首を突っ込もうとすると左遷を言い渡された。
「腐ってるな!」
飴井は辞表を叩き付けて警察を出た。

「私立探偵? それなら、丁度良かったです。僕の依頼を承けてくれませんか? 僕は日本にある母様のお墓を探してるのですけど……」
飴井は彼の依頼を引き受けた。旧姓は梳名(すくな)という。それなら、容易に見つかるだろうと考えていた。ところが、いざ始めてみると間もなく壁にぶつかった。手掛かりがまるでないのだ。まずは役所のデータを調べたが梳名という名字はなく、戸籍も存在しなかった。だとすれば、寺の過去帳を片端から当たるしかない。

一方、ルビーはそこで運命の出会いをすることになった。
「眉村美樹です。よろしくお願いします」
彼女は飴井の同級生だと言ったが、年より随分若く見えた。
「美樹ちゃんっていうの? 可愛い名前です」
彼女は小柄で華奢な子どものように見えた。
(壊れてしまいそうだ。この手で……強く抱き締めたなら……)
しかし、その手は汚れていた。彼は自分のそれを蛍光灯に翳して見た。
「手、どうかしたの?」
彼女が訊いた。
「僕、ピアニストなんです」
ルビーが言うと、彼女は微笑して言った。

「じゃあ、いつか聴かせてくれる? あなたのピアノを……」
「はい。今すぐにでも……」
瞳に光が反射していた。が、そこに楽器の影はない。
「でも、ピアノは……?」
困惑する彼女の気持ちを置き去りにして、ルビーはソファーから立ち上がった。
「買いに行きましょう。今すぐに……」
そうして、彼女の方へ歩み掛けた時、眩暈に襲われた彼の足がふらついた。
「大丈夫?」
慌てて支えてくれた彼女の腕の感触。その手に自分の手を重ねて彼は言った。
「何でもありません。ただ、ちょっと光が眩しくて……」

唇が渇いていた。このところずっと微熱が続いている。鼓動も速い。彼はそのまましばらく動けずにいた。
(いつか夢で見た人と同じにおいがする……)

その日以来彼の中に埋められた体内時計に狂いが生じ、秒針はどんどん加速して行った。熱く火照った指先が、鍵盤ではなく、彼女を求めた。起きている時も、深夜にふと目を覚ました時も、気がつけば、彼は美樹のことを考えていた。
(あの子が欲しい……!)
しかし、滞在期間は限られていた。そして、彼自身に残された時間も……。

「星猫? もしかしてそれって星谷美羽の本じゃない? それなら、わたし持っているよ」
母の筆名は彼の知るところではなかった。が、偶然口を突いて出た星猫という単語が糸口となり、当時、彼女の担当をしていた編集者の増野に行き着いた。
「その絵本、子どもの頃大好きだったの。その作者がルビー、あなたのお母様だったなんてすごい偶然!」
彼女は頬を紅潮させ、うれしそうに喋り続けた。

アパートの裏庭に植えられたキンモクセイ。その甘い香りが風に乗って流れ込む。
(欲しい!)
衝動が胸に込み上げる。しかし、彼にとって告白するリスクは大き過ぎた。
自分は他の多くの人間とは違うのだ。もし、その正体と刻まれた傷の深さを知ってしまったら、途端に小鳥は彼の手の届かない場所に逃げ去ってしまうだろう。
(前の時は駄目だった。だから、今度こそ絶対に逃がさないようにしなくちゃ……)
彼は指輪に反射する光を見つめた。そこに映るのは惨殺された過去と繋がれた夢。

「右手にはめているのは結婚指輪?」
飴井の事務所で向かいのソファーに掛けていた美樹がさり気なく訊いた。
「はい」
彼が頷くと、美樹は微笑み、膝に載せていたバッグに添えていた手を軽く浮かせた。
「日本とは逆なのね。こっちでは左手にはめるんだよ、結婚指輪」
ルビーは軽く頷いて、それからやや視線を落として言った。
「でも、結婚してたのは1週間だけなんです」
「え?」
美樹の視線が揺らぐ。
「彼女……死んでしまったから……」
それだけ言うとルビーも俯いた。

