青春シンコペーション


第6章 誘拐犯はお父さん!?(4)


朝。井倉はホースで花壇に水を撒いていた。梅雨の晴れ間の陽光がきらきらと反射して小さな虹の架け橋が見える。
「きれいだな……」
素直にそう思った。ここにはじめてやって来た頃には、そんな風に感じる余裕さえなかった。しかし、今はすっかり落ち着いて、周りの景色を楽しむこともできる。ハンスがそれを楽しみにしていたように、井倉にとってもそんな日常が愛しく思えた。

――井倉君、明日はお庭の水やり、君がしてくれませんか?

昨夜、彼はそう言った。
(水やりと猫達の世話は先生の日課だったのに……)

――ホースでお水を撒くと光にきれいな虹が出るの、僕はとても楽しみに……

(やっぱりどこか具合が悪いんじゃ……)
その時、隣家からラジオ体操のメロディーが流れて来た。そちらを見ると、隣の主人である白神と黒木が庭で体操をしている。
「お早うございます」
井倉が声を掛けた。
「おはようございます」
白神が笑顔で挨拶を返す。
(感じのいい人だな)
井倉がそう思った時、黒木が言った。
「おーい、井倉。おまえもどうだ? 気持ちがいいぞ!」
「すみません。僕はまだやらなくちゃならないことがありますので……」

白神は高校の国語科を教える教師で、年は黒木とほぼ同じだった。彼は温厚でやさしい性格をしていた。が、その夫人はやり手で世話焼きのトラブルメーカーだった。当初はハンスや井倉に関しても、美樹が男を連れ込んでいるだとか、逆に彼女のヒモだとか言って、近所にあらぬ噂を撒き散らしていた。そんな経緯を知っていた井倉は、あまり積極的に隣家と関わり合いたいとは思わなかった。

家の中に入ると早速、猫達が足元に纏わり付いて来た。水を強請っているのだ。
「ちょっと待ってね。すぐにあげるから……」
餌はハンスの担当だったが、水は井倉が与えていた。喉の渇きを我慢させるのは可哀想だからというのがハンスの考えだった。
「今日は餌もやっていいですよ」
井倉が猫達の皿に水を入れているとハンスがうしろから声を掛けて来た。
「あれ? 先生? どうして……」
この時間に彼が家にいることはかつて一度もなかった。

「トレーニングはお休みしました」
怪訝そうにしている井倉に、ハンスはからりとした感じで言った。しかし、その顔は何となく青ざめて見えた。
「先生、やっぱりどこか具合が……」
「大丈夫です。ただ……」
ハンスがそう言い掛けた時、美樹が階段を下りて来た。
「ハンス、駄目よ。まだちゃんと……」
そんな美樹の台詞を遮るように彼は彼女の腰に腕を回すと、リビングの方へ行ってしまった。

「ハンス先生……」
そんな彼を見ていると、井倉は不安になって来た。が、そこへ黒木が裏口から入って来て言った。
「見ろ! もぎたてのキュウリとトマトだぞ。白神のご主人の趣味だそうだが、なかなか見事な出来栄えだろう」
「ほんと。おいしそうですね。これなら八百屋さんに並んでいる品物と変わりませんよ」
目の前に置かれた赤いトマトを持つと井倉も褒めた。
「早速サラダにしていただこう」


その後も井倉はずっとハンスのことが気になっていた。しかし、彼はトレーニングを休んだこと以外には特に変わったことはなかった。いつものように午前中は彩香のレッスンを行い、井倉はフリードリッヒからレッスンを受けた。それがここでの定番になりつつあった。

「わたし、午後からお出掛けして来たいのですが……」
レッスンのあとで彩香が言った。
「構いませんよ。でも……」
ハンスはふと何かに思い当たったというように2、3度瞬きして言った。
「念のため、誰かに護衛させましょう」
「そんな……。護衛だなんてオーバーな……」
しかし、彩香の言葉をハンスは遮った。
「オーバーじゃないですよ。現に今もあなたにはSPが付いている。大切なお嬢さんをお守りするためにね」

「でも、彼らは……」
「そう。彼らは敵ではありません。しかし、雇っているのはあなたのお父様です。有住さんの意向次第では、別の任務に転じることだってあり得ますからね」
「それってまさか……」
彩香は言葉にするのを躊躇った。
「そう。お父様はあなたにお見合いして欲しいと願っていた。そのためにあなたを拉致するかもしれないのです」
ハンスが言った。

