風のローレライ


第3楽章 風の涙

3 リンドウ


次の日。学校に行くと廊下で武本先生が声を掛けて来た。
「おはよう! 桑原さん、今朝は調子よくなったかい?」
「はい。ありがとうございます。新しく募金の協力してくれる人も見つかりました」
「それはよかった。西崎さんは、今日はお休みだよ。さっき電話があってね、風邪だって……。今、悪い夏風邪が流行っているようだから、君も気をつけてね」
「はい」
あの西崎でも風邪をひくんだと思うと笑いそうになったけど、武本先生がいたので、じっとこらえて下を向いた。

先生と別れたあと、教室の前で裕也と会った。
「キラちゃん、今日の放課後空いてるか? 急だけど、第2音楽室で練習しようってことになったんだ」
「うん。大丈夫」

プリドラのメンバーが、早苗ちゃんのためのチャリティーコンサートをやってくれることになっていた。
それで、わたしも2曲歌う。ちょっとドキドキするけど、メッシュと密かに練習してたから、ちょっとだけ自信ある。
これは絶対に成功させなきゃいけない。
だって、詩を書いたのは早苗ちゃんなんだもん。
お見舞いに行った時、早苗ちゃんが見せてくれた秘密のノート。そこからいい詩を選んで、メッシュに曲を付けてもらった。
チャリティーで披露して、募金を集めるためと、もう一つ、秘密の計画がある。
それは、録音した曲を早苗ちゃんにプレゼントすること。自分の詩が歌になるなんて、どんな気持ちがするだろう。
きっと喜んでくれるって思うから……。

今日は西崎が休みだから、教室が静かだった。
いつもなら話し掛けて来ない奴らも、なぜかわたしと話をしたがった。西崎って、ほんとは嫌われてるんじゃないの?
ただ、午後の家庭科の授業は最悪だった。

――まあ! 何てやり方してるの! 玉結びもできないなんて! 小学校で何を習って来たの?
――あの、ちょうどその時休んでしまって……
――どうせ、ずる休みでしょ? 呆れるわね。そんなとろとろしてたんじゃ夏休みまでに仕上がらないわよ!
井口というおばさん先生はヒステリックに怒鳴った。
――このままじゃ、高校の内申にも響いちゃうからね! ああ、でも、あなたは進学しないんだっけ?
見下した目で笑う。何よ! 人の話もろくに聞かないで! いったい何様のつもり? 先生だからってそんなことまで言うなんてひどい!
小学校の時の家庭科もひどかったけど、これじゃ、家庭科なんて大っ嫌いになりそう。
学校の先生ってのも、ほんとピンキリだと思う。
帰りのホームルームで武本先生の顔見たら、少しは気が和んだけど、授業で仕上がらなかったところは家でやって来いなんて、ほんとウザイ!

でも、放課後、久々にプリドラのメンバー全員がそろって、曲の練習をして、思い切り声を出したらすっきりした。
リッキーやマー坊、それにメッシュも……。彼ってこんな時には学校来るんだ。
「やっぱ、いいね。最高だよ、キラちゃんのボーカル!」
裕也がほめてくれた。うれしい。

「はじめはひどかったけどな」
メッシュがぼそっとつぶやく。
「もうっ! どういう意味よ?」
わたしは少しむっとして言った。
「だって、楽譜も読めないし、1フレーズずつギター弾いてやって、ようやくここまで来たんだぜ」
「仕方ないよ。音楽もろくに授業出れなかったんだもん」
そう。小さい時はよく学校を休んだ。でも、早苗ちゃんのように病気をしてたからじゃない。親が行かせてくれなかったから……。
それに、小学校には、武本先生みたいに、わたしを庇ってくれる人がいなかった。
それからいったら、今は恵まれてる。家庭科の先生なんて放っとけばいいか。

「あれ? そういや、今日は忍が来てないな。いつも、裕也のこと追い掛け回してんのに……」
リッキーが言った。
「ああ。今日は西崎さん休んでるよ。風邪だって……」
わたしが言うとマー坊が茶化すように言った。
「はは。それって鬼のかくらんじゃねえの? あいつ、どんな時でも裕也のスケジュール調べてべったりだったじゃん」
やっぱ、そう思うんだ。彼女、どう見てもしぶとくて風邪なんかひかなそうだもんね。
「そうか。じゃあ、お見舞いに行った方がいいかな? おれ、入院してた時、何度も来てもらっちゃったし……」
裕也が言った。
「やめとけって。風邪うつったらどうすんだよ? 本番は来週なんだからな」
リッキーが止めた。
「わかった。じゃあ、キラちゃん、彼女が学校来たら教えてよ」
裕也が言うので、わたしはしぶしぶうなずいた。


