ダーク ピアニスト
前奏曲3 銀色の扉
ギルフォートは時計を見た。約束の時間はもうとうに過ぎている。が、ルビーの姿はまだ見えない。
「遅い……」
彼は上着を取った。
ルビーと初めて会ってから3年が過ぎていた。ルビーも18になり、成人を迎えた。その間に訓練は進み、かなり普通の人間と変わらないくらいにまで動けるようになった。出会った時には150cmにも満たなかった身長が10cm以上も伸びた。それでもドイツ人男性の平均身長の180cmには遠く及ばなかったのだが……。身体が小さくて軽い分、俊敏性には長けていた。持久力が持たない事が難点ではあったが、訓練の効果は着実に上がっていた。
ルビーも最近ではすっかり慣れて、訓練に遅刻する事もなくなっていたので、ギルはルビーの今回の遅刻は納得が行かなかったのである。
ラズレイン家に着いた。
「ルビーはいますか?」
エスタレーゼに尋ねると2階にいると告げられた。
「わかりました。ちょっと失礼します」
彼は大股で階段を駆け上がるとルビーの部屋のドアをノックした。
「ルビー、いるのか?」
返事はなかった。が、彼はドアを開けた。
「一体何時だと思ってるんだ? 訓練にも来ないで」
ルビーはベッドの中にいた。そして、毛布にくるまったまま首を竦めて彼を見つめる。
「どうした?」
ギルフォートが近づくと、ルビーは毛布を引っ張り上げて顔を隠した。
「具合でも悪いのか?」
それを剥がそうとするとますますしがみついて丸まった。
「黙っていたらわからないだろ? さあ、言ってごらん」
ルビーはちらと毛布を下げて彼を見た。それから気まずそうに言った。
「僕、病気なの……」
「病気? 熱でもあるのか?」
額に手を当てようとするとそれを拒んだ。が、熱はなさそうだ。
「なら、何処か痛むのか? 頭か? それとも……」
「ううん。違うの……」
「それじゃ何だ? 気分でも悪いのか?」
「う…ん……」
曖昧に返事してまた毛布に潜ろうとする。
「吐きそうなのか? それとも……」
「ちがう。でも、何か……変な感じなの……」
泣きそうな顔でルビーは言った。
「変って? 何処が?」
ギルフォートはじっと彼の様子を観察した。
「それがよくわからないの」
「仮病じゃないんだな?」
「違う……。ちゃんと朝、起きて行こうとしたんだ。でも……冷たいの。それでゴワゴワしたの。痛いの。でも、気持ちいいの。それで、何だかとっても変な感じして……」
「ふむ」
ギルは少し穏やかな顔になって言った。
「それは、多分、病気じゃない」
「本当?」
不安そうに見上げる彼にやさしく言った。
「もしかして、おまえ、まだだったのか?」
「まだって?」
いろいろな面でルビーは成長が遅かった。普通なら当然知っているであろう性の知識もまるでない。が、それにしても、まさかこの年になるまでそういう事がなかったのかと驚きながらも、ギルフォートは単刀直入に訊いてみた。
「それは、夢精じゃないのか?」
「夢精って? 何? 僕は病気なの?」
泣きそうな顔で彼を見つめる。
「病気じゃないよ。ほら、ちょっと見せてごらん」
やはり、彼は知らないのだ。そして、今日、初めて経験した。
「でも……」
ルビーはもぞもぞと毛布に絡まった。その頬がほんのり赤い。
「夢を見なかったか?」
ギルはさり気なくそう言った。
「見た」
やはり、そうなのだと確信しつつギルは訊いた。
「それは女の夢だったんだろ?」
「うん……とてもきれいな人だったの。でも、何故かその人は服を着ていなくて……それで、僕……悪い子になったの。その人に悪い事しようとして、それで……」
「気持ちがよくなったのか?」
「どうしてわかるの? ギルは夢にいなかったのに……」
「わかるさ。みんなそうだから……」
「みんな? それじゃ、ギルも?」
「そうだ」
