風の狩人


第2楽章 風の軌跡

1 再会


それから、1週間程は慌しい日が続いた。数日して龍一は退院し、彼の両親の葬儀が行われた。が、マスコミも騒ぐので、葬儀は全て密葬で行われた。そのため、友人知人をはじめ、学校関係者も誰一人葬儀に出席する事は出来なかった。そして、遺骨は、龍一の父方の実家がある長野の菩提寺へ葬られるという。そして、龍一も、今は大叔母の元へと帰っていた。
結城は、そんな龍一の事が気になったが、今はそっとしておくしかなかった。そうして、学校での忙しない日常がめまぐるしく過ぎて行った。

そんなある日。
「ところで、結城先生、聞きましたか? 風見の事」
と、授業から戻って来た結城に白神が話し掛けて来た。
「彼、長野に引っ越すらしいですよ」
「え?」
結城は驚いて、その顔を見つめた。
「ま、あんな事がありましたしね。思い切って環境を変えてしまった方が、風見のためにはいいのかもしれませんね」

「引っ越すって、それじゃあ、学校も代わるんですか?」
「恐らくは……。ほら、ここへ通うにしても家がね。ああいう事があった以上、従兄弟の家にも行き難いでしょうし。残念だなあ。あの子は我が校の期待の星だったんですけどね」
と、白神は軽く首を竦めた。
「そうですね」
結城は曖昧に応えると、
「それじゃ」
と、音楽準備室へ向かった。何となく心が空虚になったように感じた。出会ってから半年。そして、彼が結城と同じ闇の風を見ることの出来る能力者だと知り、会話したのが1週間前。風の狩人になりたい、と言っていたのに……。しかし、彼にとっては、その方がよかったのかもしれない、と結城は思い直した。あまり深入りしないうちに離れてしまった方が……。彼にとっては幸せかもしれないのだ。自分のように、能力に振り回され、下手な人間に関わって辛い思いをするよりは……。


結城が音楽準備室の前まで来ると、半分開いたままの扉の向こうで、同じ音楽教師の薬島が授業の準備をしていた。薬島は、結城より1年遅れてここ宮坂へ来た。小柄で上品な若い女性だった。
「プリントが1枚落ちてますよ」
そう言って結城はそれを拾った。薬島は受け取ると、
「あ、すいません」
と会釈した。結城も次の授業の準備を始めた。新しく配る楽譜のプリントを揃えていると、タイミングよく係りの生徒がやって来て先に教材を持って行った。
「2Aの子は、いつもしっかりしていていいですね。私、次は1Gなんですけど、今日はプリントたくさんあるから5分前に来てって頼んだのに、いまだに来ないんですよ。もう授業始まっちゃいますよね」
と、薬島が苦笑した。
「僕がお手伝いしましょうか」
結城が言った。その時、不意に彼のポケットで微かに何かが震えた。携帯のバイブレーターだ。が、こんな時間に誰だろう? と訝しんで時計を見た。授業開始までにはまだ3分ほどある。結城はポケットから携帯を取り出した。着信有りのランプが点滅している。差し出し人の名前を見て、彼は一瞬、自分の目を疑った。
(浅倉…茂……)

本文は短く、
『遠くベルリンの空より愛をこめて!』
とだけある。
(一体、どういう事なんだ? 浅倉……奴が生きていたというのか?)
しばし、呆然と携帯を見つめた。
(浅倉が……)
硬い表情のまま立ち尽くす結城に、薬島は怪訝そうに訊いた。
「結城先生……? どうかしたんですか?」
その声に彼は慌てて携帯の蓋を閉め、ポケットに入れた。
「いえ。何でもありません。さあ、そろそろ行かないと」
そう言って彼は微笑した。が、その表情はどことなく沈んで見えた。


その日は一日中落ち着かなかった。携帯は、その後、何度もポケットの中で振動を続けた。着信はいずれも浅倉からのものであった。放課後、ブラスバンド部の指導を終えて帰途に着いた時には、さすがに心労でぐったりした。
(浅倉が……何故、死んだ筈の人間からメールが届く?)
仮にもし、本当に差し出し人が彼だったとしても、結城の今の携帯の番号やアドレスを知っている筈がない。
(なのに何故? 誰が何の目的で……?)
疑問は、更なる疑問を呼んだ。だが、それを確かめる術もない。