西崎は、それから3日間、学校に出て来なかった。熱が下がらないのだと武本先生が言った。
何かかわいそう。あいつのことは嫌いだけど、病気になったのはやっぱ気の毒だと思う。
そういえば、クラスの中にも咳をしている子がいる。わたしは、めったに風邪なんかひかないけど、来週の日曜日にはコンサートがある。
せっかく、これまでがんばって練習して来たんだもん。体調には気をつけなきゃね。

ここのところずっと、放課後にはプリドラの連中と歌の練習をしている。
学校が音楽室を貸してくれたから……。でも、それは、あの西崎の口利きなんだって……。
そんなことができるのは、親の権限があるからだとリッキーが言った。

――やっぱ、親が金持ってるといいよな。世の中、金さえあれば、やりたい放題なんだぜ

リッキーは西崎の家の隣に住んでいるから、小さい時からあいつの贅沢三昧な暮らしを見て来たんだと言った。
確かにそうなのかもしれない。
お金さえあれば、命だって買える。お金さえあれば……。

その日、練習が終わってから、ふと忘れ物に気づいて、わたしは一人で教室に戻った。
誰もいない教室はちょっぴり寂しい感じ。
「あった! 数学の教科書」
ぎゅうぎゅうに詰められた机の中から、それを引っ張り出すと、わたしは鞄に入れた。
別に持って帰りたかったわけじゃないけど、宿題が出たんだ。それだけなら構わないんだけど、明日は、わたしまで順番が回って来る。
坂下先生は吉野ほどじゃなかったけど、忘れ物をしたり、指名されたのに答えられなかったりすると厳しい。
特に、宿題忘れには出席簿の角で叩いて来るから痛い。だからって、いい子ちゃんになろうってわけでもないんだけど、痛いのはいやだから……。

廊下に出るとしんとしている。もう部活の時間も終わって、下校時刻も過ぎていたから、生徒はほとんどいなくなってた。
薄暗い廊下を通って階段を下りる。見慣れたはずの校内も、暗くなると不気味な闇が潜んでいるような気がする。
わたしは急ぎ足で昇降口を目指した。職員室には、まだ明かりが点いていて、先生達が仕事をしている。
脇にある校長室のドアは少し開いていて、中から話し声がもれていた。

「ですが、その……武本先生、いくら何でもそれは私としましても承服しかねますよ。それに保護者が……」
校長は、いつもながらのしどろもどろな感じの答えを繰り返している。朝礼の時もそうだ。
一番長くてつまらない話をだらだらするから、誰も聞いていない。そもそも何を言ってるかだってわかんないんだから……。
でも、今はその話の内容が気になった。武本先生が、校長を困らせるようなことを言ったらしいから……。何だろう?
悪いとは思ったんだけど、ちょっと興味があったので、わたしは立ち止まった。

「できないとおっしゃるのですか? それなら、僕はここを去るだけです。でも、会でのあなたの立場はどうなるでしょう?」
「しかし……」
「教師という仕事は、僕にとっての天職だと思っています。クラスの生徒達はみんなかわいい。そのかわいい生徒達を守ってやりたい。この手で愛してやりたいんですよ。それがいけないとおっしゃるのですか?」
風の中に花びらが散った。

「……わかった。何とかしよう」
校長は口ごもりながらも納得した。
「ありがとうございます。賢明なあなたのことだ。良識ある選択をしてくださると、僕は信じていました。それでは、後日、木ノ花会の会合でお会いしましょう。それでは、僕は失礼致します」
そう言うと、武本先生はドアを開いて出て来た。

「あれ? 桑原さん、今、帰りですか?」
武本先生が言った。
「あ、はい。音楽室で練習してたんですけど、忘れ物を取りに来たんです」
「そう。熱心だね。来週のチャリティーコンサート、成功するよう、僕も祈っているよ」
そう言うと、先生は足早に職員室へ入って行った。
いつもと変わらない笑顔だった。でも……。何か心配ごとでもあるのかな? 校長先生と何か深刻そうな話をしてたけど……。

