風のローレライ
第2楽章 風の濁流
4 酔っ払い
駅は人でごった返していた。いったいこの人達はどこからやって来るんだろう。みんなが忙しく動いている。そんな中、募金箱を持った人が、
「アジアの恵まれない子ども達のために募金をお願いしまーす!」
と呼び掛けていた。でも、ほとんどの人は立ち止まらない。
「お願いします」
若いお兄さんが、わたしの前にも箱を差し出して来た。
「ごめんなさい。急いでるの」
わたしは逃げるようにそこを離れた。こっちの方が募金してもらいたいくらいなのに……。でも、その人はみんなから断られ、逆にじゃまだと怒鳴られたりしていた。
あれって闇の風……?
わたしは、少し離れたエスカレーターの影から、そんな彼の様子を見ていた。
「すみません!」
その人は募金箱を持ったまま、泣きそうな顔でしきりに頭を下げていた。
「だいたい、こんなところで迷惑なんだよ! 人にぶつかっておいて、謝りもしないような奴が募金だなんて笑わせるなよ!」
怒っているのは中年の男。その男の周囲に闇はあった。ぶつかって行ったのはその中年男の方だ。
闇は日常的に潜んでる。
油断すれば、たちまちこんなトラブルになる。
それに、お兄さんはちゃんと謝ってるのに、そいつは怒鳴り続けた。周囲の人が顔をしかめて遠回りして行く。
わたしはポケットの中の11円を握りしめてそっちへ走った。
「これ、募金します!」
わたしは怒っている男を押し退けて、強引に前に出ると箱の中にお金を入れた。その男は、わたしをにらんだけど、そそくさと改札の方へ歩いて行った。小さな闇ならば、わざわざ払わなくても、これでどこかに流れ去って行く。
「あ、ありがとうございます」
その人がお礼を言ってくれたので、わたしも笑ってそこから離れた。
でも、これで、ついに文無しになっちゃった。
雨はどんどん強く、激しくなっていた。
スーパーは閉店していた。
駅には電車が着く度に人があふれて来るけれど、みんな、どんどん足早に通り過ぎて行く。
タクシー乗り場だけが長蛇の列になっていた。
制服でうろうろしてると怪しまれるので、トイレで私服に着替えたけど、持っているのが学生鞄じゃ様にならない。でも、コインロッカーに預けるお金もない。
「あんなに欲しかった鞄だったのに……」
こんなの持ってたら、よけいに怪しい感じ。
雨、止まないかな?
わたしは空がうらめしかった。
じっとしてると目を付けられそうだったので、駅の建物から屋根伝いに行けるスーパーの辺りまでを、わたしは何度も行ったり来たりしていた。
「ねえ、君!」
いきなり声を掛けられて驚いたけど、それは募金箱を持っていたお兄さんだった。でも、今はもう箱は持っていない。
彼はビニール傘を差し出して言った。
「よかったら、これ使ってよ」
「えっ? でも……」
「家から持って来たんだ」
「家?」
「僕の家、すぐそこだから……。君、傘持ってないみたいだから……。この雨だものね。帰れなくて困っていたんでしょう?」
わたしはあいまいにうなずいた。
「気にさわったんなら、ごめん」
「ううん。気にしてなんかいないよ。ありがとう。それじゃ、傘借りるね」
わたしがそれを受け取ると、その人は笑って言った。
「返さなくていいよ。たくさんあるから……」
そう言うと、彼は別に用意していた傘を差して歩き出した。
わたしも、その傘を開いて歩道に出た。
それは透明な傘だった。
雨粒がパラパラと音を立て、当たると少しつぶれて転がり落ちた。
頭上には闇が広がっている。
宇宙までも続いている夜。
今は厚い雲に覆われて、星なんて一つも見えないけど……。
宇宙も暗闇だって聞いた。
そこにも風は吹くのかな?
宇宙にも、闇の風は存在してる?
でも、周りもぜんぶ暗いから、普通の風と区別がつかないんじゃないかな?
それとも、宇宙にはそんなもの、存在しないのだろうか?
