風の狩人


第1楽章 風の紋章

3 風を狩る者



南野総合病院。その個室で龍一は眠っていた。ベッドの脇で、母親がじっと心配そうにその顔を見つめている。
日はとうに暮れ、窓の向こうには、静かな夜の帳が降りていた。その静寂を破るように、不意にノックの音がした。はっとしたように母親が立ち上がり、
「どうぞ」
と小声で言った。ドアが開いて、紺のスーツを着た結城が入って来た。そして、静かにドアを閉めると母親に会釈して言った。
「宮坂高校の結城です。どうですか? 風見君の容態は?」
「はい。幸い、大したケガもしてなくて、意識が戻れば大丈夫だと言われたのですが……」
と言って、ちらと母親は龍一を見た。

「そうですか」
結城は、静かにベッドに近づくと、そっと彼の手に触れた。
「もう大丈夫だからね。早く目を覚まして、お母さんを安心させてやるんだよ」
と、慈愛に満ちた声で囁いた。それから、やさしく手の甲を軽く叩くと振り返って母親に言った。
「本当は、もう少し早く来たかったのですが、警察にあれこれ事情を訊かれたりしてしまって……」
「いえ。先生の方こそお疲れでしょうに、わざわざありがとうございました」
と頭を下げた。
「いえ。これも僕の責任なんです。僕がもう少し早く駆けつけていれば……」
(奴の、浅倉のターゲットは僕なのだから……)

「本当に申し訳ありませんでした」
と、結城は深々と頭を下げた。
「そんな……。先生が龍一を助けてくださったそうじゃありませんか。先程見えた担任の坂口先生がおっしゃっていました。本当にありがとうございました」
母親はまた頭を下げた。
「いいえ。こんな事になって、本当に……せめて目覚めるまで側に付いていてあげたいのですが、もう面会時間を過ぎているからと、看護師さんにきつく言われてしまいましたので、今日はこれで」
「ええ。本当にありがとうございました」
とドアを開け、見送ろうとした時、不意に、龍一が目を覚ました。

「先生……」
と微かな声で呼ぶ。2人はベッドの側に近づいた。
「龍一。よかった。気がついたのね」
母親が安堵の声を漏らす。
「結城先生……」
龍一が、背後に立つ結城の方を見て言った。
「ああ。よかった。気がついて」
と微笑する結城。が、龍一は不安そうな目でじっと彼を見つめている。
「あ、私、ちょっとお医者様を呼んで来ますね」
と、母親はベッドの側を離れてドアに手を掛けた。
「気がついたら、声を掛けるようにと言われておりますので」
そう言って彼女は出て行った。

「気分はどう?」
結城が訊いた。
「大丈夫です」
「それはよかった。みんな、君のこと、心配していたんだよ」
「みんな……?」
(そんなはずはない。だって、みんな、ぼくのこと嫌ってるのだから……)
龍一は悲し気に目を伏せた。そんな龍一の顔を結城は怪訝そうに見つめた。
「先生……」
少し間を空けて、龍一は消え入るような声で言った。
「あれは、一体何だったんですか? あなたは一体……?」
龍一の脳裏に、舞い散るガラス片や不穏な男の影、そして、タクトを持つ結城の姿が浮かんだ。
「それは……」
結城は躊躇うように視線を逸らした。が、少年のあまりに真剣な眼差しが、彼に言葉の先を促した。

「僕は……風の狩人なんだ」
結城が言った。
「風の狩人……?」
そう問い返す龍一に、彼は深く頷いた。
「君には見えるんだろう? あの風が」
結城が思い切って質問をぶつける。
「風……?」
「そう。災いを運ぶ闇の風……。君は見たんだろう? あの時、学校で」
龍一は、はっと息を呑んで頷いた。結城はそんな龍一と視線を合わせ、先を続けた。
「そうだ。あれは繰り返してはいけない闇の記憶を持った風なんだ」
その言葉を龍一も理解した。
「やっぱり、そうなんですね。そう言えば、あの風が現れる度、いやな事や悲しい事件ばかり起きて……。だから、ぼくは、とても怖かったんです。あの風が見える度、ぼくは恐ろしくて、膝を抱えて震えていた。誰も信じてくれなくて……いつも、独りで……」