――それなら、僕はここを去るだけです

何だかよくわからないけど、武本先生が辞めちゃうなんて……。そんなことになったらどうしよう。また味方になってくれる人がいなくなっちゃう。それだけが不安だった。
昇降口に着くと、もう誰もいなくなってた。何さ。ちょっとくらい待っててくれたっていいのに……。
わたしは一人で校門を出た。


「よっ! キラちゃん!」
大通りに続く道の角を曲がった時、今井がバイクで近づいて来た。
「ほら、収穫」
脇に止まると、彼は封筒を差し出してウインクした。
「これって……」
それは少し膨らんでいた。
「何? 署名?」
そう訊いたら、今井は呆れた顔で言った。
「金だよ、金。17万ある。取り合えずな」
「17万?」
わたしは驚いてきき返した。1万円集めるのだって何日も掛かるのに……。たった3日でどうやって集めたんだろ?

「へへ。すげえだろ? ダチも協力してくれたからさ。どうだ? もっと要るなら、じゃんじゃんかせいで来るぜ」
「じゃんじゃんって……。あんた、この金どうやってかせいだの? まさかまた、バイクで引ったくりとかやったんじゃないでしょうね?」
わたしはきつく睨んで言った。でも、今井は軽く肩をすぼめただけだった。
遠くで雷が鳴っていた。それはまだ、車のエンジン音に消されそうなほど小さかったけど、やがて大きくなるだろう。道を行く車を呑み込むくらいに……。
「他に何やったら、こんなにかせげるってんだ?」
その顔に稲妻が反射する。
「だめだよ! こんな汚い金なんて使えない。きっと早苗ちゃんが喜ばないよ」
ふと見ると、アスファルトに闇が吹き抜けて行く。

「何甘っちょろいこと言ってんだよ? 世の中金だ! 金がない奴はただ、こき使われて、虫けらみたいに死んじまうんだぜ。おれの親父みたいにな!」
「今井……」
その顔に暗い影がよどむ。風に飛ばされた雨粒がほつりほつりと肌をぬらす。突然、とどろくような雷鳴が空を砕き、その音がいつまでも心の中で響いた。
「金にいいも悪いもあるもんか! 汚いのは金じゃない。そいつでいい思いをしている人間達の方なんだ。そんな連中から金を盗ったって何も悪いことなんかねえ。真面目にやってたらバカを見るんだ。世の中ってのはな」
「だけど……」
「友達を助けたいんだろ? なら、受け取れよ」
「でも……」
今井の言うことはもっともだと思う。リッキーだってそう言ってた。だけど、それでいいの?

――真面目にやってるとバカを見るぜ

「そうだね」
本当はわたしだってわかってるんだ。いくら声をからして叫んでも、1億円なんて大金、とても集められそうにないって……。
だけど、その間にも、病気はどんどん進行して行く。
早苗ちゃんの命が縮まって行く。
助けたい。どうしても……。
たとえ、どんなことをしてでも……。
「わかった。受け取るよ」
わたしはその封筒を受け取った。


  夢の中で わたしは空を駆ける
  風をつかまえ
  異国の空へ
  鳥達が羽ばたくように
  ガラスのオールをはためかせ
  空色の筏に乗って 地上を見たの


口を突いて出たのは、早苗ちゃんが書いたあのノートの詩……。
降り出した雨の中で、わたしはいつまでも晴れない空を見つめていた。


雨はますます激しくなっていた。
わたしは、公民館の軒先で雨宿りをしていた。傘を持っていなかったから……。
目の前に立ったメッシュも傘を差していなかった。
ぬれた髪から滴が幾筋も伝っている。

「それ、本当なの?」
わたしは信じられなかった。
「ああ。さっき警察も来て、いろいろきかれていた」
「どうして……!」
雨の音に消される声。信じたくなかった。マー坊のおばあさんが死んだなんて……。
だって、こないだまで、あんなに元気だったんだよ。それが、何で……!

