青春シンコペーションsfz


第1章 あ、開かない……!(1)


梅雨が明けると、真夏の太陽の煌めきが迸るように、一斉に蝉達が鳴き出した。見上げた空は一面のブルー。早朝の風は涼しくて気持ちがよかった。
「爽やかないい朝だな」
玄関の掃除を終えた井倉が顔を上げ、眩しそうに手を翳す。
「あ、井倉のお兄ちゃん、おはよう!」
しおりが声を掛けて来た。
「おはよう! 夏休みだっていうのに、随分早起きだね」
時間はまだ6時前だった。

「せっかくの夏休みなんだもん。寝てなんかいられないよ。それに、6時半から学校の庭でラジオ体操あるし」
そう言うしおりの胸には首から掛けたカードがひらひらと揺れている。
「ああ。そういえば、そんなのあったっけ。出席するとハンコもらえるんだよね」
「そう! 最後までちゃんと出るとごほうびもらえるの」
「へえ。そいつはいいね。それにしても少し早いんじゃない?」
「そんなことないよ。始まる前にサッカーの練習もするし、歩なんかもう30分も前に出掛けてるんだ」
「そうか。じゃあ、車に気をつけてね」
彼女が行ってしまうと、彼はほうきとちり取りを片付けようと玄関の扉に手を掛けた。その時。

「井倉くーん! そこ開けといてください!」
ハンスが勢いよく駆けて来た。
「先生! どうかしたんですか?」
不自然に胸の辺りを押さえているハンスに驚いて井倉が駆け付けると、彼は笑いながら首を横に振った。
「どうもしません。ちょっとくすぐったくて……」
「くすぐったいって、その……」
「いいもの取って来たですよ。逃げられるといけないから、そこ締めといてね。僕、美樹ちゃんに見せて来るんだ」
そう言うとハンスは大急ぎで階段を駆け上って行った。

「いいものって何だろう?」
井倉は慌ててドアを閉めると掃除道具を片付けて階段の下へ急いだ。その時、女性の悲鳴が響いて来た。

「どうしたんですか?」
井倉が駆け付けてみると、寝巻姿の美樹と彩香がドアの前で呆然としていた。廊下ではハンスが両手に何かを持ってにこにこしている。
「見て! 大きな蝉取れたですよ。二つ違う音で鳴くですよ。きっと種類がちがうんですね」
2匹を腕に這わせてハンスはご機嫌だった。

「ああ、アブラゼミとミンミンゼミですね」
井倉はほっと溜息をついた。その時、ハンスの手からアブラゼミがブーンと彩香の方へ飛んだ。
「きゃっ!」
慌てて払おうとしたその腕に蝉はぶら下がるように止まった。
「いやっ! あっちへ行って! お行きってば!」
しかし、彩香が払おうとすればするほど、蝉はしっかりとしがみ付いて離れない。
「井倉! ぼさっとしないで何とかしなさい!」
「そう言われても……」
井倉が困っていると、ハンスが脇から手を伸ばして、その蝉を掴んだ。

「蝉さん、嫌われちゃった。何でだろ? こんなに可愛いのにねえ」
その蝉に話し掛ける。と、彼の胸の付近に止まっていたもう一匹がミーンと大きな声で鳴き出した。
「うわっ! びっくりした!」
思わず両耳を押さえて彼が笑う。
「蝉さん、すごく元気です」
彼はうれしそうだった。
「ハンス! 蝉はおもちゃじゃないのよ。早く外に返して来なさい」
背後から美樹が言った。

「飼っては駄目ですか?」
「駄目よ。蝉はあんまり長く生きられないんだから、可哀想でしょう?」
「長く生きないの? そしたら死んじゃう?」
「そうよ」
その足元にアブラゼミが落ちていた。さっき、ハンスが手を放してしまったせいだった。それに気づいてハンスが言った。
「死んじゃったですかね?」
拾い上げると足をもぞもぞと動かしている。
「よかった。まだちゃんと生きてます」

「じゃあ、生きてるうちに返して来てね」
美樹がせっつく。
「わかりました。ここではどんなに大声で鳴いても雌は来てくれないでしょうからね。僕、知ってるんだ。蝉は雌を呼ぶために、あんなに大きな声で鳴くんです。ねえ、井倉君だっていやでしょう? 好きな女の子と交尾もせずに死ぬなんて……」
「は、はい」
思わず返事をしてしまってから恐る恐る彩香を見た。すると、彼女は不機嫌そうに井倉を睨みつけている。が、ハンスは構わず続けた。
「ね? そうでしょう。僕だっていやですからね。だから、この子達はお庭に逃がしてやることにします」
ハンスはそう言うと美樹の方をちらと見てから階段を降りて行った。

