風のローレライ


第4楽章 風の落葉

6 渦潮


朝、カップラーメンを作ったのだけど、忍は気分が悪いと言って食べなかった。
クッキーもお茶も受け付けない。
「ねえ、お願いよ。武本先生には黙っていてね。心配かけたくないから……」
何度も吐き気が込み上げて来て苦しそうなのに、忍はまだそんなことを言っていた。

その時、家の前にバイクが停まった。皐月さんがサンドイッチや飲み物を買って来てくれた。
「夜、リッキーが来てさ。すごく心配してたよ。で、具合はどう?」
「それが……」
何て言ったらいいんだろう? わたしはちょっと説明に困った。その間にも忍は、ごめんなさいと口を押さえて、洗面所に走って行った。

「あの子、もしかして妊娠してる?」
皐月さんが小声で訊いた。言ってしまっていいのかな? わたしは迷った。でも、彼女なら、力になってくれるかもしれない。どっちにしろ、わたし達だけでは手に負えない問題だと思ったから、わたしはうなずいた。
「やっぱりね」
彼女が言った。
「いいよ。任せときな。前にもそういうことあったから……」
その日は、忍のことを皐月さんに頼んで学校に向かった。


昇降口の所でリッキーが来てきいた。
「忍は?」
「まだ具合が悪いんで今日は休むって……」
「どうしたんだろう? あいつ、ここのとこ、急に体調崩したりして……。まさか、悪い病気とかじゃないよな?」

「ううん。多分ちがうと思うよ。でも、今日は皐月さんが付いてくれてるから……」
「そうか。なら、いいけど……。このところ、酷いことばかり続いてたからな。きっと神経がまいっちまってるんだ。かわいそうに……」
リッキーはずっと忍のことばかり心配していた。武本なんかよりずっといい奴だよ、本当に……。
その時始業のチャイムが鳴った。わたし達は走って教室に向かった。

教室はいつもと変わらない空気に包まれていた。女子達は小さなグループでひそひそ話をしているし、男子達はテレビやマンガの話題で盛上がっている。早苗ちゃんや忍のことなんて誰も話題にしない。そうやっていつか忘れられてしまうのかな? そうだとしたら、少しさみしい。

――意識は風になって残るんだ

あれってどういう意味なんだろう。それなら、ずっと覚えているってこと?
その時、誰かが床にシャーペンを落とした。わたしは思わずびくっとして正面を見た。武本が出席を取っている。いつもと変わらない様子で……。
「桑原さん?」
じっとわたしの方を見ている。
「あ、はい」
わたしはあわてて返事をした。
「あは。よかった。何度呼んでも返事がないから、石にでもなっちゃったかと思ったよ」
先生の言葉にみんなが笑う。何気ない教室の朝の光の中で、わたしだけがみんなとちがう風を見ていた。


そして、夜にはまた、大蛇神の連中と狩りをした。早苗ちゃんのためと、今回は忍のためもある。繁華街で酔っ払いを襲ったり、自動販売機を荒らしたりもした。今はレースが開催されていなかったから……。
「何だ。たったの7万円? これじゃ全然足りないよ。誰かもっとカンパしてくれない? 友達が困ってるんだ。堕ろすにはもっとお金が掛かるから……」
そう。あまりにも足りなかった。命の代償の金額には……。
友達のためだと言えば、みんな快く協力してくれた。これまでいい稼ぎをして来た奴らも多いからね。

「そう言うおまえは大丈夫なのか?」
矢崎がきいた。
「どういう意味?」
「おまえの担任、あの武本なんだろ?」
「何で知ってんの?」
わたしはそんなことまで言ってなかったから少し驚いた。

「頼まれたんだ。その忍って子の旦那役」
「何なの? それ」
「同意が必要なのさ。ガキ作った相手の……。そうでないと堕ろせねえのさ。俺がその適任者として抜擢されちまったって訳」