「そうか。でも、君はもう独りじゃない。僕がいる。恐がらないで。あれは、記憶を持った風の流れ。ガイストの風なんだ」
「ガイスト?」
「ああ。ドイツ語のガイストには、もともと風という意味もあってね。本来、ものの見え方には、人によって差異がある。そこに在ると信じているものは果たしてそこにあるのだろうか。そこにはただ、素材だけがあって、僕達はそこにアクセスし、感じることでそこにものが在ると認知する。風は僕達の身体の中を自由に行き来している。風は物を構成し、情報を結ぶ。僕達が記憶と呼んでいるものは、そこに起因している。だから、風にはいい記憶もあれば、悲しい記憶もある。そこにアクセスできる者が風の能力者と言われている。風は留まることもあるけれど、本来は流れる存在だ。つまりエネルギーを持っている。だから、記憶の再現をしようとする」
「再現?」
「そうだ。災いを見た風は、その記憶を持ち、何度も、それを再現しようとする。そのエネルギーは、時に凄まじいパワーを発揮することもある。でも、それら闇のエネルギーを浄化してやることは出来る」
「狩人っておっしゃいましたね。じゃあ、先生はその風を狩ることが出来るんですか?」
「そうだ」
結城は力強く頷いた。

「風の狩人……」
龍一は、噛み締めるように、その言葉を口にした。それから、じっと結城を見上げて言った。
「先生は、ぼくを救ってくれますか?」
「ああ。もちろんだよ。君は、僕の大切な生徒なんだ。誰にも傷つけさせはしないさ。すべては、僕に任せておけばいい」
そう言うと、彼は力強く龍一の手を握った。
「結城先生……」
(もう何も心配しなくていいんだ。先生はぼくのことわかってくれる。ぼくはもう、独りじゃない。先生が手を差し伸べてくれたから……。風の狩人……か。ぼくも、いつかなれるだろうか? 先生みたいに……)
龍一は、強い憧れと共に信頼のこもった眼差しを結城に向けた。


それは、まだ、彼が高校生だった頃……。直人は音楽に夢中だった。幼い頃からピアノを習っていた彼は、地域のコンクールに次々と入賞し、将来はピアニストにと、母も本人も願っていた。だが、中学生になると、ブラスバンド部に入り、すっかりアルトサックスに魅せられてしまった。が、そこでも、彼はめきめきと実力を発揮し、高校の頃には、これもまた吹奏楽部のコンクールで高い評価を得た。そして、個人参加でのピアノでも、高校2年の秋のコンクールで、直人は優勝を果たした。その時、同じ藤ノ花高校のブラスバンド部だった浅倉も同じピアノのコンクールに出場し、4位入賞を果たし、この年のブラスバンド部は優勝、準優勝と未だかつてない栄誉を学校にもたらした。部員も皆、和気藹々とし、切磋琢磨して互いを磨き合い、夢を語り合った。

そんな中で、直人と浅倉は同じパートということもあり、互いに友情を深めていった。何の疑問も抱かなかった。その頃の直人にとっては、楽器がすべてだった。母一人子一人の彼は、幼い頃から一人で母の帰りを待っている間、いつもピアノを弾いていた。中学生になってからは、サックスがそれに加わった。だが、本当は、外に出るのが恐ろしかったのだ。見えてしまうから……。彼もまた、龍一と同じように怯えていた。災いを呼ぶ闇の風を……。そして、まだ、直人はそれに対し、為す術を持たなかった。故に、彼はそれを見ないように努力した。

