天導使Z


PART 3


 次の日。蛍は裕人のお見舞いに行くと言って病院に出掛けた。
 しかし、病棟のどこを探しても子どもの姿は見当たらない。そして、昨日見た白衣の医者もいなかった。
「どういうことだよ」

――また来てくれる?

「約束したのに……」

 「おい、あんた裕人がどこにいるか知らねえか?」
8階のナースステーションで蛍が訊いた。そこが小児病棟になっていると1階の受付で聞いて来たからだ。
「裕人くん? あの角田裕人くんなら、今、手術中よ」
若い看護士が言った。
「手術? 今日がその日だなんて聞いてなかったぞ」

――あさって手術するんだ

「昨夜、発作が起きて、緊急オペになったのよ」
看護士は沈痛な面持ちで告げた。
「緊急……? それじゃその手術をしている奴は……」
「主治医の冬森先生よ」
「冬森……」
白い服に反射して、冷酷な表情をしていた医者の顔を思い浮かべて、蛍はぞっとした。
「ちくしょっ。遅かったか……」
蛍は悔しそうに唇を噛んだ。

そんな彼の背後を駆けて行く子ども達がいた。彼らの手には、風車が握られていた。
「こら、走っては駄目よ」
そのあとを若い看護士が追って行った。それをぼんやりと見つめる蛍。
「えーん……まみのだけ、風車が回らないよぉ」
パジャマ姿の女の子が泣き声を上げた。その子は右足をギブスで固定し、手すりに捕まってやっと立っていた。
「ほら、こうすれば回るよ」
蛍はその子の方へ近づくと、しゃがんで風車に息を吹き掛けた。くるくると回るそれを見て、女の子は笑った。

「まみもやってみる」
止ってしまった風車に彼女はプーッと強く息を吹き掛けた。しかし、何度そうしても風車は回らない。女の子はまたべそをかいた。
「そんなに強くしちゃだめだよ。もっとやさしくほら、ふーって」
蛍がやって見せる。すると、たちまち赤い風車が回り始める。
「うん。わかった。もう一度、やってみる」
彼女はそーっと息を吹いた。風車が少し回る。そしてもう一度。今度はもう少し強く吹いた。すると風車は勢いづいてくるくると回った。女の子がそれを見て微笑む。
「できた。見て、お兄ちゃん。まみもちゃんと風車回せたよ」
「よかったな」
蛍も笑う。白い床に映る笑顔。その先に続く四角い蛍光灯の列……。それと呼応するように病室の扉が並び、その奥には入院している子ども達のベッドが並んでいた。

(理不尽だよな)
蛍は思った。同じこの地上に生まれながら、元気に外を走り回れる子どももいれば、こうして四角い病室に閉じ込められている子どももいる。
(つくづく神ってのは不公平だぜ)
蛍がそこを立ち去ろうとした時、ナースステーションの中から声がした。

「あ、裕人くんの手術、終わったみたいよ」
「終わった?」
蛍が振り向く。
「それってどこだよ?」
「2階の奥だけど……」
「あんがと」
蛍は教えてもらったオペ室に急いだ。

――うそつき天使のお兄ちゃん

途中、裕人の声が聞こえたような気がした。
「うそつきじゃねえぞ。おれはほんとに……」

――来てくれたんだね

白い天井から子どもの声が降って来た。
「空耳……?」
蛍は一瞬だけ立ち止まった。が、一気に階段を駆け降りた。


 オペ室は2階の一番奥にあった。透明な扉の向こうでは裕人がベッドで運ばれて行くところだった。小さな身体にはたくさんのチューブが繋がれ、透明な影がその顔に映って揺れていた。ベッドの周囲には、看護士と彼の両親が心配そうに取り囲んでいる。
「裕人……」
蛍は離れたところからそんな彼らの様子を見ていた。
 冬森は、何やら深刻な表情で話をし、両親はその医者に何度も頭を下げると、子どものあとを追って行った。そして、冬森が扉の奥へ入ろうとした時、蛍が叫んだ。