美樹はやれやれといった調子で肩をすぼめた。胸元に刺繍されたウサギの耳が淡い桃色に染まってくしゃりと垂れる。
(これもハンス先生の趣味なのかな)
井倉の視線に気が付いて美樹が苦笑する。
「あら、こんな格好でごめんなさい。ハンスが騒ぐものだからつい……」
「無理ありませんよ。まだ早いんですから……。もう少し休んでてください」
「うーん。でも、今のですっかり目が覚めちゃった。やっぱり起きる」
「そうですか? でも、あまり無理をしない方が……」
美樹が明け方まで原稿を書いていたことを知っている井倉が心配そうにその顔を覗く。
「井倉!」
その時、彩香が険悪そうに言った。
「何をぐずぐずしているの? 用が済んだなら、とっとと下へ行きなさいよ! 失礼な人ね」
そう言う彩香の胸にも愛らしい小鹿の刺繍が施されていた。
「あ、すみません。気が効かなくて……。それじゃ僕、下で朝食の支度をして来ます」
そう言うと彼は慌てて階段を下りて行った。

そして階段の下まで来た時、丁度、玄関からやって来た黒木に遭遇した。教授はうれしそうな顔をしてこちらに近づいて来る。井倉はどきりとして思わずあとずさった。ここに来てから大分慣れたとはいえ、音大時代ならば、教授が笑顔で近づいて来るなど、不吉極まりない事態だったからだ。が、教授はいきなり右手を突き出して言った。
「見ろ! 井倉、クマゼミだぞ! 立派なもんだろう」
「え、はい」
井倉がたじろいでいると、ハンスが駆けて来て歓声を上げた。
「うわあ! 大きいですねえ。黒木さんも捕まえたですか?」
「ええ。急にぶつかって来たんですよ、私の胸に……。ほら、丁度そこの角を曲がったところで……。白神さんのとこ、大きな木がたくさんあって林のようになっているでしょう? 少し弱っているのかもしれませんが、みんなにも見せてやろうと思いましてね」
「ほんとにすごいです! 僕のはちっちゃくて可愛いです」
そう言ってハンスも自分の蝉を見せた。

「おお。ハンス先生も取って来たんですか。いやあ、奇遇ですなあ」
二人はうれしそうだったが、井倉は気が気ではなかった。2階から誰かが降りて来る気配を感じたからだ。
「でも、先生。女の人達は蝉は苦手のようですよ」
「何? そうなのか? そいつは残念だ」
教授はがっかりしたようだった。
「僕、この大きな蝉がどんな声で鳴くのか知りたいです」
ハンスが言った。
「そうですか、なら……」
黒木はそこらを見回すと、リビングのカーテンにそれを止まらせた。ハンスも同じように蝉をカーテンに並べた。

「素敵です」
緑の弦草模様のカーテンに蝉が止まっていると、そのままインテリアになりそうだった。
「ハンス、蝉は返して来た?」
降りて来たのは美樹だった。
「はい。ちゃんと森に止まらせました」
彼がそう言い終わる前にいきなりクマゼミが轟音で鳴き出した。
「わあ! すごい! やっぱり声も大きいです」
ハンスがはしゃぐ。
「まあ、3匹もいる。また取って来たの?」
窘めるような口調で美樹が言うので、黒木は申しわけなさそうに口を挟んだ。

「いえ、それは私が取って来たんです」
「まあ、黒木さんが?」
呆気に取られたような顔で教授を見つめる。
「はは。大きいでしょう?」
「ええ……」
その大きな声に引きずられたように、隣のミンミンゼミとアブラゼミも鳴き出した。その声は家中に響き渡った。
「これじゃ、どこが家の中で外なのかわからないわね」
美樹が首を竦める。
「いや、確かに、これはすごい。騒音だ」
黒木もさすがに耳を押さえて言った。何だろうと興味津々で見つめていた猫達もその大声に驚いて尻込みしている。

