星砂のシャドーライン

PART 3


「ロバート……」
いざ出掛けようと玄関に来たところで冴木の足が止まった。ロックは壊れ、切れたチェーンが二つに分かれ、所在なげに揺れている。その先を突いて知香が目を丸くした。
「頼みますから、来る度に家のドアを破壊するのはやめてください」
「破壊? おれはただ普通に開けただけだぞ」
「とても普通に開けたようには見えませんけど……。呼び鈴があったでしょう?」
「ああ。だが押しても鳴らなかったぞ」
「馬鹿な……」
冴木が外に出て見るとそれは無残にも壁にめり込んでいた。

「ロバート、できればもっとやさしく扱ってくれませんか? 強そうに見えても案外華奢に出来てるんです。乱暴にされたらすぐに壊れてしまいますから……」
「やさしく愛撫するようにってか? ベッドではいつもそうしてるぜ?」
「謹んでください。誤解を招きます。それに……」
冴木はちらと子どもを見下ろして言う。
「ははは。気にするな。大人のジョークさ」
ロバートが笑う。

「大人? それってSEXのこと?」
知香が訊いた。あまりにストレートなその言葉に絶句する二人。
「知ってるよ。大人はいつもSEXばっかりしてるんだ」
「お嬢ちゃん、どこで覚えたか知らないが、意味の正しいを知らないうちに使っちゃいけないな」
ロバートが取り繕うように言う。

「知ってるよ。SEXすると赤ちゃんができるんだ」
知香が言った。ロバートがヒューッと口笛を吹く。
「でも、赤ちゃんが欲しくない時にはできないようにゴムをはめるんだって……。大人はみんなSEXが大好きで、気持ちがいいからするんだって……。それで時々ゴムをするの忘れちゃってそれで赤ちゃんができちゃうこともある。知香もそうだよ。ほんとはいらなかったのにできちゃった子だからみんな知香が憎いと思ってる。知香なんか生まれて来なきゃよかったって、それで知香のこと邪魔にして……邪魔に……!」
大粒の涙をぽろぽろ零して子どもは泣いた。

「知香……」
冴木はそっと彼女の肩に手を置いた。
「言わなくていい……。もう何も言わなくていいから……」
子どもは震えていた。冴木は彼女を抱き上げるとロバートに目で合図した。大男は頷いて片目を瞑る。
「ハンバーガーはおれが買って来るよ。ドア壊れちゃってるしな。ドロボーさんが来たら大変だからな」
そう言うとロバートは出て行った。冴木は知香を抱いて部屋に戻った。

「……おじちゃんもSEXが好き?」
肩にもたれていた知香が、その顔を覗き込むようにして訊いた。
「いいえ。私はお金の方が好きです」
それを聞いて子どもは少しほっとしたような顔をした。
「よかった。おじちゃんも女を泣かせるひどい男だったらどうしようって思ったんだ」
「女を泣かせる?」
「うん……」
知香が頷く。

「女の人達、みんな泣いてた……。ママは喜んでるって言ったけど、みんな悲しそうな顔してた。きっとベッドで男からひどいことされたんだ。きっと……」
子どもは激しく身体を震わせた。
「なのに、ママは知香にもそうしろって言ったんだ。それが知香はいやだったの。すごく怖くて……。恐ろしくて逃げ出して来たんだよ」

知香はまだ8才の少女でしかない。そんな子どもに売春を強要するとは……。冴木は嫌悪感で吐き気がした。
「……おまえは私と出会った。もう何も心配することはない」
「でも……。ママが怒ってるかもしれない。ううん。きっとものすごく怒ってる。それで、知香を迎えに来る。いやだ! もうあんな所に帰りたくない! いやだよ! 帰るのはいや……!」
「帰らなくてもいいんだ。もう怯えなくていい。おまえを迎えに来る親はいなくなった……」
冴木が言った。

「いなくなった? 本当に?」
「ああ。もう誰もおまえに無理強いをする者はいない。私が消した。だから……」
(そうだ。今の私には力がある。金の力で何でもできる。能力者でさえ、私の僕として働かせることができるんだ。今なら……)
冴木はふと昔のことを思い出した。それは呪いだった。長い間封印してきた忌まわしい記憶……。