「ごめんなさい。悲しいこと思い出させちゃって……」
美樹が慌てて言う。伏せた睫の上で光が疎らに震えている。
「いいんです。もう昔のことだから……」
彼が応える。鼓動が高鳴るのを感じた。彼女の細く柔らかそうな首筋から肩に掛けて伸びる緩やかなカーブ。それを撫でつけたなら、どんな感触がするだろうと、彼は考えていた。
(いったいどんな風に……。もしもこの手で抱き締めたなら……)
しかし、美樹は彼が予想しなかったことを口にした。
「実はね、わたしも昔、結婚してたことがあるの」
「結婚?」
意外な気がした。童顔の彼女は未だ、学生のような雰囲気を残していたからだ。

「でも、すぐに別れちゃったの。お互い若かったからね。未熟だったんだと思う」
彼女は明るく言った。が、彼はそうは思わなかった。
「傷付けられたんだね」
やさしさに秘められた悲しみを、彼は見逃さなかった。
「ルビー……」
守れなかった者が目の前にもいる。それがたとえ出会う前に起きたことであったとしても、彼はそれを認めることが出来なかった。
(運命は……何故、いつも僕の小鳥を傷付ける?)

胸の底で疼く痛みと怠さを緩和するために、彼は薬を飲んだ。
滞在出来るのは1ヶ月。その間、彼は飴井の事務所の隣のアパートを借り、ピアノも運び込んだ。そこで過ごした自由な時間は、彼にとって貴重なものになった。
「ねえ、ルビー。あなたのピアノを聴かせてくれる?」
「ええ。もちろんです」
ルビーはピアノの蓋を開けると彼女を脇に呼んだ。そして、唇に触れるようにやさしくその指を鍵盤に乗せる。それから静かに目を閉じると彼女の呼吸に合わせるように、震える指でノクターンを弾いた。そのロマンティックな調べを……。
甘い香りが漂っていた。夏の名残の風に揺れる影。日暮れに鳴く虫達の声。そして、捕らえて放さない郷愁にも似た慕情。
「いつまでも、君のためだけに奏でたい。永遠に終わらないこの夢のために……」

その頃、彼女は自分の仕事が忙しくない限り、飴井の事務所を手伝っていた。病に冒されていたルビーは日によって病状が変化したが、彼女が来る日には元気に振る舞った。やがて、飴井と彼女が互いに好感を持っていることも知った。それでも、彼は美樹が来るのを楽しみに待った。
「薬を……」
彼は様々な症状のために処方された薬を持参していた。しかし、痛みより恐ろしい苦痛が彼にはあった。目覚めるのが怖かった。幸福な夢の終演が来てしまうことが……。こうして起きていれば、夢がそのまま現実になるのだと彼は信じた。このまま眠らなければ、今見ている夢が永遠になるのだと……。そうするために彼は努力し、薬を使った。が、それでも時々耐えきれなくなって瞼が落ちた。すると、たちまち悪夢が彼を深淵に誘った。


汽笛が長く尾を引いた。
「悪夢だ」
欄干に置いた手を滑らせてハンスは言った。下ろし立てのスーツにはまだ、微かに密閉されたレッスン室のにおいが染み付いていた。
彼は4月から薬島音楽大学で学生にピアノを教えることになっていた。今日はその初日。レッスン自体は悪くなかった。彼が受け持った6人の学生は、皆それぞれよく練習していたし、素質のありそうな者もいた。が、最悪だったのは紹介された理事長の甥が篠山の息子だったということだ。4年半前のパーティーに、間違いなくその男も出席していた。始まる前、挨拶をして、握手も交わした。彼は覚えていた。相手は気づいただろうか。ハンス自身、その時とは随分印象も変わっている筈だ。髪の色も目の色も、そして声にも落ち着きが加わっている。何よりも名前が違う。もう、ここにルビー・ラズレインはいないのだ。

「用心しよう。それしかない」
そう呟いた時、海の底が光って見えた。小さく鋭い一瞬の閃き。何だろうと彼は身を乗り出した。
「指輪?」
1年半前に放ったエスタレーゼの指輪だろうか。しかし、暗い水底にはただ淀んだ悲しみだけが漂っていた。

「落ちるぞ」
背後から声が響いた。彼は振り向かずに応えた。
「そんなドジは踏まないよ」
「何を見ている?」
ルドルフが訊いた。
「海……。いや、この海の底に閉ざされた過去の呪い……」
「もう過去は捨てたんだろう?」
「リングの穴から漏れて来ることだってあるよ」
「ガイストのようにか?」
「あなたのように……」