わたしは、そんなことを考えながら歩いていた。その時。
「きゃっ!」
いきなり女の人の悲鳴が聞こえた。
そこは裏通りに面した路地だった。
見れば、酔っぱらった男が、無理やり抱きついて、彼女にキスしようとしている。
女の人は顔を背け、両腕を突っ張って、その男から逃げようとしていた。
そこは普段から、ほとんど人通りのない場所だった。
暗い街灯に照らされて、男の顔は歪んで見えた。
闇だ! あの場所には闇の風が渦巻いている。
雨が降っても風は吹く。
その男は完全に理性を失くし、闇に操られていた。
きっとお酒を飲んでいるからだ。酔っぱらいは闇に憑かれやすい。
「お願い! やめて……!」
飲み込み切れなかった排水溝の水が道路に流れ、二人の足元を濡らしていた。
女の人の傘は、少し離れた歩道に転がっている。
彼女はその傘を拾おうと、必死に手を伸ばしていた。
「傘ならここにあるさ。おれの傘に入れよ。うんとかわいがってやるからさ」
男はだらしなく笑うと、ズボンのファスナーを下ろした。
「いや!」
女の人が悲鳴を上げ、男はすぐにその口を手でふさいだ。
「こらっ! そこで何やってるの? すぐに離れなさい!」
わたしは怒鳴った。とても見ていられなかったからだ。
「ちっ! 驚かせやがって……。婦警かと思ったら、ガキじゃねえか」
よだれをたらした男が、こっちを見てにやついた。一瞬、男の手がゆるむ。
「逃げて!」
女の人はわたしを見て迷っていた。
「大丈夫だから、今のうちに早く逃げて!」
わたしは叫んだ。彼女は男の手から逃れ、傘を拾うと駅の方へ駆け出した。
「へへっ! そんなら嬢ちゃん、あんたでもいいんだぜ」
男が近づいて来た。
「ただとは言わねえよ。ほら、おこづかいをやろう。いくら欲しいんだ?」
ズボンのポケットから札入れを出すと、1万円札を何枚か出して、ひらひらと振った。
向き直った男の前ははだけ、パンツとその下の物が露出していた。終わってるよ、こいつ……。
わたしは、傘を前方に突き出すと心の中で風を呼んだ。
あんな奴、どうなってもかまうもんか!
わたしは、そいつに向けて闇を放った。
風が渦巻き、閃光が四方に散った。
雨が斜めに打ちつける。
男は暴風に飛ばされ、側溝に足を取られてもんどり打った。
「ひっ……!」
声にならない声を発し、男は引っ繰り返ったカメみたいに手足をばたつかせている。
風と雨が容赦なく、そんな男の体に鞭を打つ。
「た、助けてくれ……!」
そいつは、ズボンをずり下げたまま、這いずるように逃げて行った。
男が行ってしまい、闇の風が消失しても、わたしはしばらくその場から動けずにいた。
傘を持ったまま、しゃがみ込んで、側溝に向かって流れる水の行方を見ていた。
時折吹きつける風はまだ、恨みごとを言うように、耳の奥で反響してる。
ふいに、目の前に飛んで来た紙が、わたしの足先に落ちた。
それは1万円札だった。たぶん、あの男が手にしていたものだろう。お札もいっしょに飛ばされちゃったんだ。
どうしようかとわたしは思った。
汚い金。でも、もらっておこうか。
どうせ、あの男はこのお金を使って女を買うつもりだったんだ。
実際、それは水と泥に塗れて汚くなっている。
でも……。お金はお金だ。わたしは、それを拾うと手のひらでそっとこすってみた。
こんなんだって、乾けば使える。
拾ったお金は警察に届けなければいけないことくらい、わたしだって知ってる。
でも、これは悪い奴が悪いことに使おうとしていた金だ。
そして、あいつがわたしにくれようとしていた金でもある。
迷いはあった。でも、これだけあれば、食事ができる。ジャージだって買える。運動靴も買える。そうしたらもう、バカにされないで済む……。
わたしは、それをもらっておくことにした。
それからまた、雨の中を歩き始めた。
路地には何軒か酒場があって、酔っぱらいや客引きの女達もいた。足元がおぼつかないようなおっちゃんと何回もすれちがった。
大人はどうしてあんなにお酒が好きなんだろう。あんな物、苦いだけなのに……。
わたしがまだ小さかった頃、バカ親に無理やり飲まされて、死にそうになったことがある。
バカ親は病院で、この子がジュースとまちがえて、うっかり飲んでしまったのだと言ってたけど、まちがって飲むなんて考えられない。一口含んだだけでちがうってわかるもん。
酔っぱらいは嫌い! お酒も嫌い! みんな、風に呑み込まれてしまえばいいんだ!
夜の店が密集した繁華街。
本当は、こんな道を通るのはいやだった。
でも、遅い時間になると、どこも人が通らなくなる。
雨の夜は本当に闇が憑きやすいから、用心して歩いた。
この道は夜開いている店が多いから、人も通るし、明かりも点く。
バカ親が勤めている店は駅の向こうにある。その店が終わるのは深夜。今はまだ10時半だから大丈夫。
わたしは、住宅街に続く道を歩いた。
雨はまだ、止みそうになかった。
たくさん並んだ家々も、今はもう寝静まっている。
それとも、まだ部屋にはあたたかい光が灯っているのかな?