それは彼がまだ秘書として駆け出しの頃だった。地方の市議の研修旅行でアジアに赴いたことがあった。
が、研修とは名ばかりで、その内実は俗に言う売春ツアーだったのだ。年配の議員達は軒並み鼻の下を伸ばし、他国の少女を金で買いあさった。そして、年端のいかない少女に淫らな行為を強要し、至福の時を満喫していた。
そして、そのツアーに同行した冴木にも一人の少女が当てがわれた。

部屋に入ると、まだあどけない顔をした少女が一人、ベッドの淵に腰掛けていた。
訊けば年はまだ12だと言う。
「何故こんなことをする?」
問うと少女は俯いて言った。
「……それしか方法がないから」
幼い弟妹。病弱な母。年老いた祖父母を抱え、働いても働いても貧しい家計。まだ15にもならない少女の姉二人もやはり同じような仕事をしているのだと言う。

「お願いだからやさしくしてね」
震える声で少女が言った。
「ひどいことしないでね。日本人、いつも乱暴にするから……。本当はわたし、日本人の客なんかとりたくなかったんだ。日本人なんか……」
「日本人は嫌いか?」
冴木の問いに少女が頷く。

「ならば何故ここにいる?」
「契約したから……。逆らえばお金がもらえなくなる。すると家族が困る」
「家族のために自分を犠牲にするのか?」
「ちがう。家族はやさしい。みんな大好き。みんな努力しているんだ。ただ、それでもどうにもならないことがある。だから、わたしが働く。犠牲だなんて思わない。今が悲しいだけ……」
伏せた睫毛がその頬に長い影を落とした。

「名前は何と言うんだ?」
「リン……」
警戒するような目で見上げた。結いあげた髪が美しく、瞳のはっきりとした利発そうな娘だった。
「いい目をしている。それに、唇の形が美しい」
冴木が言った。
「美しい?」
「ああ。富士山のようにくっきりとした線だ。富士は日本では最も尊ばれている霊峰だ。そして、その富士の形に似た唇を持つ女もまた美しいとされている」

「富士……。ああ、聞いたことがあるよ。日本で一番高い山だって……」
「そしてその形は最も美しい」
「そんな美しい霊峰を持ちながら、どうして日本人は他国に来てこんなことをするの?」
「人の心はあまりにもろくてうつろいやすい。他国に来れば知り合いもなく、どんな醜態をさらしても恥辱と感じなくなるのだろう」
「あなたも?」
「そうだな。私も人間だ。人である以上、それを越えることはできない……」

冴木は部屋の灯りを落とすと、少女に腕をまわし、そっと唇を重ねた。リンは抵抗しなかった。二人はそのままベッドに倒れ込んだ。カンテラの灯りがちらちらと燃え、二人の陰影を深めた。そして、男の手が少女の胸に滑り込む。
「ん……」
一瞬リンが身体を強張らせた。冴木は構わずその膨らみの谷間にさっと何かを差し入れた。それから、するりとベッドから降りる。

「これは……」
それは折りたたまれた紙幣だった。
「こんなにもらえない……」
少女が何か言い掛けるのを制して冴木が言った。
「取っておけ。それはおまえの霊峰を汚した代金だ」
「でも……」
困惑する少女。

「できることなら……。私は、大人になったおまえを見てみたい。日本に咲く桜と霊峰富士の下で……」
間仕切りに描かれた桜……。その花びらが散る部屋の向こう……。少女は遠い日本の幻を見た。

「ああ。わたし、あんたならいいよ」
少女が言った。
「あんたのような男になら、わたしのすべてをあげてもいい……」
その頬がほんのり桜色に染まる。
「リン……」
まだほんの蕾のような少女。その横顔に大人の色香を漂わせている。その唇は微かに開いて桜の蜜の味がした。

炊き込められた香の煙が頼りなくたなびくその部屋で少女が言った。
「いつか日本に行って……。桜と富士を見てみたい……」
「待っている」
「忘れないよ。日本人の中にもあんたみたいな人がいるってこと……」
リンはその夜幸福な夢を見た。

だが、悲劇はその翌日に起きた。
冴木の所に血相変えて飛びこんで来た男が喚いた。
「事故が起きた! 女が一人死んだ。すぐに手を打て。事を公にしないよう性急に金をばらまいて黙らせるんだ」
「事故? 一体何が起きたのです?」
ずれてもない眼鏡を指でそっと上げると冴木が訊いた。
「何でもいい。早くしろ! 私の政治生命が懸かってるんだ」
男は怒鳴り散らした。
「わかりました。でも、取り合えず落ち着いてください。場所は何処です? それで相手の女性は? どんな状況でそうなられたのですか?」