「ハンス、やっぱり逃がして来てやりましょう。黒木先生もいいですね?」
美樹が言った。
「ええ、もちろんです」
教授が頷く。
「それがいいですよ。彩香さんも蝉が苦手みたいだし……」
井倉の言葉に反論するようにたった今階段を降りて来た彩香が言った。
「誰が蝉は苦手ですって?」
「え、だってさっきは……」
たじたじしている井倉に彼女はぴしゃりと言った。
「苦手とかそういう問題じゃないわ。常識の問題よ。家の中で蝉を飼うなんて非常識だわ」
「はあ。確かにその通りですな」
教授が認めた。

「僕、もういいですよ。クマゼミさんの声も聞けたし……。庭に放してあげましょう」
ハンスが窓を開け放ったが、蝉達はなかなか出て行かなかった。
「困りましたね。蝉さん達はここが気に入ったようです」
ハンスの言葉に美樹が反論する。
「気に入っても駄目!」
ニャーニャーと猫達まで鳴き出した。
「うーん。この子達、カーテンの森が好きみたいです。なかなか放してくれないです」
何とかそこから剥がそうとハンスはがんばっていた。と、その彼の脇からいきなりピッツァがカーテンに飛び付くと爪を立てて駆けあがった。
「あ! いけません! ピッツァ、それはおもちゃじゃないですよ」
ハンスが猫を放そうとするが、興奮して言うことをきかない。尖った牙が蝉の身体にしっかりと食い込んでいる。
「駄目!」
強く叱るとピッツァはハンスにもウウッと嵐を噴いた。

「ピッツァ!」
猫が爪を立て、ハンスの甲に当たる。
「ピッツァ……」
その手にうっすらと血が滲んでいる。
「ハンス、大丈夫?」
美樹が急いで絆創膏を持って来て貼ってやる。彼は悲しそうな目でピッツァに咥えられている蝉を見ていた。そこへ井倉がキャットフードの粒を投げ、ようやく猫は蝉を口から放した。が、蝉はすっかり力を失くしてぽとりと落ちた。犠牲になったのはアブラゼミだった。

「死んじゃった……」
ハンスが呆然として呟いた。井倉は急いで2匹の猫達をリビングの外へ追い立てた。
「ごめんなさい」
誰も何も言えなかった。皆はじっとハンスを見つめた。
「あの時、美樹ちゃんが言った通りにしておけばよかったです。すぐに逃がしてやればよかった」
死んでしまった蝉を手のひらに乗せてハンスが呟く。
「いや、私がいけなかったのです。つい童心に返ってクマゼミなんか持って帰ったりしたもんだから……」
黒木がしょんぼりして言う。

「でも、まだこっちの2匹は元気です。黒木さん、今のうちに外へ出してやってください」
ハンスが言って、黒木がそれを捕まえた。そして、そのまま庭へ降りて行く。そのあとを追ってハンスも庭へ降りると、花壇の脇にそっと死骸を埋めた。
「ごめんね。でも、君のこと忘れないよ」
それから軽く十字を切ってアーメンと唱えた。そんな彼の様子を黙って見ていた井倉と彩香は何となく寄り添うように並んでいた。
黒木は庭の桜の木に蝉を止まらせた。
するとクマゼミは林の方に飛び、ミンミンゼミはそこに残った。愛嬌のある目がじっと空を見つめている。空には相変わらず雲一つない。風がさっと撫でつけて行く。蝉は小さく身を震わせるとミーンミンと大きな声で鳴き出した。
「いい雌が来ますように……」
ハンスはそっと呟くとリビングに戻って窓を閉めた。


朝食の後、彩香は地下室に降りて行き、黒木からレッスンを受けた。その間、井倉はリビングのピアノで自主練習に励んでいた。ハンスは用事があると言って出掛けていたからだ。ハノンを弾き、ツェルニーの40番が弾き終わった頃、美樹がやって来て花瓶に花を生けた。

「紫の……。素敵ですね。それ、何の花ですか?」
井倉が振り向いて訊いた。
「浜撫子っていうんですって……。友達に分けてもらって庭で育てていたの。やっとお花が咲いたから庭から切って来たのよ。でも、ちょっと花瓶の方が大きかったみたい」
確かに広口の花瓶の中でそれらは少し泳いでいるように見えた。
「でも、涼しそうですよ。僕はいいと思いますけど……」
井倉が言った。
「そう言ってもらえるとうれしいな。わたし、このお花大好きなの」
美樹がうれしそうに笑う。吹き下ろしの窓のレースのカーテン越しに当たる太陽の光。小さな幸せがそんな所にもあるのだと、井倉も自然と微笑みが浮かんだ。

外では今日を限りの命とばかりに懸命に蝉が鳴いている。

――君だって好きな女の子と交尾する前に死んでしまったらいやでしょう?