(人が死ぬのはいやだ。怖い)
それは、幼い日に見た、父の頭上に渦巻いていた闇の風の記憶のせいかもしれない。だから、彼は、なるべく空を見ないようにした。楽器と楽譜と自分自身と……やさしい母の笑顔だけを瞳に映しておきたいと願った。

そして、異変は、直人の二連覇が懸かった春のコンクールの前日に起きた。朝、何気なく見た事故のニュース。直人は、それがただの事故でない事を直感した。何故なら、別々の地域で起きた2件の事故の被害者は、共に高校生であり、明日、コンクール会場で顔を合わせる筈の二人だったからだ。しかも、去年の2位と3位の実力者だった。何故、この二人が? という事はわからなかったが、敏感な彼は、それが単なる偶然ではないと確信していた。恐らく、この事故には、闇の風が関係している。それだけはわかるのだ。

その日、直人は憂鬱な気分で登校した。昇降口の所で浅倉と会った。彼は、朝のニュースの事を知らなかったのか、にこにこと声を掛けて来た。
「おはよう。直人。明日はいよいよコンクールだな。おれ、今、すげえ気分がいいんだ。今年こそ、おまえに勝つ自信があるぜ。ま、おまえのことだから、簡単には勝たせてくれないだろうけどね」
そう言って明るく笑う。そんな彼に曖昧な微笑を返す直人。それを見て、浅倉が怪訝そうに訊いた。
「何だよ。朝からやけに暗いじゃんか。何かあったの?」
「君、朝のニュース見なかったの?」
「ニュース?」
浅倉はきょとんとした顔で訊いた。

「昨日、今井君と榊君が亡くなったって……」
「今井に榊って?」
「去年、2位と3位だった奴だよ」
「ああ。そう言えば、そんな名前だったっけ? へえ。亡くなったって、何でさ?」
「今井君はバイクの事故で、榊君は……マンションのベランダから落ちて……」
「落ちた? それって自殺? コンクールの重圧に耐えられなかったんじゃないの? ほら、やたら上位の成績取っちゃうと、それを維持しないとってプレッシャーかかるじゃない? おまえも気をつけろよ。直人。真面目な奴程ヤバイって言うからな」
そう言って、浅倉は直人の肩を抱くように腕を回し、ニヤリと笑んだ。
「僕は平気だよ」
と、直人は応えた。が、何か背筋の奥でざわめくものを感じていた。
「そうだよな。おまえ、もともと本番に強いからな。大丈夫さ。これ以上、ライバル亡くしたくないからね。くれぐれも気をつけてくれよ。事故に合わないようにさ」
そう言うと、浅倉はニッと笑って教室の方へ歩いて行った。直人は、妙な違和感を感じていたものの、放課後には、すっかり忘れていた。そして、いつものように部活を終えると、学校を出て家に向かった。

途中、電車に乗っている間もずっと彼は頭の中で演奏を続けていた。いつもそうだった。直人の心は、常に音楽に満ち溢れていた。それがまた、彼にとっては至福の時でもあった。やがて、電車が最寄の駅に着くと、人の波と共に直人も降りて改札を抜けた。そして、2つ目の横断歩道に差し掛かった時……。彼は頭上に闇の風を見た。思わずはっとして歩みを止めた。それは、渦巻き、波立ち、のたうって、この世の何もかもを呑み込もうとしているかのように不気味で暗く、底が見えなかった。その闇の風が、不意に牙を剥き、前方の車に襲い掛かったのである。

「危ないっ!」
これは大きな事故になる。直人はさっと身構えた。車の正面には大型トラックが止まっている。信号が変わり、トラックが発進した。トラックは大きくカーブして右に曲がる。と、白い乗用車がその脇腹目掛けて突進して行った。ところが、次の瞬間……。信じられないスピードで車が方向転換した。そして、あろうことか、その車は強引に信号を無視して彼に、直人に向かって突っ込んで来たのだ。
「な……!」
(狙われてるのは僕?)
避けようがなかった。車が闇が彼を噛み砕こうとしていた。
(いやだっ!)
母の笑顔が浮かんだ。視界のすべてが闇に包まれ、消えそうな意識の中で、彼は叫んだ。
「やめろ――ッ!!」