あいつはどこに住んでいるんだろう?
あいつ……。平河は……。
わたしはつい、それぞれの門に貼り付いた家の表札を確かめながら歩いた。
バカだね、わたし。
あいつの家がわかったからってどうなるものでもないのに……。
――また、バイクに乗せてくれる?
「平河……」
こんな雨の中、やって来るはずのないバイクの音が聞こえるような気がして、わたしはつい、耳をそばだててしまう。
二つ先の角を曲がるとコンビニがあった。そうだ。そこで何かあたたかい物を買おう。
丁度、曲がり角に来た時だった。
いきなり脇道から飛び出して来た丸い光が、わたしに向かって突進した。
闇に覆われたそれは、恐ろしいモンスターのように見えた。
でも、実際、それはバイクだった。けど、どうして? エンジン音が聞こえなかった。
そのバイクは、路面に溜まった水のせいでスリップしたのだ。そして、コントロールを失って車道から大きく逸れて、わたしにぶつかった。
そう。確かにぶつかったんだ。でも……。
わたしの手から傘が飛び、反動で転んだ。でも、手と膝をすり剥いただけで他は何ともない。
「ちょっと! 大丈夫?」
数メートル先で止まったバイクから降りて来たのは女の人だった。ヘルメットを外すと、彼女は急いでわたしを助け起こしてくれた。
「膝から血が出てる! 他にケガは?どっか痛いところはない? 病院に行く?」
矢継ぎ早に訊かれた。
「いえ、大丈夫です」
わたしは、そう言って立ち上がった。病院なんか行けるはずもない。そんなことをしたらバカ親に知れる。
それに、もう何か月も前から保険がないことを知っていた。滞納が続いて、ついに止められてしまったのだ。
あれがないと医療費がバカ高くつくから、医者にかかれないと親達が言ってた。
「どこも何ともありませんから……」
わたしは言った。
「でも、服がびしょびしょだし……。私が引っ掛けちゃったんだから、責任取るよ」
その人は、黒いライダースーツを着て、髪に紫のメッシュを入れていた。動作も無駄がなくてカッコいい。
「取り合えず、家に来なよ。まず、傷の手当てをして、それから濡れた服を乾かさないと……」
しなくていいって何度も断ったのに、彼女は強引にわたしをバイクのうしろに乗せた。そのバイクは、平河のより一回り小さくて、雨とガソリンと、少しだけ香水のにおいがした。
「着いたよ。そうだ、自己紹介してなかったね。私は田中皐月(たなか さつき)。高3だよ。家には高2の妹二人と中3の弟がいるけど、気にしなくていいからね」
そのマンションに入るのは初めてだった。
廊下にずらっと同じようなドアが並んでいるのかと思ったら、そこは田中さんちだけに通じてるんだって……。何かすごいな。
エレベーターの脇には窓があった。8階から見る景色は何だかぜんぜんちがう。
夜だから、街灯とところどころ点いている明かりしか見えなかったけど、雨のせいか少し悲しい感じがした。
「おいで。そんなとこにいると冷えちゃうよ」
皐月さんが呼んだ。
その家の玄関は広くて、大きなゴムの木の鉢があって、壁にはきれいな絵が飾られていた。
「あら、皐月、お帰りなさい。その子は?」
エプロン姿の女の人が出て来て訊いた。
「あ、ただいま、お母さん。それがさ、バイクで引っ掛けちゃって……」
それを聞いた途端、その人の顔が引き攣った。
「あの、でも、大丈夫なんです。ほんの少し膝をすり剥いただけですから……」
わたしが慌ててそう言うと、その人は少しだけ表情を緩めた。
「でもさ、傷口開いちゃってるし、ちょっと消毒してやった方がいいと思ってさ。連れて来たんだ」
濡れたブーツを脱ぎながら、皐月さんが言った。
「何? どうしたの?」
奥から、何人かの人が出て来て言った。
「ヤバイよ。皐月姉が女の子轢いちゃったんだって……」
先に来た二人は顔がそっくりだった。ただ、髪型だけがちがう。
「轢いちゃいねえよ。見ろ! びっくりしてんじゃん。ごめんね、賑やかで……。これが双子の妹。髪ストレートが楓(かえで)。短いのが夏海(なつみ)ってんだ」
「よろしく」
二人が同時に頭を下げた。
彼女達もそれぞれちがう色のメッシュを入れてる。田中家ではメッシュが流行ってるのかな?