それは最悪だった。ベッドで事の最中に起きたという。少女に無理な体位を強要し、成熟していない膣を傷付けてしまったのだ。少女は出血性ショックを起こし、病院へ運ばれたが死亡したという。しかも被害者は冴木が知っているあの少女だった。

――あんたにならあげてもいいよ。わたしのすべてを……

金があれば少女を身受けし、救ってやりたかった。が、その頃の彼にはそんな金も権力も持ち合わせていなかった。口止め料として配るようにと市議が用意した金をバッグに詰め、少女を殺した憎い男のために奔走しなければならない自分を呪った。

――いつか日本に行って本物の桜と富士が見たい……

(リン……!)
冴木の素早い行動と隠ぺいが功を奏してその事実が外部に漏れることはなかった。市議は何事もなかったように日本へ帰国し、今も議員を続けている。そして、呆れたことに、その男はその後に於いても何度も同種のツアーに参加していた。

(世の中は理不尽にできている。金がなければその命は虫けらのように扱われ、文句さえ言えずに葬られる。そして、金の力で買った地位でどんな悪事を犯したとしても戒められることはない。ならば、その地位を手に入れるしかない。そして金を集めて社会に報復する。それが私の正義であり、社会に対する報復だ)


「おじちゃん?」
知香が見つめる。その唇の形がどことなくあの異国の少女に似ていることに冴木は気づいた。
「知香……。おまえは美人になる」
冴木が言った。
「ほんと?」
「ああ唇の山が富士山のようにくっきりとしているだろう。そういう娘は美人になるんだ」

「知香が美人になったら、おじちゃんもうれしい?」
「そうだな」
「それじゃあ、知香、うんとがんばって美人になる!」
そう言うと知香は笑った。冴木はそっと彼女を下ろす。知香は走って鏡の前に行くとじっと自分の顔を見つめた。

「どうしたらもっと美人になれる?」
振り向いて訊く。
「そうだな。もっと笑顔になれたら……」
冴木の言葉に知香は首を傾げる。
「でも、世の中いつもおもしろおかしいことなんかないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
子どもは頬を膨らませて男を見上げた。

「でも……」
知香が続ける。
「もしもおじちゃんが……」
言い掛けて俯く。
「私が?」
冴木が訊いた。知香はじっと動かず、人形のように冴木の前に立っていた。
男の向こうの壁に掛ったアナログの時計の秒針がカクカクとぎこちなく進む。

「ずるいよ」
唐突に少女が言った。それから男の前に近づいて腕を伸ばす。
「笑って」
そう言うと知香は冴木の両頬を引っ張って言った。
「おじちゃんも笑ってよ。そんな顔ばっかりしてると美人になれないよ」
「知香……」
そんなことをされても不思議と怒る気にはなれなかった。子どもの頬にはまだ、涙の跡が光っていた。
(虚勢か?)
子どもは強引に辛い過去から脱却しようとしているのかもしれなかった。

「ほら、もっといっぱい笑って」
男はぎこちなく頬をひくつかせた。それを見て子どもも笑う。その頬につーっと新たな涙が伝う。
「美人になった?」
子どもが訊いた。
「そんなに早くは……。でも、今も悪くはない。顔を洗えば美人になれるさ」
「うん」
知香は走って洗面台に行くと小さな手で顔を洗った。服や床に水が跳ねて濡れた。が、彼は黙ってタオルを渡した。

「ありがと」
知香はそのタオルに顔を埋めて笑った。
「ふかふかして気持ちがいい」
光がこぼれる。
「よし。いい笑顔だ」
冴木の言葉に子どもがこくんと頷いた。それから洗面台を振り返って鏡を覗く。そして、知香はその鏡に向かってもう一度微笑んだ。幸せそうな笑顔だった。

それから彼女はタオルを置くと冴木に言った。
「雑巾はどこ? 床の水拭いておかないと……」
「そこの扉にモップがあります」
「わかった」
知香は早速モップを出すとごしごしと床を拭いた。
「あは。これって棒が付いてるから楽ちんだね。見て、もうきれいになっちゃった。ねえ、ついでにお風呂もみがいてやろうか?」
「いいえ。それはもう私が済ませました」
「え? おじちゃんが自分でお掃除するの?」
「一人暮らしだから……」