瞬間。闇が弾けた。強烈な光がカッと彼の全身を包んだかと思うと、熱が、光が、内面から湧き上がる巨大なエネルギーの塊が、閃光となって迸り闇を裂いた。
直人は、間一髪、危機を免れた。気づくと何もかもが正常に流れていた。けたたましく鳴らされたクラクションの音も、今は何も聞こえない。彼の数センチ隣には、歩道に乗り上げて止まっているひしゃげた車。が、空の何処にもあの闇の風はない。ふうっと直人は肩で息をついた。そして、じっとりと汗で滲んだ右手を見た。しっかりと握られた光輝くタクトの中に、彼は浄化されて行く闇の姿を見た。そして、その後方で、ニヤリと笑う浅倉の顔を……。
(何故……?)
交差点の向こうだ。直人は、路地に消える浅倉の姿を見つけて愕然とした。
(何故なんだ? 彼はこの街の人間ではないのに……)
ゾクリとした。
――事故だって? おまえも気をつけろよ
そう言って笑う浅倉の妙に自信たっぷりな顔が思い浮かんだ。

「浅倉……」
(まさか、おまえが……?)
もしも、彼が直人と同じように闇の風の能力者なら? しかも、それが、見るだけでなく、操る事さえも可能な能力者だったとしたら……? 彼は恐ろしい犯罪を犯そうとしている。いや、既に犯してしまったかもしれないのだ。
「どうして……?」
こみ上げて来る悪寒が、不吉な想像が、直人の心を凍りつかせた。
「あの、大丈夫ですか?」
車の運転手が降りて来て言った。
「あ、はい」
そう応えた時、直人ははっとした。タクトがない。あれ程しっかりと握り締めていた筈なのに。あんなに熱かった身体も、今は正常な体温に戻っているようだ。
「本当にすみません。気がついたら、車がハンドル取られて君の方へ……。もし、どこか痛むようなら病院へ……」
運転手の若い男は蒼白な顔で懸命に詫びた。
「いえ。すれすれ大丈夫でしたから」
直人もまた、蒼白な顔で応えた。遠くでサイレンの音が呼応している。誰かが通報したのだろう。周辺に野次馬が集まり始めていた。


翌日、直人はコンクールを欠席した。これ以上、浅倉に罪を犯して欲しくなかった。そして、彼の弾く時間が来た。直人は、母と自分自身のために最高の演奏をした。観客は母一人。演奏が終わった時、母は最高の賛辞と笑顔をくれた。それだけで満足だった。
「ねえ、お母さん。僕、音楽の先生になるよ」
直人が言った。
「音楽はいいよ。その素晴らしさと素直な心を子ども達に教えたいんだ。本当の意味での音楽を」
空を見る直人の視線が淡い陽炎のように揺れる。そんな彼を見つめ、母は何も言わず頷いてくれた。
「でも、演奏は続けるよ。僕はやっぱりピアノの方が向いてると思うんだ。だから、これからは、ピアノに力を入れて行く。そして、仲間といっしょにちょっとしたコンサートも開きたいし、チャンスがあれば、留学だってしたい。でも、僕には、もっと大切な事があるように思うんだ。それが何なのか、今はまだわからないけど。きっと、僕にしか出来ない何かが……」
それは、あの闇の風に関係した事なのかもしれない。あの時感じた光のイメージ。そして、力……。が、直人は慌てて否定した。それは早計過ぎる。第一、自分が特別な存在だなどと思うのは、あまりにおこがましい事なのではないだろうか……?