そう思った時、最後に顔を出した男の子を見て、わたしは驚いた。
「メッシュ……」
「アキラ……」
中3の弟っていうのは『プリドラ』のメンバーの一人だった。
「何だ、耕作、知り合いなのか?」
皐月さんに言われて、メッシュがうなずく。
「さあさ、そんなところにいないで。中へお入りなさい。楓、バスタオル持って来て。夏海は何か着替えを貸してあげて」
母親に言われて、みんなはきびきびと動き出した。
「あの……」
皐月さんも服を着替えると言って奥に行ってしまうと、玄関にはメッシュとわたしだけが残された。
「ごめんなさい。あんたの家だなんて知らなくて……」
「いいよ。別に……。皐月がやらかしたんだから……」
そう言うと、彼も奥に行ってしまった。何だろう? この感じ。白過ぎる壁に明る過ぎる照明が、ずっと奥まで床に反射していた。
田中家では、みんな親切にしてくれた。
傷に薬を塗ってくれたし、着替えも貸してくれた。それに夜食も……。
「一心地着いた? なら、耕作に家まで送らせましょう」
おばさんが言った。それは困るとわたしは思ったけど、そんなこと言えば変に思われる。
さっきも着替えをしてた時、体にいっぱいあった痣を見て訊かれた。
――これってまさか、バイクと接触した時にできたの?
――いいえ、違います。これは前からあって……
――前から……?
おばさんは、何か探るような目で、わたしを見てた。
「泊めてやれよ」
その時、リビングに入って来た耕作が言った。
「家で、いやなことがあるんだろ? おまえ」
その言葉に反応して、みんなが一斉にわたしを見た。
「そうね。そうかもしれないわね。いいわ。泊って行きなさい」
おばさんが納得したように言った。
「じゃあ、私達の部屋に泊る?」
夏海さんが誘った。
「そうしよう? 皐月の部屋タバコ臭いし……」
楓さんも言う。
「ふん。黙りな! ガキ共!」
皐月さんは怒ったけど、双子はへっちゃらな顔をして笑った。
「さ、早く行こ!」
わたしは二人に引っ張られて、その部屋に行った。
双子の部屋にはベッドが二つ。机も箪笥もみんな二つずつ揃っていた。
「キラちゃん、きれいな髪してるね」
わたしを椅子に座らせて夏海さんが言った。
「え? でも、ぜんぜん手入れなんかしてないし、長さも不揃いだし……」
わたしは言い訳した。そうだよ。バカ親にタバコやライターを押し付けられて、焦げた髪を切ったこともあるし、髪はいつも自分で適当に切ってたから……。
「私ね、美容師の卵なんだ」
そう言いながら、夏海さんは、わたしの髪に手櫛を入れた。
「そいで、家の連中の頭、実験に使ってんだよね」
楓さんが言う。
「実験だなんてひどいよ。なかなかスタイリシュに決まってるでしょ?」
それでみんな、メッシュとか入れてんのか。
「ねえ、キラちゃんの髪もいじっていい?」
わたしはうなずいた。美容師ってどんなことするのか興味があった。
「ほんと? うれしい! そいじゃ、どんな髪型にしようかな? ちょっとシャギーとかも入れちゃう?」
夏海さんは早速、ビニールのケープをわたしにかぶせ、髪を切り始めた。
彼女がハサミを入れる度、黒い塊が落ちて行く。
何だか小さな闇の風みたい……。そうよ。みんななくなっちゃえばいいんだ。わたしの周囲に纏わり付いている闇の風なんか、みんな消えてしまえばいい……。
そうしたら、今度こそ、わたしは生まれ変わる。そうよ。今度こそ……。
深夜1時を過ぎていた。その日は楓さんのベッドに寝かせてもらった。
双子は一つのベッドに並んで眠った。悪いと思ったけど、彼女達は子どもの頃に戻ったみたいで楽しいと言って笑った。
そして、夜中、わたしはふと目を覚ました。
――どうしよう? お父さんが……
――死んでるの?
――早くどこかへ隠さなくちゃ……
壁の向こうから、そんな声が聞こえた。
何なの? これって……。
薄い闇の中で、双子は気持ちよさそうに眠っている。
――隠さなきゃ
デジタル表示の目覚まし時計の数字が光っている。2時46分。
誰か起きてるのかな?
わたしはそっとベッドから抜け出して洗面所に行ってみた。途中、リビングも通ったけど、誰もいない。
どの部屋も、みんな明かりが消えている。
――早く隠さなきゃ
また聞こえた。これは空耳? それとも……。
わたしは、トイレを済ませると、急いで部屋に戻った。壁にはハンガーに吊るされた、わたしの制服が掛けてある。
――隠さなきゃ
背筋に冷たいものが流れて行った。
どうして気がつかなかったんだろう?
