風のローレライ


第1楽章 風の警笛

1 闇の風


ジャングルジムの天辺に上ると、ほんの少しだけ空気は透明になった。
わたしは、すーっと深く息を吸い込んでほっとする。
よかった。わたし、まだ、ちゃんと生きてる。

掴まっている青い鉄棒にも、少しペンキの剥げた所がある。その剥げ跡みたいに、わたしの腕や足にも痣があった。その一つが袖口から覗く。

いやだ!

わたしは、ギュッと強く袖を引っ張って隠した。
誰も見てなんかいないのに……。
誰も気づいてなんかいないのに……。
ふと見ると、赤いランドセルが、半分砂場に埋もれて泣いている。
向こうのブランコでは、小さい子を乗せて、お母さんがやさしく揺すってやっていた。やさしいお母さんが……。
わたしは慌てて目を逸らし、通りの向こうの白い建物を見た。

そこは、産婦人科のお医者さん。
わたしには縁がない。
見れば、丁度、玄関から何人かの人が出て来た。
大事そうに赤ちゃんを抱いている女の人と、その人をじっとやさしい目で見ている男の人。看護師さんにお医者さん。
みんな、にこにこ笑っている。
何て幸せそうな微笑……。
車に乗って、手を振って、あたたかいお家へ帰って行くんだ。
きっとあたたかいお家へ……。
わたしは、ぼうっと車が走って行った方を見た。

と、その時。わたしは気づいた。
「行ってはだめ!」
思わず叫んだ。だけど、ここからじゃ届かない。
車の進む方向には闇があった。
その方向へ向かってはだめ!
闇の風に食われてしまう!
風が奏でるローレライ……。
それは、不幸を招く闇の風……。
「だめーっ! そっちに行ってはだめーっ!」

空の一部が歪んでる。
闇の記憶が渦巻いて車を包み、やがて空気が割れて……。
壊れる。
すべての幸せな記憶と共に……。

「いやだ! させない……!」

わたしは素早く心の合わせ鏡で風を呼んだ。
闇を打ち消す事の出来る光の風を……。
「行け! 行ってあんな闇なんか引き裂いてしまえ!」
心がカッと熱くなり、体が震えた。
お願いよ! もう二度と誰も泣かせないで……。
赤ちゃんを乗せた車の前に飛び出す大型トラック。
悪夢の記憶が蘇る瞬間。
光と影がぶつかった。
軋む金属と風の衝撃。
闇は散って崩れ去った。
トラックは普通に曲がり角を右折した。
そして、赤ちゃんの車は何事もなかったように直進した。

よかった……。
わたしはへなへなと力が抜けた。
よかった?
ううん、ちがう。
「よくなんかない……」
ジャングルジムにしがみついて、わたしは泣いた。
涙が遠い地面にポタポタ落ちた。
それを、そこに生えた雑草が吸い込む。
「ちっともよくなんかない……」
わたしはゆっくりとジムを降りて砂場のランドセルを拾った。
それは、まるで今のわたしみたいにぼろぼろだった。
けど、そんなおまえとも明日でお別れ。
「わたし、生まれ変わるんだ」
あの赤ちゃんみたいに……。
「桑原アキラ、12才。春から中学生になります」
そしたら、もう闇の風なんか怖がらないんだ。
それに、もう、あんなバカ親の事も相手にしない。
「ねえ? 素敵でしょう?」
わたしは風に呼び掛けた。
闇を砕く白い刃に……。

黒い霧のように広がって幸せを食べる風……。
その風が何処から来るのか、わたしは知らない。

だけど、わたしには見える。
その風の声が聞こえる。
恐ろしい魔物の声が……。

彼らはいつも欲しがっている。
そのエネルギーとなる生贄を……。
だから、わたしはいつも訴えて来たのに……。
それを信じてくれる人はいなかった。
家でも学校でも……。
いつも独りぼっちで……。
とても悲しかったよ。
みんなには見えていないんだって事がわからなかったから……。
でも、今はちがう。
わたしにはそれが見えるだけじゃない。
その力を使う事ができる。
闇を砕く事も、その力でいじめっ子に仕返しする事だって自由自在。
怖いものなんかない。
何もないんだから!

「あれ? キラちゃん、今帰り?」
同級生の亜美ちゃんだ。
彼女はお母さんといっしょだった。
「明日は卒業式だね」
亜美ちゃんが言った。
「これから、お父さんを迎えに行くの。ずっと出張だったんだけど、今夜帰って来て明日の式には来てくれるって……」
と、うれしそうだ。
「キラちゃんとこも来るでしょう?」
「家は来ない。多分……」
二人は不思議そうにしてた。
でも、仕方ないよ。
真実は変えられない。

二人と別れたあとの道は真っ暗で不気味だった。
丸いオレンジ色の街灯が未知の生物みたいに輝いていた。塀の向こうにある桜は、黒い枝だけくゆらせて、まだ当分咲きそうにない。