「やいやい、待ちやがれ!」
彼は透明なドアを開けると廊下を走ってその医者を捕まえた。
「てめえ、裕人に何をしやがった?」
蛍が食ってかかるように言った。
「何をしたって、私はあの子の命を救うためにできる限りの処置をしただけだが……」
冬森が言った。
「命を救うための処置だって? とぼけるな! おれにはおめえが地導使だってことはわかってんだぞ」
「それがどうしたと言うのかね?」
男は冷静だった。

「どうしただって? おめえ、自分の点数稼ぎのために裕人の魂を連れて逝こうってんじゃねえだろうな?」
蛍が詰め寄る。
「まさか。私達、地導使は紳士なんだ。いたいけな子どもの魂を攫うなんてことはしないよ。それはむしろ君達の仕事だろう? 天導使くん」
含みのある笑みを浮かべて、地導使の男は言った。
「おれ達、天導使は無理に魂を狩ったりしねえ。おまえら地導使と違ってな」
「私もだよ、天導使くん」
冬森は言った。

「私は人間ともめごとを起こしたいとは思わない。持ちつ持たれつ、この地上でうまく共存して行きたいと願っているんだ。私は人間として、医者という職業を選んだ。助けられる命はできる限り助け、悪しき魂だけを選別し、効率よく地獄に送る。こういった命を預かる現場では、いろいろな命が運ばれて来る。ただ漠然と街の中を歩くより、よほど効率がいいんだ。それで、十分ノルマは果たせる。あえてそれ以上魂を狩る必要はないのさ」
淡々とした口調で医者は言った。

「それじゃ裕人は助かるんだろうな?」
蛍が訊いた。
「それはあの子の持って生まれた寿命によるね」
「寿命だって? 裕人はまだ子どもなんだぞ」
「残念ながら、人は生まれながらにして、持てる寿命は決められている。たった数分のこともあれば100年以上の時間を与えられた者もいる。だが、その時間の長さだけでその役割や幸不幸を判断できる訳でもない。それはまさしく神のみぞ知る機密事項だということだ」

「へん。何が機密だ。神なんぞろくなことしてねえくせに、人の寿命なんか勝手に決められてたまるかってんだ。おれは認めないぜ。裕人はおれの最初の友達になる資格がある人間なんだからな」
「そうか。では、幸運を祈るよ」
そう言うと冬森は長居廊下を静かに歩いて行った。


 「裕人……」
子どもはガラスの向こうで眠っていた。手術のあとの経過を見るICU(集中治療室)だ。傍には両親も付き添っていた。ドアには面会謝絶、関係者以外立ち入り禁止の札が掛けられていた。蛍はそれを見て、黙って帰ろうとした。が、その時、裕人が目を開けた。
「天使……」
子どもは確かにそう言った。が、その声がここまで聞こえる筈はなかった。蛍はまた空耳かと思った。しかし、次の瞬間、それははっきりと聞こえた。

「天使のお兄ちゃん……来てくれたんだね」
「裕人……?」
蛍は驚いてその顔を見つめた。目の前に立っているのは確かに彼だった。手術を受けたばかりの筈なのに、しっかりとそこに立って笑顔を向けている。そして、その小さな手を伸ばして、そっと蛍に触れて来た。

「翼だ」
「え?」
「お兄ちゃんは本当に天使だったんだね」
彼は戻っていたのだ。本来在るべき天使の姿に……。
「そんな……」
ガラスに映るその姿は繊細な光に満ちて美しかった。
「ぼくを迎えに来てくれたんだね」
うっとりとした目で子どもが見つめる。

「何言ってんだよ、裕人。おれは……」
「まえに絵本で見たのとおんなじだ。立派な白い翼……。それなら、きっと空を飛べるね」
「ちがうんだ」
「やさしい天使様、ぼくを天国へ連れて行って……」
「ちがう。おれはおまえを迎えに来たんじゃねえ。おれは地上に落とされて……。おれは天使失格で、だから、翼も取られて、空も飛べなくて、だから、おまえを天国に連れて行くことなんかできねえんだよ」
蛍はあとずさった。

