戦場の兎



雑音だらけのレシーバーに耳を当てる。
微かな声は遠い惑星の向こうから響いて来るようだった。
枯れ葉ばかりが積もった林の奥で、僕らはじっと身を潜め、敵が遠ざかるのを待っていた。
北の山から吹いて来る風は白い吐息を吐き散らすように冷たい氷の欠片を散らして行った
「寒いね」
僕は厚い上着の上から、手袋をしたままの手を胸に当てて呟く。
もうどれくらいの時間、こうしているのだろう。装備品は小さな水筒と拳銃が一丁。装填された弾丸は1発。そして、万年筆とメモ帳。
「行ったか?」
上官の男が戻って来て訊いた。
「はい。敵兵は谷の向こうへ降りて行きました」
男は軽く頷くと親指と人差し指で挟むように顎を撫でた。
「もう、日が暮れるな」
彼は西の空を睨んで言った。黒い鳥の群れが紅の空を埋め尽くすように飛んでいる。あれだけの鳥が一斉に寝床に帰るのだ。世界は広いと僕は思った。
鳥だけではない。人も獣も皆自分の寝床に戻って行く。

しかし、今、この地は戦争によって多くの家が破壊され、大勢の人間が路上で暮らしている。兵舎も焼かれ、兵士達は林の奥に逃げ込んだ。すると爆弾が投下され、樹木も人も容赦なく焼き殺された。運良く生き延びた人達や獣は追われ、別の場所に移動した。僕らはその生き残りだった。
「おまえ、食料は持っているか?」
「いえ。水筒に水が半分ほどあるだけです」
僕は正直に答えた。
「そうか。俺はこいつが1箱あるきりだ」
男はキャラメルの箱を軽く振って見せた。それから、その箱を開くと、僕に中身の半分をくれた。
「こんな物でもあれば多少は役に立つだろう。まずは生き延びることだけを考えろ」
厳しい口調だったが、その男は情に厚いと評判だった。家族を亡くしたとかでいつもその写真を懐に入れて大事にしている。それはお守りのような物だと男は言った。
――こうしていれば、いつ命を落としたとしても、家族と一緒にいられるからな
(一緒に……)
僕はぎこちなく胸に手を当てて考えた。

「おまえも家族がいないそうだな」
独り言のように男が言った。
「はい」
僕は小さく頷いた。
「だから、あなたは僕にやさしくしてくれるのですか?」
「違うな」
上官は首を横に振った。
「おまえに軍人は似合わない。なのに何故兵士になった?」
「約束したから……」
男がじっと僕を見つめる。
「きっと国を取り戻すと……昔、約束したのです」
「友と……かね?」
「いいえ。僕自身と……」
その言葉は理解出来なかったらしく、男は首を傾げ、怪訝な顔をした。
「国境はいつも書き換えられて民は疲弊してばかりです。そのために家族が離ればなれになったり、二度と故郷へ帰れなくなったりする。そうして起きた様々な悲劇を出来ることなら修復したい。だけど、それは叶わないから、せめていくつかの国のラインをしるしておきたいと思ったんです」
「何を言っているんだね? 君は……」
「もうすぐ冬が来るでしょう。急がなければなりません」

冷たい風が一層木陰に降り積もる。
「君はまだ若い。この戦争が終われば、新しい家族を持つことも出来るだろう。死に急ぐことはない」
「新しい家族?」
僕は首を横に振った。
「家族なら、もうここにいますから……」
胸の奥にある温もりを、僕は手で指し示した。が、上官は悲しそうな目で浅く頷いただけだった。

