青春シンコペーションsfz


第4章 ハンス対ルーク!(3)


その地下室は防音仕様になっていた。
「まだレッスン中です。早く出て行ってください」
ハンスが言った。
「はい」
井倉は慌てて返事をすると、そっと扉を閉めた。しかし、通路に立った井倉の耳にピアノの音は聞こえて来なかった。

――君も、君が奏でる音楽も、僕は愛しいと思っています

(まるで、愛の告白みたいだった。あんな風に腕を回して、彼女と密着して……)

――まだレッスン中です

(何を話していたんだろう? 聞かれたくなかったから……? 先生は早く僕に出て行けと言ったの?)
扉に窓は付いていなかった。
(彩香さんの涙を見せたくなかったから……?)
彼女がレッスン中にそんな表情を見せるとは、とても考えられなかった。厳格な家庭で育った彼女は気品も備えていたし、才能にも恵まれていた。どこから見ても、非の打ちようのない存在だ。ましてや、負けず嫌いで気の強い彼女が人前で涙を見せるなどという事は想像出来なかった。

(じゃあ、なんで涙なんか……。まさか、ハンス先生に何かされたのか? それとも、先生の愛を彼女が受け入れて……)
井倉の頭は混乱していた。
「違うよ。そんな事ある筈がない。あってたまるか……!」
思わず声が出た。が、通路は静かだった。発した言葉は壁紙や敷物に吸われ、耳に響いては来なかった。
「どう考えたってあり得ない。ハンス先生に限って、そんな事……」
井倉はふらふらと階段に向かって歩き始めた。

(でも、先生だって男なんだ。ここのところずっと美樹さんとすれ違ってばかりいるみたいだし……。もしかして欲求不満とか……?)
彩香の妊娠疑惑の時にも、やたらと自分を疑っていた。わざわざ蝉の交尾について話を振って来るのも、彼自身の性欲が満たされていないからではないのかと疑った。
(だとしたら……)
井倉は階段の下まで来ると震える手で拳を握った。
(もし、そうなら、たとえ先生だって許せない)
その時、澄子がリビングへ続く扉から顔を覗かせて彼を呼んだ。
「お兄ちゃん、早く来て! この人の言ってる事、ちっともわかんない」
「わかった。すぐ行く」
ルークは日本語が話せない。澄子が困惑するのも無理はなかった。井倉は急いで階段を駆け上がった。

リビングでは、丁度、美樹が紅茶とケーキを運んで来たところだった。ソファーに掛けていたルークは井倉の姿を見ると立ち上がり、傍に近づいて来て言った。
「やあ、井倉君。今も君の妹さんに話していたところなんだがね、君、やっぱり私と一緒にスイスへ来ないか?」
彼は面食らった。澄子を見たが、彼女は話の内容を理解していないらしく、軽く首を竦めて兄と美樹とを見比べている。
「でも、それはハンス先生も認めないと言っていましたし……」
井倉は何とかそう伝えた。が、ルークはしっかりと井倉の手を掴むと熱心に言った。

「これは君の問題なんだよ。いや、私は実に感心したんだ。君の演奏を聴いた時、全身に衝撃が走った。君になら、私のすべてを捧げてもいいとね。私の後継者になりなさい。何、君の師だって納得してくれるさ。いや、ナインなんて言わせない。私はどうしても君が欲しい! 来てくれるね?」
ルークの口からは夢のような言葉が続いた。井倉は自分の耳を疑った。幻想ではないかと思ったのだ。
(こんなのって変だ。僕にそんな才能がある訳ないし……。こんな誘われ方……)
井倉は尻込みした。
「お兄ちゃん……」
状況がわかっていない澄子が突く。美樹は不安そうにじっとこちらを見つめている。

「でも……」
井倉は返答に窮していた。
「何を迷っているんだね? ヨーロッパで好きなだけ腕を磨けるんだよ。景色もいいし、水もいい。視野だって広がるだろう。ピアニストにはそういう感覚も必要だ」
「でも、僕……。ハンス先生が……」
井倉は言い淀んだ。
「何を言っているんだね? 君の人生だよ。大事なのは君の気持ちだ。君が行きたいと望むのならば、私から彼に伝えてもいいんだ。私がルイを説得しよう。どうかね?」
「それは……」
上手く言葉が繋げなかった。そんな彼に澄子がじれったそうに訊いた。