「でも、誰から頼まれたの?」
「皐月からさ」
「えっ? 彼女のこと、知ってんの?」

「この界隈じゃ、代々姐御達が幅利かしてんだ」
浜田が言う。
「大蛇神も戦女神がいなけりゃ繁栄しないと言われてる。今はアキラという最高の女神がいるからな。まさに時代到来って訳さ」
矢崎はわたしの肩に手を置いて笑う。

「そうそう。おれ達、義賊だもんね。世の中から見捨てられても、おれ達が助ける。おれたちゃ、義理人情に厚いのさ」
今井も得意そうだ。
「じゃあ、もう一回り行こうよ。こんな所でぐずぐずしてられない」
わたしが言うと、みんな賛成してバイクのエンジンを吹かし始めた。


――武本先生には言わないでね

忍はどうしても堕胎手術のことはあの男に言えないと言った。

――だって、先生は赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしてるっておっしゃったのよ。期待を裏切るようなこと、わたしにはとても出来ないわ

でも、それは忍のせいじゃない。もともと成熟していない彼女を妊娠させたあいつが悪いんじゃないか。このままでは出産の時血管が破れて大出血を起こす可能性が高いと医者が言ったんだ。いくら武本だって医者からそう言われれば仕方がないと思うにちがいないのに……。
どうしてうそをつこうとするんだろう。

――だから、先生には流産してしまったということにしておいて欲しいの

何でそんな風に言うんだろう? わたしにはよくわからなかった。でも、忍がそうしたいと言うのなら、そうするしかない。

手術の日は、次の金曜日に決まった。
当日は、矢崎が同意書にサインして、皐月さんがあとの面倒を見てくれることになった。

その日、空は晴れて、青く澄んだ海のようだった。
「それじゃあ、わたしは学校に行くけど……」
わたしは彼女に何と声を掛けたらいいのかわからなかった。

「大丈夫よ。力強い味方が来てくれるんですもの。それに、病院に泊まるのは今夜だけ……。岩見沢さんの困難に比べたら、何も怖いことなんかないわ」
忍は言った。でも、その表情は少し引きつれて見えた。
「ねえ、わたしも岩見沢さんのお見舞いに行きたいわ。あとで連れて行ってくれる?」
「いいけど……。わたし、明日行くつもりだったの」
そう。お金が大分貯まったから、アメリカ行きのこと真剣に考えて欲しいって……。今ならまだ体力もあるし、渡米するなら早い方がいいと主治医の先生が言ってたんだ。だから……。

「あら、そんなに急がなくてもいいのよ。ただ、顔を見たくなっただけだから……」
「そうだね。じゃあ、来週はどう?」
「そうね。1週間たてばすっかりよくなると思うわ。どうせなら明るい顔で会いたいもの」
忍はそうやって自分を元気づけてるんだと思った。そうでないと辛いんだろうなって、そんな気がした。

「わかった。それじゃ、来週ね」
わたしが言うと忍は小指を突き出して言った。
「じゃ、約束」
「うん。約束」
わたしはその指に自分の小指を絡ませて言った。

約束か……。そんなのしたことあったかな? ゆびきり……。そんなさり気ないことでも、わたしは少しドキドキした。こないだ忍に抱きつかれた時も思ったけど、口では冷たいこと言ってても、肌はあたたかいんだなって思った。
「じゃね」
わたしは指を解くと急いで学校に向かった。


その朝、武本はなかなか教室に来なかった。何をやってるんだろ? 職員会議が長引いてるのかな? まさか忍のことがバレたんじゃ……。
わたしは注意してたつもりだけど、気づかれちゃったかもしれない。だったらどうしよう。昨日の美術の時間にも、わたしはなるべく普通に接しようとしてたけど、変だと思われたかな?