「ギルも悪い子なの? 女の人に悪い事してるの?」
「それは……悪い事なんかじゃないさ」
「でも……」
ルビーは泣き出した。
「どうして泣く? おまえも大人になったんだよ」
「大人?」
ルビーは別の事を考えていた。
「うん。僕はもう大人だよ。18になったもの……。でも、18になったのに、兵役に行かないなんてやっぱり僕が普通じゃないからだってみんなが馬鹿にするんだ!」
と悲しそうに訴える。
「その代わり、奉仕活動に参加してるだろ? 同じ事なんだよ。ここドイツでは、兵役か奉仕か選ぶ事が出来るんだ。恥じる事じゃない」
「けど、ジャンやマチアスが……」
「連中の方が馬鹿なのさ。だから、気にするな」
ギルはいつになくやさしかった。
「不安だったの。僕はみんなと違うから……。だから、こんな変な病気になったんだと思ったの。だって、本当に変なんだよ。夜だけじゃなくて……昼間も変な感じするんだ。その、外を歩いている時やテレビを見ている時にも……その、きれいな女の人の写真や短いスカートや胸やお尻やなんか見る度にドキドキして変な感じするの。熱くなって、頭の中がぼうっとして……それで、きっと僕、頭がおかしいんだ。ねえ、また、病院へ行かなくちゃ行けないの? 僕の頭がおかしいから精神病院に閉じ込められていたんでしょう? だったら、また僕を閉じ込める? あの病院へ閉じ込める? いやだよ! あんな所に行くのはいやだ! 死んじゃうよ! 僕、死んじゃう! あんな所へやられたら……!」
「ルビー……」
「お願いだよ。僕を精神病院へやらないで! あんな所には行きたくない! 行きたくないよ、絶対に! だから、お願い……。僕を助けて! 何でもするよ。あなたのためなら何でもする! だから、お願い……。僕を死なせないで……!」
しがみついて来るその手を掴んでギルフォートは言った。
「やらないさ」
「ギル……?」
「おまえは病気なんかじゃない。だから、病院に行く必要なんかないんだ」
「本当?」
「ああ。だから、安心しろ。病気どころか、おまえはちゃんと成長して一人前の男になったんだよ」
「男?」
「きれいな女や裸を見て反応するのは普通の事なんだよ。ごく自然の事なんだ。男と女がいて、愛し合う。それが当たり前の事なんだ。いつか大人になって心から愛し合える人と巡り合い、結婚して家庭を作る。そして、身体を重ね、子供が生まれる。その準備が出来たという訳だ」
「準備?」
「子供を作る準備さ」
「準備って……卵が出来るの?」
「そう。卵だ。女が持っている卵と男が持っている卵がくっついて一つになる。そうして赤ん坊が生まれるんだ」
「くっつくって? 合体するの? テレビアニメのロボットみたいに?」
「うーん。まあ、そんな感じだ」
「そうか。合体だ! ねえ合体するって気持ちいい?」
「まあな」
「ふーん。それじゃ、僕も早く合体してみたい! ねえ、いつになったら合体出来る?」
「それはその……本当に心から愛し合える女性と巡り合えたらだ」
「ねえ、どうやって合体するの? そして、どうしたら赤ちゃんが出来るの? ねえ」
ルビーは性について関心を持ったらしく次々と質問して来た。
それはよい機会だと思い、ギルフォートは面倒がらずに質問に答えてやった。そして、本屋へ出向いてわかりやすく絵のついた子供向けの性教育の本を買ってやった。DVDも参考にした。知らないよりは知っておいた方がずっといいに決まっている。ルビーも知識を欲しがったので、他のどの訓練よりも捗った。が、一つ厄介な問題も持ち上がった。感受性の強いルビーはちょっとした事ですぐに身体が反応してしまう。目覚めたばかりの思春期の少年のように……。
「ギル……」
街の中だった。突然、ルビーが立ち止まって言った。
「どうした?」
先を歩いていたギルフォートが戻って来て訊いた。