「ねえ、この人、さっきから何言ってるの?」
「スイスに来ないかって誘われたんだ」
「え? すごいじゃん。だって、この人、世界でも有名なピアニストなんでしょう? その人が誘ってくれるなんて、ひょっとしてお兄ちゃんって、ピアノの才能があるんじゃない?」
「そんな事ないよ」
井倉は謙遜したが、ルークはその手を取って強く言った。
「悪いようにはしない。どうだね? 何なら妹さんも一緒に連れて来たっていいんだよ」
ルークは本気のようだった。
(これは現実なんだろうか? だとしたら、まるで夢みたいだ。でも……いくらヘル ルークに誘われたからって、ハンス先生を裏切るような事……僕には出来ない)

――今はまだ、レッスン中です

(でも、ハンス先生にとって僕はどんな存在なんだろう? こないだの音楽祭ではたまたま上手く行ったけど、本番直前になって逃げ出すなんて、きっとハンス先生だって呆れてたに違いない。きっとほんとはすごく怒ってたんだ)

――早く出て行ってください

(だから、あんな風に怖い顔して……。ハンス先生は僕の事嫌いなんじゃないだろうか。迷惑ばかり掛けてる駄目な弟子の僕なんか……。だったら、このままルーク先生の言う通り、スイスに行ってしまおうか。そうしたら、ハンス先生の負担も軽くなるだろうし、彩香さんだって、離れてしまえばきっと、僕なんかの事忘れて、もっと相応しい人と……。あるいはハンス先生と……)
彼はふと美樹の方を見た。
(そんな筈ない。ハンス先生には美樹さんがいる。でも……。わからない。本当の事なんか誰にも……。彩香ちゃんの気持ちも……。美樹さんだってハンス先生の扱いに困ってたみたいだし……。そうさ。男と女の間なんて……誰にもわかりゃしないんだ)
さっき見た地下室での光景が頭を過ぎった。

――愛しいと思っています

それを打ち消そうと、井倉は目の前のルークを見た。彼は微笑し、手を差し伸べていた。井倉は困ったように俯いた。それは頷いたようにも見えた。
「そうか。来てくれるかね?」
ピアニストは井倉の両手を取って笑った。
「アーニーおじさん、それは駄目だって僕言いましたよ」
いつの間にか背後に来ていたハンスが言った。
「ああ。聞いてるよ。だが、本人が望む事だ。いくら君が先生でもそれを止める権利はないだろう?」
ルークが言った。しかし、ハンスはそれを否定した。

「いいえ。僕にはその権利がある」
「権利?」
ルークが怪訝な顔をした。
(先生はきっとまた、あれを持ち出す気なんだ。自分が拾ったからだと……。拾った者にその権利があるって……また、あの事を……)
考えただけで気分が重くなった。
(確かにそれは事実だし、言われても仕方が無いってわかってる。でも、それを持ち出すなんて酷いですよ、先生。そうしたら、もう僕には反論出来ないし、出来れば言われたくないのに……)
が、ハンスはやはり口にした。これまで何度も繰り返して来たフレーズを……。
「彼は僕が拾いました」
「先生……」
井倉は軽く唇を噛むと師の顔を見つめた。が、その表情は読み取る事が出来なかった。ハンスは淡々と続けた。

「そう。本人が捨てた命を僕が拾ったんです。だから、そこにもう一度命の火を灯してやらなければならない。今はまだ、やっと小さな種火を起こしたに過ぎない。もっと大きな炎にしなければ消えてしまう。どんな嵐が吹こうと決して消えない炎になるまで、僕には責任があるんです」
強い主張で訴えた。
「この間の音楽祭で、彼は見事な演奏をしました。でも、それは僕の演奏のコピーでしかない。付け焼き刃なんです。あの日もまた、彼は逃げ出そうとしていた。まだ駄目なんです。僕が付いていなければ、ちょっと強い風が吹いたらたちまち消えてしまう。そんな弱い火では……。この世界ではとてもやっていけない。でも、僕になら、それが出来る。そして、そうする事が義務だと思っています。だから任せて欲しいんです」
「ハンス先生……」