その時、教室の戸が開いた。武本がやって来て教卓の前に立つと、日直が号令を掛け、みんなが「おはようございます」とあいさつした。先生も「おはよう」と言った。でも、何だかいつもと雰囲気がちがう。
どうしたんだろうと思っていると、先生は教室の中を見回して言った。
「今日は、とても悲しいお知らせがあります」
その言葉に、教室のみんなもさっと身構える。
先生は一つ呼吸を置いてから静かに言った。
「今朝、5時47分に、クラスメイトの岩見沢早苗さんがお亡くなりになりました」
発せられた言葉は黒いヴェールとなって教室内を包んだ。
誰も何も言わなかった。
わたしも……。

女子の何人かがすすり泣いた。
でも、わたしは呆然と武本を見つめた。
早苗ちゃんが……死んだ……?あのやさしい笑顔が……。
淡い光の中に呑まれ、パステルで描かれたような少女の輪郭が薄くなる……。

――わたし達、友達になれるかな?
あのやさしい笑顔が……。

――わたしにも好きな人がいるの。それは、わたしの主治医の先生
ローレライのこと教えてくれたのに……。

――早苗ちゃんは詩人になるの? ハイネみたいな……
――えーっ? ぜんぜんだめだよ、わたしなんか……。ただ、思ったことを適当に書いてるだけなんだもん
はにかんで笑う彼女の周りには、いつもやさしい風が吹いていた。
――ねえ、そのノート、いつかわたしにも見せてくれる?
――うん。いいよ。少し恥ずかしいけど、キラちゃんになら……

  ――キラちゃんになら……

損なわれてしまったんだ
  永遠に……。
    ああ。永遠に……!

「皆さん、岩見沢さんのためにお手紙を書きましょう。そして、今夜、お通夜に参列してくれる人は申し出てください」
そう言うと、先生は、全員に白い便箋を配った。


  夢の中で わたしは空を駆ける冒険家だったの
  風をつかまえ
  異国の空へ
  鳥達が羽ばたくように
  わたしはオールをはためかせ
  空色の筏に乗って 地上を見たの


それで、空はどんなだったの?
青い空で吹く風はどんなだったの?
筏は真っ直ぐ進んでいますか?
地上はどんな風に見えていますか?
小さなわたしのことを見つけられますか?
潮風の中で、わたしはあなたを見つめています。
いつだってやさしい春風のようなあなたを。


  わたしは世界を見下ろしているの
  高い空の上から
  淡い空色の筏に乗って
  オールを動かす度に
  木漏れ日のようなやさしさと光を
  地上に流し続けたいと思っているの


その日、二つの命が天に召された。
早苗ちゃんと小さな赤ちゃんの……。
わたしは何もしてあげられなかった。早苗ちゃんにも、西崎のお腹にいた赤ちゃんにも……。


夜、先生とクラスのみんなでお通夜に参列した。
早苗ちゃんは穏やかに微笑んでいた。最後は早苗ちゃんが大好きだったドクターが看取ってくださったのだと彼女のお母さんが言った。そして、あのコミュニティー祭りの時に録音したテープを何度も繰り返し聴いていたと言った。ごめんね。CDの話が立ち消えになっちゃったから、これしか音源がなくて……。
お母さんはそのテープとレコーダーを返してくれようとしたけど、平河は彼女に持たせてやって欲しいと棺桶に入れた。そして、ノートはわたしにと言ってくれた。

「でも、これは早苗ちゃんの大切な物だったのでしょう? お母さんが持っていた方がいいのでは?」
「いいえ。あの子はキラちゃんに持っていて欲しいと言ってたの。だから、もしいやでなければもらってあげて……」
中を見ると、病院で書いたらしい詩が幾つも増えている。いつか、これを本にしたらいいんじゃないかな。それとも、曲を付けて歌にしたら……。どちらにしても、わたしはそのノートを抱き締めると涙がこぼれた。
早苗ちゃん、あなたが最初に声を掛けてくれたんだ。あの教室で……。あの窓辺で……。陽だまりのような女の子。あなたに会えて本当にうれしかった。いっぱいうれしかった……。