「待って! 行かないで、天使様……」
子どもの小さな手が蛍のそれに重なった。途端に翼が大きく広がって空に向かって羽ばたいた。
「やめろ!」
「天使様……」
「これは……おれの意思じゃない。おれはおまえを連れて行きたくなんかないんだ。だから……放せ! 頼むからその手を放してくれ!」
が、子どもはますます強く握り締めて来る。そして、身体は窓をすり抜け、真っ直ぐ大空に向かって飛んで行った。

「何でだよ? おれはこんなことしたくねえのに……。勝手に翼が……」
天界から降り注ぐ光が二人を包んだ。

「わあ。見て! 空がすごくきれい……。おうちがあんなに小さく見えるよ。ぼく達、もうこんなに高いところまで来ちゃった」
透ける頬に光が煌めく。繋いだ手にはもう温もりがない。魂だけになった彼はかつての生を反射する鏡のようなものだからだ。地上で生きたその肉体は仮のものでしかない。その肉体を離れてからしばらくの間は、光に反射してその影を映す。だが、やがて、その影は光に溶けて思い出せなくなるだろう。下界のことも、蛍と会ったことも……。そうして魂は純化して行く……。

(寂しくないのだろうか……)
Zは思った。
(それで、人間は本当に……)
家も森も、遥かに遠く、もう届かない高みまで彼らは昇っていた。

「ねえ、天国まではあとどれくらい?」
子どもが無邪気にそう訊いた。
「それは……」
蛍は一瞬、言葉に詰まった。
「ねえ、あとどれくらい?」
「……もうすぐだよ」

目の前に虹の門柱が見えていた。そこでは審査官が二人待っている。本当に天国へ通すのに相応しい魂であるかどうか審査するために……。その者が地上で行ったあらゆる所業が記された光を採取し、プリズムに掛ける。いいこと、悪いことがバランス良く配分され、美しい虹が構成されれば合格だ。当然、裕人は合格した。
「どうぞ」
「お通り下さい」
扉が開き、裕人の魂はその中へ吸い込まれた。

「ご苦労様でした」
審査官がZに労いの言葉を掛けた。
「……ちがうんだ」
彼は反論した。
「おれはあいつを導いて来たんじゃねえ! おれは裕人を死なせたくねえんだ。返せよ! 今すぐ裕人の魂を返してくれ!」
Zが門番に詰め寄った。が、二人の反応はにべもなかった。

「そうはいかない」
「角田裕人は定刻通りに門を通過した。万事滞りなく……」
彼らは事務的に対処した。
「天導使としての君の最初の仕事は成功した」
「ポイントを与える。これからも仕事に励めよ」
煌めく光が彼の翼に刻印された。

「ポイントだと? ふざけんな! 裕人を返せ! 頼む! 返してくれよ」
Zは言った。が、彼の願いは聞き入れてもらえなかった。
「では、再び地上へ戻るがいい」
「次の仕事に期待する」
彼はみるみる下へ落ちて行った。
「畜生! 神のバカヤロー!」


 気がつくと、蛍は天野家の庭に立っていた。また翼を失くしたあの姿に戻って……。
「裕人……」

――ぼくを迎えに来てくれたんだね

「天国か……」
空の彼方にあるその影はもう見えない。が、天導使としての役割の重さを、蛍ははじめて知った。

――お兄ちゃん、来てくれたんだね

「せっかく友達になれたのに……」
まだ柔らかい土の中から緑の葉が顔を出していた。

――人間とは、刈られても刈られても芽を出して来る雑草のようなものだ

昔、天国にいた頃、神がそんなことを言っていたのを思いだした。

――同胞でありながら、その実を結ぼうとする者の足を掬い、その養分を取り合って枯らしてしまう

 だからこそ、神は、この地上に天導使と地導使を遣わせたのだと言う。その者の行いを見極めるために……。
「そりゃ、人間の中にだってよくないことをする奴はいるかもしれねえけど……。何が雑草だよ! 人間は草じゃねえや! 人間は心があるんだ。そいで、もっと賢くて、人間にはあったけえ血が流れてるんだぞ。命という赤い血が……」
涙が落ちた。そこに芽吹いたサルビアは、昔、美しい庭で花を咲かせた幸せな家族の名残だった。