今朝、ハンスが言った言葉が頭の中を巡る。
「彩香ちゃん……」
ふと口を突いて出た言葉に思わず赤面し、慌てて周囲を見回した。が、リビングにはもう誰もいない。猫達が互いの身体をなめているだけだ。
「おまえ達も恋をするのかい?」
ピッツァは雄で、リッツァは雌なのだとハンスが言っていた。
「番いの猫を飼ってるってことは、いずれ子猫が産まれるのかな?」
そんな言葉を口にして、井倉はまた、胸が高鳴って行くのを感じた。
「変だな、僕。このところずっと彼女のことを気にしてる。あの日、二人で駆け落ちしようと言った時から……」

それは無理に見合いをさせようとする彼女の父親から守るためだった。
「そうだ。それはあくまでも作戦で……。でも、僕は……」
ここに戻ってもまだ、井倉の心は落ち着かなかった。
1年以内にデビューすること。それが彩香の父親から課された最低限の条件だった。しかし、今の自分にそんな実力はない。フリードリッヒが秋から行うコンサートツアーにと誘ってくれたが、彼の本命はあくまでもハンスなのだ。ハンスなら実力的にも申し分ない。たとえ今から特訓したところで、自分とフリードリッヒとでは、あまりにも実力の差があり過ぎる。今のままでは彼らの前座ですら務めることなど出来ないだろう。
「努力しなきゃ……。才能のない者が何とかなるためには努力するしかないんだ」
井倉は空いている時間のすべてを練習に注ぎ込もうと心に決めた。


午後にはピアノ教室の生徒も来ていたが、大抵はリビングで行うので、特別に手伝うことがなければ、地下室のピアノは自由に弾けた。
その日、リビングでは黒木の教え子がレッスンを受けていた。彩香はジムに出掛けている。彼女の護衛兼インストラクターはハンスの友人、リンダ・コリンズだ。

――心配ありません。リンダは空手チャンプですからね。形だけのフリードリッヒとは違って頼りになるですよ
ハンスは彼女のことを笑ってそう紹介した。
――よろしくね。これからは女性も強くならなきゃ駄目よ。まず、自分の身は自分で守る。そのための訓練をサポートするわ
――はい。よろしくお願いします
彩香は乗り気で付いて行った。
(確かにそうかもしれないけど……)
護身術を習いたいと言い出したのは彩香だった。あの日、フリードリッヒと二人、目の前で彩香を掠われた屈辱。路上に転がった日傘のことを思い出して井倉は胸が痛んだ。
(強くなりたいのは僕なのに……)

井倉は一人、地下室でピアノを弾いた。基礎練習を終え、ハンスから出されていた課題のエチュード。しかし、何度弾き直しても手応えがない。同じ箇所でのミスタッチ。強弱のバランス。そして、展開部に移る最初のフレーズの表現。
「駄目だ」
何度弾き直しても納得が行かない。
(どうして……!)
額に汗が伝っている。それでも、何とか気を取り直し、間違えた箇所から弾く。が、音が濁った。井倉は弾くのをやめて顔を伏せた。

「ペダルの入りが早いんですよ」
背後から声がした。
「ハンス先生」
井倉は振り向く。入り口に立っていた彼がゆっくりと近づいて来て言った。
「井倉君、何をそんなに焦ってるですか?」
「別に焦ってなんか……」
そう言いながらも彼は流れる汗を手で拭った。
「冷房の温度、もっと下げましょうか?」
ハンスがエアコンの操作ボタンに触れる。
「いえ、大丈夫です」
井倉が答える。
「あまり汗をかくと良くないです」
「そうですね」
井倉はハンカチで汗を拭うと椅子から立ち上がった。

それから二人は隣の部屋に行った。そこで井倉は手と顔を洗い、ハンスはワインセラーからボトルを一本出してグラスに注いだ。
「井倉君もどうですか?」
「いえ、僕はお水をいただきますので……」
そう言うと井倉は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してコップに注いで一気に飲んだ。
「先生、上で飲まないんですか?」
コップを洗い、ふきんで拭きながら井倉が訊いた。