師の真剣な言葉に井倉の胸は熱くなり、それまで勘ぐっていた自分が情けなく思えた。ルークは感慨深げにハンスを見つめた。
「もう一度命の火を灯してやらなければならない……か。君も成長したんだね。フリードリッヒと同じような事を言う」
「父様と……?」
ハンスが聞き咎める。
「昔、フリードリッヒに同じような事を言われた」
「それってどういう……?」
ハンスには何故ルークがそんな事を言い出したのか理解出来なかった。

「あの時、君はまだほんの6、7才だったのだけれど、私はその秘められた才能に魅せられてしまった。それで、ぜひとも君の事が欲しくなってね、お願いしたんだ。私に預けてくれないかと……」
「聞いてません。そんな事……」
ハンスが言った。その表情には明らかに狼狽の色が浮かんでいた。
「その時のフリードリッヒの返答がまさしくそれだったんだ。君を託す訳には行かない。世間という荒野に出すにはまだ、君の炎は小さ過ぎるとね。どんな嵐が来ても消えないような強い炎にするまではと……。ははは。まさか、30年も経って息子である君の口から同じ台詞を聞こうとは……。驚いたよ。やっぱり親子なんだね」
「嘘だ!」
ハンスが叫んだ。語尾が震えていた。そこにいた全員が驚いて見つめた。そんな風に感情を露わにした彼を見た事がなかったからだ。

「嘘なものか。私は君が欲しくて、足繁く通ったんだ。子どもが喜びそうなおもちゃをたくさん持って、君ともいろんな事をして遊んであげただろう? だが、ついにある日、家への出入りを禁じられてしまった。今でも残念に思っているよ。ぜひとも、この手で育ててみたかったんだがね。君のような天才児を……」
ルークは悔しそうに言った。皆、何も言えずに黙っていた。エアコンから冷風が定期的に巡回していた。蝉の声と猫達が走り回る鈴音が絡み合うように響いている。やがて、沈黙を破るようにハンスが言った。

「だったら、わかるでしょう? 僕がどれくらい井倉君の事を大切に思っているか」
「ああ。だが、諦めきれない。あの時は君を手に入れる事が出来なかった。だから、今度は……是が非でも欲しい!」
ルークが情熱を漲らせて言う。
「井倉君はもう子どもじゃない」
ハンスが反論した。が、ルークも譲らない。
「彼はまだ十分に若い。これからだって仕込みようがある。どうかね? 井倉君を私に預けてくれ!」
「ナイン!」
二人は感情的になっていた。井倉は自分の名前が出る度、心が焦り、鼓動は加速して行った。
何か言わなくてはと思えば思う程言葉が見つからない。
(いったいどうしたら……)
美樹も澄子も困惑していた。外国語で、会話も早口になっていたので日本人達が意味を飲み込むまでに時間が掛かったのだ。

「井倉……」
いきなり背後から声が聞こえた。それは彩香のものだった。練習を終えて地下室から上がって来ていたのだ。が、いつからそこにいたのか井倉も他の者達も気が付かなかった。
「だがね、ルイ。彼の才能を伸ばすためには早めにヨーロッパに連れて行った方がいいと思うんだ」
二人のピアニストの口論は決着していなかった。
「いいえ。外に出すにはまだ早いです。僕は井倉君を手放す気はありません。こればかりは譲れない。言ったでしょう? 彼は僕にとっての宝物だと……」
ハンスは言った。師から宝物だと言われ、井倉も悪い気はしなかった。が、彩香はそれを聞いて呆然として言った。

