向こう隣のラブキッズ


第3話 向こう隣の眉村さん


朝、しおりはいつものように窓を開けると隣の姫乃にあいさつした。
「おはよう! お兄ちゃん」
「おはよう、しおりちゃん」
朝の光が細く射し込んで姫乃を照らす。
「今日は何だかうれしそうだね、お兄ちゃん」
「うん。今日はロマンス小説大賞の発表の日なんだ。それで、少しどきどきしちゃって……」
姫乃はまぶしそうにそう言った。
「きっと大賞間違いないよ、お兄ちゃんなら……」
しおりが言った。
「ほんとに? 実はこれまで書いた小説の中で今回のが1番自信がある作品なんだ」
「すごいわ。お兄ちゃんもいよいよ作家さんの仲間入りだね」
「え? それはまだわからないよ。発表はこれからだもの」
そう言いながらも姫乃はうれしそうだった。

その頃、歩も隣のさくらに朝のあいさつをしていた。
「おはよう! お姉ちゃん」
「おはよう、歩くん。今日もサッカーの朝練に行って来たの?」
「うん。もうすぐ試合だからね」
急いでシャワーをして来たので、歩の髪はまだぬれていた。
「ドライヤーは使わないの?」
「短いからすぐ乾くよ」
「そう? でも、歩くん、髪伸ばしたら似合いそう」
「そうかなあ?」
「そうよ。可愛い顔してるもの」
さくらに言われると可愛いという言葉も悪い気はしなかった。

「しおり! 歩! 朝ごはんできたわよ!」
下から母親の呼ぶ声がした。
「はーい! 今行きます!」
二人はバタバタと階段を駆け下りて行った。

「それでね、今日はお兄ちゃんの小説の発表の日なの。きっと大賞に選ばれると思うんだけど……」
しおりは得意そうに言いながら卵焼きを口に入れた。
「へん。そんなのわかんないじゃん」
歩は冷静に言うとシシャモを頭からかじった。
「わかるよ。姫乃お兄ちゃんはまさしく作家になるために生まれて来たような人なのよ。売れて売れて売れまくるんだから……」
しおりが興奮して叫ぶ。
「うるさいなあ。テレビの音がちっとも聞こえないじゃんか」
歩がオーバーに耳をふさぐ。
「才能のない人はだまってて! お兄ちゃんは大作家になるって決まってんだから」
しおりが歩の皿のブロッコリーを掴もうとはしを伸ばす。
「あ! 何すんだよ! おれのブロッコリー」
歩が皿の上に手を広げて阻止する。二人の間に一瞬だけ火花が散った。

「ほらほら、食べたいならお母さんのをあげるから、けんかしないのよ」
「サンキュー!」
早速それを摘んでぱくりと口に入れるしおり。
「あーっ! ずりいよ、お母さん」
文句を言う歩をなだめるように父が口をはさむ。
「じゃあ、歩には父さんのトマトあげちゃおうかな?」
「やだよ! おれ、トマトじゃなくてブロッコリーの方が好きなんだもん!」
歩が駄々をこねる。
「仕方がないわね。じゃあ、今日、お買い物に行ったらまたブロッコリーを買って来てあげるから……」
母に言われ、歩はしぶしぶあきらめて、最後に残ったブロッコリーのかけらを口に運んだ。

「それにしてもすごいじゃないか。姫乃君もがんばってるし、もしほんとに大賞取れたら作家さんになるのかね」
父が取り持つように話題を変えた。
「うん。きっとね」
しおりがすぐに乗って来た。
「ご近所に二人も作家さんが住んでるなんて自慢よね」
しおりが食後のお茶を飲みながら満足そうに笑う。確かに、さくらの家の隣、つまり、彼らの家の2軒先にも眉村美樹という女性の作家が住んでいた。
「そういえば、その彼女のところにね、若い男が寝泊まりしてるって……。しかも外国人。私も気になったからちらと見たんだけど……」
母が声を潜めて父に言った。