「でも……。いくら何でも実の娘を拉致するなんてこと……」
井倉が信じられないという顔をした。
「いや、それは十分にあり得る」
黒木が慎重に頷いた。井倉は大人しく成り行きを見守るしかなかった。
「本当は僕が付いていてあげられれば一番よかったのですが、スケジュールがいっぱいなのと、それに……」
ハンスは左胸に手を当てた。微かに消毒薬のにおいがする。
(ハンス先生、やはり怪我をされてるんだ。だからいざという時、彼女を守れないと……。それで……)
井倉の心臓はまた速度を増した。
「僕が……」
(そうだ。僕が彼女を守る。こんな時守れないで、いつ彼女を守ると言うんだ)
井倉は膝の上でぎゅっと拳を握った。じっとりと汗が滲む。

「僕が彩香さんを守ります」
勇気を出して言い切った。が、ハンスは首を横に振った。
「相手はプロです。井倉君一人では無理だと思います」
ハンスの指摘は正しかった。だが、井倉は納得できずに不満が残った。
「できます! 僕だって本気でやれば……」
しかし、彩香がそれを最後まで言わせなかった。
「お黙り! あなたが来ても足手まといになるだけよ」
「そんな……」
井倉が落ち込む。

「私が送り迎えをしましょう。そうすれば、少なくとも行き帰りの時の隙がなくなる」
黒木が申し出た。が、ハンスが首を横に振った。
「いいかもしれませんけど、黒木さんには他にやって欲しい仕事があります。だから……」
ハンスは躊躇うようにフリードリッヒを見た。
「おまえ、できるか?」
「もちろんだ。女性のエスコートなら得意だよ」
彼は自信満々に頷いた。
「ただのエスコートじゃないんだぞ。いざという時、しっかり彼女を守れるんだろうな?」
ハンスが念を押す。
「当然だ。実は私、子どもの頃には空手を習っていたこともある」
その発言に皆が驚く。

「黒帯か?」
ハンスが訊いた。
「いや。だが、型なら一通りやった」
ハンスはため息をついた。が、それでも決断するしかなかった。
「よし。わかった。信用しよう。たとえ素人でも大の男が二人もガードに付いていれば、いくらSPでもそう簡単に手は出せないだろう。それと、なるべく人のたくさんいる場所を選んで行くことだ。連中だって人の目は気になるだろうからね」
彼の言葉に皆が頷く。

「でも、先生、それって考え過ぎかもしれませんわよ」
彩香が言った。が、ハンスは軽く手を振って否定した。
「それくらいやる男ですよ。あの有住って人は……。彼と同じようなタイプの人間を僕は大勢見て来ました。間違いありません。用心に越したことはないですからね」
そう言うとハンスは椅子から立ち上がった。が、胸に走った激痛に、彼は顔を歪め、思わずテーブルに手を突いた。
「先生!」
「ハンス先生!」
皆が騒然となって彼を取り囲んだ。

「大丈夫。ちょっとね。手術の痕が痛むんです。季節の変わり目なんかには……」
とてもそうは思えなかった。黒いシャツの上からでも血が滲んでいるのがわかる。しかし、彼は誰にも触れさせようとしなかった。ポケットの中で携帯が鳴っていた。それはルドルフからのものだった。井倉にはそれがわかった。ハンスは相手によって着信メロディーを変えている。そのメロディーは何度か聞いたことがあった。が、ハンスは電話に出なかった。沈黙。そして再びメロディーが短くなって切れた。
「テレビを付けて……」
突然、ハンスが言った。黒木がリモコンを押す。フラッシュニュース。はじめは芸能人の訃報。それから事件……。殺人、強盗未遂、そして爆発物密造容疑で捕まった学生の事件。いずれも犯人は逮捕されていた。

「もう、いいよ。ありがとう」
画面が天気予報に変わると、ハンスは部屋の隅へ移動し、携帯からメールを送った。
「物騒ね」
彩香が言った。
「毎日こんな風に人が死んだり、事件が起きたり……」
その続きを彩香は言葉にしなかった。が、それは言わずともそれぞれの胸の奥に響くものがあった。