夕方、結城は真っ直ぐ自宅には帰らず、携帯ショップに寄り、それから、馴染みのクラブ『ノアン』へ寄った。そこは、彼が卒業した音楽大学の先輩が経営している店で、クラシックを中心にした生演奏を聴かせてくれる雰囲気のよい店だった。結城も時々頼まれてピアノを弾きに来る。しかし、今夜は客として立ち寄った。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
淡い色彩のドレスを着た品のいいホステスが招き入れた。いつもながら、そこは別世界だった。厚い暖色の絨毯と仄かな照明。静かに流れる音楽が耳に快い波長を奏でてくれる。まだ時間が早いせいか、客はボックス席に一組あるだけだった。奥の席に案内された結城は、オンザロックを頼むと何気なくポケットに手を当てた。電源は切っているのに、いやな感じがした。やがて、グラスと氷が運ばれ、ホステスがウイスキーを注いだ。結城は一口だけそれを含むと、そっとテーブルにグラスを置いた。そこへ、店のマスターが顔を出す。

「やあ。めずらしいね。直人が一人で来るなんて」
丸顔で、いかにも人のよさそうな顔をしたマスターが言った。
「ええ。まあ。僕だって、たまには一人で飲みたくなる事だってありますよ」
結城は手の中でグラスを弄び、また一口飲んだ。
「不機嫌だね。女の子呼ぼうか? それとも、ピアノ弾く? まだ、ピアニスト来ないから」
マスターが言うと、結城は顔を上げた。
「じゃあ、ピアノ、いいですか?」
そう言うと、彼は席を立った。
「まあ。今日は彼が弾いてくれるの?」
ホステスの一人がうれしそうに言った。
「でも、何となく今夜は、疲れてそう。大丈夫なのかしら」
もう一人のホステスが呟く。
「あいつが一人で来る時は大抵ピアノ弾きに来るんだ。それに……」
BGMの音量を絞りながら、マスターはちらと結城を振り返る。
「そういう時の方が、奴は、いい音を出すんだ」

確かに、彼が弾き始めるとその音色は耳に心地良い響きをもたらし、皆の心を引き寄せた。
「どうして、彼、ピアニストにならなかったのかしら?」
店のホステス達が囁いた。
「人にはいろいろ事情があるのさ」
そう言うと、マスターは意味有り気にウインクした。その時、新たな客が呼び鈴を鳴らして入って来た。
「いらっしゃいませ」
そう言うと、マスターは目を見張った。客は金髪碧眼の若い女だった。そこにいた皆が彼女に見惚れた。彼女は真っ直ぐに、ピアノを弾いている結城に近づいて行った。

「直人」
丁度、曲が途切れたところだった。
「ナザリー」
振り返った結城が驚いて問う。
「どうして……?」
今ここに、日本にいる筈がないのにと結城は思った。だが、彼女は目の前に存在していた。
「もう、会えないかと思ってた」
ボックスの向かいに座った彼女を見て、結城はぼそりと言った。彼女は微笑し、しなやかな手つきで水のグラスを脇に寄せると、バッグの中から一枚の紙を取り出した。

「いつ、日本へ?」
結城が訊いた。
「今日の昼過ぎ、成田に着いたの」
と言って、彼女はその紙を渡した。
「これは……!」
結城は驚愕した。それには、彼の携帯の番号とアドレス。それに、自宅の住所や勤務している学校の事等、全てが詳細に記されていたからだ。
「どう? 驚いた?」
「一体どうして? 何のために……?」
「その気になれば、個人情報なんて、いくらでも手に入るってこと」
「じゃあ、今日、僕の携帯に浅倉の名前でメールを入れたのは君なのか?」
「メール?」
彼女は首を横に振った。
「そう。やはり、もう茂はあなたに接触してたのね」

「あいつは、生きてるのか?」
「ええ。生きてるわ。彼が戸籍を抹消したのはカモフラージュに過ぎないの」
「だけど、僕はあいつと戦った。あいつは僕の目の前で光となって散ったんだ」
その言葉に、彼女は一瞬だけ軽く目を見開き、それから、すぐに慈愛のこもった目で彼を見た。
「それで、直人。あなたは、彼の死体を見たの?」
「いや、それは……」
「そうでしょうね。彼はまだ死んでいないもの」
「死んでないって、どういう事なんだ。僕にはわからないよ。君が何故、ここに来たのかも……」
「私は忠告に来たの。茂があなたを狙っていたから……」
「何故?」
急速に唇が乾くのを感じながら、結城は訊いた。
「茂は強い能力者を探してた」
「何のために?」
「日本の闇を暴くため」
「まさか……!」
結城は信じられないというようにじっと彼女を見つめた。ナザリーは悲しい目をして彼を見返す。
「私も初めは半信半疑だった。でも、ある人達に会ってから、少し考えが変わったの。何処の国にだって闇はある。でも、それが能力者に絡んでいる闇ならば……。しかも、それが自分の出生に纏わる事ならばどう?」
「どうと言われても……」
「そうね。でも、茂は、自分が信じたものを疑わない。理想を追って、どこまでも突き進むつもりよ。そして、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない。茂が欲しがっているもの。それは力。そして、自分と対等な能力を持つ協力者。つまり、あなたよ」
結城は、ふっとグラスに映る照明を見つめた。
「それで? 君は、僕にどうしろと言うんだ?」
彼女はやや躊躇いがちに、しかし、はっきりと言った。
「逃げて」
「え……!」
結城は驚いたように彼女を見た。胸の前で交差した彼女の白い指にはまった指輪。その透明な輝きが陰って、微かに震えているのがわかった。