男は薄く息を吐くと煙草をくゆらせて言った。
「ところで、音楽大学の講師になったそうじゃないか。出世したものだな」
「皮肉? 僕は引き受けるつもりなんかなかったんだ」
「大学のHPに紹介記事が出ている。あまり歓迎すべきことじゃないな」
兄が眉を曇らせる。
「言っただろ? これはちょっとした手違いなんだ」

――それってもしかしてルイが引き受けてしまったのかも……。1ヶ月くらい前、電話に出たルイが誰かにピアノを教えるって言ってたのよ

美樹が思い出してそう告げた。ハンスは1月の事故以来、3月の半ばまで、記憶が飛んで、自分は8才の子どもだと信じ込んでいた。名前も子ども時代のルイだと名乗っていた。記憶を取り戻すと、ルイでいた間のことは、ほとんど覚えていなかった。しかし、3月初めにあった彼の誕生日にもらったというおもちゃやぬいぐるみは今も部屋のあちこちに積まれており、証拠の写真も残っている。認めない訳には行かなかった。
美樹はハンスが記憶を失くしている間、懸命に世話をし、愛情を注いだ。ハンスにも、それは充分に伝わった。が、ルイが作ったというアルファベートの積み木を、そうとは知らずに崩してしまった。それを見た彼女は悲しんで泣いた。

――それは……ルイが作ってくれたのよ! わたしのために……愛してるって……。小さいルイが一生懸命……。わたしのルイが……。

一度子どもを亡くしている彼女にとって、ルイの存在がどれほど心の拠り所になっていたのかという事実とその重さを、彼は知ることになった。

――レッスンは4月5日から始まりますので、契約書にサインをいただきたいのです
黒木が電話を掛けて来て言った。そんな約束などした覚えがないと言うと、教授は困惑していた。
――そうおっしゃられましても、あの時は快く承知してくださったものと思っておりました。学生達にも既に告知してしまいましたし……。何か急にご都合が悪くなられたのでしょうか?


「それで、まさかルイが勝手に引き受けてしまったことだから駄目だなんて言って断れないでしょ?」
ハンスはもっともらしく渋面を作ると兄に言い訳した。
「ああ。そうだろうとも」
男もまた、もっともらしく頷くと目を細めて海を見た。それからすぐに振り返って弟を見て言う。
「たとえ記憶がなかったとしてもおまえ自身が約束したことには変わりないのだからな」
「そう、それこそが問題なんだよ」
ハンスは神妙な顔で頷いて見せた。が、その口元からすぐに笑みが零れる。
「ふん。やけにうれしそうじゃないか。初めてのレッスンは上手く行ったようだな」
「当然だろ? 知らなかったの? 僕は天才なんだよ」
「弾く才能と教える才能は別物だろ?」
唇の端に含み笑いを浮かべて兄が言う。

「僕はどっちも出来る。僕が教えた子はみんな成功させてみせるさ」
「ほう。大した自信じゃないか。大成しそうな奴はいたか?」
「2人。男の子は感性が良くて、女の子は技術がいい。どっちも克服すべき弱点は大きいけどやりがいはありそうだよ」
「ほう。いっぱしの口を利くじゃないか」
「忘れたの? 僕は先生なんだよ」
「ああ。だが、おまえはそれでいいのか?」
問われてハンスは表情を顰めた。それから欄干に手を着くと、兄に背を向け、海を見た。
「……いいんだ」


美樹は春になってからずっとアニメーションの脚本の仕事をしていた。それが夢だと言っていた彼女は生き生きとしていたが、仕事の量が増えた分、ハンスと過ごす時間は減って行った。
ハンスにとって仕事始めだった今日は黒木と夕食を共にした。彼が帰ると美樹は一緒に紅茶を飲んで、大学の話を聞いてくれた。しかし、一通り話が済むと、彼女はすぐに書斎に籠ってしまった。締め切りが近いからと言うのだ。リビングに取り残された彼の中には空しさだけが広がった。

彼は立ち上がるとしばらく部屋の中を歩き回り、それから棚からCDを取り出すとステレオにセットしてプレイボタンを押した。透き通るようなバイオリンの音色がリビングに響く。それは懐かしい音だった。