「ハンス先生……」
連絡が終わって振り向いたハンスに、井倉が声を掛けた。
「お昼を食べたら、ちょっと病院へ行って来ます」
「先生」
「本当に大したことではないんですけど、君や美樹が心配するので……。ちょっと傷ができて、肋骨に罅が入っただけなんです。だから、心配いりません」
「肋骨に罅? そんな……心配ですよ。安静にしてなくていいんですか?」
「処置はしてもらったので……。こんなのすぐに治ります。ただ、少しの間痛みが出るので、井倉君、悪いけど当分、朝のお仕事お願いします」
「わかりました。僕、何でもやりますから、どうか無理をしないでください」
彼が何故、そのような怪我をしたのかはわからない。しかし、自分には思いもよらない問題をハンスは背負っているのではないか。そんな漠然とした不安が井倉の胸を圧迫した。

昼食は美樹が用意してくれた。オムライスにスープとサラダ。デザートにはハンスの好きなプリンアラモードが用意された。今日はフリードリッヒも一緒だ。


そして、午後からは約束通り、井倉とバウメンが彩香に付いて出掛けた。夏の陽射しがきつい。彼女は白いレースの日傘を差していた。
「傘、お持ちしましょうか?」
井倉が訊いた。
「結構よ」
彼女が答える。僅かに首を傾けた彼女の白い肌に、日傘の淵飾りの柔らかな影が重なる。

「井倉! そんなにぴったりと付いて歩かないで! 暑苦しいわよ」
数メートルも行かないうちに彼女が言った。
「でも、近くにいないといざという時守れませんから……」
「自分がそんなに有能な人間だと思ってるの? あなた、武道の一つも嗜んでいて?」
「いいえ」
「だったら余計な手出しはしないことね。いざという時にはヘル バウメンが助けてくださるわ」
「でも、僕は……」
「お黙り! それに、いざという時なんて、滅多にあるものじゃないわよ。ハンス先生はああおっしゃったけど、お父様だって馬鹿じゃないもの。この私を誘拐するなんてこと有り得ないわ」
そう言うと彩香はすたすたと先を歩いた。

彼女の用事は歯科クリニックの検診だった。三か月に一度、必ず予約して来るのだという。ただ、クリニックには駐車場がなく、目の前の道路は狭い上に交通量が多い。タクシーで乗り付けても、降りてから30メートルほどは歩かなければならなかった。
「ここまででいいわ。付添い人が二人もいるなんて恥ずかしいもの」
玄関前で彼女が言った。
「確かに、歯医者がいやだって駄々こねてる小さい子みたいだもんね」
そう言い掛けた井倉の顔面を彼女のショルダーバッグが叩いた。
「黙りなさい! 下僕の分剤で付け上がるのもいい加減におし!」
そう言うと、彼女はクリニックのドアを閉めて行ってしまった。

「井倉、大丈夫ですか?」
フリードリッヒが気の毒そうに覗き込む。
「慣れてますから……」
鼻の頭と頬骨のあたりが少し赤くなっていたが、井倉は構わなかった。
「私もハンスは少しオーバーだと思う。父親が娘を誘拐するなんて考えられない。ハンスは少し神経質過ぎるんじゃないかな」
ドイツ語でぼそりと呟く。が、井倉には、その意味はよくわからなかった。
「オーバー過ぎるって言ったんだよ」
フリードリッヒがゼスチャーする。
「オーバーか。確かにそうかもしれない。でも……。それなら何故、ハンス先生は怪我をしたんだろう?」
それは彩香の件とは無関係だ。だが、切り離しておけない接点もあるのではないだろうか。何かが少しずつ動き始めている。そんな気がした。

30分後、彩香が出て来た。
「それじゃ、家に戻りますか?」
井倉の問いに彩香は首を横に振った。
「いいえ。まだ寄るところがあるの」
三人はタクシーに乗って銀座へ向かった。


彼女はオーダーしていた服を取りに、デパートの中にあるブティックに入って行った。そして、またしても一緒に入店することを拒否された井倉とフリードリッヒは店のエントランスフロアで待つことにした。さすがに人の大勢いるデパートの中では妙なことはできないだろうと思ったからだ。そこは婦人服やアクセサリーなどが並ぶフロアで、客も女性ばかりだ。そこに立つ男性二人はかなり目立つ存在だった。