「あれなの……」
ルビーが俯いてそっと指差す。その先にはセクシーな女のポスターが飾られている。
「またなのか?」
「うん。またなの」
ルビーが頷く。
「あんなのでいちいち反応していたら身が持たないぞ。早く来い」
そう言って行こうとするギルフォートの腕を掴んでルビーが言った。
「歩けないの」
と泣きべそをかく。
「そんなことはないさ。さあ、来るんだ」
その腕を引っ張ると更にしがみついて言った。
「だめなの! ほんとに、歩けないの。歩いたら、その、もうだめなの」
と言って泣き出す。通り過ぎる人の視線を避けてギルは言った。
「わかったから泣くな。車まで連れて行ってやる」
仕方なくギルフォートは彼を背中に背負って車に急いだ。
「ほら、着いたぞ」
後部座席のドアを開けて彼を下そうとするとルビーはギュッとその首にしがみついて離れない。
「おい、どういうつもりだ? 降りろ」
「いや……」
微かに言うと身体を揺らす。
「こら! おれの背中にこすりつけるのはやめろ!」
「いや! こうしてると気持ちいいの。ギルの背中、気持ちいい……」
「貴様……!」
ギルは、いやがるルビーを強引に引き剥がすと車の中に放り込んだ。
「あーん。いやだよ! もっとしたいの。ギルのがいいのぉ」
「うるさい! 黙れ!」
泣きながらしがみついて来る彼を殴りつけて黙らせようとするが、更にその手に絡みついて来る。
「貴様、いい加減に……」
その手を掴んで剥がそうとすると、ルビーはぎゃんぎゃん大声で泣き出した。
「くそっ! 何て……」
どうしたものかと思案した。その時、いきなり背後から声を掛けられた。
「警察の者ですが、ちょっとお話を……」
「警察?」
憤然として振り返ったギルを年配の警官が車から引き離す。そして、もう一人の若い警官が車の中で涙を浮かべていたルビーに話し掛けた。
「君、大丈夫か? お巡りさんが来たからもう安心だよ。可哀想に……。酷いことをされたのかい? さあ、もう泣かないで。我々は君の味方だ。何もかも話してごらん」
彼らはギルが子供を拉致しようとする悪質な性犯罪者と勘違いしたのだ。それはとんでもない誤解であったが、その誤解を解くために思ってもない苦労を強いられることになった。ルビーのために買ってやった性教育関連の絵本や人形などが車に残っていたため、話を更にややこしくしたのだ。
愛しているよ、誰よりも
空に輝く光の船で
いつか君を迎えに行くよ
過去から未来へ
未来から希望へ
自由自在に舵を切る
ガラスの帆船どこまでも
君を探してどこまでも
時を巡って夢の中
夢を巡って僕の中
ガラスの帆船、手の中で
光に濡れて泣いている
君を想って泣いている
苦しい程に会いたくて
今すぐ君に会いたくて
今すぐ君に届けたい
僕の愛を届けたい
君の宇宙に入りたい
だけど僕にはわからない
その方法がわからない
だけど、僕はキスをした
鏡の僕にキスをした
鏡は銀に通じてて
銀はあなたに通じてて
あなたは多分
恋人に続く扉だから……
光の帆船、夢の中
まだ見ぬ君の
夢へと続く
抱き締めて、キスをして
僕達二人いつまでも
ずっと同じ夢を見よう
約束するよ
迎えに行くと……
そして、もしも出会えたならば
もうずっと放さずにいるんだ
抱き締めて、キスをして
二人、同じ夢をみるために
僕らは溶けて
一つになって
小さな銀の星になる
地上を照らす一筋の
光の舵になるために……
ルビーは二つの人形をベッドに重ねた。
「愛しているよ」
彼はそっと言ってみた。
「愛してる……」
開け放たれた窓からは風がしんみりとした夜の静けさを運んで来る。彼はそっと人形の頬に指を当てた。それからゆっくりと胸へと滑らせる。それは微かに膨らんでいた。が、無機質な人形の胸は、固く冷たいだけだった。やさしくなく、柔らかくもなく、息もしていなかった。