――パットの野郎さ。ほら、おめえも知ってんだろ? サラ何とかっていう金持ちの

パトリック・シェルモが奏でる無伴奏曲に彼はピアノを滑り込ませる。漣のようなピアノに弦の小舟が浮かぶ。それは月夜に似合う光景だった。
「結婚したって……? 君は幸せ?」
ジャケットはバイオリンを構えた彼の美しい写真。
彼は弾くのをやめて、もう一度その写真を見た。

――僕はここに残る。サラのためにね。でも忘れないで、ルイ。約束だよ

「君が幸せでいてくれたらいい……でも、本当はそうじゃないのでしょう?」

――ルイ

「知ってるんだ、僕……」
耐えきれなくなって彼はCDを止めた。

――ねえ、ルイ、いつか二人で世界を回ろう。そして、君のピアノと僕のバイオリンで最高のコンサートツアーをするんだ。きっと世界に感動が巻き起こるよ

ハンスは両手で鍵盤を叩いた。重なり合った音が打ち砕かれた硝子のように響く。
「わかってる……。いつだって、本当に弾きたいのは僕なんだ……!」
ソファーの上でまどろんでいた猫達が、音に驚いて慌てて逃げ出して行く。

――これからは、あなたも指導者として活動して行くのね

大学で教えることになった時、美樹はそう言って喜んでくれた。
「違う」
彼は鍵盤に手を置いたまま首を横に振った。
「子ども達や学生に教えるのは楽しい。でも……僕は自分の手で弾きたいんだ。この手で思い切り鍵盤を叩きたい……!」

日本に来たことをバイオリニストの友人には知らせていなかった。それどころか、ヨーロッパではルビー・ラズレインは死んだことになっている。恐らくは友人もそれを信じているだろう。アルモスが彼に会ったというのはルビーの死よりも前のことだ。ましてや今は腕のせいであの頃のようには演奏出来ない。友人との約束は永遠に果たせなくなってしまった。だからこそ、パトリックには幸せでいて欲しいと願った。そして、自由にはならない自分を呪った。
「日本に来れば、自由になれるって言ったのに……。これじゃ反対じゃないか。どんどん雁字搦めになって行く……。逃げ出したいのは僕なのに……」


「嘘つき」
潮風に吹かれながらハンスは恨み言のように言った。ルドルフはその肩に手を乗せると、並んで海を眺めた。
「いつかおまえにもチャンスは来るさ」
「チャンス?」
「ああ。そのために俺達はこの国へ来たんだろう?」
ハンスは少しだけ身体を震わせると左腕を押さえた。
「でも、僕達にはやらなくちゃいけない仕事がある。誰もいなくなったホールで弾くなんて真っ平だからね」
「わかっている」

ルドルフは周囲に目を配っていた。
「だが、あまり目立つようなことをするな。おまえの周囲には闇の民をはじめとする得体の知れない連中が動いている」
「ガイストなんてどこにでもいるよ」
「だが、あえて隙を与えてやることはない。準備が整うまで、振る舞いには気をつけろ。いいな?」
「それっていつまで?」
「今はまだ、はっきりしない」
「あまり長く待たせないでね。ショパンは39才までしか生きなかったんだ。それからいったら、僕に残されている時間は随分少ないと思うから……」
「もっと生きるさ」
「何でわかるの?」
「音楽家が皆、夭折してる訳じゃない。フランツ・リストは74まで生きたそうだ」
「でも僕、晩年になってから修道院に行くなんて真っ平だよ」
ハンスが文句を言う。
「わかった。考えとく」
そう言うと兄はその場を去った。

「……4月か」
沿道の桜は散りかけていたが、花壇には愛らしいスミレやチューリップの花が咲き、風があたたかくなるにつれ、人々の装いは薄い衣へと変わって行った。が、重いコートを脱ぎ捨てるといっても、彼らはどこかよそよそしくて落ち着きがない。復活祭や春の光の喜びに浸るのとは何かしら違うように見えた。