「若い男?」
父が眉を寄せる。
「そうなのよ。こないだ、夜中にこっそり連れ込んだらしいって……。今朝、ゴミ出しに行った時、白神さんの奥さんが言ってたの。訳ありなんじゃないかって……」
「こっそり? そいつはただごとじゃないな」
テレビでは朝の情報番組がとりとめもなく流れていた。
「どうでもいいじゃん。そんなこと」
昨夜のJリーグの結果を見ていた歩が口を挟む。

「しかしなあ、ご近所だし、変な奴だと困るからな。一度確かめないと……」
父親が顔をしかめて言う。
「そうよねえ。何かトラブっても困るし……。それにしてもがっかりよね。彼女、今時の若い人にしては常識ありそうな人だと思ってたのに……」
「確かにな。しかしまあ、作家なんてそんなもんじゃないのか? 恋愛も仕事のうちって言うじゃないか。昔から作家や芸術家なんて色恋がつきものだし……」
父は平然としてお茶をすすった。
「そんな事ないよ!」
いきなりしおりがばんっとテーブルを叩いた。

「しおりちゃん、どうしたってんだい? 急に……」
父親がおろおろと訊いた。
「そうよ。お母さん達だって別に美樹さんがそんなことしてるなんて言ってないのよ。むしろ逆っていうか。彼女がその男に騙されてでもいたら大変だから、それを心配してるの」
「言ったじゃん!」
しおりはムキになって言った。テーブルの上で茶碗が揺れる。
「ははーん。しおりの魂胆わかったぞ。何しろこないだ美樹さんからお菓子いっぱいもらったもんな。ここはしっかりかばってポイント上げようってんだろ?」
冷やかし半分に歩が言う。
「歩!」
姉は弟を睨んだ。

「確かに、あのお菓子はすごいおいしかったけど……。男を連れ込んだって、もしかしたら単に兄弟かもしれないじゃない」
「でも、外国人なのよ。金髪だったし、すごく可愛い顔してるの」
母が満更でもなさそうに言った。
「じゃあ、その人に直接訊いてみたの? 美樹さんとどんな関係なんですかって」
しおりが詰め寄る。
「あら、そんな失礼なこと訊けないでしょう?」
「じゃあ、やっぱしわかんないじゃん。だいたい、白神のおばさんっていつもあることないこと言いふらしてるじゃない。どうしてそんな人の言うこと信用すんの?」
いつもなら、面白がって大人の話にまざって来るしおりが真面目に怒っているので、両親はたじたじになっていた。

「作家になったって姫乃お兄ちゃんはそんなことしないもん!」
しおりがぼそっとつぶやく。両親はそれを聞いてなるほどと納得した。
「そうだね、しおりちゃん。まったくその通りだ。姫乃君も美樹さんも実に真面目な良い人達だと思うよ。しおりちゃんは正しいよ、うん」
父親が娘の機嫌を取り繕うように言う。
「そうよ。お母さんだって信じてるのよ。だから気にしないでね」
「そこまで言うなら信じるけど……。もう二度と作家さんの悪口言わないでね」
念を押されて両親は揃ってうんうんとうなずいた。
「ふう。よかった。それを聞いたら安心してまたお腹が空いちゃった。ごはんお代わり!」
しおりが言うので、やっと両親も笑顔になった。

「ところで、さっき新聞取りに行ったら玄関に回覧板が来ていたぞ。至急だってさ」
父が言った。
「さくらお姉ちゃんち?なら、おれが行くよ」
歩がすかさずファイルを掴もうとする。
「ありがと。でも、その前にちょっと見せてね。中見を確認してハンコ押さなきゃ……」
「わかった」
「まあ、明後日断水があるのね」
母はさっとファイルの中を確認すると柱に吊るしてあったハンコを取った。
「でも午前中だから家には影響ないわね。はい。ハンコ押したからお隣に持って行ってちょうだい」
歩に渡そうとしたが、ふとその手を止めて言った。
「あら、でも、さくらさんのおうちのハンコ、もう押してあるわね。じゃあ、その隣の眉村さんのおうちにお願い」
「え? 彼女のところならわたしが持って行くよ!」
しおりが脇からファイルをふんだくった。が、歩は文句を言わなかった。