「君はどこかで温かくしているのかしら?」
ルビーは窓際に立って空を見た。星がじっと彼を見下ろす。そのやさしい光の輪郭を辿ると美しい母の思い出に繋がった。
「母様……」
彼をやさしく抱き締めてくれた人……。温かな手で包んでくれた。
「母様……。何処にいるの? もう一度僕を抱き締めて……!」
彼は空に向かって腕を伸ばす。冷たい夜気が身体を震わせた。
「届かない……」
彼は呟く。
「届かない。永遠に届かない所に逝ってしまった……。僕を愛してくれる人はもういない。僕を抱き締めてくれる人はいない。誰も僕を理解してくれない。誰もいなくなってしまったんだ……! 僕はたった独りぼっち。誰も僕を愛してくれる人なんかいない。僕が普通の人とは違うから……。劣っているから……。僕だって知ってるんだ。本当のこと、ちゃんと知ってる。夢の中の君が本当じゃないんだってことも、本当はみんな幻なんだってことも。けど、それでも僕は信じていたいんだ。いつか、君と……心の中の君と愛し合うことができるって……。僕だって人を愛することができるんだって、君を幸せにできるんだって……ずっと信じていたかったんだ! なのに……!」
「なら、信じればいいさ」
「え?」
振り向くとそこには銀の髪の男が立っていた。
「どうしてここに……?」
涙が絡んで銀色に震えている拳を胸に当ててルビーは言った。
「ようやく警察から解放してもらえたんだ」
「そう」
ルビーは俯いた。
「おれが教えてやる」
「ギル……」
「一から全部教えてやる。いつか、おまえが心からその女のことを愛し、おまえのことを心から理解してくれる女に巡り合えた時、困らないように……。何もかもを教えてやるから……」
「本当に? ギルは信じてくれているの? 本当にそういう人が現れるって、信じてくれているの?」
「ああ」
「普通じゃないのに?」
「何故そんな風に想う?」
「だって、僕は学校に行ってないし、読み書きも出来ないし、それに、多分どこか変だから……」
「人はそんなスケールでは計れないさ」
「でも……」
「おまえはちっとも変じゃない。それどころか、他の誰にもない魅力を持っている。他の者にはない力さえ持っているんだ。もっと自信を持つんだな」
そう言ってルビーの肩に乗せてきた彼の手は、大きくて力強い温かな手だった。
「ギル……」
その手にそっと自分の手を重ねると、それだけで気持ちが随分落ち着いた。
(愛しているよ)
星が囁く。
(愛してる。愛してる。愛してる……)
降り注ぐ光の中で彼は何度も囁いた。
そして、翌日。ギルフォートはまた、性教育のための教材を買ってきた。
「こっちの人形の方がよりリアルでわかりやすいだろう。それと、DVDも少し持ってきたから……」
「きれいな女の人だねえ。でも、どうして裸なの?」
「それは、その……アダルトものだから……」
「ふうん。ありがと。でも、もういらないよ」
「何故?」
「僕、もう病気治ったんだ。もう女の人の裸を見ても何ともないの」
「え?」
「それより、僕はピアノがいいの。鍵盤にそっと指が触れるとドキドキして、くびれたお腹や脚が素敵なの。曲を弾いたら僕は溶けてしまいそうになって、それで、すごくいいの。感じちゃうんだ。ねえ、みんなそうなのかな? ギルも?」
と興奮して喋るルビー。
「まあな」
「よかった。僕ってやっぱり変なのかなって思って心配しちゃった」
と言ってうれしそうに曲を弾き出す。そんなルビーの横顔を見ながらギルフォートは思う。
(それは多分、特別だよ。特別に選ばれたおまえだから……)
そしてギルフォートは、用なしになった品物を鞄にしまうとそっと部屋を出て行った。
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