青春シンコペーション
第4章 コンクールに姫乱入?(1)
コンクールの本選まで、もう1カ月もない。井倉は練習に余念がなかった。そんな彼の脇では、黒木がつきっきりで細かな指示をしていた。
「何度言ったらわかるんだ! そこはもっと歯切れよく! ふやけた音を出すんじゃない! こんな時期になってもまだ初歩的な注意をされているようじゃ、到底あの彩香君には勝てんぞ」
「はい。すみません」
井倉は今にも涙が溢れそうな目をして、じっと目の前の楽譜を見つめていた。
「さあ、もう一度!」
「はい」
井倉は首を竦めた。
「どうした? 早く弾かんか!」
「はい」
彼は何とか鍵盤に指を持って行こうと努力した。が、筋肉が硬直したように固まって動かない。
「何をしている? 愚図愚図するな!」
頭の上に雷が落ちた。そのあまりの剣幕に驚いて、彼の足もとにいた黒猫のリッツァがびくっとしてあとずさった。
「ふぇ〜ん。暑いでしゅ」
ハンスが間の抜けたような声を出した。途端、それまで張り詰めていたリビングの空気がさっと緩やかに解けて行った。黒木も、思わず固くなっていた表情筋を弛緩した。
ハンスはソファーにもたれて、怠惰そうにうちわでパタパタと煽いている。
今は6月。梅雨明けには遠く、晴れ間はあるのに、湿度が高い。雨は朝から降ったり止んだりと、うっとうしいうえに、陽が出れば出たで焼けるように暑くなる。
「日本の夏、とっても暑いですねえ」
部屋はエアコンで冷えていたし、直接光が当たらないように遮光カーテンが引かれていた。それでも、ハンスは美樹に持って来てもらった冷たいタオルを額に当ててぐったりしている。
「エアコンの温度、もっと下げてもいいですか?」
ハンスが訊いた。
「でも、22度になってるのよ。これ以上下げたら……」
美樹がちらっとピアノの方を向く。井倉は相変わらず楽譜を見つめたまま沈黙していたし、黒木はどっちつかずに頭を振った。
「何か冷たい飲み物を持って来てあげるから……」
宥めるように彼女は言って、黒木達の方にも声を掛けた。
「そろそろ休憩にしませんか? 飲み物を持って来ますよ」
「はあ。ありがとうございます。そうだな。休憩にするか?」
と、黒木は井倉の肩に手を掛けた。
「……はい」
返事をするのと同時に、耐えきれなくなった涙がその膝に水滴となってぽたりと落ちた。
黒木は顔を背けると、静かに井倉の肩から手を放し、ソファーの方へ歩き出した。そして、ハンスの脇に腰を下ろすとうちわを取り上げ、恭しく彼の方へ風を送った。
「ふう。涼しいです。ありがとう」
ハンスは背もたれにくたりと首を預けて目を閉じた。
「確かに、日本の夏は蒸し暑くていけません。日本人だって、そりゃあ不快に思っているんですよ」
「でも、美樹ちゃんなんか平気な顔しているです」
「はは。そいつはどうですかね。言ってもどうにもならないから言わないだけなんじゃないかな。それに、生まれた時からずっと暮らしていますからね。一種の慣れなんですよ」
黒木が苦笑する。
「慣れ? それじゃあ、僕も慣れるかしら?」
「ええ。きっと10年くらい経てば……」
「10年……それは遠いです」
ハンスは暑さが苦手だった。彼は肌が弱いのだそうだ。特に紫外線がよくないとかで、真夏でも長袖長ズボンですっぽり肌を覆っている。そんな彼のために、美樹はいろいろと工夫していた。少しでも涼しく過ごせるようにとクールタオルを買い込み、部屋の中も見た目の涼しい色合いに模様替えした。が、それでも彼は日本の蒸し暑さに閉口していた。
ピアノの上には魚のモビールが飾ってあった。青い縞模様の魚だ。それがゆらゆらと宙を泳ぐように揺れていた。2匹の魚が決して埋まらない距離を追って泳ぐ。井倉にはそんな風に見えた。