 翌日、蛍は小さな葬列を見た。
「裕人……」
その家の軒先には、誰も遊ばなくなってしまった赤いラジコンの車が一台、所在なげに停まっていた。


 「婆ちゃん、死ぬなよ」
蛍は頼まれた買い物も忘れて、急いで家に帰ると、いきなり祖母にしがみついた。
「蛍、急に何を言い出すんだい?」
老婆が怪訝そうに見上げた。
「いいから死ぬな! 死んだら、おれが許さねえからな。おれは絶対、天国へ導いてなんかやらねえぞ。おれは……」
「蛍……。大丈夫だよ。おまえを残して逝けるもんかね」
老婆が微笑む。
「ほんとだな?」
「ええ」
「ほんとに約束するんだな?」
蛍が念を押す。
「ほんとだとも……」

「なら、ゆびきりだ」
蛍が小指を出すと、お婆さんもその指に自分の小指を絡ませた。
「ゆびきりげんまん」

――約束だよ

「蛍?」
少年は彼女を抱き締め、涙を流した。
「蛍、どうしたんだい? もう大きくなったんだから泣かないんだよ」
老婆の身体は少し冷えているような気がした。人間、死期が近づくと熱も少なくなるのかと思い、彼は不安になった。
「さあさ、もう離れておくれ。今日もおまえの大好きな卵焼きを作ってあげるよ。だから、泣かないでおくれ」
何故涙が止まらないのか、それはZ自身にもわからなかった。ただ人間の死というものが、それを自分が導かなければならないということが酷く恐ろしい気がしたのだ。

(地上に降りたら、面白おかしいことばかりがあると思っていたのに……)
人間にとってはごく当たり前の出会ったら別れなければいけないというルールが、蛍にはどうしても馴染めなかった。


 それでも、彼はいろいろなことを学び、少しずつ人間の生活に慣れて行った。
「こんちは。回覧板です」
数週間が過ぎ、隣の家にそれを持って行った時だった。
「ああ、この子が天野さんとこの蛍くんですよ」
隣のおばさんが、知らない男にそう紹介した。その男は薄い唇を震わせて言った。
「おまえが蛍だって? この偽物め!」
「偽物?」
「そうだ。大方、婆さんの財産目当てに入り込んだんだろう。だが、そうは行かないぞ。あの家と土地はおれ達の物でもあるんだからな」
その男の言っている意味が蛍にはわからなかった。


 が、数日後。天野家の親戚だと言う者達が老婆のもとを訪れた。そして、彼女に遺産を分配するよう申し立てた。
「そんなこと、急に言われましてもねえ、そもそもあなた方はどちらさんで?」
老婆が言った。
「何を言ってるんです。お母さん。私はあなたの息子ですよ。次男の修平です。忘れたんですか?」
それは先日、隣の家で蛍が会った中年の男だった。

「私は長女の勝枝で、こっちが次女の澄江。今日は秀雄兄さんは来られなかったけれど、これは兄弟全員の一致した意見ですからね」
化粧の派手な女二人も老婆を囲む。
「わたしには何のことだかさっぱり……。ああ、ごはんならもういただきましたよ」
老婆は微笑して言った。
「駄目だ。こりゃあ、相当呆けちまってるな」
「わたし達の顔を見てもわからないなんて……」
「でも、その方が都合がいいんじゃない?」
「そうだ。どうせ生きてたって役に立たないんだから、せいぜい今のうちに財産くらいもらっておかなきゃな」
三人はこそこそと囁き合った。

「いいですか、お母さん、一人で暮らすにはこの家は広過ぎます。それに、病気だってますます酷くなっているじゃありませんか。だから施設に入ってもらおうと思って……。ほらね、ここに印鑑を押してくれれば、一生施設に入っていられるんですよ」
息子は老婆の手をとってあらかじめ用意してあった印鑑を無理に押させようとした。
「ああ、痛い! 乱暴はやめて下さいよ、あなた……!」
老婆はそれを拒んでいた。その間に箪笥や仏壇の引き出しを物色していた娘が言った。

「あったわよ。実印。それに土地の権利所も! これさえあれば……」
「何をするの、あんた達……泥棒!」
老婆が叫んだ。
「泥棒ですって? わたし達が……」
「呆けてるんだ。黙らせろ!」
彼らはよってたかって老婆に罵声を浴びせた。