次の日の午後。
早苗ちゃんの煙は少し揺らめいて青い空に昇って行った。


  渦潮の中でいつも あなたを待っていたの
  速い水の流れの中で 凍りついた約束の羽を広げて
  ただ一人だけのあなたを


忍は、自分のお腹にいた赤ちゃんのことを思い出したのか、葬儀に来て、誰よりも泣いた。
大蛇神の連中も遠巻きにして見送ってくれた。


  それでも渦潮は変わらない
  心臓は動いている
  だから わたしは歌わずにはいられない
  愛する者を沈め
  奪わずにはいられない
  渦巻く水の遥か
  岩の上に吹く風の流れが途切れない限り……


だから わたしは歌わずにいられない
誰もいない野外ステージで、わたしはあの歌を歌った。
夏の終わりの風に混じって秋の冷たさが渦潮のように絡んで散った。
「早苗ちゃん……!」
弔う鈴のように、そこかしこで鳴く虫の声に囲まれて、わたしはいつまでもステージの上であの歌を歌った。
空の上の早苗ちゃんに届くように……。


夜。頭上では星がまばらに散っていた。
「……帰ろう」
独りぼっちのわたしが呟く。
風は潮の香りをふくんでいた。

わたしは早苗ちゃんから託された大切なノートが入った鞄を抱えて歩き始めた。
公園の周囲には並木があって、風が吹く度、枝が揺れて木の葉が鳴った。
月は少し欠けはじめていた。虫達は夜の闇を掻き消そうとするかのように激しく鳴いた。

「ステキだったよ」
街灯の下に立った人影がわたしを見つめた。
「武本先生……。いつからそこにいたんですか?」
彼の周辺だけが舞台の照明のように浮き立って見えた。

「ずっと……。君だけを見ていた」
賑やかに鳴く虫の声。
「何で……」
わたしは鞄を強く抱いた。

「心配しないで。僕は迎えに来ただけだから……」
「どういうことですか?」
「君に大事な話があってね、待っていたんだ」
吹いているのは秋の風。冷気が混じっていたとしても闇はなかった。

「お話って何ですか?」
「集めた募金。岩見沢さんのお母さんは、他に必要な人がいるなら、ぜひ役立てて欲しいとおっしゃっている。そこで、不治の病で苦しんでいる子ども達のために寄付するというのはどうだろうか?」
「それは……とても良い考えだと思います。みんなも賛成してくれると思う」
「では、幾つかの候補を決めて、君達が納得行くような寄付先を選んでもらうことにしよう」
それは悪い話じゃなかった。せっかくみんなで苦労して集めたんだもの。早苗ちゃんの他にも苦しんでいる人は大勢いる。そんな人達を独りでも救いたい。それは本音だった。でも、武本はまだ、そこに立っていた。

「他にも何かお話があるんですか?」
「ああ」
先生はわたしを見て微笑した。虫達は数を増し、狂ったように鳴き続ける。
「ようやく許可が下りたんだ」
そう言うと先生はわたしの側に近づいて来た。

「今日からは僕が君の保護者になった」
「えっ?」
わたしには意味がわからなかった。
「ご両親が起訴されて有罪が確定したんだ。その間、僕が君の保護者として責任を持つことになった」
「それ、どういうことですか?」
「僕が君の未成年後見人として選任されたのさ。君にはまだ保護監督する保護者が必要だからね。さあ、行こう」

駐車場には白い車が停まっていた。武本はわたしの肩に腕を回し、そっと背中を押した。
「……いや」
わたしはそう呟くと体をひねって逃げ出そうとした。でも、武本の腕がわたしを捕らえた。
「どこへ行こうというの?」
ささやくように先生が言った。

「愛してるよ」
一瞬、首筋に唇が触れた。そして、じっとわたしを見て言った。
「大切にするよ。ずっと手元に置いて……」
「やめて……!」
わたしは何とか逃れようと腕を突っ張り、その胸を叩いた。