翌々日。学校では、コンクールの話題で持ち切りだった。予想通り、彼、浅倉茂が優勝したからだ。
「よう。直人。おまえ、どうしてコンクールに来なかったんだよ?」
浅倉がにこにこと近寄って来た。
「優勝おめでとう」
直人が言うと、浅倉は不満そうに鼻を鳴らした。
「ふん。おまえと勝負したかったんだけどな。時間になってもおまえが来ないから、おれは、てっきり事故にでもあったのかと心配したんだぜ」
「ああ……。残念だったけど、風邪引いたらしくて熱があってさ」
直人がふっと目を伏せて言った。そんな直人を無遠慮に浅倉が覗き込む。そして、探るように言った。
「ふーん。おれなら、たとえ四十度の熱があったって出場したぜ」
「……そうだね。でも、僕はそんなに根性ないから……」
「えーっ? そんな事言うなよ。ライバルが減ると寂しいじゃんか」
「そう? でも、僕は、とても臆病なんだ。君のように平気ではいられない。だから、僕は、君とはちがう道を行くよ。闇の風が来る前に」
「……!」

それを聞くと、さっと浅倉の顔色が変わった。それを見て、ゆっくりと直人が頷く。
「そうだよ。僕もなんだよ。知ってるんだ。何もかも……」
「直人、おまえ……!」
「君の邪魔はしない。けど、もし、君があの力を使ってあの二人を殺ったなら……それは許されざる事だと思う」
浅倉は表情を変えなかった。
「それで? もし、そうなら、おれにどうしろと言うんだ?」
「君には実力がある。そんな力を使わなくても……」
「おまえにそんな事言われたくないね。いつも、おれより前にいるおまえに」
浅倉の目に闇の光が渦巻いた。

「前……? そんな事ないさ。君だって」
「よせよ。おまえだけが、いつも別格だったんだ。何でも出来て取り澄ましたいい子ちゃんなのさ。今回だってそうさ。自分が身を退いて、おれに勝ちを譲ってくれたって? そうやって、いつも人を見下してんだろ?」
「ちがう……! そんなつもりじゃない。僕は」
「なら、逃げずに勝負しようぜ。おれとおまえとどちらが上か。闇の風の能力者としてね」
「闇の風……」
「そうさ。この力は万能さ。場合によっては神の力にも匹敵する。特別な力だと思っていたのに……。おまえもそうだったとはな。闇の民でもないおまえが……。いや、待てよ。おまえも、おれと同じ……。そうか。だからこそ、こんなにも気が合ったのかもしれないな。おれ達、ずっと親友だったんだものな。そう。親友だ。これからだってずっと。おまえ程、気の合う奴とは、もう巡り会えないかもしれない。正に運命って奴かもな。だとしたら、ここで戦うのは得策じゃないかもしれないぞ。おまえだって争いごとは嫌いだろう? なら、いっそのこと、おれと手を組まないか? 二人で世の中を引っ繰り返すんだ。この力を使えば、不可能じゃない。そう思わないか?」

「世の中を引っ繰り返すだって? そんな事……簡単に出来る訳ないだろう? 君、おかしいよ」
「おかしいのはおまえだよ。直人。そんな力を持ちながら、使わないなんて犯罪そのものだよ」
「何をバカな……」
直人は一歩退いた。浅倉が主張していることは、とても正気だとは思えなかった。
「バカだって? おれは本気さ。仲間にならないかって言ってるんだぜ」
「僕は、君のように強くないよ。風を操れる訳じゃない」
「素質はあるさ。何しろ、おれが仕掛けた罠から逃れたのは、おまえ一人きりだからな」
と、ニヤリと笑う彼に、直人は息を呑んだ。正に、疑惑が事実へと変わった瞬間……だった。
「あはは。ほんと。お笑い種だぜ。こんなに身近な所に、真のライバルがいたなんて。この二日間、ずっと不思議に思ってたんだ。何故、おまえだけが何でもなかったんだろうってね。おまえが、同じ能力者だったなんて考えもしなかったよ。おれ達、今までずっと互いの事、親友だと思ってた。何でも悩み事や考えをうちあけて来た。そう思ってたんだ。おまえだってそうだろう? けど、それはちがってた。本当は、事実なんて、これっぽっちも話しちゃ来なかったんだ」