(敵わないんだ。彩香さんには……。なのに、どうして僕はここに座っているんだろう)
譜面は『ラプソティー第1番』。ブラームスの曲である。井倉は頭を抱えた。
(僕にとっては僕の運命そのものが狂詩曲だ)
彼はどうしてもその曲の展開部が上手く弾けずに落ち込んでいた。
(彩香さんなら、こんなの訳ないだろうに……。僕にとっては難題過ぎる)
予選を通過できた喜びから、まだ一週間も経っていないというのに、この絶望感は何だろう。黒木もハンスも自分を買いかぶり過ぎてはいないか。いや、それが露呈して、二人の恩師をがっかりさせてしまっているのでは……。だから、ハンスは何も言わず、黒木は怒ってばかりいるのだ。
「そうだよ。どうせ僕なんか……」
つい、声に出して言ってみた。
「ニャー」
いきなり、白猫のピッツァが膝の上に飛び乗って来た。
「……ごめん。僕、今はおまえ達と遊ぶ気分じゃないんだ」
足元でそんな彼を見上げていたリッツァも不思議そうな顔をした。
「だって僕……」
青空が逆さに反射した。遠くのビルに光が回る。その光が黄金の髪に変わり、ハンスが微笑んで手を差し伸べている。そんな幻想が見えた。
(あの時、どうして先生は僕を放っといてくれなかったんだろう。どうして僕を助けたりしたんですか? そうしたら、こんなにも苦しい思いをしなくても済んだのに……)
――君は僕のものです
ハンスは微笑んでいた。いつだって彼はやさしい。
(でも、僕は知ってる。そのやさしさの下にある本当の顔を……)
その時、美樹がお盆にグラスを4つ乗せて戻って来た。
「わあ! クリームソーダですね。僕、大好き!」
ハンスがソファーから飛び起きて言った。
「そうよ。さあ、井倉君もいらっしゃい」
彼女がコースターと一緒にグラスをテーブルに置いた。爽やかなグリーンの液体から湧きだす泡とバニラアイスが涼しそうだ。
「いやあ、懐かしいですな。若い頃はよく喫茶店で飲んだものです」
黒木は微笑しながらハンスの隣に座った。井倉もそろそろとやって来てハンスの向かいの椅子に掛ける。美樹はもう一つ、氷の入ったグラスをテーブルの中央に置いて、井倉の隣に座った。中央のグラスにはプレッツェルにチョコレートを塗したお菓子がどっさり入っていた。
「よかったらつまんでね」
美樹が勧めた。ハンスが早速一本取ると、先端にアイスを付けて口に入れる。
「こうするともっと美味しいです」
「はは、私もやってみようかな」
黒木も一本抜いてハンスと同じようにして食べる。
「うむ。こいつは美味だ。どうだ? 井倉もやってみないか?」
黒木の言葉に、彼は怯えたように肩を小さく震わせ、逆らうことのできないロボットのようなぎこちなさで、グラスから一本抜いた。
「ね? いいアイデアでしょう?」
笑顔でハンスが訊いて来る。
「は、はい」
井倉はプレッツェルをグラスに突っ込んだまま、透ける液体をじっと見つめた。その向こうには笑うハンスの姿が見える。
(そういえば、最初に会った時もクリームソーダをごちそうしてもらったんだっけ……。外国の人って大人っぽく見える人が多いけど、ハンス先生は特別……)
彼の本当の年は知らないが、話の様子だと、どうも30前後にはなっているらしい。しかも教授だ。いくらハンスが若く見えるからといって、自分はとんでもない無礼をしでかしてしまったのではないかと今更ながら恐ろしくなった。が、当のハンスはまるでそんなことを気にしている様子はない。彼が子どもっぽいことを言ったり、時折、記憶が曖昧になるのは、美樹が言った通り、事故の後遺症のせいだろう。それにしても……と、井倉は思った。
(もうコンクールになんか出たくない!)