夜。月のない晩に僕達は移動した。50キロ東に味方の駐留地がある。もっとも、そこがまだ無事ならばの話だが……。取り敢えずそこを目指すのが賢明だ。とにかく食料と水の確保も必要だ。平地ならば50キロくらいの道のりは何ということもなかったが、そこは北の山岳地帯。村の街道には敵兵がいる。しかも、敵が使った薬品のせいで植物は枯れ、水は飲めなくなっていた。足元も良くない。この辺りの地盤は脆く崩れ易い。僕達は幾度か崖から滑り落ちそうになった。
一日歩いても勧める距離はたった数キロ。一粒のキャラメルで一日を過ごした。それでも、最初の数日は何とかなった。が、1週間も過ぎると、さすがに体力が持たなくなった。最後の水を口に入れる。たった数滴のその水が命を繋ぐための希望だ。それは上官の男も同様だった。

「もう、あと少しの辛抱だ」
上官の男が上ずった口調で言った。
「その山を越えれば村がある。その外れに駐留地があるんだ」
しかし、そこに村はなかった。焼けた荒ら屋と放置されたままの遺体から漂う腐臭。
井戸はすっかり干上がっていた。瓦礫と化した家の中に残された物など何もなかった。僕はそっと左胸に手を当てた。心の奥に悲鳴のような声が木霊している。

「そこに何を隠しているんだね?」
いきなり上官が訊いた。
「何も……」
僕は答えた。
「嘘をつくな! 俺は何度も目撃している。おまえがこっそり懐に手を入れて何かを口に入れているのをな。何も持っていないと言いながら、俺に隠していたんだな? そして、自分だけこそこそと何かを口にしていたんだろう?」
「いいえ。僕は何も口に入れたりなどしていません」
「ならば俺が身体検査をしてやる」
男は強引に僕の懐に手を入れようとした。
「やめてください! 僕は本当に……」
「やましいことがないなら見せてみろ!」
男は衰弱し、肩で息をしていた。
「本当です。僕は何も……」
が、上官は聞かなかった。その男にそれほど強い力があるということに僕はひどく驚いた。生きるということへの執念だろうか。しかし、この男はいつでも家族の元へ、自分が死ぬ準備は出来ていると言っていなかっただろうか。矛盾する言葉の羅列に、僕は混乱した。
「見せろ!」
強引に彼が取り上げた物は小さな箱。それには緑の粒が幾つか残っていた。

「兎の餌?」
パッケージを見て男は首を傾げた。
「こんな物を食っていたのか?」
「いいえ。自分ではありません」
僕は手袋を外すと懐に抱えていた1匹の兎を取り出して見せた。
いきなり光の当たる場所に出されて驚いたのか小さな兎はぶるんと身を震わせ、僕を見上げた。
「ほう」
男は目を細めて兎を見つめた。
「よくやった。これで、あと3日は持つだろう」
男が微笑する。
「それはどういう意味ですか?」
「兎は戦場に似合う。こいつらは鳴いたり暴れたりしないからな。癒やしになるし、暖にもなれば食料にもなる。優秀なペットだ」
「僕はこれを食料にするつもりはありません」
「我々が生き延びるためだ」
男は兎の耳を掴むと石を持った。南の空に飛行機の機影が見える。距離はまだ離れていた。識別コードは見当たらない。僕は拳銃を取り出すとトリガーに指を掛けた。男が打ち据えた石が鈍い音を立て、兎は動かなくなった。僕が引いたトリガーと同時に飛行機から投下された爆弾が閃光を放つ。僕は地面に落ちた兎を拾うと、そっと懐に入れた。足元には空っぽのキャラメルの箱が落ちていた。

その男は情が深いと評判だった。そして、いつも懐に家族の写真を忍ばせていた。自らが生きるために殺した家族の写真を……。
周囲は炎に包まれていた。その写真も燃えるのだろうか。その男と共に……。

――兎は戦場に似合う

本当にそうだ。兎は……。僕の懐の中で眠る。そして、その赤い目でサイレントを鳴らす。
僕の中で、永遠に鳴らし続ける。

その日、世界を巻き込んだ戦争は終結し、僕は国を取り戻せないまま、次の場所に飛んだ。懐に冷たい寓話を抱いて……。