「知香がいれば、毎日おじちゃんの代わりにお掃除してあげるよ」
「……」
「こう見えてもお掃除するの慣れてるんだ。隅っこだって手を抜かずにピッカピカにしてやるよ」
と、モップを突き出す。そんな少女に男が何か言い掛けた時、玄関のドアが開いた。ロバートが帰って来たのだ。
「さあ、モップを片づけて手を洗いなさい」
「はい」
知香は慌てて言われた通りにした。


「ヘイ! 良、それにカワイイのお嬢ちゃん、ハンバーガー買って来たぜ」
ロバートがテーブルにドサドサと積み上げる。
「どれでも好きなだけ食べるしていいからね」
「すごい! ハンバーガーの山だ」
知香が驚く。
「それだけじゃないぜ。ナケットやポテトもたくさんあるよ」
別の袋から更に並べる。

「ほう。さすがは熊の食欲ですね」
冴木が言うとロバートは豪快に笑って言い返した。
「それはドイツの連中だろ? 繊細なおれの胃袋には似合わないな」
「彼らと接触したんですか?」
「いいや。必要があればマイケルが連絡を取る」
そう言うとロバートは大きなハンバーガーを一口で頬張った。それを見てまた知香が目を丸くする。

「知香もお食べ」
冴木が子どもの前に取り分けてやると、彼女はうれしそうに笑って食べ始めた。
「ところで良、おまえ、よほど人から恨まれてるようだな?」
「人聞きが悪いですね。私はいつだって清廉潔白ですよ」
「その割にはここへ来るまでに何人もおまえに恨みがあるらしい連中と出くわしたぞ」
「何か言ってましたか?」
「闇がおまえを食いたがってた」
「食べる? おじちゃんを?」
知香が驚いてロバートを見つめる。

「妙な喩えをしないでください。知香が怖がります」
「そいつはすまんな。だが、準備はしといた方がいいぜ。2、3匹は潰しといたが1匹撃ちもらした」
最後の一個のハンバーガーを頬張りながら男は言った。一瞬、それは知香の両親の関係だろうかと冴木は考えたが、それは有り得ない。では、先週収賄容疑で逮捕された北山の関係か。幾つかの可能性を考えていると、いきなりロバートが立ちあがって叫んだ。

「伏せろ!」
冴木が知香を抱えてテーブルの下に潜る。と同時に開いたドアから飛びこんで来た人間が風圧で吹き飛ばされた。
「何? 風?」
知香が顔を上げようとするのを冴木が抑える。その頭上にあった筈のテーブルが飛んで玄関に激突し、入口を塞いだ。
「やっぱりまだいやがったのか」
外では複数の靴音が響いている。
「この際だ。まとめて吹き飛ばしてやるか」
ロバートが前に出る。その背後に隠れるようにしていた冴木が止める。

「ここで能力を解放するのはやめてください。住む所がなくなります」
「そうなりゃホテルにでも行けばいいだろ?」
「困ります。ここは都会の真ん中なんですよ。あなたの力はあまりにも……」

銃声が響いた。

「つべこべ言ってる場合か!」
ロバートが怒鳴りつける。
「大体、こうなるとわかっていたのなら何故ここへ戻って来たんです?」
冴木が言った。
「敵がどれくらいいるかわからないからさ。どうせここで待ってりゃお出ましになる。それに、腹が減っては戦にならないって言うだろ?」
ロバートは平然と言い返す。
「それにしても……」

敵は二人。また撃って来た。
「下がってろ!」
冴木は知香を抱えて通路の奥の浴室に飛びこんだ。
「おじちゃん……?」
不安そうにその顔を見上げる知香。
「こういうことがあるからおまえをここに置けないんです」

ドアの向こうでは風が唸りを上げて吹き荒れている。
「まずいな。知香、おまえはバスタブの中に隠れていなさい」
冴木はそこに子どもを下ろすとドアノブを掴んだ。
「いいですね? 何があってもそこから出てはいけません」
子どもが頷くのを確認すると彼は強引にドアを開いて出て行った。