もともと自分が望んだことではないのだ。ここにいる二人の恩師が勝手に理事長と約束してしまったのが始まりだった。
(コンクールであの彩香さんに勝つと……。そうしたら、僕の退学処分を取り消して復学できるようにしてくれると……)
しかし、前者は彼らのプライドの問題であるし、後者はあくまでも井倉本人の問題であるのだから放っておいて欲しかった。なのに、運命は動き出してしまった。そして、彩香は自分の手の届かないところに行ってしまった。
(僕の人生なのに……)
――君の命は君一人だけのものではありません
(そうかもしれない。けど……)
自分には荷が重過ぎる。
次はショパンのバラード2番を練習しなければならない。その曲を担当しているのはハンスである。彼は黒木よりもやさしい。
(だけど、僕は知ってる。ハンス先生は……ああ見えて、ほんとは黒木先生よりもずっと怖い)
胃がチクチクと痛んだ。
(ああ、僕はいったいどうしたらいいんだ)
逃げ場を失って、井倉は途方に暮れた。
「井倉君……」
美樹が心配そうに彼を覗き込んだ。
「あの、何か……」
怪訝そうに周囲を見回す。皆が揃って彼の方を見つめていたからだ。
「大丈夫ですか?」
ハンスも神妙そうな表情で訊いた。黒木は黙っていたが、指先で軽くテーブルを叩いた。それでもまだ呆然としている井倉に、美樹が言った。
「こぼれてるわよ」
「え?」
彼女はテーブルの上に置かれていた彼の左手を持ちあげてそこに流れていた液体をふきんで拭いた。
「あ、すみません。僕……」
慌てて立ち上がる井倉。が、右手に持ったままグラスの中をかき回していたプレッツェルがぽきりと折れてグラスが引っくり返った。
「わっ! すみません! 本当に……」
皆が慌てて立ち上がり、ティッシュやらタオルやらを取って来て拭いた。
「まあ、大変。ズボンもこんなに濡れちゃった。これはちょっと着替えて来た方がいいかもね」
美樹が表面に着いた液体やクリームを拭ってやりながら言った。
「あ、はい。本当にごめんなさい」
「気にしないで。それより、このズボンはクリーニングに出した方がいいわね。持って行くから、脱いだら貸してちょうだい」
「でも……」
「いいのよ。どうせ、わたし達のを出すついでなんだから……」
美樹もいつも親切にしてくれた。そのやさしさに、井倉はかえって恐縮した。
「クリーニングに出す物はたくさんあるんですか?」
黒木が訊いた。
「ええ。ハンスのシャツとズボン。それに私の夏のスーツもあるので……」
「それなら、私が車で持って行きますよ。次のレッスンはハンス先生とバトンタッチだから構いません」
「でも、他に買い物もありますし……」
「それなら尚更、ご一緒させてください。買い物荷物は重いでしょう」
彼女が遠慮していると、ハンスが口を出した。
「美樹ちゃん、お願いしちゃえば? 相手が黒木さんなら、僕は構いませんよ」
「そうそう。私もこの家の家政夫さんですから、どうぞ遠慮なくこき使ってやってください」
結局、黒木に押し切られ、美樹はとうとう同意した。それから、三人は顔を見合わせて笑い合った。
(何だか楽しそうだな。本当の家族みたいに……)
井倉は、そんな家族の輪に入れそうになくて、一人淋しさを覚えた。
(家族か……。うちの家族はいったい何をしているんだろう)
父の会社が倒産し、家族は行方不明に……。そして、井倉にもとんだ災難が振り掛かって来た。が、その家族は呑気に温泉旅行を楽しんでいた。あれ以来、ずっと音信不通のままだ。
探偵である飴井からもまだ何も連絡がない。
(問題がこじれているのだろうか。それとも、何かよくないことが……。僕には知らせたくないような悪いことが……)
よくないことばかり考えてしまう。憂鬱な気分のまま、井倉は自室に向かった。
部屋に入った途端、緊張の糸が途切れたようにどっと涙が溢れた。
「もういやだ! こんなの……。僕にはとても耐えられない」
ハンスと同じ家に住んでいるだけでもプレッシャーなのに、黒木までやって来てピアノの指導やら家事の分担やらで気を使う。彩香からはまるで敵対しているかのようにライバル視されなければならないし、実際会うことはもちろん、以前のように姿を見ることも、偶然声を聞くことさえもできない。大学にいた時には、ずっと身近に彼女を感じることができた。たとえ、鞄持ちと言われようと、パシリだと罵られようと、井倉にとってはそれで十分だった。そんな小さな幸福が今はひどく懐かしい。
「できることならもう一度……あの頃に帰りたい」
――コンクールで優勝したら、井倉を復学させていただけるんですね?