「どうして警察なんかが来てるの?」
「家で亡くなった場合は一応、事件性がないかどうか調べるのさ」
淡々と答える彼の顔に、道を過ぎる車のライトがよぎる。
「でも、どうして……。何で死んだの?」
「心筋梗塞だってさ。何か大きなショックを与えるようなことがあったんじゃないかってきかれたみたいだけど、マー坊には心当たりがないって言ってた」
「大きなショック……。それってトラが死んだことじゃないよね?」
だとしたら、うちのバカ親のせいだ。でも、メッシュは、その場で起きたことっていう意味だから違うだろうと言った。

それを聞いて、少しはほっとしたけど……。そうやって安心している自分に腹が立った。
だって、それっておばあさんのことを思ってのことじゃないんだもん。わたしは、自分の気持ちのことしか考えていなかった。
もしも、あのバカ親がやらかしたことが原因でおばあさんが死んだのだとしたら、わたしの心が傷付く。
それがいやだっただけかもしれない。そう気づいたら、何だかすごく自分に腹が立ったんだ。

おばあさんがかわいそうだ。
素直に悲しんであげられないなんて……。
どうしてだろう? 涙が出ない。
それって今、目の前におばあさんがいないから……?
それだけのこと?

「裕也がさ、コンサートを延期しようかって言ったんだけど、マー坊はこのままやろうって……」
「でも……」
「リッキーも無理するなって言ったんだけど、一度決めたものは何があっても決行するのが筋だって……。だから、コンサートは予定通りやるよ。アキラもそのつもりで……」
「わかった」
何だか、ひどいやりきれなさが残った。

コミュニティ祭でのチャリティーコンサート……。
おばあさんも見に来てくれるって、あれほど約束してたのに……。

――このリンドウのお花が咲いたら、教室に持って行ってね


なのに、花は咲かないまま、窓辺に並んで、緑の葉を茂らせていた。
その夜、田中家の人達とマー坊の家に行くと、彼は、ただ静かに、おばあさんの脇に座っていた。
わたしは何も言えずに、眠っているようにしか見えないおばあさんの顔を見つめた。

この間、話したばかりだったのに……。
もう、口を利いてくれないのだと思うと胸が熱くなった。なのに、手や顔は冷たい雨に打たれたように冷えている。
触れると、おばあさんの手も冷たい。ううん。それはただ、体温が抜けて熱が奪われただけ……。
だから、おばあさんの手はこんなにも白く透けているんだ。白いろうそくみたいに……。

そして、おばあさんの体から抜け出た魂はどこに行ったんだろう?
まだ、この部屋のどこかにいるのかな?
だったら、わたしの声が聞こえる?

わたしは、小さな声で、ありがとうと言った。
おうちに泊めてくれて、あたたかいごはんを食べさせてくれて、着替えや鞄を用意してくれて、それに、たくさんのやさしい言葉をくれて……。本当に心からありがとうと言った。

でも、できるなら、生きているうちに伝えたかった。もっといっぱい、ありがとうって言っとくんだった。
だって、すごくうれしかったんだ。こんな風に親切にしてもらって、ものすごくうれしかったんだよ。大人になったら、きっとおばあさんに恩返しをしようと思っていたんだ。それなのに……。


告別式には、武本先生も来てくれた。わたしはおばあさんに最後のお別れをした。
空に昇って行く煙を見ていたら、急に涙があふれて、頬を伝った。
でも、これって悲しみなのかな?
だって今、わたしの心は何も感じていないんだもの。
空っぽなんだ。
なのに、何で涙が出るんだろう?

早苗ちゃんが死ぬのはいやだと思った。
それはきっと、すごく悲しいと思うから……。
トラが死んだ時も悲しかった。
でも、それって何なんだろう?
悲しいってどういうことなんだろう?

こんなに、何もない空っぽな気持ちが、悲しいってことなの?
わたしは何だかわからなくなった。
そして、わからないまま、涙を流し続けた。


その日の夕方、プリドラの練習はなかったので、わたしは街に出て、募金活動をした。
でも、お金は思ったようには集まらなかった。何人かの人が足を止め、小銭を入れてくれたけど、多くの人はそのまま通り過ぎた。

そろそろ帰ろうかと思った時、バイクのライトが近づいて来た。平河だった。
「キラちゃん、募金はどう?」
「今日はぜんぜんだめ」
わたしは首をすくめて言った。
「そうか。おれの方もたくさんってわけじゃないけど、少し集まったから渡しておくよ」
そう言うと、彼はお金の入った袋をくれた。
「ありがとう」
わたしは、それを受け取り、鞄に入れた。