ここは……。闇の風の溜まり場だ……!
「おはよう!」
朝、6時15分にアラームが鳴ると、双子が起きて来て、眠そうに目をこすった。わたしも眠い。
あれから、ぜんぜん眠れずに、布団をかぶっていろんなことを考えていた。
雨はすっかり止んで、窓からは太陽の光が射し込んでいる。
それから、キッチンで、みんなといっしょにトーストを食べた。すごくおいしい。コーンスープもうれしかった。
「どう? キラちゃんの髪型。私がカットしたんだよ」
夏海さんが言うと、みんながかわいいと言ってくれた。
そこにはもう闇はなかった。
誰もこの家のお父さんのことは触れない。訊いてみたかったけど、わたしには勇気がなかった。
7時前には、お姉さん達が出掛けた。
そして、働いているおばさんは、7時半に家を出ると言う。
わたしもその頃に出れば丁度いい。
「洗濯物を干して行くから……。学校が終わったらまた、家に来てね」
おばさんが言った。わたしは「はい」と返事をして、鞄を取りに行った。
「メッシュ、あんたは行かないの?」
私服のままでいる彼を見て、わたしは訊いた。
「行かない」
彼の返事は素っ気なかった。
「どうして? 今日、学校休みじゃないよね?」
わたしは不安になって訊いた。
「ああ。でも、おれは行かない。新しい曲を思いついたから、それを仕上げたいし……」
「曲?」
「バンドの新曲」
『プリドラ』の曲は、ほとんど裕也が詞を書いて、メッシュが作曲しているのだと言った。
「おれはギター担当で、リッキーがドラム、マー坊がベース、そして、裕也がボーカル兼キーボードって感じ」
そう聞いたけど、わたしにはイメージがうまくつかめなかった。彼らが演奏しているところ、一度も見たことなかったから……。
「その曲、できたら聴かせてくれる?」
「ああ」
そう言うと彼は部屋に消えた。
そのあと、わたしは一人で学校に行った。
昇降口のところで西崎に会った。周りの子に何やらささやいてにやにやしている。どうせまた、わたしの悪口言ってるんだ。ムカついたけど、わたしが行動する前に、職員室のドアが開いて担任に呼ばれた。
「桑原、話があるから、ちょっと来なさい」
話? 何だろ? わたしは生徒指導室に連れて行かれた。
狭い部屋に小さなテーブルと椅子が4つ置いてあった。奥の壁には網目の入った窓。壁は灰色に緑が混ざったような微妙な感じだったし、床は白かったけど、ところどころ削れてコンクリートが剥き出しになっている。
「昨日、君のことを職員会議で話し合ったんだけどね、3日間の自宅謹慎ということに決まったんだ」
「自宅謹慎?」
「そう。今日から3日間、家から出ないで反省し、自習とレポートをやってもらう」
わたしは納得が行かなかった。
「なぜですか? どうしてわたしだけが罰せられなくちゃいけないんですか? 西崎さんだってひどいこと言ったのに……! それに、みんなだって……!」
「わからないのか? 暴力を振るった方が全面的に悪いに決まってるだろうが! それに、どう見ても非は君の方にあるんだからね! 火のない所に煙は立たずって言うだろう? だいたい、親を見ればわかるよ。どうせ制服も鞄ももらい物なんだろう? 誰が見たって明らかじゃないか。女のくせに生意気だよ! ほんとのことを言われたからって手を上げるなんて、非常識にもほどがある! 分不相応な言動は慎みなさい!」
「……!」
悔しかった。けど、何も言えない。わたしは唇を噛むと、強く手を握った。
その時、ドアをノックする音がした。
「これから、生徒指導部の富田先生からお話があるから、心して聞くように!」
吉野先生がドアを開けた。厳めしい雰囲気の男の先生がスニーカーでどかどかとやって来て、わたしの前に立った。
「指導部の富田です。君が桑原さん?」
声もどすが利いていていやな感じ。いったいどんな嫌味な説教をされるのかと思って、わたしはずっと下を向いていた。
「ほら、返事は? ちゃんと顔を上げて返事をしなさい!」
吉野先生が怒鳴る。
「……はい」
わたしは渋々顔を上げて、その人を見た。
「あっ!」
思わず息を呑んだ。
「おまえは……!」
相手もわたしを見て絶句した。その男は、昨夜のあの酔っぱらいだった。