「これ、美樹ちゃんには内緒なんです」
そう言うと師は微笑してグラスを傾ける。
「前にワイン飲み過ぎてアルコール中毒になったことあったですよ。もう昔のことなのに……。ルドがそんなこと美樹に告げ口したものだから、彼女心配になって、僕が飲もうとするの止めるです」
飲み干したグラスにまた並々と注いでハンスが笑う。
「それってその……」
井倉が困ったように見つめるが、彼は構わず飲み干した。
「先生、いくら何でもそんな風に飲んでは身体に毒ですよ」
井倉が止める。が、グラスには既に3杯目の液体が注がれていた。

「大丈夫。それに、井倉君は僕の味方です。そうでしょう? それに、僕は血の半分はワインで出来ているようなものなんです」
「半分? じゃあ、残り半分は?」
井倉はそんな質問をしている自分におかしさを感じて笑いそうになった。
「もう半分が何かって? それは音楽ですよ」
そう言うとハンスはグラスを置いてピアノの前に座った。
「ほら、井倉君もここに座って!」
そう言って彼は、子どものような無邪気さで鍵盤を叩いた。途中で井倉の手を引っ張って強引に連弾したり、テレビで流れて来るようなJポップや演歌を弾いたり、自在にアレンジしてはクラシックの曲の合間に織り込んで来る。そんな切れ切れに混ざるメロディーさえも、ハンスの手に掛かると魅惑に満ちた輝きを帯びた。

「先生……」
ハンスはうれしそうに笑っていた。が、そんな彼の様子を見て、井倉は少し不安になった。
そして、40分が過ぎた頃、突然ハンスが真顔になって立ち上がった。左手が微かに痙攣している。
「先生……」
「いけませんね。せっかく楽しかったのに……」
ハンスは僅かに首を振って言った。
「このワイン、アルコール度数が強いんです。でも、駄目だな。こんなんじゃとてもごまかせない」
そう言うと彼は左腕をぱんっと右手で打って顔を顰めた。

井倉ははっとして師を見つめた。ハンスの腕のことは知っていた。しかし、間近で聴いていたのにその演奏の齟齬に気づかなかった。ましてや彼が痛みを堪えていたことにもだ。黒木になら、その差を聞き分けることが出来るのだろうかとも思った。自分の未熟さ故に、気づくことが出来なかったのか。どちらにしても、ハンスの苦悩の深さを測ることなど到底出来はしなかった。
(もしかして、先生はコンサートのことを考えているのだろうか?)
ふと井倉はそんなことに思い当たった。フリードリッヒは二人でコンサートをと熱心に誘っていた。ハンスはきっぱりと断っていたが、心の底では同意していたのではないか。いや、それどころか喜んでそれを請け負いたいと望んでいたのでは……。痛みに耐えている彼の横顔を見るにつけ、井倉の胸も締め付けられるように痛むのだった。
――これは美樹には内緒にしてくださいね
そう言うと彼はワインのボトルをそっとピアノの脇の机に置いた。


井倉がリビングに入って行くと彩香が花瓶に大輪の薔薇を差し入れているところだった。
「あ、お帰りなさい、彩香さん。すごいな。その薔薇どうしたんですか?」
「リビングが殺風景だから、帰りにフラワーショップで買って来たのよ。今夜はハンス先生のお客様がお見えになると聞いたの。それで……」
彼女は話しながら花の形を整えていた。が、何度か直したものの、すいと浜撫子を抜き去ると井倉に言った。
「これ、捨てといて」
「え? でも、まだ充分見られるし、それに……」
井倉が言い淀んでいると、彼女はぴしゃりとこう付け加えた。
「それって野の花でしょう? リビングに置くには貧相過ぎるわ。どうしてもと言うなら洗面台の横にでも飾ったら如何?」
「彩香…さん……」

――わたし、このお花大好きなの

(今朝差したばかりなのに……)
が、彩香は摘まむように茎を持つと苛々と言った。
「いやだ。さっさと受け取らないからカーペットに水が垂れたじゃない」
彼女は不快そうな表情のまま数歩進むとその花を屑籠に捨てた。
(美樹さんの花を……)
井倉は耐えきれずに叫んだ。
「戻せよ!」