青春シンコペーション
第5章 ドキドキ彼女も居候?(4)
「まあ、これがお子様ランチ? 可愛らしいのね」
ファミリーレストランに連れて来られた彩香が思わず感想を漏らす。
「これなら、私にも丁度いいサイズですわ」
「気に入りましたか? ここは昼だけでなく、いつでもお子様ランチが食べられるんです」
ハンスが得意そうに話した。周囲でも多くの人が同じ物を食べている。
「半ば、お子様ランチの専門店ってとこですかな」
黒木もにこやかに言った。
「私もハンス先生に連れて来ていただいて始めて知ったのですが、大人でも食べられるのが人気で、こないだも雑誌に取り上げられたそうですよ」
「まあ。そうなんですか?」
黒木の言葉に彼女はすっかり感心している様子だ。
「大人になっても懐かしいと思う人や、あまり量を食べられない女性に人気だとか」
しかし、真相は、ハンスの我儘から店が大人にも出すようになり、やがてその評判が広がって今に至るのだということを黒木は知らないようだった。
しかも、普通の店では12才以下の子どもにしか付けてくれないおもちゃのおまけを、大人にもサービスしてくれる。それで、ハンスは今日も堂々とおまけを4個手に入れたのである。
「彩香さん、本当にいいんですか? このおもちゃ、僕がもらっちゃって……」
「ええ。構いませんわ」
彼女は食後のコーヒーカップを上品に傾けて微笑した。
「ありがとう」
ハンスはすっかりご機嫌になっていた。
「それにしても、先生がそういった玩具に興味がお有りだったなんて知りませんでしたわ」
「ドイツは、何と言ってもおもちゃの国でもありますからな」
黒木が説明を加える。
「そういえば子どもの頃、ドイツ製の精巧なドールハウスをもらって、よく遊んでいたものですわ」
「私も昔、工房に特別注文しましてね、娘のために家具や人形を一式取り寄せたことがありますよ。細かいところまで実に良くできておりまして……。あれはおもちゃというより、もはや芸術品といった感じですな」
「実際、芸術的価値のある物もありますよ。僕はレトロな家具や人形を集めていて……」
彼らは有名なドイツの工房の話で盛り上がっていた。が、井倉だけが話に付いて行けない。
(仕方がないよな。考えてみれば、僕だけが一般庶民。外国に行ったことなんかないし、オーダー注文したおもちゃなんか買ってもらったこともない。彼らは違うんだ。僕とはまるで住んでいる世界が……)
「井倉君、コーヒーのお代わりしませんか?」
そんな井倉を見てハンスが訊いた。
「いえ、結構です。僕は……」
彼は視線を逸らして言った。
「では、そろそろ帰りましょうか。約束の時間になりますから……」
ハンスが席を立った。そして、昼は黒木が出してくれたからと、今回はハンスがカードで代金を支払った。
「すみません。僕、きっとあとでお返ししますから……」
井倉が恐縮したように言うとハンスは笑ってその肩に手を置いた。
「君は十分、僕の家で働いてくれています。それに、僕達は同じ家に住む家族みたいなものでしょう? 遠慮は入りませんよ」
「でも、レッスン料やこないだのコンクールの衣装だって……」
卑屈になっている彼を窘めるようにハンスは言った。
「僕や美樹もいろいろ我儘言います。それに君はいつも応えてくれているじゃないですか。そんなこと言うなら、もっと我儘言っちゃいますよ」
「ハンス先生……」
「さあ、行きましょう」
温かな眼差しだった。彼の笑顔を見ているだけで幸せになれる。そんな不思議なオーラを漂わせている。本当にいい人だと思った。ハンスのためなら、どんなことでもしよう。それが彼に対する恩返しなのだ。井倉はそう決意した。
家に戻ると、雪野が約束通り、女の子を連れてやって来た。
「はじめまして。YUMIです。よろしくお願いします」
少女は快活に挨拶した。光が毀れるような明るい笑顔だ。
「僕はハンス。よろしくね」
彼も笑って握手した。
「あれれ? 手にいっぱい汗かいてるね。緊張しているのかな? それとも暑い?」
「いいえ、大丈夫です」