食事が済むと、しおりはすぐに回覧板を持って美樹の家に向かった。朝は集団登校することになっているが、まだ少し早い。しおりは緩やかな坂を上って行きながらぶつぶつと独り言を言った。
「こうして見るとやっぱり差があるよね。さくらお姉ちゃんの家はうちより大きいし、美樹さんのところはもっと大きい上に新しいし、そのまたお隣の白神さんとこは古いけど庭がすごく広いもん。何だかなあって感じ」
しおりはぐるりと見まわして呟いた。
「5年前には家だってまだぴかぴかだったのにな」

この辺りにもだいぶ家が増えた。そうやって月日が経つにつれ、いろいろなものが増えたり減ったりして行くのだ。
「でも、まあいいか。あの家に引っ越して来たから姫乃お兄ちゃんに会えたんだもん。そうよ。あの頃は姫乃お兄ちゃんが通学班の班長さんで、しおりのこと手を引いて横断歩道を渡ってくれた。しおりはあの時からお兄ちゃんに夢中で、同じ学校に通えることがとてもうれしかった。でも、幸せな日々は長くは続かなかった。お兄ちゃんは中学校へ、そして高校へ進み、わたしはまだ小学校。世の中って理不尽だわ。何て不公平なの! でも、待ってらっしゃい。今に追いついてみせるんだから……」

洒落た煉瓦造りの家の門の傍らに咲いているコスモスに話し掛けながら、玄関を見た。そこには既に先客がいた。厚いドアの隙間から大きな花柄の背中とお尻がはみ出している。小太りで頭にはパーマを掛けている。
「あ、白神のおばさんだ。いったい何話してんだろ」
しおりは身を乗り出して耳をそばだてた。

「まあ、皆さんでご旅行に……。それはよかったわね。それで、ご両親はもうご実家に戻られたの?」
「ええ」
おばさんが塞いでいるため、応えている美樹の声はくぐもっていた。
「そういえば外国の方も見えてたようだけど……」
何故だか声を潜ませておばさんが訊いた。
「ええ。ちょっとした知り合いで……」
「そう。お知り合いなの。それで彼らも一緒にご旅行へ? じゃあ、もうお帰りになったの?」
「ええ。でも……」
彼女が言い淀んだ。
「でも?」
おばさんの身体が更に中に入り掛けた時、しおりが声を掛けた。

「すみません、眉村さんに回覧板持って来たんですけど……」
「あら、しおりちゃん、おはよう。早いのね」
おばさんが一歩うしろへ下がったので、すかさず玄関の中に入ると、美樹にそれを差し出した。
「まあ、ありがとう」
「至急って書いてありましたので……。明後日断水があるそうです」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう。そうだ。旅行のお土産宅配で今日届く筈なの。届いたら夕方にでも持って行くわね。ちゃんとごあいさつもしておきたいし……白神さんにもあとでお届けしますので……」
「まあ、やだ。そんな気を使わないでね。わたしはただちょっと気になったから訊きに来ただけなんだから……。それじゃね、しおりちゃん、お母さんによろしく」
そう言うと白神はようやくそこを出て行った。

「まったく、ずうずうしいんだからね、あのおばさん」
白神が出て行くと、しおりが肩をすくめて言った。
「うふ。そうね。でも、いろいろ親切にしてくれるから無下にもできないし……」
美樹が苦笑する。
「気にすることないですよ。あのおばさんどこに行ってもお節介のトラブルメーカーなんだから……」
「そうなの?」
「そうだよ。あの噂だってどうせ白神さんが尾ひれをつけて流してるにちがいないんだから……」
「あの噂?」
美樹が聞き咎める。
「美樹さんがその、若い男を引きずり込んだって……」
しおりはそう言ってからあわてて口を塞いだ。