「宝物? それじゃあ、ハンス先生はやっぱり、わたしより井倉の方が大事なんですね?」
彩香が憔悴したように言う。
「え? 何を言ってるですか。さっきも言った通り、僕は彩香さんの事、大切に思っているですよ」
慌てて言うハンスだったが、彩香はそれを真っ向から否定した。
「いいえ! もういいんです。最初から気付いていたんです。先生は井倉の方が好きなのでしょう? わかっていました。だからもう無理なさらないでください!」
「彩香ちゃん……」
井倉が呼び掛けたが、彼女は激しく言った。

「そうよ! いつだってそうなんだわ。コンクールだって何だって、優勝出来たのはわたしがお嬢様だからだって……。世間では噂してる。知っていたわ。ずっと小さい頃から……」
彩香は感情的になっていた。
「だからこそ、実力だけで上れるピアニストという道を選んだのに……。わたしがして来た努力は、いつだって評価されない。挙げ句にサイボーグみたいだって……。ハンス先生だってそうおっしゃったじゃないですか。わたしの演奏は、まるでロボットみたいでつまらないって……」
皆が動揺している中で、ルークだけが興味深そうに彼女の話を通訳して欲しいと美樹に頼んでいた。彼女は困惑しながらも何とかあらましだけを英語で伝えた。

「あれは例えですよ。君の技術は素晴らしい。正確に弾ける事はとても大切な基礎です」
ハンスは困ったように彩香に言った。
「でも、つまらないのでしょう? あの音楽祭でわかりました。井倉の方が優れてるって……。わたしにはとてもあんな演奏出来ません。だから、先生は井倉が大事なのだと……それで、今もヘル ルークと……」
彼女はどうしても納得がいかないようだった。
「彩香さん……」
井倉とハンスが同時に言った。が、近づこうとする彼らを避けて彩香が言った。
「いいんです、もう……。わたしは誰にも選んでもらえない」
嘆く彼女に井倉の胸はきりきりと痛み、ハンスは何とか宥めようと手を差し伸べた。その時、ルークが言った。

「ああ、理事長から伺っていますよ。お嬢さん。あなたの実力の程は……。どうですか? あなたも井倉君と一緒にスイスへ来ませんか? 歓迎しますよ」
それはあまりにも無神経な言い方だと井倉は思った。
「アーニーおじさん、やめてください。彼女も僕の大切な弟子ですよ」
疲弊したようにハンスが言った。
「何、君はまだ若いのだから、これからだって良い弟子にたくさん恵まれるさ」
にこやかに言う年輩のピアニストを見て、懲りない人だと井倉は思った。
「駄目ったら駄目!」
厳しく言うハンス。
「お兄ちゃん……」
澄子が来て兄の手を握る。
「大丈夫だよ。心配するな」
井倉自身、どうしていいかわからないままそう言った。彩香の傍には美樹が来て、その肩を抱く。猫達は訳がわからず彼らの周囲を巡っている。
(いったいどうなってしまうんだろう)
井倉は不安で仕方が無かった。

そんな騒ぎの中、フリードリッヒ・バウメンがケーキを持ってリビングに入って来た。
「おはよう! みんな揃ってどうしたんだい? チャイム鳴らしても誰も出て来ないから、勝手に入ったよ」
メンバーを見渡して怪訝な顔をする彼にルークが言った。
「おや、フリードリッヒ。いいところに来てくれた。君からもルイを説得してくれないか?」
いきなり言われてフリードリッヒは何の事かと冷静に訊いた。
「実は、井倉君の事でね……」
ルークが説明しようとした時、ハンスが割って入った。

「もう、いやだ! フリードリッヒなんて名前言うのやめてよ、アーニーおじさん。僕の耳はそんな音声聞きたくないんだ!」
ハンスが叫んだ。
「何を言ってるんだ。それは元々私の名前なのだから仕方が無いだろう。当然、私にはその名前で呼ばれる権利がある」
フリードリッヒが主張する。
「黙れ! 僕は認めないぞ! よりによって父様と同じ名前だなんて……」
「ルイ、フリードリッヒと何があったのか知らないが、名前に罪はないだろう? たまたま君の父上と同じ名前だっただけなのだから……」
ルークが言った。