そう言ったものの、彼女は確かに緊張していた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
雪野も頭を下げた。
「内密にということなので、レッスン室も秘密の場所にしようね」
ハンスは彼女を地下室へ案内した。リビングの書棚がスライドして現れる秘密の扉を見ると、少女は目を見開き、珍しそうに周囲を見回す。
「ふふ。面白いでしょ? でも、これは秘密。君の正体がバレないようにするのと同じようにね」
ハンスがにっと笑ってウインクする。YUMIははっとして固まり、それからぎこちなく笑って頷いた。
二人は地下室に降りて行き、そこでレッスンを行った。閉めきってしまうとピアノの音はほとんど漏れて来なかった。
「よかったらお茶をどうぞ」
リビングで待っている雪野に井倉がすすめた。
「ありがと」
「それにしても驚きました。レッスンを受けたいっていうのがまさかあのアイドルのYUMIちゃんだったなんて……」
YUMIは今売れっ子のスターだった。テレビを付ければ、必ず見掛ける。雑誌にも引っ張りダコという状態だった。
「それに僕、まったく知らなくて……。お隣の雪野さんが芸能関係のお仕事なさってたなんて……」
「ちょっとね。アルバイト程度なんだけど、YUMIちゃんとは昔から知り合いなの」
「YUMIちゃんのことは、テレビで見ていましたけど、近くで見るとほんとに可愛い子ですね」
井倉が褒めた。
「ふふ。彼女喜ぶわよ」
「YUMIちゃんか。私もこないだ見掛けましたよ。彼女の歌、とてもいいですね。繊細で、まるでボーイソプラノのように透き通った感じで……」
黒木の言葉に、彼女は微かに頷いてカップを置いた。
「ありがとうございます。本当に今が旬というか、まさしく絶頂のグラスボイスなんですよ、きっと」
「いやいや、まだこれからですよ。声の完成は30才くらいですからね。彼女ならいい歌い手になるでしょう。今から習えば、オペラでもミュージカルでもいけますよ」
教授の言葉に雪野は遠慮がちに頷いた。
そして、30分のレッスンが終わり、地下室からハンスとYUMIが出て来た。
「どうだった? YUMIちゃん。初めてのピアノは」
「最高! すごいよ! 感激しちゃった! おれ……じゃなくて、わたし、もう両手で弾けるようになったんだよ!」
興奮して喋る子どもに雪野はやさしく人差し指を当てて微笑んだ。
「それはよかった。でも、これは内緒。外で話しちゃ駄目よ。これから毎日、ここでこっそり練習させてもらいましょうね」
「はい」
YUMIはまるで恋人を見つめるような熱い視線で桜を見つめた。
それから5分ほどして二人が帰っても、美樹はまだ戻って来なかった。
「遅い……」
9時半を過ぎた頃だった。ハンスがぽつりと呟いた。
「遅過ぎるよ!」
その間に何度も電話が掛かって来たが、どれもピアノ教室への問い合わせばかりだった。
「何だかすごい人気ですね。こんな人数来ちゃったらさすがにハンス先生でも困るんじゃないかな?」
井倉が気をもむ。
「まったく。世間の連中も現金なもんだ。この中にいったいどれほど骨のある奴がいるか……一つ私が試してやろう」
黒木が書きとめた連絡先一覧を眺めて言った。
それから二度ハンスの形態に電話が掛かって来たが、いずれも美樹からではなかった。それで、ハンスはますます苛々していた。
そして、10時少し前、ようやく彼女が帰って来た。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって……。台本の直しとかやってたら結構かかっちゃったの。それで、申し訳ないからって、春那君が車でそこまで送ってくれたのよ」
「春那だって? まだあいつと付き合ってるのか?」
ハンスが険のある声で訊いた。
「付き合うだなんて、彼は作品に出てくれている声優さんなのよ」
「だからってあいつの車に乗らなくてもいいじゃないか!」
ハンスが面白くなさそうに言った。
「何言ってるの? 彼は仕事の仲間なのよ。嫉妬するなんて変でしょう?」
「嫉妬? この僕が?」
「違うの? それに、そのことはもう決着が付いているのだし……。これ以上わたしを困らせないでね」