卒業式には出なかった。
式典なんてつまらないよ。
それに、おめでとうなんて言われたくない。
誰が決めたの?
卒業式には中学の制服を着なきゃいけないなんて……。
うちのバカ親は、自分の化粧品やブランドバッグは買うくせに、わたしの物なんか何一つ買ってくれない。必要な物も何も……。
制服も鞄もなくて、どうやって中学へ行けるの?
もう、いやだ。
誰にも会いたくない。
どこか遠くに行きたい。
けど、お金がない。
「海が見たいな……」
少し遠いけど、わたしは歩いて海が見える公園へ向かった。

そこは広い公園だった。
けど、催しのないウィークデイは、海の他には何もない。
それでも人は何人か散歩していた。
見上げると、向こうの空で海鳥が鳴いている。
「いいね。おまえ達は空が飛べて……」
でも……。
都会の海は汚れていた。
波打ち際にはゴミが溜まり、うっすらと油の臭いがした。
そして、その水は茶色く濁っていた。
あの闇の風みたいに……。
ちがう。
こんなの海じゃない。
わたしが見たかった本当の海は……。
「君、ちょっといいかな?」
突然、誰かが声を掛けてきた。
「誰?」
振り向くと、スーツ姿の知らない男の人が笑いながら立っていた。
「君、可愛い顔してるね。スターになる気ない?」
「スター?」
「そう。君ならきっと人気者になれるよ」
どこかの芸能プロダクションのスカウトマンなのだとその人は言った。

「なれる訳ないじゃない!」
わたしは強くつっぱねた。
「そんな事はない。君ならきっとなれるよ」
甘い言葉のその奥に、汚い魔物が隠れてる。
「そうね。でも、あんたと組むのはいや!」
わたしはゆっくりと後ずさった。
「何故?」
ほら、すぐそこに本性が顔を出すもの。
やさしそうなその顔の後ろに、闇の風が潜んでる。
「さあ、おいで。悪いようにはしないよ」
男は周囲を見渡すと、誰もいないのを確かめて一歩ずつ近づいて来た。
後ろは海。
背中が柵にぶつかった。
潮風が髪やスカートをなびかせる。
男の顔が不気味に歪み、さっとわたしの手首を掴んできた。
「来い!」
無理に引っ張って連れて行こうとする。
「いやだ! 痛い! やめて!」
背後に付いた闇の風が笑う。
この人、闇に食われてる。
男が何かを言った。
けど、闇の声が重なってその人の意思は聞こえない。
膨れ上がった闇は互いに互いを殺し合い、いつか、この人の身体を食い尽くす。

「消えろ!」

おぞましいその闇に向かって、わたしは風を放った。
そして、抵抗する闇を風で絡め、粉のように散らすと海に流した。
残されたのは人間……。
「何だ、今のは……?」
彼は辺りを見回して言った。
「ふふふ。目が覚めたようね」
わたしの中で波動が高まっている。
「君は?」
もう、男の瞳に闇はない。
この力を使えば……。
「わたしはもう帰らなきゃ」
……怖いものなんかない。
「ああ、そうだね。気をつけて」

そうなんだ。
とりついてる闇を払えば、人は本来のやさしさを取り戻す。
なら、わたしの親だって……。
もしかしたら、あれもみんな闇の風の仕業だったのかもしれない。
だとしたら……。
わかり合えるかもしれない。
わたしは急いで家に向かった。


だけど、現実はそんなに甘くはなかった。
彼らの周囲に闇はなかった。
「何じろじろ見てんだい? 薄気味の悪い子だね!」
お母さんが言った。
「大体こんな時間までドコ放っつき歩いてたんだい?」
「どうせ、ろくでもない事やってたんだろ?」
奥から出て来ただらしない格好の男が言った。
「ねえ、お母さん、中学の制服、いつ作ってくれるの?」
彼女は無視した。
「そうか。おめえも中学になるってか? いいねえ、胸だって随分膨らんできたんだろ?」
いやらしい目つきで男が言った。
「いや! 触らないで!」
わたしはギンとそいつを睨みつけた。
「おい! てめえ、親に向かって何つー口の利き方だ!」
親? ちがう。こいつはお母さんの恋人で、わたしのお父さんじゃない。
わたしはそいつの周りにも闇がないかじっと見た。
でも、二人の周囲には何もない。

闇の風は災いを呼ぶ。
あれを見ると必ず悪い事が起きる。
人が死んだり、事故にあったり……。
それは本当に恐ろしい。
けど、それを消す事ができるようになって、小さな事故なら防ぐ事もできるようになった。
場合によってはさっきみたいに人を助ける事だってできる。
だけど、その力はわたしを救ってはくれなかった。

何度も殴られた。
なのに、お母さんは何も言ってくれない。
鏡の前で化粧をしたり、髪をとかしたりするのに忙しい。
「助けて、お母さん!」
一瞬の隙をついてお母さんの背中にしがみついた。でも……。
「何するんだい! 口紅がはみ出ちまったじゃないか! このバカ娘が!」
突き飛ばされ、壁にぶつかる。
「お母さん……。ねえ、今日は卒業式だったんだよ」
「だから何だい? このごくつぶしが!」
「お願い。中学の制服を作って」
「制服だぁ? おまんま食わせてもらってるだけでもありがたいって思いな!」
「……食べてない」
わたしは言った。
「この家で、ごはんなんか食べてない。学校の給食とスーパーの試食コーナーとそれから……」
「お黙り!」
蹴られた。それも一度じゃない。何度も……。
殺されちゃう……!
それでも、わたしは必死に目を凝らした。
これがみんな闇の風のせいならと……。
けど……涙の向こうには何もなかった。

――スターになれるよ

男の言葉が頭の中を通り過ぎた。
なれたらいいのに……。
本当に、そうなれたら……。
そうしたら、幸せになれる?