「やっぱり……。もう噂になってるんだ」
美樹がため息まじりに言う。
「大丈夫です。わたしは美樹さんの味方ですから……。作家だからってふしだらだなんて言わせません! わたしちっとも信じていないもん」
美樹は驚いて少女の顔を見つめた。
「酷いなあ。そんなこと言われてるんだ」
「気にしなくていいですよ、本当に! 作家がみんなそうだったら姫乃お兄ちゃんだってそうなっちゃうもん。お兄ちゃんは真面目なんです。いくら作家になったってそんなこと絶対にありえないから……」

「そうか。姫乃くんも作家を目指してるんだったのよね」
「はい」
「私も応援してるって言っといてね」
「わあ。ありがとうございます。美樹さんから言ってもらえるとすごくうれしいです」
「そう? ところで、夕方はおうちにいる?」
「はい」
「じゃあ、あとで伺いますってお母さんに伝えておいてね」
「わかりました。それじゃ、わたし学校に行くのでまた」
「じゃあ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
彼女に見送られてしおりはその家をあとにした。

「やっぱ彼女いい人じゃん。それにしてもその外国の人はどこにいるんだろ? 気配なかったけど、もう帰っちゃったのかな?」
しおりは話しながらもしっかり中を観察していたのだ。
「お母さん、回覧板渡して来たよ!」
家に上がると早速母に告げた。
「ありがとう」
「それでね、今日の夕方うちに来るって」
「うちに?」
「旅行に行ってたんだって……。それでお土産持って来てくれるって言ってた」
「まあ、しおり、まさかおねだりしたんじゃないでしょうね?」
「そんなことしないよ。白神のおばさんじゃあるまいし……」
しおりが口を尖らせる。

「白神さんと会ったの?」
「そうだよ。こんな朝早くから押し掛けて迷惑な人だよね。美樹さんだって困ってたよ」
母は苦笑いした。つけっ放しのテレビから聞こえていたCMが終わり、占いのコーナーが始まる。
「あ、もうこんな時間だ。行かないと」
しおりがそそくさとランドセルを背負う。
「忘れ物はない?」
「うん。大丈夫。それじゃ、行って来ます」
しおりはもう玄関を出て走り出していた。


放課後。歩がボールを蹴りながら歩いていると、横断歩道を渡って来た今村正が追って来た。
「歩、今度の試合は負けないからな」
「ふん。返り討ちにしてやるさ」
今村は隣の小学校のサッカー部でゴールキーパーをしていた。二つの小学校はよく練習試合を行っていて、歩のチームが連勝していた。
フォワードをしていた歩のキックは大人よりも威力があると評判だった。プロになるかという質問もされるが、歩自身はまだ決めていない。
「じゃ、試合でな」
そう言うと今村は逆方向に走って行った。根は悪い奴ではなかったが、体格がいいのと、少々乱暴なところがあって、歩とはそりが合わなかった。

「ちぇっ。いやな奴と会っちゃったな」
歩は一人ボールを蹴りながら公園通りに出た。
「何かくさくさする」
歩は運動公園の破れた金網目掛けてシュートした。それはボール一個がようやくくぐり抜けられるぎりぎりの穴だった。が、ボールは見事そこを抜けて公園の奥へ飛んだ。

「Tor! ナイスシュートでした」
いきなり声がしてパチパチパチと拍手が響いた。見ると金網の向こうに金髪の若い男の人が立っている。彼は自分の前に転がって来たボールを放ると、金網の上に手をついて軽く飛び越して来た。
(あれ? 今、この人ボールを自分の前に引き寄せなかったか?)
歩は疑問に思いながらもう一度柵の向こうを見た。足元に落ちたボールは確かに歩の物である。だとしたら、かなり不自然にカーブして舞い戻って来たことになる。
「君、Fussballとても上手ですね」
彼は笑ってそう言った。見たことのない顔だ。