「ハンス、ちょっと向こうに行って落ち着こう」
美樹が彼を引っ張ったが、それを振り解いて言った。
「たまたまなもんか。父様もこいつも僕は大嫌いだ!」
彼女は宥めようと彼を抱くように手を出した。近くにいた彩香が、
「ええ。そうでしょうとも……」
と呆然としたように言った。
「わかっています。ハンス先生はわたしの事もお嫌いなのでしょう?」
彼女は少しだけ涙ぐんでいるようにも見えた。井倉はそれを見て焦ったが、それは光の加減のようにも見えた。
「彩香さん、それは違うとさっきも僕言いました」
皆が困っていた。どうすればこの状況から脱する事が出来るのかと思考を巡らす。

「みんな、こっちに来て、私が買って来たケーキを食べて機嫌を直したまえ。ほら、ハンス、君の好きなチョコレートケーキだ。うれしいだろ?」
フリードリッヒが箱を開けて中身を見せる。
「黙れ! 子ども扱いするな!」
ハンスが怒る。それをまた、美樹が宥める。黙って聞いていたルークが言った。
「いいねえ。スイスには美味しいチョコレートがあるんだ。井倉君にもぜひ食べさせてあげたいな」
「井倉君は渡さない!」
ハンスが言った。それを聞いた彩香がそちらを見る。

「無論、彩香さんもです」
ハンスはすぐに言ったが、彩香はまた俯く。
「どうせ、わたしの価値なんて井倉の付属品みたいなものなんですね」
そんな彩香の返答にハンスは頭を抱えた。
「いや、実に面白い。こうなったら、何が何でも二人を連れて行きたいね」
ルークが笑う。板挟みになって井倉は途方に暮れた。
(どうしよう。僕のせいでこんな……)
井倉は生きた心地がしなかった。

「ああ、ハンス先生、今戻りました。どうしたんです? 皆さん立ったままで……」
リビングに元気な声が響いた。黒木が帰って来たのだ。
「ヘル ルークもいらしてたんですか。なら、丁度よかった。例の少女は無事に持ち直したそうですよ。一時は危ぶまれたそうですが、危機を脱して、今は順調に回復に向かっているらしい。いやあ、実に良かったですな」
「それは良かった。私としてもほっとしました。すぐにでもお見舞いに行きたいものです。病院はどこですか?」
ルークがうれしそうに訊く。
「都内の……。でも、今日はまだ無理のようです。明日になれば許可が下りるかもしれないという事でしたが……」
「そうですか。それにしても残念だな。ぜひとも生で私のピアノを聴かせてあげたかったのに……」
「もし、もう少し滞在されているのでしたら、病院へ慰問に行ってみたらどうでしょう? そこは大きな総合病院で、ときどき音楽会なども開催されてるようですよ」
「それはいい。黒木さん、あなたに段取りをお任せしてもいいですか?」
ルークは乗り気だった。
「もちろんですとも」
彼は快く承知した。

彼らが話している間、他の者達はぴくりとも動かずそこにいた。その異様さに気が付いて黒木が訊いた。
「いったいどうしたというんだね? 何か……」
一番近くにいた井倉に声を掛けた。
「それがその……」
井倉は要領の得ない返事をした。その時、ハンスがすっと皆をかき分けて前に進んだ。
「わかりました。では、その慰問コンサートで勝負しましょう」
「勝負?」
何も事情がわかっていない黒木が怪訝そうに訊く。
「そうですよ。僕とアーニーおじさんと、どちらが井倉君と彩香さんの師匠として相応しいか。ピアノの実力で決めるんです。勝った方が彼らをもらう。それでいいですね?」
皆はそれを聞いて唖然とした。

「先生、それって……」
井倉が動揺する。
「いいですね? アーニーおじさん。僕は本気だ」
「ああ。いいとも。君がどこまで成長したのかとっくりと魅せてもらうよ」
ルークも余裕でそう言った。
(そ、そんな……。二人の先生が、僕達を巡って勝負だなんて……)
井倉は驚愕し、心臓が口から飛び出してしまうのではないかと思う程、鼓動が跳ねた。