「何もしやしないよ。君は僕の理想。君こそ僕が待ち焦がれた永遠の少女なのだから……」
永遠? おかしいよ、そんなの……。
「結婚しよう」
唐突に言った。
「もちろん君が正式に結婚出来る年になってからでいいんだ。体が成熟して、出産のリスクがなくなったら、二人で子どもを作ろう。君ならきっと丈夫な赤ちゃんを産んでくれるだろう。僕と君の強い遺伝子を持った能力者の子どもをね」

「……。それじゃ、忍は? リスクがあるのを承知で彼女を妊娠させたんですか?」
「ああ」
ひどい……。こいつも屑だ。わたしは思い切り睨み付けて言った。
「本気じゃなかったんですか?」
街灯の明かりに照らされて、男の顔の陰影がはっきりと浮かぶ。

「本気だったよ」
武本はしゃあしゃあと言った。口元には微笑まで浮かべて……。
「少女は守られなければならない。世の中にある様々な危険から……。膨らみ掛けた大切な蕾が悪い害虫に食べられないように……。だから、僕は清めてあげたんだよ。そして種を蒔いた。怪我される前にね。でも、彼女はその新芽を摘んでしまった。がっかりしたよ。でも、構わないんだ。種は他にも蒔けるからね」
全身が震えた。こんな男のために忍は……。あんな苦しい思いまでしてあの子は……。

「これで、気が済んだかい? なら、行こう。僕達の家へ……」
武本はわたしの手を取ると、強引に車に乗せようとした。
「いや!」
わたしは先生を突き飛ばして駆け出した。いやだ! こんなの……絶対にいや!

わたしは走った。息が続く限り……。
風が足に絡みつく度、わたしは振り返った。武本の姿は見えなかった。でも、車で追って来てるかもしれない。闇の風がわたしを捕らえようと狙っているかもしれない。わたしは恐ろしくなった。

――愛してるよ

やめて!

――僕と君の強い遺伝子を持った能力者の子どもを

やめて! やめて! やめて!
道をめちゃくちゃに走った。
渦潮のような風が頭上や足元で舞っている。
早苗ちゃんのことがあったばかりなのに……。何でそんなこと……。

――結婚しよう

そこかしこで響く虫の声が、ずっと追い掛けて来る。走っても走っても消えないあの男の影が……。

大通りには車もたくさん走っている。バイクが何台か通り過ぎた。もしかしたら大蛇神の誰かが通り掛かるかもしれない。
それとも、住宅街の方へ行ってみようか。そこに見えてる角を曲がれば学校の裏側、つまりマー坊の家の近くに出る。手前にはコンビニもあるし、そこの横断歩道を渡って行けばメッシュ達のマンションにだって行ける。
わたしはコンビニの方に向かって駆けだした。明かりもあるし、人も通るだろうし、それからどっちに行くか考えればいい。
コンビニの明かりが見えた。よし。マー坊の家に行こう。そっちの方が近いし、忍が一人でいるかもしれないから……。

その時、背後から近づいて来た白い車がわたしの横で止まった。
「武本…先生……」
彼は車を降りると、当然のようにわたしの前に来て言った。
「どうして逃げたの?」
「だって、帰らないと……」
「君の家は僕の家なんだよ。さあ、乗って」
先生は助手席のドアを開けた。

「わたしは行きたくありません」
「何故? もう邪魔者はいなくなったはずだろう。君を虐待していた両親も、君に辛く当たった吉野や富田、みんな遠くに行ってもらった。他にもいるなら言ってごらん? 僕は君の味方だから……」
それはみんな偶然じゃなかったってこと? 本当に武本先生がやったの? だとしたら……。
「さあ、遠慮しなくてもいいんだ。言ってごらん?」
そして先生の顔が近づく。逃げられない。体が動かない。あの時みたいに……。闇がわたしを縛り付けてる。頬に触れられ、キスをされても抵抗出来ずに涙が伝った。