ぼやけた街灯の群れが静かに遠去かり、車は、やがて、閑静な住宅街へ……。結城の家へと着いた。そのガレージに車を停めると、結城はふっとまた空を見上げた。月が青白い影を投げ掛けていた。あの頃と同じように……。しかし……。
(そう。僕達、ちがい過ぎていたんだ。何もかも……。そして、僕達は決別した)
遥か蒼穹を臨む結城の頬に、淡い月光とやわらかな照明灯の光が交錯していた。
(そう。もう、あの頃とはちがう)
結城はドアノブの冷たさに触れた時、思わず灯りのない部屋の窓に視線を伏せた。少年の頃、ドアを開ければ、やさしさがあった。母の温もりとやわらかな灯りが……。看護師をしていた母は、夜勤で家を空けることが多かったが、それでも、彼のために夜食と心のこもったメッセージを欠かさなかった。だから、ドアを開けると、やさしい母の香りに包まれて、彼はいつも安堵するのだった。けれど、今はどうだろう。ドアの向こうには無機質な部屋が広がっているだけだ。

――直人

ふと、母に呼ばれたような気がして、彼は思わず振り返った。一瞬、母は思い出の中で微笑み、それから、すっと悲しそうに歪んで消えた。
「母さん……」
開き掛けたままのドアの所在なさが、そのまま結城の中で不安となって広がって行く……。闇が動いていた。キナ臭い感情の断片が結城の周辺を駆け抜けた。彼はその正体を確かめようとした。その時。闇の中にサイレンが響いた。
「火事か……?」
それは、あちらからもこちらからも響いて来る。それが皆、ある一定方向へと向かいつつあった。胸騒ぎを感じた。
「まさか……?」
結城は、再びドアに鍵を掛け、慌てて車に飛び乗った。

「南野病院の方角だ……」

近づくに連れ、車の数が増え、夜だというのに周辺がどことなく慌しくなっていた。普段なら、そんな野次馬のような真似はしない結城だが、今夜ばかりは落ち着いていられなかった。途中、コンビニの前の信号で止まった時。
「火事は病院だってよ」
「随分派手に燃えてるらしいな。おれ達も見に行こうぜ」
バイクの若者のそんな会話が聞こえた。
「病院……」
予感が的中した。
「浅倉……」
果たして奴の仕業なのか? だが、偶然にしては出来過ぎだ。結城は、思わずハンドルを握る手に力を込めた。

が、南野病院の近くまで来ると、周囲はしんとしていた。病院はひっそりと息を潜めて眠っている。
(どういう事だ……。火事は南野病院じゃなかったのか……)
と、結城が訝しんでいると、病院の方から数人の人影が駆けて来た。
(何かあったのか)
結城は窓を開け、近くを通り掛かった看護師に声を掛けた。
「あの、何があったんですか?」
若い看護師は驚いて彼の顔を見たが、それが結城だとわかると、少し困惑したように言った。
「あ、あなたは、先程、風見君のお見舞いにいらしてた方ですよね?」
「ええ。宮坂高校の者ですが」
「実は……その、風見君がいなくなってしまって……」
彼女は躊躇うように言った。
「え? 一体どうして……?」
「多分、火事のこと聞いたんじゃないかと……火元、風見産婦人科病院だって……」
泣きそうな顔で彼女が言った。
「何ですって?」
結城は背筋が冷えるような感覚を覚えた。
「わかりました。すぐにそちらへ行ってみます」
そう言うと、車を発進させた。