「逃げる? どうして……? 3年前にも一度逃げたのに、君は、もう一度、僕に逃げろと言うのか?」
「そうよ」
と、彼女は悲痛な表情を浮かべて言った。
「僕には関係のない事だよ」
結城は鍵盤を弾くようにテーブルを指で叩いた。
「でも、その闇を突けば巻き込まれる。伝承では、この国に眠る途方もない闇と、その能力者について語っているの。もしもその闇が解放されたら、とんでもない事になるわ」
「それは伝承に過ぎないのだろう?」
「いいえ。その闇の能力者達は、既にドイツにも派遣されていた。その中の一人が浅倉だったのよ」
「そんな! 信じられない。僕は何も聞いていないし、もし、そんな噂があるならネットにだって流出してる筈だ」
「それだけ厳重に管理されているのよ」
俄には信じられない言葉だった。が、ナザリーは真剣な目をしていた。
「もし、その闇が解放されたとして、浄化する事は出来ないのか?」
彼は動かしていた指を止めて言った。彼女は、その彼の指を見つめて答える。
「直人。あなただって承知している筈よ。この世に流れる風はすべて正と負の作用を持つ。無害の風も多いけど、負の力の方が正より数段強いって事。風は記憶し、何度でも災いを繰り返す」
「でも、その闇を浄化するために僕ら狩人がいる」
そう言う結城の手に、そっと彼女は自らの手を重ねた。
「立派ね。でも、勇気を持つ事と無謀な行動を取る事は違う。茂がやろうとしているのは……。風の流れに逆らう事。場合によっては禁忌に触れる事になるかもしれない。茂は闇を操るエンブレムの持ち主を探していた。それが、あなただと思っている。恐らくそうなのかもしれない。でも、直人、私はあなたには生きていて欲しい……生きていて欲しいの」
「ナザリー……」


帰途、タクシーの中で、結城はぼんやりと窓に映る灯りを見ていた。頭の中で、彼女との会話が何度も反芻される。
――ナザリー。いっしょに行こう。たとえ、地の果てでもいい。君となら
しかし、彼女は「Nein」と言った。
――それは出来ないの。直人。私は戻らなくてはならない
そう言って、彼女は出て行った。甘い香水の香りだけを残して――。
窓に映る街灯の群れが次々と遠ざかる。時の流れを止める事も、それを遡る事も決して出来はしない。それにしても、あの浅倉が生きている。しかも結城より数段上の能力を持って……。それは脅威だった。だが、結城にとって、もっと恐ろしいのは、龍一が持つ能力を浅倉に知られてしまったらという事だった。彼の能力については未知数だ。が、潜在的には自分を凌ぐ能力があるかもしれない。しかし、龍一は長野に行く。そのことを、まだ浅倉は知らない。
(出来ることなら、あの子を巻き込みたくない)
と結城は思った。だから、この時期、龍一が転校する事になったのはかえってよかったのかもしれない。そして、結城も学校を辞めようと決意した。龍一のことはともかく、執念深い浅倉のことだ。とても自分の事を諦めるとは思えなかった。そうなれば、必然的に周囲の人々を巻き込んでしまう。どんなことをしても、それだけは避けたかった。それから、彼が自宅を教室にして教えているピアノの生徒達。あの子達にも別の教室に移ってもらわなければ……。急がなければと結城は思った。


「おーい! こっちこっち!」
駅の構内を走って来たのは、ジャージ姿の藤沢健悟だった。時刻は午後7時を少し過ぎた頃である。人混みを抜けて改札を出て来たのは、鞄とスポーツバッグを持った龍一だった。
「よかった。ぎりぎり間に合ったぜ。顧問の若井先生、やたら張り切っててさ。なかなか帰してもらえなかったんだ」
息を切らして健悟が言った。
「そんなに急がなくても、ぼくはここで待ってたのに」
龍一が言った。
「それにしても、おまえ、こんな時にまで制服着て来たのかよ? 相変わらず真面目だな。しかもそれ、通学鞄じゃねえか」
「うん。でも、今のとこ、これしかなくて……」
「あ、ごめん」
健悟が詫びた。家が全焼してしまったため、それが唯一の外出着になっていた。
「いいよ。大叔母さんが買ってくれるって言ったんだけど、荷物になるからって、ぼくが断ったんだ。ところで、例のことわかった?」
と、龍一が訊いた。
「ああ。バッチリさ。来いよ」
健悟が言い、二人は並んで歩き出した。こうしていると、どこから見てもごく普通の部活帰りの高校生に見える。