「ところでさ、おまえ、今井に会ったんだって?」
「うん。あいつにも募金を頼んだよ」
平河は少し渋い顔をした。
「で、あいつは金持って来てくれたのか?」
「うん。17万」
「それってさ」
平河が何を言おうとしているのか、わたしにも見当がついた。
「わかってる。でも、それくらいのことやんなきゃ集まるはずないじゃん。1億円だなんて……」
「だけど、そんなことに関わったら……」
「言わないで! わたしにだってわかってるんだから……。平河にもそれをしろなんて言わないよ。でも、世の中にはお金をくだらないことに使ってる奴が大勢いるんだよ! そんなら、その金を早苗ちゃんの命を救うために使ってもらった方がよほど社会貢献になるってもんだよ」

わたしは、富田の下品な笑いと、手にした札びらを思い出していた。
あんなお金の使い方をする大人がいるから、世の中ちっともよくならないんだ!
平河は悲しそうな顔をした。でも、わたしはそれを無視した。
「もう、なりふりなんか構っていられないんだ」
そうだよ。早くしなければ、早苗ちゃんもマー坊のおばあさんみたいに死んでしまう。

「わかったよ。おれもできるだけ協力するから……」
そう言うと、平河は黙ってバイクを発進させた。
「……ごめん」
わたしだって、ほんとはあんな言い方するつもりじゃなかったんだ。でも……。
あいつがくれたお守りが、ちりんと小さな音を立てた。その響きは空耳のように心の奥に残り続けた。


金曜日。武本先生から放課後、生徒指導室に来るように言われた。
何だろう? わたしには思い当たることがなかった。
募金のことは朝、ちゃんと申し送りをして、集めたお金も先生に渡した。先生は募金用の通帳を作ってくれて、そこに入金してくれている。

明細によると、今は全部で37万4232円ある。
短い間にそれだけ貯まった。でも、まだまだぜんぜん足りない。
保護者会の方でも呼び掛けてくれてるそうだけど、そのお話かな?

授業が終わり、わたしは指導室のドアをノックして中に入った。
テーブルの上には、リンドウの鉢植えが一つ置かれている。
武本先生は、向かいのソファーに掛けるようにと言った。

「実は、今日、警察から連絡があってね」
先生は少し顔を曇らせていた。
「警察?」
まさか、今井がドジ踏んだんじゃ……。
「金杉高校の今井聡君のことは知っているね?」
やっぱりそうだ。わたしはうなずいたけど、動揺をかくせなかった。
「昨日、その今井君が引ったくりで捕まったんだ。所持金が多かったのでその使い道をきかれた彼が、病気の女の子のための募金をするお金なのだと言ったそうだ。それが事実なのか学校に問い合わせが来たんだよ」
「……」
わたしは固く手を握ったまま、下を見ていた。

「彼は君に頼まれてやったと言ったそうだ。それは事実なの?」
わたしは黙ってうなずいた。隙間風が冷たさを含んで足元を通り過ぎる。武本先生は軽くため息をついて言った。
「気持ちはわかるけど……。先生は悲しいよ。君がそんなことしてたなんて……」
その表情は堅かった。わかってる。わたしは武本先生の信頼を裏切った。叱られたって当然だ。わたしが悪いんだもの。先生を悲しませてしまったわたしが……。

「かわいそうに……」
先生は慈愛に満ちた目をして言った。
「友達を助けたいと願うあまりのことだったんでしょう?」
「……」
「やさしいんだね。そんな子、僕は好きだよ」
穏やかな声だった。その顔に、蛍光灯の白い光の影が落ちる。

「だからね、事件の方は僕がもみ消しておいた」
「えっ?」
一瞬、先生が何を言っているのかわからなかった。
「つまり、僕達はもう、共犯ってわけ」
背後で闇が静かに徘徊していた。
わたしは落ち着かない気持ちでいっぱいになった。

先生は目の前の鉢植えを見て笑った。
「ねえ、リンドウの花言葉って知ってる?」
唐突な質問だった。わたしは首を横に振った。何だか背中がぞわついた。先生は何を言おうとしているんだろう。

「それはね」
影が揺らめき、唇が音を発した。
「あなたの悲しむ顔が見たい」

先生が立ち上がった。その顔は少し歪んで見えた。わたしも反射的に席を立つと一歩うしろに下がった。
何かヤバイ。わたしはドアの方に逃げようとした。でも、先生が追って来て、わたしの手首を掴んだ。
「告別式で涙を流していただろう? ステキだったよ。君の悲しむ顔……。とても気に入った。すぐにも手に入れたいと思ったんだけど……。待っていてよかったよ。こんなチャンスに恵まれるなんて……。僕達は同じ秘密を持った仲間になれたんだからね」
「やめてください! わたしは……」
ドアノブに手を掛けた。でも……。
「開かない……!」
どうして? 振り向くと、武本先生は笑っていた。いつものように……。でも、それは仮面の下にある犯罪者の顔を隠すためだったんだ。わたしは何とか逃げ出そうとした。けど、壁の近くに追い詰められた。