美樹に言われ、ハンスはまた左手の傷に手を当てた。
「着替えて来るわね」
美樹が階段を上り掛けると、再びハンスが追い掛けて言った。
「ところで、昨日、僕に話があったんじゃない?」
「話?」
彼女は足を止めて振り返った。
「彩香さんのこと。今日からうちに泊まるって荷物まで持って来てるんだ。取り合えず2階のゲストルームに案内しといたけど……」
「ああ。そういえばそんなこと言ってたかも……。ごめんなさい。昨夜はパーティーのあと始末やら仕事の準備やらですっかり忘れてたのよ」
彼女は少し視線を落として言った。
「わかるけど、そんな大事なこと、僕にも相談して欲しかったな」
ハンスが彼女の足元を見て言う。淡いピンクのウサギが付いたそのスリッパはハンスのそれとお揃いだった。
「あら、ハンスだって私に無断で決めちゃったでしょ? 井倉君、連れて来た時だって何も相談なかったじゃない?」
「それは……緊急だったんだ。仕方がないだろ?」
急に自分の名前が引き合いに出されて井倉はドキリとした。
「そうね。でも……」
彼女は何か言おうとしたが、井倉のことを気遣ってやめた。
「それにフリードリッヒまで押し掛けて来たんだ。まさか、あいつにもここに泊まっていいなんて言ったんじゃないだろうね?」
ハンスの口調が強かったので、引きずられるように彼女の語気も強くなる。
「言ってないわよ」
「なら、いいけど……」
ハンスは不満そうに口を尖らせて俯いた。
「そうだ。明日も出掛けなきゃならないの。悪いけど、井倉君ハンスのことお願いね」
不意に彼女に呼ばれ、井倉は反射的にぴしりと姿勢を正して返事した。
「はい。わかりました」
そこにまたハンスが突っ掛かって来る。
「何だよ。まるで僕を子ども扱いしてさ」
間に挟まって井倉はおろおろしたが、黒木はリビングのソファーで音楽雑誌を広げ、聞こえない振りをした。
「僕だって大人だよ。一人でちゃんとやれるんだ。何でもかんでも井倉君に頼まなくてもいいだろう?」
「あら、そうなの?」
美樹が強気に問い返す。
「そうだよ。それに、君、お酒飲んで来たんだね。僕のいないところで……」
ハンスが顔を背ける。
「それは……。お付き合いで仕方なくね。でも、いちいちお酒飲むのにあなたの許可はいらないでしょう?」
「そうだけど……」
ハンスは行こうとする彼女の元に駆け寄ると、いきなり強く抱き締めた。
「いやだよ! 僕の知らないところでそんな……。君は僕だけのものなんだ。だから、ずっと僕の傍にいてくれなくちゃ……」
強引にキスしようとするハンスを押し退けて彼女が言った。
「ちょっと……! どういうつもりなのよ? みんなの前で……」
「だって、僕……。僕は……」
ハンスの瞳に涙が浮かぶ。
「いい加減にして! わたしはあなたの所有物じゃないのよ! あの時も言ったじゃない。それでその傷……」
彼女は俯き、それから、静かに顔を上げて言った。
「あの時の約束を忘れたの?」
「忘れてない……。だから、君がやりたい仕事をやらせてあげてるじゃないか」
「そうやって上から目線でものを言うのね。呆れたわ。もう少し理解してくれてると思ってたのに……。束縛するのはやめて! わたし達、まだ夫婦でも何でもないのよ」
悲しそうな瞳でそれだけ言うと美樹は階段を上がって行ってしまった。
「美樹ちゃん……」
ハンスは呆然と階段を見上げていたが、やがてリビングに行くとピアノの蓋を開けてばんっと滅茶苦茶な和音を叩いた。が、時計が10時を過ぎているのに気づくと忌々しげにその蓋を閉じ、振り向いて言った。
「出掛けて来る」
「でも……」
井倉が何か言う前に、彼はそのまま外へ飛び出して行った。
「ハンス先生!」
井倉が慌ててそのあとを追おうとしたが、それを黒木が止めた。
「私が行く。多分、その方がいいだろう。おまえは美樹さんの方を頼む」
「頼むと言われても……」
井倉はどうしていいのかわからずに混乱していた。が、黒木はもう玄関を出てしまった。
「どうしよう」
――井倉君を連れて来た時だって
(それって僕のせいですか?)