――日本では4月に新学期が始まるの。入学式や入社式もこの時期だから、4月はやっぱり特別な感じするかもね

「新しく始まる特別な月……。それでも君は、結婚しようという僕の言葉に頷いてはくれなかった。指輪はもう捨てたのに……」
波紋はどこまでも広がって行く。

――ルビー

耳の奥で懐かしい声が響いた。

――見て。これが私達の結婚指輪よ
――きれいだね
――指輪の裏に二人だけの秘密の誓いを掘ってもらったのよ。だから、大切にしてね

エスタレーゼは犯罪組織グルドのボスであるジェラードの娘だった。二人は15の時から一緒に育ち、26になった時、婚約した。ルビーはその頃、ギルフォートの指導の下、組織の中でスナイパーとしての地位を確立していた。
能力者のルビーが使うのは風の弾丸。証拠を残さず、演奏中にターゲットを撃つ。そんな彼をジェラードは手駒として愛した。一方、ギルフォートは組織の運営を巡ってジェラードと対立し、エスタレーゼと密通。それがジェラードの不興を招いた。

――ルビー、あなたはここにいてはいけないわ。その才能は舞台で、光の中でこそ輝くものよ

その結婚は、そんな経緯からジェラードが仕組んだものであり、彼女が愛しているのは自分ではないとルビー自身わかっていた。それでも、彼はエスタレーゼのことを愛した。

――ルビー、追っ手の車はまだ見えない?

彼女はルビーを組織から逃がそうとしていた。そのためにジェラードから盗んだデータを持って……。それが公表されれば、グルドは壊滅的なダメージを追う。だが、命懸けで持ち出したデータは偽物だった。そうとは知らず、二人は国境を目指した。

――国境を越えて、いつか日本へ……。みんなで幸せになりましょう

「ギルフォートと三人で……」
「あ、見て! お嫁さんだ」
ルビーが言った。丁度、教会で結婚式があったらしく、大勢の人達に囲まれて幸せそうな新郎新婦の姿が見えた。
「ほんと……。きれいね」
思わずエスタレーゼもそう言った。

「ねえ、今すぐ結婚しよう」
彼らは国境近くの村の小さな教会で形だけの式を挙げた。
ルビーが弾くオルガンのメンデルスゾーンの華やかな調べが聖堂の中を満たした。縦に伸びた高い窓から差し込む光……跪いて祈りを捧げている彼女の横顔。そこに灯る光は、まるでオーロラのカーテンのようにやさしく揺れて高い天井へと続いていた。
「何を祈っていたの?」
演奏を終えたルビーが訊いた。
「懺悔とこれからの幸運を……」
「そうだね。僕も祈るよ」
そうして、彼もまた跪いた。


しかし、絡んだ糸は複雑に縺れ、組織の内部に生じた争いの果てに彼女は命を落とした。
「エレーゼ……」
姉のようにずっと付き添い、面倒を見てくれた大切な人。形だけの結婚とはいえ、彼女のことを大切に思い、愛していたのもまた事実だった。
亡くした命が還らないことを彼は知っていた。と、同時にその記憶は流れる風の中に溶けて、永遠に保管される。そして、そこにアクセス出来る者だけが、思い出として引き出すことが出来る。今、自分がそうしているように……。他の誰かも、彼女のことを思い出すことがあるのだろうか。あの銀髪の男も……。そうであったならいいのにと、彼は思った。

――秘密の誓いを掘ってもらったの

「秘密……?」
彼ははっとした。
「そこには何が書いてあったんだろう?」
確かに指輪の裏には文字が刻まれていた。が、彼にはその文字が読めなかった。
「僕はずっと結婚指輪には名前と年号が掘ってあるのだと思ってたけど……。母様の指輪にもそれはあったし……。でも、もしかしたらそこに秘密が隠されていたのかも……」
ハンスはじっと暗い水面を見つめた。
(彼女はデータを持ち出そうとしていた。組織を壊滅させられるだけの証拠を……)
それは今も見つかっていない。ふと頭に過ぎった考え……。しかし、ハンスはそれを否定した。

(そんな単純な方法の筈がない。ギルだって見つけられなかった鍵がそこにあったなんてことは考えられない。第一、その件では、僕の持ち物だけじゃなく、身体の中までスキャンされたんだ)
病院恐怖症だった彼にとって、それがどれ程の苦痛だったことか、思い出すだけでも吐き気がした。
「もう、いやだ。思い出したくないのに……」