「本当にかわいいよ。僕はね、前から君が欲しかったんだ。だから君の担任になったんだよ。うれしいだろ?」
肩をつかまれ、強引に唇を押し付けられた。
「いやあぁっ!!」
わたしは風を呼び、渦巻く闇を放った

もう、どうなったってかまうもんか! こんなのいや! 信じていたのに……。本当に先生のこと信じて……。
部屋の中で闇の風が暴れ回った。何もかもが闇に溶け、そこにあったすべての物が飛ばされて砕けた。
そして、武本先生も……。闇の風に呑まれて……消えた。
大好きだったのに……。
こんなことするなんて……。
わたしは乱れた服を直すと、ちぎれそうになってるボタンを必死に留めた。
全身が小刻みに震えて、立っているのもやっとだった。

わたしは人殺しになっちゃうの? 熊井の時には確信が持てなかったけど、やっぱり闇の風は人を殺す武器になるんだ。
先生を殺してしまった。
もう取り返しがつかないよ。どうしたらいいの? これから先、いったいどうしたら……。
だけど、こんなことになったのは、わたしのせいばかりじゃない。先生だって悪いんだ。あんなことしようとした先生が……。
闇がけたたましい声で笑っている。わたしの中で……。
獲物を求めて暴れ回る。
ああ。わたしは、どうなってしまうの?
「怖い……」

「怖くないよ」
突然、闇の中から人影が現れた。
「武本先生……!」
どうして? 闇の風に喰われたはずなのに……。何で先生がここにいるの?
「ああ、何てステキなんだ。桑原さん。まさか君が僕と同じ風の能力者だったなんて……」
「風の能力者?」
先生はいきなり、わたしを抱きしめた。
「やめて!」
「いいね。その顔。実にいいよ。今度、僕の彫刻のモデルになってよ。ほら、そんなに緊張しなくていいんだよ。もっとも君の風のレベルじゃ、僕には通用しないけどね」
体が動かない……! 金縛り?
わたしは周囲に漂う闇の風を集めて放った。でも、先生には歯が立たない。

「あは。勇ましいね。でも、言ったでしょう? 君と僕とでは、レベルが違い過ぎるんだよ」
レベル? それじゃあ、他にもこの風の力を使える人がいるの?
「じっとしてて。ちょっと君の体、調べさせてもらうよ」
先生はわたしの制服のボタンを一つずつ外した。
わたしは抵抗できないまま、服を脱がされ、その目に曝された。恐ろしくて足が震える。
頬に伝った涙を、指先でなぞると、先生は軽い頬ずりをして来た。
「……!」
でも、それ以上のことは何もしなかった。
それから、わたしに服を着せ、金縛りを解いた。

解放されて、わたしは、床に座り込んだ。
涙だけがやたら流れた。
でも、何も言葉にならなかった。こんな恥ずかしいことされて、とても恐ろしかったのに……。
思い切りののしってやりたいのに……。何も出て来ない。

「大丈夫?」
武本先生はやさしく言うと、わたしの肩に手を乗せた。瞬間、体がびくんと震えて、その手を払い退けようとしたけど、拒否することができなかった。
「僕達は仲間だ。うれしいよ。これからは君の成長も見ることができる。僕達、とてもうまくやって行けると思わないか?」
先生はやたら陽気にしゃべりまくった。
「今日はなんてステキな日だったんだろう。君のおかげで高ぶったよ。でも、安心して。まだ、君を壊したりしないから……。だって、君には僕と同じ力が備わってる。末長く付き合って行きたいんだ」
それは最悪の出会いだった。
「さあ、もう行ってもいいよ。明日、また会おう」
能力者の先生はいつもと変わらない笑顔でドアを開けてくれた。

夢だったらよかったのに……。
でも、それはみんな本当のことだった。
校舎に纏わる闇が不吉な未来へと誘う死神のように見えた。
そして、走っても走っても逃れられない闇の手が、どこまでも追い掛けて来た。