――何でもかんでも井倉君に頼むことないだろう?
「僕は別にそんなつもりじゃ……」
上からは物音一つしない。井倉は途方に暮れた。
(けど、何とかしなくちゃ……。僕のせいで二人が別れるなんてことにでもなったら……)
彼は意を決して階段に向かった。が、部屋のドアが開き、美樹の方から下りて来た。
「井倉君……。さっきはごめんね。ハンスってば妙に苛々してるもんだからつい……」
彼女は気まずそうに言った。
「いえ、僕は別に気にしてませんので……」
彼女が頷く。
「ところでハンスは?」
「外出して来るって……。黒木先生がすぐにあとを追ったんですけど……」
「そう。黒木さんが……。それなら、大丈夫ね」
彼女は少しほっとしたようだった。
「よかったら何か飲み物でも入れましょうか?」
「ありがと。それじゃあ、何か温かい物をお願い」
彼女は上の空で返事した。井倉は急いで台所へ行くと紅茶を入れ、彼女の前に持って来た。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
「何?」
砂糖を入れ、スプーンを持った彼女の手が止る。井倉は少しだけ言い淀んだ。が、思い切って尋ねた。
「ハンス先生の手の甲にある傷……」
彼が気にしているあの傷の意味は何なのか知りたかった。
「ああ。あれは、ハンスが自分で傷付けたのよ」
美樹がため息混じりに告白した。
「自分で?」
井倉が驚く。
「確か4月の終わり頃だったと思うけど……。アニメ化の話なんかが進行してて、とても忙しくなっちゃった時期なの。初めてだったし、アニメ化はわたしの夢だったから、随分舞い上がってたんだと思う。それで、あまりハンスのこと構ってあげられなくなっちゃって……」
立ち上る香気を見つめ、壁に掛けられた時計の秒針が半周するくらいの間を置いてから、彼女はようやく口を開いた。
「それを彼は面白くなく思ってたのね。たまたま声優の春那君と一緒にいるとこ見られちゃって……」
「でも、それはお仕事の上だったんでしょう?」
井倉が庇うように言った。
「そうよ。でも、ハンスはぜんぜん信じようとしなくて……。事故のせいで記憶に障害が残ったってこともあったと思うんだけど……。思いこみが激しいのよ、彼」
「だけど、それは美樹さんのせいじゃ……」
「でも……それで言い争いになっちゃって……。そんな仕事なんかやめちゃえなんて言うもんだから、ついかっとして、彼を傷付けるようなことを言ってしまったの。わたし、この仕事が好きなのよ。できればずっと続けて行きたいと思ってるの。それで……」
――これは、わたしにとっての夢なのよ!あなたがそれを取り上げるなんて許さない!