ロバートの周囲で風が吹き荒れていた。部屋にあったカレンダーや時計、大理石の花瓶はことごとくロバートが起こした強い風に巻き込まれていた。部屋のあちこちがみしみしと罅割れて不穏な音を立てている。
「ロバート! やめてください。このままではビルが崩壊してしまう!」
冴木が叫ぶ。が、一度発動してしまった力は制御が効かずどんどん拡大して行くばかりだ。敵は既に影も形もない。彼らは非常階段の下まで飛ばされていた。風は更に轟音を立てて荒れ狂い、ロバートもそれに同調するように吠え立てている。
「ロバート!」
が、いくら呼んでも返事はない。風は凄まじい勢いで回り始めていた。

ロバート グラス。彼はただ腕力があるだけの男ではない。風を操る能力者だった。世界にはそういう特殊能力者が存在する。その力を戦力とし、軍や民間、警察などの特殊エージェントとして闇の世界で暗躍している。まだ一般には知られていなかったが、それも人類の進化の形の一つなのかもしれない。

冴木はそんなトップシークレットを入手し、コネクションを結んだ。そして、必要があれば協力を要請した。それはあくまでも金銭による契約だったが、ロバートのように個人的に親しくなった者もいた。最も、彼はアメリカ軍に所属しているため、いつでも自由に呼び出せるという訳でもなかったが、非番や休暇の時にはよく冴木のマンションに居座ることもあった。
難点は、ロバート自身、完全に自分の能力をコントロールできないところにあった。下手をすれば周囲に取り返しのつかない被害を与えてしまうかもしれない。どう考えてもこの場での発動は間違っていた。

「ロバート!」
天井の一部が剥がれ、照明が外れてぶら下がり、寝室の壁が崩れた。
「ロバート!」
自らも飛ばされないように冴木は浴室のドアにしがみついて眼鏡を押さえた。そこはリビングへ通じる壁と柱に遮られ、通路の奥に入った所だったので風が直接ぶつからない場所なのだ。
「何とかしなければ他の住人にも迷惑が掛ってしまう」
だが、冴木に彼を抑える術はない。途方に暮れたその時。

「NO!」
風の轟音に混じって女の声が響いた。
「静まりなさい! ロバート」
金髪碧眼の美女リンダだった。そんな彼女のチョップが大男の胸に炸裂した。
「リ、リンダ……」
たちまち男の覇気が失せて風が収まって行く……。

「ふう。助かった……」
ずり落ちた眼鏡を掛け直した冴木がよろよろと顔を出す。その足元をそよ風のような風の残骸が通り過ぎた。
「よかったわ。間に会って……」
リンダが軽く手を上げて言った。
「全然間に会ってなどいませんよ。見てください。この惨状を……」
冴木が首を竦めた。
「ここはもう使い物になりません」

「お嬢ちゃんは?」
リンダが訊いた。
「無事です。浴室に避難させましたので……」
「あはは。またやっちまった。すまねえな。良」
ロバートが頭を掻いて詫びた。
「費用は何処に請求すればいいですか? 軍に? それとも政府に?」
冴木が訊いた。

「それは事故ということで保険会社に請求しておきましょう」
玄関の向こうからもう一人、黒髪に黒縁眼鏡の男が現れて言った。
「ジョン。皆さん揃ってたんですか?」
冴木が言った。
「僕達は同じチームの一員ですからね。特にロバートのような暴走系の男には監視がかかせませんから……」
ジョンの言葉にロバートが不平を唱える。
「人のこと言えた義理か?」

「まあ、それはともかく、良、今回君を襲おうとしていた連中はプロです。心当たりはありますか?」
「それは掃いて捨てるほどにね」
冴木は言った。
「了解。では、ゆっくり伺いましょうか?」
足元に散らばった部屋の残骸を避けながらジョンが言った。

「おじちゃん……」
奥のドアが開いて、知香が恐る恐る顔を覗かせた。
「ああ。もう大丈夫です。すべて終わりました」
冴木が言った。が、周囲にまた知らない人間が増えているので子どもは少し怯えていた。
「心配ありません。おいで。紹介しましょう」
知香は小さく頷くと急いで冴木の傍に駆け寄った。

「よろしく。わたしがリンダよ」
「ジョンです」
二人に言われて知香も恐る恐る出された手を握って挨拶した。
「河村知香です」
が、実際にはのんびりしている場合ではなかった。周囲では住人達が騒ぎ始めている。誰かが通報したらしく、遠くでサイレンの音も響いていた。あとでそれ相応の片はつけなければならないが、取り合えず今はそこから撤収することにした。