「お願いだからやめてちょうだい」
娘の手からそれを取り戻そうとする母。その手を踏みつけ、華奢な身体を突き飛ばして次女が言った。
「兄さん、今のうちに早く印鑑を……」
娘の言葉に男が頷き、そこにあった書類に押そうとした。それは遺産相続に関する依頼書だった。

「やめろ!」
騒ぎを聞きつけた蛍が廊下を駆けて来て襖を開けた。
「何をしやがる! こんなにいやがってるじゃねえか。それに、婆ちゃんは病気なんかじゃねえぞ」
蛍が言った。
「何なの、この子は……」
「ああ、そいつが蛍になり澄まして、この家の財産を乗っ取ろうとしている悪ガキさ」
次男が言った。
「乗っ取るだと? 人聞きの悪いこと言うな! おまえらこそ、婆ちゃんにひでえことしやがって……」
蛍が言った。

「何だと、このガキ」
「警察に訴えるわよ」
「そうよ。私達はこの人の実の子なのよ。当然、財産をもらう権利があるわ」
「だからって、婆ちゃんを施設に入れようとしてんじゃねえか」
蛍が言った。
「病気の一人暮らしの老人を心配してるのよ」
「厄介払いしてるだけじゃねえか。おれにはわかる。おまえらが言っていることは全部うそだ! おまえらはこの土地という財産だけが欲しいんだ。決して婆ちゃんのことを思ってのことじゃない!」

「何を証拠に」
「わかるさ。おれは天使だからな」
少年の言葉に三人は笑い転げた。
「天使だってよ。こいつはいいや。ボケ老人に頭のおかしい小僧か」
「揃って病院へ入ってもらったらいいんじゃない?」
「そうよ。ねえ、お母さん、ここに印鑑を押してちょうだい。そうすれば、すべて安泰なのよ」
長女が突き出した書類を老婆はくしゃくしゃと丸めて口の中へ入れようとした。
「ちょっと、何するの?」
「やめて下さい、お母さん」
「やっぱり普通じゃないわ。すぐに病院へ入れた方がいいわよ」

「婆ちゃんはまともだ。おまえ達の方がおかしいんだ! 出てけ!」
蛍が怒鳴る。
「このガキが!」
「警察を呼べ! 二人共、施設にぶち込んでやる」
長女が警察に通報し、やがて、交番から霜田がやって来た。

 「ふむふむ。それで、この少年が財産目当てにこちらの認知症の老人を誑かしたと、そういうことですね?」
一同を見回して警官が言った。
「そうなんです」
「まったくもってずうずうしい」
「なんとかして下さいよ、お巡りさん」

「しかしですね、天野さんや蛍くんの言い分も一応は聞いてみませんと……」
霜田が言った。
「そんな必要はありませんわ」
「何しろ、普通じゃないんですから……」
「話をするだけ無駄ですよ。早くこいつを捕まえて下さい」
「わかりました。では、皆さん、どうぞこちらへ……」
霜田は天野の息子や娘達の手に手錠を掛けた。
「何だ?」
「どういうこと?」
「私達は彼らを捕まえてと言ったのよ」
三人がぎりぎりと歯噛みしながら文句を言う。

「残念ながら、彼らは正常です」
無表情のまま霜田が言った。
「私はずっとこの街で見て来たのです。あなた方はあの事故以来、ずっと天野のお婆さんのもとに寄りつきもしなかった。そして、蛍くんの存在を知り、財産が取られるのではないかと焦りを感じ、慌てて天野さんを施設に入れ、その間にこの土地を売って財産を手に入れようとした。何とも浅ましい人間どもに罰を与える」
そう言うと霜田は三人を地獄行きの護送車へと連行した。

 「婆ちゃん、もう大丈夫だよ。あいつら、みんな行っちまった」
「……情けないね」
仏壇の前で祈っていた老婆が言った。
「本当に情けないよ。金に目がくらんで、醜い心でいがみ合うなんて……我が子ながら、ほとほと愛想が尽きたよ」
老婆はそっと仏壇の引き出しから、彼らが子どもだった時の写真を取り出して眺めた。
「馬鹿な子らだと思うよ。けど、それでも私が腹を痛めて産んだ子ども達なんだよ。どうしてあんな風になっちまったのか……。本当に、何で……!」
老婆は涙を流した。認知症というのは演技だったのだ。彼女は真実を見極めようとしていた。しかし、それは時として残酷な結末をもたらす。人間とは、所詮心の弱い生き物なのだ。金や慾に目が眩み、転落して行く者もまた多い。