「いいね。少女の涙はこの世で最も美しい。愛しているよ、可愛い君。僕だけのために歌って……。愛しいローレライ……」
「やめて! あなたに言われたくない! ローレライなんて……」
それは特別だったの。それは早苗ちゃんとわたしだけの……。
「そんな風に呼ばないで!」
並木を過ぎる風と虫の声が重なる。

「じゃあ、僕と来てくれる?」
「ひどい……」
武本はそんなわたしの瞼に口づけをした。
「ああ、すごくいいよ。その表情……。でも、心配しないで。今はキスだけでがまんする。だって君は僕にとって特別な存在だからね」
わたしは懸命に闇の風を呼んだ。でも、この男の前では、わたしの力なんてちっとも役に立たなかった。
「ふふ。抵抗してるの? かわいいね。僕は君のそういうところが好きなんだ。最後まで諦めない健気さが……」
そう。諦めたくなんかない! 絶対に……!

その時、並木の方から声がした。
「武本先生……!」
振り向くと、そこには呆然とした顔の忍とリッキーが立っていた。
「おや、西崎さん、体の具合はもういいのかな?」
武本が笑って言った。
「ええ」
忍の目が鋭くなった。
「桑原さんの帰りが遅いので、リッキー、いえ、小林さんとコンビニに買い物に来たんです」

「そう。でも、桑原さんは、今日から僕の家に来ることになってね」
「何故ですか?」
「わけがあって今、ご両親が家にいないので、僕が後見人になったんだ」
「でも、アキラはいやがってたように見えたけど……」
戸惑うようにリッキーが言った。
「いやがってるだって? まさか。そんなことはないよ。ねえ、君。お友達にさよならを言っておいで」
武本が言った。わたしは鞄に付けてたお守りをそっと外して手の中に握り込んだ。

闇の風がモヤのようにわたしの周りを取り囲んでいる。
武本はじっとこっちを見てる。握った手が汗ばんだ。リッキー……。わたしは鞄で隠すようにしてそれを彼に見えるようにちらつかせた。小さな鈴がちりんと鳴った。
「そう。わたしは武本先生の家に行く。だから、心配しないで」
感情を殺してわたしは言った。リッキーが何か言い足そうにわたしを見た。まずい。武本もわたしを見てる。でも、すかさず忍が武本に言い募った。
「どういうことなんですか? どうして桑原さんと……。わたしには納得出来ません!」
「西崎さん……」
武本は少し困ったような顔をした。

「あんまりだわ! わたしのことが一番だっておっしゃっていたのに……」
忍は感情的になっていた。
「本当さ。君のことが好きだよ。だから……」
「うそ! わたし見ました。さっき、桑原さんとキスしてたところを……! 先生はわたしより桑原さんの方が好きなのね! 悪い噂を聞いたけど、わたしは先生のこと信じていたのに……。ひどいわ! こんな風に裏切るなんて……!」
忍は泣きながら訴えた。そんな彼女を見てリッキーはおろおろしていた。でも、武本は完全に忍の方だけを見ている。今だ。わたしはリッキーにそっと指でお守りを示した。この中に連絡先が書いてある。

助けてって……。

でも、それを渡すことは出来なかった。武本が間に入って視界をふさいだからだ。

「君だってだましただろう?」
賑やか過ぎる虫の声を寸断するように武本が言った。
「中絶したことを僕に隠していたね。同意書にサインしたのは僕じゃないのに……」
冷淡な声だった。

「中絶だって……!」
リッキーが驚いて二人を見た。
「次からはきちんと僕に相談してからにして欲しい」
そう言うと武本は、わたしの背中を押した。
「行こうか」
わたしは大人しく助手席に乗った。ドアを閉める寸前、わたしは握っていたお守りをそっと歩道に落とした。お願いよ。リッキー、気づいて。わたしを助けて……。
武本は運転席に乗り込むとドアを閉めて車を出した。

二人の姿がどんどん遠くなって行く。あのお守りの中には平河の番号が書いてある。

――いやなことがあったらさ、いつでも連絡くれよ

閉ざされた車の中で、わたしは鞄を強く抱き締めた。