わたしは夜の街を歩いていた。
所々の店にはまだ明かりがついている。
どうせ、あの女みたいに男の酔っぱらいの相手をする店だ。
酔っぱらいは嫌い!
すぐに暴力を振るうし、いやらしい目で見る。
嫌い! 嫌い! みんな嫌い!
いっそのこと、みんな消えちゃえばいいんだ!
わたしは公園の水道で顔を洗った。
手が冷たい。
空気が冷たい。
殴られたあとが痛い。

でも、見上げると空には星が輝いていた。
「スターか……」
きっとわたしなんかとは関係のない世界に住む人達なんだろうな。
けど、わたしだってなりたい。
大きな星じゃなくていいから……。
空の隅っこで、ほんの少し光ってる星になれたら……。
と、突然、闇の中からバイクの爆音が響いてきた。
見ると、向こうから丸いライトの光がたくさん近づいて来る。
「きれい……」
それは、まるで流れる星の川のように思えた。
その星は次々とわたしの前を通り過ぎて公園に集まって止まった。
彼らは皆、お揃いの黒いジャンバーを着ていた。
その背には銀の文字で「FINAL GOD」と書かれている。
何? この人達……。
「おい、こんな所に女の子がいるぜ」
いきなりライトで照らされた。
「眩しい……」
彼らはわたしを取り囲んだ。

「何だ。まだガキじゃねえか」
ピアスをしたリーダーらしい男が言った。
「ちっ。小学生のネンネちゃんじゃ、しょうがねえな」
「早く家に帰って寝な」
他の連中も口々に言う。
「そろそろ時間だ。行くぜ」
「ヘヘ。カモはいくらでもいるからな」
「2、3人さっとやって、あとはぶっ飛ばそうぜ」
「マッポなんてチョロイチョロイ」
彼らは缶ビールの空き缶を投げ捨て、改造バイクのエンジンをガンガン吹かすと公園を出て行った。
よかった。行っちゃった。
わたしは何となくほっとした。
ところが。

「おまえ、一人なのか?」
いきなり、闇の中から声がした。
黒いジャンバー。連中の仲間だ。
答えずにいるとその男は更に訊いた。
「こんな時間に何してんだ?」
「別に……」
わたしは言った。
「別にってことはないだろう? もう11時を過ぎてんだぜ」
そいつが近づいてきた。
闇の中に闇が見える。
わたしの体は震えていた。
でも、それは怖かったからじゃない。
寒かったから……。
「そんな格好してると風邪ひいちまうぜ。乗れよ。おれが家まで送ってやる」
「でも……」
「何だよ。おれが信用できないのか?」
「ちがう。そうじゃない。けど……家には帰りたくないんだ」
「親とケンカでもしたのか?」
「まあね」
わたしはあいまいに笑って言った。
「そんじゃ乗れよ。こんな所にいたって埒が明かないぜ」
そう言うと、そいつはいきなりわたしに触れようとした。
「いやっ!」
わたしは叫んだ。

「な、何だよ。そんなにおれがいやなのか?」
「ちがうの。ちょっとあちこち痛かったから……」
「痛い?」
納得いかなそうな顔で彼が言う。
「さっきそこで転んだのよ」
わたしは言い訳した。
「ケガをしたのか?」
「ちがう。でも……」
すると、そいつが急にわたしの腕を掴んできた。
「いやだ! 痛いよ。放して!」
「暴れんなよ。どこをケガしたって? 見せてみな」
「してないよ! どこもケガなんかしてない」
けど、実際は動く度に激痛が走った。
あいつに殴られたところだ。
あいつとお母さんに……。
「ちがう……」
涙が溢れた。
「この痣は……」
めくれた袖口から覗く痣を見て彼はひどく驚いたみたい。
それから、反対側の袖も押し上げて確認してた。
そこにもたくさんの痣や傷があった。
わたしは、もう抵抗せずに大人しくしてた。
傷からは、まだ血が滲んでいる。

「誰にやられた?」
そいつが訊いた。
「……」
「誰にやられたんだよ? こんな……!」
けど、わたしは黙って彼の後ろの切れ掛けた街灯を見てた。
「来いよ」
そいつは自分のバイクにまたがって言った。
「手当てしなきゃ」
「うん」
わたしはバイクに近づいた。
「おれは平河。おまえは?」
「アキラ」
そう答えると、わたしは平河のバイクにまたがった。
「しっかり掴まってろよ」
そう言われてもどこに掴まったらいいのかわからない。
わたしは彼の腰に腕を回した。
と、同時にブロロロと爆音を響かせてバイクは発進した。