「何てことだ」
病院へ続く道は、かなり渋滞していた。その脇を、サイレンを鳴らしたポンプ車が幾台も通り過ぎて行く。恐らく周辺から駆けつけて来た応援の車だろう。気ばかりが急いていた。周囲に漂っている風は、闇の断片を抱いて、そんな彼を嘲笑うように渦巻いた。結城はもやもやとした長い苛立ちの中、ようやく車を脇道へ滑りこませた。が、安堵する間もなく、その前方に飛び出して来た車に驚いて、思わず急ブレーキを踏んだ。
(何て乱暴な運転をするんだ!)
結城は心の中で毒づいた。が、運転席から降りて来た男を見て表情を硬くした。
「浅倉……!」
彼も車を降り、二人は、闇の中で対峙した。浅倉の背後では、切れかけた街灯が点滅を繰り返している。

「よう! 坊やは元気だったかい?」
浅倉がくくっと笑いながら言った。
「それを確かめに行くところさ。病院からいなくなったんだ」
「ほう。何故だろうね?」
浅倉は焦らすように言った。結城は、苛立ちを抑えるようにひしと男を見つめた。
「理由は、おまえが知ってるんじゃないのか?」
「何故、そう思う?」
浅倉は、いやらしい笑みを浮かべて訊く。
「闇の風が動いている。しかも、炎と死の臭気を纏った風が……」
そう言って、結城は表情を曇らせた。
(出来ることなら、こんな能力など欲しくなかった)
だが、彼は風の能力者だった。否が応でもわかってしまう。それが欧州での、能力を研ぎ澄ますための訓練の結果だった。

「そうだな。炎は風に舞い、魂を食って、さぞかし美しく燃えている頃だろうね」
浅倉はけらけらと笑った。
「何……!」
結城の中で、煌く閃光が走る。
「あの子。病院の一人息子なんだってね。きっと大切に育てられたんだろうな。何かいい感じだったし。せっかく止めてやったのに、走って行っちゃったんだ。きれいな子だったのに。残念だな。せっかく、おれのコレクションに加えてもいいと思ってたのに……」
「浅倉! 貴様、あの子に何を、風見の病院に何をした?」
「何をだって? わかってんだろ? でも、考えようによっては両親の元に逝けて幸せだったかもしれないね。君、どう思う?」
「貴様……!」
怒りの蜃気楼が結城の周りを取り巻いた。
「どけ!」
結城が叫んだ。一刻も早く病院へ向かわなければ……。車に乗り込もうとする結城を通すまいとするように、浅倉が道を塞ぐので、強行突破しようとタクトを振った。

「何処へ行くつもりなの? せっかく久々に会えたんだから、積もる話でもしようぜ。それとも遊びたい? なら、いい店紹介するよ」
「いいからどくんだ! 貴様の相手などするつもりはない」
「ふーん。でも、そうは行かないな。君になくても、おれは用があるんでね」
そう言うと、浅倉は、闇をねちねちと結城の腕に、そして、タクトに絡みつけて来た。
「放せ! 僕は行くんだ。あの子の所へ」
「無駄だよ。もう終わってる頃さ。かわいそうに。君は、また、間に合わなかったんだ」
「嘘だ!」
結城は叫んだ。
(まだだ。まだ、あの子の心拍は途切れていない。何故なら、僕がまだ、何も感じていないからだ)
結城は確信していた。今なら間に合う。だから、早く向かわなくては……。本当に手遅れになってしまう。結城は光を凪いだ。瞬間。闇が解けて四散した。そして、そのまま浅倉を、闇を弾き飛ばした。

「ふっ。ようやく本気になったようだな。直人」
そう言って不気味に笑う浅倉の顔に闇の照明が瞬いた。
「何……!」
が、気づいた時には遅かった。浅倉が放った闇のローブがふわりと広がり、結城の体を包み込んだ。
「わっ!」
闇は体を圧迫し、精神を打った。
「くっ!」
強欲と残忍な思念で出来た鞭が心を抉るような苦痛を与えた。悪意に満ちた目で浅倉が見下ろしている。
「何…故……こんな事を……?」
苦痛に倒れ込み、喘ぎながらも結城は言った。
「何故だって?」
浅倉は、さもおかしそうに笑った。
「さあ。何でだろうね。おまえが隠してる闇の力が欲しくなったのかも」
その目は、瞳の奥まで闇に支配されているように見えた。