「あ! 井倉先輩!」
いきなり女性の高い声が呼んだ。
「えーと、君はこないだの……」
「栗田です」
笑顔で駆け寄って来る彼女。
「ああ、栗田さん」
「いやだ。広美って呼んでください、先輩」
彼女は甘えるような声ですり寄った。

「あの、困ります。僕は……」
井倉が助けを求めるように振り返る。
「まあ、バウメン先生もご一緒でしたの。お二人はお友達なんですか?」
「先生と友達だなんてとんでもない。僕はただ……」
しどろもどろになっている井倉を見てフリードリッヒはぽんっと肩を叩いた。
「何だ。君もなかなか隅におけませんね。彩香さん一筋かと思ったら……」
と、ウインクする。
「そんなんじゃありません!」
彼がにやついていたので、言葉はわからなくても意味は通じた。
「ははは。心配しなくとも、私はそれほど野暮な人間じゃない。若者よ、しっかりやりたまえ」
そう言うと彼は井倉から遠ざかって行った。

「待ってください! バウメン先生!」
井倉が慌てる。そんな彼の腕を掴んで引き止める栗田。
「うふ。わたし、前からお兄ちゃんが欲しかったんです。ねえ、先輩のこと、お兄ちゃんって呼んでもいいですか?」
「こ、困ります」
彼女から迫られてうろたえる井倉。
(もし、こんなところを彩香さんに見られたら……)
「バウメン先生……」
縋るような目でそちらを見た。しかし、そのバウメンの周りにも、既に人だかりができていた。

「きゃあ、あなたはもしかして、あのショパンコンクール優勝のフリードリッヒ・バウメンさんではありませんか?」
「ええ。まさしく私がそのショパンコンクール優勝のピアニスト、フリードリッヒ・バウメンです」
彼がポーズを決める。
「きゃあ! 本物? 素敵! 握手してください!」
「わたし、クラシックよくわからないけど、ファンなんです。サインしてください」
「写真撮ってもいいですか?」
女性達に囲まれ、大変な騒ぎになっている。

一方、井倉もなかなか腕を放してくれない栗田に手を焼いていた。
「ねえ、先輩、このあと予定がないなら映画でも観に行きませんか? 広美、どうしても観たい映画があるの」
(バウメン先生! 助けて!)
井倉は心の中で悲鳴を上げた。
その時丁度、彩香が出て来た。
「あ、彩香さん……」
しかし、彼女は井倉を無視して出口へ向かった。フリードリッヒも皆の輪の中心にいて来がつかない。

「彩香さん! 待って!」
井倉は強引に栗田を引き剥がすとそのあとを追った。
「どうしたの? お兄ちゃん! 広美を置いて行かないで!」
彼女が叫んだが構わずエレベーターホールへ向かう。さすがにフリードリッヒも気がついて追って来た。しかし、一瞬の差で扉は閉まってしまう。そこは7階。井倉は階段を駆け降りた。


そうして、デパートのエントランスを出たところでようやく彼女の姿を見つけた。
「彩香さん!」
そこは幹線道路に面していた。見ると男が二人、彼女を無理に車に乗せようとしている。
「何をするの? 放しなさい! お父様に言い付けるわよ」
「すみません。お嬢さん。そのお父様からの命令なんで……」
彼女は抵抗を試みていたが無駄だった。男達は彩香を車に押し込めると素早くドアを閉め、自分達も乗り込んだ。
「やめろ! 彼女を放せ!」
井倉が猛ダッシュで車に近づく。が、無情にも車は発車したあとだった。あっと言う間のできごとだった。

「彩香さん!」
「警察に連絡しよう」
あとから駆け付けて来たフリードリッヒが言った。
「無駄だよ。ハンス先生が言ってたじゃないか。多分、あれは彼女に付いていたSPだ。たとえ警察が動いたとしても、父親が娘を迎えに行っただけだと言われたら終わりだよ」
井倉はがっくりと肩を落とした。
(どうしよう……。ハンス先生だって、あれほど心配してくれていたのに……。とても顔向けできないよ)

「ナンバーは見たか?」
「それが陽射しが反射して……下2ケタが84だったってことしか……」
焼けつくような陽射しの中に立ちつくす二人。ふと見ると道路の脇に彩香が持っていた日傘が転がっている。井倉は急いでそれを拾うとその柄を固く握った。