「そういうことじゃなかったんです。僕が望んでいたのは……」
――必ず井倉君を優勝させてみせます
「違うんだ。僕は……」
その時、ノックする音が響いた。
「井倉君? 着替えは済んだかしら? 黒木さんがすぐに出発するから早くして欲しいって言ってるんだけど……」
美樹の声だった。
「はい。ちょっと待ってください。今持って行きますから……」
「わかった。それじゃ、下に行ってるわね」
そう言うと彼女は階段を降りて行った。
「あの、すみません。遅くなって……」
井倉が玄関ホールにいた美樹にズボンを差し出すと、黒木がさっとそれを受け取って袋に入れた。井倉はそれを見て恐縮したが、教授は構わず玄関に向かうと靴を履いた。
「それじゃあ、美樹さん、参りましょうか?」
「ええ。助かります」
「なあに、買い物も大変ですからね。荷物持ちくらい何てことありませんよ」
そう言って愉快そうに笑う黒木。
「それじゃ、美樹ちゃん、行ってらっしゃい」
ハンスが手を振る。と、彼らは親子のように仲睦まじく、肩を並べて出て行った。
「では、井倉君行きましょうか」
二人が出掛けてしまうと、ハンスが手招いた。
「次は僕らの時間です」
「はい」
井倉は緊張した面持ちで頷くと、ピアノの前に立った。
「ちょっと待っててくださいね。今、持って来ますから……」
リビングに戻ると、ハンスが慌てて階段を駆けて行った。
「持って来るって、何を……?」
バラードの楽譜ならここにある。ハンスはレッスンの時、楽譜を用いない。全部頭に入っているからだ。では、いったい何を取りに行ったのだろうと考えていると、ぬいぐるみを抱えた彼が戻って来て言った。
「これで姫とナイトの遊びをしましょう」
「え?」
呆気に取られている井倉に茶色いウサギのパペットを渡す。
「君は姫を守る勇敢な騎士です。そして、僕はハンナ姫」
彼はうれしそうにピンクのウサギのパペットに腕を入れて言った。
「君はこれから、ハンナ姫を守る騎士となるのです」
「で、でも、先生、レッスンは……」
「あれ? 名前が気に入りませんか? ならば、彩香姫と改名してもよいのですけど……」
彩香という言葉に思わず心臓の鼓動が高鳴った。
「あ、いえ、とんでもない。ハンナ姫で結構です」
慌てて言った。
「黄金の風が吹く谷間にある小さなお城。そこで二人は恋に落ちるのです」
ハンスが語る。
「しかし、彼らのことをよく思っていない家臣や魔女の企みによって二人は離ればなれになってしまうのです」
(二人は離れ離れに……)
井倉の脳裏に彩香が浮かぶ。
「聞こえて来るでしょう? 荒野の風が……」
「……はい」
風邪が過去を運ぶ。
砂場に佇んでいた幼い自分……。
――泣いてるの? なら、このハンカチ貸してあげる
――彩香ちゃん
――わたし、弱い子は嫌いよ
――そうだね。ぼく、泣かないよ。泣かずに強くなる。うんと強くなって、そして……
(いつか君のナイトになる)
「僕は姫を守る騎士に……」
「そうして、彼らには様々な試練が与えられ、騎士はそれをことごとくクリアし、姫を守りながら進むのです」
ハンスが言葉にすると、舞台はたちまち中世のお城になり、険しい谷となり、風が吹き荒ぶ砂漠にもなった。
そして、そこにあった家具や人形、猫達までもが物語の中の背景となり、人物となって戦った。
リアルがファンタジーとなり、ファンタジーがリアルとなって頭の中を駆け巡った。
(何だろう? この想い……)
胸に突き上げて来る強い感情。
光の鼓動……。
井倉はピアノの椅子に座っていた。
が、目の前にはまだ砂漠の風が吹き荒んでいる。
「姫……」
しかし、そこに彼女の姿はない。
モビールの細い金属が揺れてぶつかり合った。
「あれは剣の音……」
――井倉
彩香の声だった。大学の校舎に囚われた美しい姫君。
(僕の……。たった一人の大切な人)
「今行きます。僕がこの手で救うために……」
井倉ははめていたパペットを脱ぎ捨て、蓋を開けてピアノを弾いた。
(渡したくない!)
強い想いがそこに溢れた。
(誰を……? 姫を……。いいや、ちがう。彩香さん、貴方を……)
風がメロディーを運ぶ。
(あなたのことが好きです)
――離れ離れになってしまった恋人の……。昔、そんな淋しいお話があったのです
ハンスの声が耳の奥で響いた。
(ままならなかった恋人の……。悲しみと情熱と……)
(彩香さん……)
井倉は叩きつけるように鍵盤を弾いた。
たとえ想いは届かなくても、今、ここにこうしている自分の感情は真実だ。
(だから、僕はピアノを弾く。心の赴くままに……)
空調から流れ出た風がそっと頬を撫で、ピアノの上に置かれた茶色のウサギが、じっと青い魚を見つめている。
「よかったですよ」
ハンスが言った。
「え?」
ハンスはまだピンクのウサギを抱えていた。が、部屋の中に砂漠はなかった。城も、谷を渡る風も、そして、そこに宿る想いも何もかも……。すっかり消えてしまっている。
「僕は……」
茶色いウサギが首を傾けて頷く。
「僕……」
井倉は思わず立ち上がった。ハンスは頷くと、抱いていたウサギを撫でながら言った。
「いいですね。君の中にあるドラマティックな風を弾いてください」
その時、唐突に玄関の呼び鈴が鳴った。
「はーい、どなたですか?」
ハンスはすぐに玄関に飛んで行った。それからすぐに来客を従えて戻って来た。
「井倉君、君のお客さんです」
ハンスの後から顔を出した客を見て、井倉の鼓動は大きく跳ねた。
「澄子!」
それは、彼の妹だった。
「お兄ちゃん、会いたかった!」
そう言うと彼女は井倉の首に抱きついた。
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