「あの、今ボールは向こうの方へ飛んで行ったと思うんですけど……」
歩の言葉に彼はうなづく。
「そう。ほら、あれにぶつかって跳ねかえって来たですよ」
彼が示した支柱とはそこから5、60メートルは離れた建物の脇にある。明らかに角度が違う。それに歩は思いきり蹴ったのだ。もし彼が言うように命中していたら、その細い柱はとても無事では済まなかったろう。少なくともめり込むくらいの威力はあったはずだ。しかもぶつかる音も聞こえなかった。
「本当に素晴らしいキックでした。僕見てました」
「おれだって見てたよ。おれ、動体視力はいい方なんだ」
「動体視力? それ何の意味ですか?」
「ああ、動いている物を追って見る力のことだよ。さっきみたいにボールが飛ぶ速さを追って見るとかさ」

「なるほど。わかりました。それなら僕も負けないです。僕はピストルの弾だって追えるくらいの目を持っていますから」
「ピストルの弾だって? うそだろ?」
「AHAHA。はい。うそです。ここは平和でいい街ですから……」
歩は彼のことをじろじろと見回して言った。
「あんた、変わってるな。どこから来たの?」
「丘の上の煉瓦の家です」
「眉村さんち?」
「はい。そうです。美樹ちゃんのこと知ってるですか?」
彼は急にうれしそうな顔をした。
「うん。だって、おれんちその向こう隣の家だもん」
「それはとても近いってことですか?」
「うん。おれ、日比野歩」
「僕はハンス・ディック・バウアーです。どうぞよろしく」
「こちらこそよろしく。えっとハンスさん? それともバウアーさんって呼んだらいいの?」
「ハンスでいいです。僕も君のこと歩って呼ばせてもらいますから」
「そうか。この人のことか、お母さんが言ってたの……。確かにこうして見ると美形だもんな」

「ビケイ?」
「カッコいいってこと」
「ありがとう。歩も可愛いですよ」
ハンスは時々、単語の意味を訊いて来た。恐らくまだあまり日本語に慣れていないのかもしれない。
「そうかな? おれ、自分じゃぜんぜん自信ないんだけどさ」

――歩くん、髪伸ばしたら似合いそう。可愛い顔してるもの

さくらの言葉が頭をよぎった。

「どうかしましたか?」
「あ、いや、別に……。それで、ハンスはずっと美樹さんのとこにいるの?」
「はい」
「じゃあ、花江おばさんには気をつけた方がいいよ」
「ハナエおばさんって?」
「眉村さんちの隣の白神さん。おじさんはいい人なんだけど、おばさんの方はあることないこと言いふらすトラブルメーカーなんだ」
「ありがとう。教えてくれて。それじゃ、僕気をつけますね」
人懐こいハンスはすぐに歩ともうちとけて楽しそうに話した。


それから一時間ほどして歩が帰って来た。
「お帰り。今日は遅かったのね。サッカーの練習はお休みだったんじゃなかったの?」
母が訊いた。
「うん。ちょっと寄り道して来たから……」
「おやつはドーナツだよ」
半分齧りながらしおりが言った。
「いい。しおりにやるよ」
そう言って二階を上がろうとする弟をつかまえて姉は言った。
「どうしちゃったの? あんたがドーナツいらないなんて……。熱でもあるんじゃない?」
「やめろよ! 今はお腹が減ってないからしおりにやるって言ったんだ」
「ふーん。そうなんだ。っていうか、あんた、何か食べて来たでしょ? 甘いにおいがするもん」
しおりがくんくん鼻をひくつかせて言った。

「うん。海の公園の喫茶店で……」
「えーっ? あそこって大人といっしょじゃなきゃ入っちゃいけないんだよ」
「いっしょだったよ」
「誰と? さくらお姉ちゃん?」
「ううん。ハンスが海に行きたいって言うから案内してやったんだ。それで少しサッカーの練習に付き合ってくれて……。喉が渇いたから喫茶店でお茶にしようってハンスが言い出したんだよ」
「ハンスって?」
しおりが怪訝そうに訊いた。
「知らない人に付いて行っちゃだめじゃん」
「でも、今はもう友達になったんだ」