「作家になって、作品をアニメ化する。それがずっと小さい頃からの夢だったの。それを否定するようなこと言うんだもの。だったらもう知らないって家を飛び出しちゃったの」
「それは、先生にも責任があるんじゃないかな?」
「うん。そうなんだけど……。あとでルドルフが探しに来てくれて、家に戻ったらハンスが……」
――もう君を傷付けたりしないよ。この傷に懸けて……! だから……
「自らの手でナイフを……」
美樹は両手で顔を覆った。
(何という激しさだろう)
井倉は呆然としながらその話を聞いた。
――もう決して君を拘束したりしない。仕事の邪魔もしない。だから、お願い! 僕を嫌いにならないで……
「わたし達、一緒には住んでるけど、結婚はしてないの。ハンスはそう望んでいるんだけど、とても思い切ることができなくて……」
(確かにそう簡単なことじゃないだろうな)
もし自分が彼女の立場だったらと思うととても結婚なんて踏み切れないだろうと思った。いや、それどころか一緒に同居するのだって考えものだ。ハンスは見た目にはやさしくていい人かもしれないが、その内面には多分に問題を含んでいる。
「それにね」
と彼女は言った。
「彼とわたしでは身分が釣り合わないのよ」
「身分?」
「彼はわたしに合わせてくれているけど、実は彼の方がずっと位が高いの。わたしは単なる庶民だし、彼の社交には付いて行けない。わたし、ダンスだってできないし、テーブルマナーだって……」
「そんなこと……」
井倉は自分と彩香との違いを意識して、続きの言葉を言うことができなかった。
「あら、美樹さん、お帰りになっていましたのね。ごめんなさい。ご挨拶が遅くなってしまいまして……」
彩香が降りて来て言った。
「今晩は、彩香さん。どう? 2階のお部屋は気に入って?」
「ええ。素敵です。さほど広くはないけれどシンプルで使いやすそうですわ」
「あの、さっきはごめんなさいね。つい大人げなく騒がせてしまって……」
美樹が詫びると、彼女は何事もなかったかのように返事した。
「あら、何のことかしら? わたし、さっきまでお部屋で音楽を聴いておりましたの。特に耳障りな物音など聞こえませんでしたわ」
「そう。それならいいんですけど……」
美樹が軽く俯いて言った。
「ところで井倉、わたしにも紅茶を入れてくださる?」
「あ、はい。わかりました」
井倉がキッチンへ消えると彩香は美樹の向かいに腰掛けて言った。
「しばらくの間、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
美樹が微笑む。
「それで、当座の物は持って参りましたが、もし近くにデパートがありましたら、案内していただけませんか? 幾つか必要な物を揃えたくて……」
「ええ、構いませんよ。明日は仕事で出かけなくちゃいけないので、もし明後日でもよろしいなら……」
「助かりますわ。ありがとう」
彩香が頷く。そこへ井倉が紅茶を入れて戻って来た。
「あ、お買い物なら、僕がご案内しましょうか?」
井倉の言葉に彩香が反発した。
「ご一緒するですって? 図々しい! わたしは美樹さんにお願いしてるのよ! 女性のランジェリー売り場に同行したいだなんて失礼極まりないわ。いったいどういうつもりなのかしら?」
「あ、すみません。僕、そういうことだなんて知らなくて……」
「それに、この紅茶の入れ方は何? こんなに並々と注いだら美しくないでしょう? とてもじゃないけど美味しくいただけないわ。それに、カップもソーサーも温めてない。所詮は愚鈍な庶民のやり方しか身に付いていないのね」
「彩香さん……」
「もういいわ! この紅茶あなたにあげる」
彼女は一口も飲まずに立ち去った。
「すみません、美樹さん。彼女も決して悪気じゃないんですけど、いちいち物言いがきつくて……」
彩香の振る舞いや言動で彼女が傷付いたのではないかと思うと、井倉は気が気ではなかった。が、美樹は寛容な瞳で彼とそこに置かれたカップを見つめて言った。
「井倉君も大変ね」
そこへハンスと黒木が戻って来た。
「ああ、美樹ちゃん、お土産です」
ハンスがケーキの箱をテーブルに置く。
「グラスに入ったお花のケーキなんです。すごく可愛いんですよ。井倉君、彩香さんも呼んで来て! みんなでお茶にしましょう」
ハンスの気分はすっかり回復したようだ。
「そうだ。僕、ワイン取って来ますね」
そう言ってハンスは地下へ降りて行った。
「黒木さん、ありがとうございます」
美樹が礼を言うと、教授はいたずらっぽく笑って言った。
「はは。年の功ですよ」
井倉は会談を上がって、彩香の部屋のドアをノックした。
(彼女、まだ怒ってるのかな? いや、それより……)
すぐ隣にある自分の部屋のドアが気になった。
(本当に今夜から、彼女と同じ一つ屋根の下で暮らすんだ)
ドアに掘り込まれた帆船に海の飛沫が煌めいている。井倉の鼓動も飛沫が弾け飛ぶように高く弾けた。
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