「僕が隠してるだって? 風の能力のことなら、おまえだって知ってるじゃないか。僕は何も隠したりしていない」
「表層に纏っている意識なんてどうでもいいよ。おれはもっと深層に潜んでいるおまえの闇が見たいんだ。なあ、いいだろう? 直人、おまえの宝物をおれにくれよ」
その姿は闇の力に満ち満ちて、もはや、結城に抵抗の余地さえ与えない。それでも、彼は抗う事を試みた。
「おまえは、これまでだって、僕から多くのものを奪って行ったじゃないか。この上、何を……? 一体何が欲しいと言うんだ? 僕は、もう何も持っちゃいないのに……」
苦々しい想いが、結城の表情を強張らせた。が、彼の言葉に浅倉が笑う。
「持ってるさ。おれが最も求めているものをね」
そうして、浅倉は、彼の襟首を掴んで引き寄せた。
「ねえ。おれに見せてよ。おまえが持ってる本当の力を」
「本当の……力?」
結城には、その意味がわからなかった。
「そして、おれと一緒に戦って欲しいんだ。共にこの国を立て直すために! 国の奴らに蹂躙されている闇の民を解放し、旧体制を滅ぼして、おれ達のユートピアを作るためにな」
「何を言ってるんだ? この国を立て直すだって? ユートピアだって? 闇の民にしたって伝承に過ぎないのだろう?」
浅倉がかつて口にした言葉。闇の民……。

――なあ、知ってるか? この国には闇がある。地下のうんと深い場所に闇の民という能力者集団を使役していて、政治家共はみんな、その利権を喰い漁ってるんだぜ
――闇の民?
当時、まだ高校生だった結城は現実ともフィクションともつかない浅倉の言葉を半信半疑で聞いていた。
――そうさ。おれやおまえみたいな力を持った奴がこの国を動かしているとしたら……。そんな古い伝承があってさ。平安よりも、もっと古い時代にそんな話が書かれていたとしたら……? もしかしたら、その伝承こそ、日本で一番古い物語かもしれないんだ

「だけど、それは伝承に過ぎない。君がそう言ったんじゃないか」
「ああ。そうさ。それは伝承に過ぎない。だが、おれは本当に力を持った。おまえだってそうだろ? だからこそ、ドイツに行ってまで厳しい訓練を積み、闇の風を自在にコントロール出来るようになったんじゃないか」
「自在になんて……僕には無理だ。僕に出来るのは、闇を鎮め、やさしい風に変わるよう、浄化してやるだけ……」
結城は喘ぎながら言った。
「ふん。おまえも所詮それだけの男か。あれから随分経ったから、少しは成長してると思ったのに……。がっかりだぜ」
突然、凄まじい衝撃に弾かれて、結城はブロック塀に叩きつけられた。

「てっきりおまえがエンブレムの持ち主だと思ったのに……」
落胆と失望のこもった声で浅倉が言った。そして、哀れみにも似た軽蔑の視線。
「エンブレムだって……?」
結城は、よろめくようにブロックにもたれかかったまま呟いた。と、その時、何処からかサイレンの音が響いて来た。結城ははっと目を見開いた。
「風見……」
少年の怯えたような目が何かを訴えている。
(そうだ。行かなきゃ……)
結城は目の前の男を見た。男の顔は歪んでいた。
「持ってないなら要らないや」
ペッと吐き捨てるように言って、浅倉は、まるで飽きたおもちゃでも投げ捨てるように無造作に、結城に向かって鞭を振るった。
「消えろ!」
が、それを光が阻んだ。結城を襲った闇が白熱し、怨念と憎しみでコーティングされていた鞭も、たちまち光の溶解炉に溶けて浄化された。