「それで、そのハンスってどこの人なの?」
母も会話に割り込んで来た。
「それは……」
歩が答えようとした時、玄関チャイムが鳴った。
客は美樹だった。約束通りお土産を持って来てくれたのだ。そしてその傍らに彼がいた。
「こんにちは。しばらく美樹の家にいるのでよろしくお願いします」
紹介されてハンスが挨拶した。
「すみません。喫茶店で歩がごちそうになったとか……」
母が慌てて言う。
「あれは僕が喉乾いたんで誘ったです。気にしないでください」
「ほんとにすみません」
母は何度も頭を下げた。

「ほんと。ずるいよ、歩。自分だけごちそうになるなんて……」
背後でしおりが弟を突く。
「へーんだ。しおりの食いしん坊! 自分だってドーナツ2個食べられたんだからいいじゃんか」
「許せないわ。あのお店のケーキ美味しいんだもん。わたしも食べたかったな」
うしろでゴニョゴニョ言っている子ども達を母は追い出して言った。
「まったくすみませんね。うちの子たちって食い意地がはってるもんだから……」
「そうか。歩君にはお姉さんもいたですか。だったらお土産持たせてあげればよかったな」
ハンスの言葉に母は慌てて言った。
「とんでもない。今日もこんなお土産いただいてしまって、十分ですから……」

二人が帰ると、しおりが早速もらったお土産の箱を開けた。
「サブレだ。いっぱいある!」
「おれにもちょうだい?」
歩が手を出す。
「何よ、あんたお腹減ってないって言ったじゃない。ケーキ食べて来たんでしょ?」
「それはそれだよ。しおりこそいいのかよ? そんなに食べたら太っちゃうぞ」
歩がからかう。
「いいんだもん。わたし、太らないから……」
そう言ってサブレを5枚ほど掴む。
「おれだってちゃんと運動してるもん」
歩も負けずにサブレを掴む。
「ちょっとあんた達、お父さんにも残しておいてやりなさい」
「大丈夫だよ。まだ半分も残ってるもん」
そう言うと子ども達は部屋に向かった。

「お兄ちゃん、次はどんな本を書くのかな?」
しおりは部屋に戻るともう姫乃のことで頭がいっぱいになっていた。

――しおりちゃん、僕はずっと前から君のことを愛していたんだ。はじめて会った時から
ずっと
「ああ、そんな風に告白されたらどうしよう? しおり、困っちゃう」
幸せな想像を巡らせながら、サブレを2枚食べた。
「ああ、恋ってお腹が空くものなのね」

その時、姫乃の部屋の電気が点いた。
「お兄ちゃん! 小説大賞どうだった?」
しおりが勢いよく窓を開ける。しかし、姫乃はがっくりと肩を落として泣きそうな顔をしている。
「それが……第一次選考にも残らなくて……。ああ、僕って才能ないのかしら?」
「そんな事ないよ。お兄ちゃんの小説の良さがわからないなんて、きっと審査員の頭がぼんくらだったんだよ」
「出しても出しても没になるなんて……。もう、僕は駄目かもしれない……」
そう言って涙を流す姫乃を励まそうとしおりは懸命に言った。
「大丈夫だよ。きっと次は大賞取れるよ。わたし、信じてるから……。これ食べて元気出してね」
しおりはもらったサブレを3枚姫乃に渡した。

「でも、しおりちゃんは?」
「わたしは先に食べたから……。これ、美樹さんにもらったんだけど、すごくおいしいんだよ。それにね、美樹さんがお兄ちゃんの事、応援してるって……」
「それ、ほんと?」
「うん。プロの作家先生が言ってくれてるんだもん。きっとなれるよ」
「そ、そうなんだ。美樹さんが……。ありがとう。僕、がんばるよ」
姫乃はサブレを1枚半だけ取ると残りをしおりに返して言った。
「いっしょに食べよう。元気をもらえるから……」
「お兄ちゃん……」
秋の風は少し冷たくなっていたが、二人にとってはまだ夏の残暑の名残のように胸の中はほかほかと熱かった。