「ところでさあ、おまえ、大丈夫なのか?」
健悟が訊いた。
「大丈夫って? こっちへ来る事は、ちゃんと大叔母さんに許可をもらったから大丈夫だよ」
「そうじゃなくてさ、その……何て言ったらいいのか、おれ……」
「……ごめん。気を使わせてしまって。でも、ぼくは大丈夫だから……。だって、仕方ないじゃないか。いくら考えたって、泣いたって父さんも母さんも還って来ないんだ」
ふと立ち止まった龍一の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「あ、あ、ごめん。おれ、ほんと馬鹿だからさ。余計な事訊いちまって。ほんと。ごめんな」
健悟が慌てて謝ると、龍一も無理に笑顔を作って見せた。
「いいよ。わかってる」
「あ、ああ。すまん。えっとさ。何か困った事あったら何でも言ってくれよ。おれに出来る事なら何でも手伝うからさ」
と、明るく言った。
「ありがと」

そうして繁華街を抜けると、二人は、すっかり日が暮れた街灯の下を住宅街の方へ歩いて行った。
「ここさ」
しばらく行くと、健悟が立ち止まって1軒の家の前で止まった。それは、造りのいい2階建ての家だった。洒落た街灯。その灯りに照らされて、ドアの脇に植えられた植物が瑞々しく茂り、プランターにはやさしい色の花が咲いていた。門扉の脇には、小さなプレートに『結城ピアノ教室』と書かれている。
「あれ? まだ、戻ってないのかなあ」
2度目のチャイムを鳴らした健悟が言った。
「うん。中、真っ暗だしね」
「仕方がねえ。来るまで待つか?」
「うん」

それから、およそ1時間。まだ主の戻って来ない家の前で、龍一は所在なさげに立っていた。その時、健悟が戻ってきて、
「おーい。あったぞ。コンビニ。パンと飲み物買って来た」
と言って、袋の中から、コーラとサンドイッチを渡して来た。
「ありがと」
そうして、二人が簡単な食事を済ませても、まだ、結城の姿は見えなかった。
「それにしても遅いなあ。おまえ、今日来るってちゃんと連絡した?」
「してないよ」
「え? そんじゃ、どうすんのさ? もし、今日戻って来なかったら」
「来るよ」
「何でそんな事わかるのさ?」
「何となく」
それを聞いて、健悟は呆れた。

「なあんだ。そんなんじゃ、あてになんねーじゃねえか。なら、今日のところは、おれんちに来ないか? 先生には、明日、学校へ行ってあいさつすればいいじゃんか」
「うん。でも、ぼく、どうしても今日、先生に会いたいんだ」
「どうしてもってね、別に恋人じゃあるまいし。そんなに大事な用なの?」
「うん。ぼく、先生に頼んでみようと思うんだ。ここに置いてくれませんかって」
「えーっ? おまえ、先生の家に居候するつもり?」
「うん」
「それって何かヤバいんじゃねーの?」
「何がさ?」
「だって、結城先生って独身だろ? 彼女がいるかもしれないし」
「そしたら考えるよ」


更に時間が過ぎた。
「おい。もう10時過ぎたぜ。いい加減諦めて、おれの家行こうよ。おれ、明日も朝練あるしさ」
と、健悟が言った。
「わかった。健悟は、もう帰ってよ。ぼく、一人で待ってるから」
「そんな……。放っとけねーよ。おれも付き合う」
「駄目だよ。おじさんやおばさんが心配するし……」
「でも……」
「何かあったら連絡するから」
「じゃあ、必ず連絡くれよ」
「うん」
健悟は後ろを気にしつつも駅の方へ歩いて行った。そして、曲がり角を折れると、ふと立ち止まって空を見た。スモッグがかった闇に星はなく、瞬かない月だけが濁った空に鎮座している。健悟は、スポーツバッグを足下に置くと、ちらと龍一の様子を見た。龍一も、また、門扉にぼんやりともたれて空を見ている。


そして20分が過ぎた時。曲がり角の向こうを1台のタクシーが通り過ぎた。
「あ」
後部座席に乗っているのは結城に間違いなかった。健悟は確信し、そっと角から覗いて見た。思った通り、車はその家の門の前で止まった。そして、降りて来た結城が龍一に話しかけている。それを見て、健悟はやっと安心してバッグを持つと、駅の方へと駆け出した。