「婆ちゃん……」
突然、老婆が胸を押さえて倒れた。
「どうしたんだよ? 婆ちゃん!」
蛍がその身体に縋る。
「婆ちゃん! しっかりしろよ! 約束したろう? 絶対死なねえって……約束……!」
「蛍……」
老婆の身体から生気が失せて、鼓動がゆっくりと停止して行く……。
(奴らのせいだ。あいつらが婆ちゃんに酷いことを言ったから……)
「けど、どうしたらいいんだ。おれは……」
老婆の身体はもうピクリとも動かない。

「救急車を呼ぶんだ」
霜田が戻って来て言った。
「何をしている? 早く救急車を……」
「わかった」
たとえ、天から遣わされた者であろうと、人間の病気を治すことなどできない。蛍が電話を掛け、霜田が心臓マッサージを施した。しかし……。
「婆ちゃん……」
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
「もうすぐだからな。しっかりしろよ」
蛍はその手を握って言った。が、彼の中で変化が訪れた。

「翼が……」
彼の背中から、みるみる白い翼が広がった。
「いやだ! やめろ! 婆ちゃんを天国へ導くなんて……! おれにはできない……」
しかし、一旦動き始めた儀式を誰にも止めることはできなかった。
「蛍……」
目の前に現れた老婆の魂は若々しく輝いていた。
「ああ、蛍、おまえが迎えに来てくれたんだね。ありがとうよ、蛍……。もう何も思い残すことはないよ。最後におまえに会えて、本当に……」
「いやだ! おれは導かねえ!」
翼は大空に向かって羽ばたいていた。老婆の魂を持って……。

「いやだ!」
蛍は自分の翼の端を掴んで、その羽ばたきを止めようとした。が、留まることをしないその翼を彼は思い切り捻じ曲げた。
「ウッ……!」
激痛が背中から腕に走った。が、蛍は構わず更にぐいと地からを込める。あまりの痛みに彼は意識を失った。片方の翼は完全にはぎ取ら、、彼は地上に向けて落ちて行った。


 目を覚ますと彼は病院にいた。
「何と無茶なことを……もう少しで命を落とすところだったんだぞ」
冬森が言った。
「おれはどうして……?」
ベッドの上で彼は点滴に繋がれていた。
「翼を引きちぎるなど無謀過ぎる。あの高さから落ちて助かったのは、君が天の命を授かった者だからだ。しかし、もう二度と天使として飛ぶことはできまい。君は人間として生きるしかなくなった」
「人間として……」
頭の中がぼんやりとして、何も考えられなかった。が、そこへ扉が空いて、老婆が入って来た。

「蛍!」
「婆ちゃん! 生きてたのか?」
「ああ、蛍、無事でよかった」
老婆は少年を抱き締めて涙を流した。
「蛍……」
「婆ちゃん……おれ、本当に婆ちゃんの孫になれたよ。本当の人間に……」
蛍も泣いていた。そんな二人を見つめる地導使は不思議な思いに囚われた。それは、胸の奥で疼くような温かい鼓動……。

 昔、人は皆、天使だったのかもしれない。そして、その中の幾人かが地上に降りて、そのまた幾人かが地の底へ沈んだ。魂は生まれ、そこで生きて、また生まれし場所へ還って行く……。天へ上るか、地獄に落ちるか、それは地上を監視する天導使と地導使の裁量に委ねられている。そして、その採点者が誰なのかは明かされていない。それは、もしかしたら、ごく身近にいる人かもしれない。


 「婆ちゃん、今日は卵焼きだよ」
「ああ、わかっているよ。今日は特別にうんと大きなのを作ろうね」
「ほんと?」
うれしそうに笑う少年の背中には、美しい白い翼と、光に透けた片翼の輪郭がきらめいていた。

Fin.