青春シンコペーションsfz


第5章 フリードリッヒ、驚く!(1)


「お土産だなんて……」
井倉は、憮然とした表情で言った。
「そんな言い方やめてください。ハンス先生は物じゃありません! いくら何でも酷いです! 先生の気持ちだってあるのに……。それを無視するような言い方しないでください」
自分でも驚くような言葉がすらすらと口を突いて出た。その頬は紅潮し、手はがくがくと震えている。が、彼ははっきりと言い切った。
「井倉君……」
ハンスもルークも驚いてその顔を見つめた。いや、彼らだけではない。そこにいた全員が井倉に注目した。
「……大事な先生を取り上げないでください」
井倉は続けた。その瞳には涙が光っていた。
「お願いです。ハンス先生がいたからこそ、今の僕があるのです。もし、先生がいなければ、今までの僕はなかったし、これからだって、どうしたらいいのかわからなくなってしまいます。だから、お願い……」

井倉の思いは真剣だった。部屋の中を循環する風。その風に乗って、これまでにあったいろいろな事が思い浮かぶ。辛かった事もあったが、悦びに震えた日もあった。それらすべてにハンスが関わっていた。へこたれそうな自分を、いつも叱咤し、励まし続けてくれたのだ。井倉はやはり、ハンスと別れるなんて事は考えられないと思った。

「わかりました」
ルークが静かに頷いた。
「君の気持ちはよくわかりました。ルイにはもうしばらく君の師匠としてここにいてもらう事にしましょう」
「本当ですか?」
「ああ。実に麗しい師弟愛だ。ルイ、君は本当に良い弟子に恵まれたようだね。私が思ったよりずっと成長したようだ。もう私から教える事は何もない。むしろ、私の方が教えてもらいたいよ。どうしたら、こんな風に弟子から信頼してもらえるのか」
ルークは感慨深そうに言った。
「上を見て歩けばいいですよ」
ハンスが言った。
「上?」
ルークが首を傾げる。
「よく見ていれば、良い弟子が落ちて来るかもしれないです」
ハンスはまた、あの日の事を言っているのだと思って、井倉は軽く唇を噛んで俯いたが、特に反論はしなかった。

「ルイ、今日の君の演奏は素晴らしかったが、それ以上の何かを得たようだ。私は早々に退散するよ」
ルークは案外すっきりした顔をしていた。
「ありがとう。アーニーおじさん」
ハンスも笑ってその手を取った。
「井倉君、彩香さん、君達の連弾も素敵だったよ」
ルークは若い二人に向き直って言った。
「これからの活動に期待している」
「ありがとうございます」
二人も喜んで握手した。

「ヘル ルーク。ハンスと二人で行うコンサートのチケットを……。出来れば奥様とお二人で来ていただければと思うのですが……」
フリードリッヒが封筒に入ったそれを手渡そうとする。が、ルークは静かに首を横に振った。
「残念だが、妻が友人と約束があるとかで帰りたがっているんだ。チケットは他の誰かに差し上げてくれ。それに、今回はミニコンサートでルイの演奏を聴く事が出来たしね。君達のコンサートツアーの成功を、スイスの空より心から祈っているよ」
そう言うとルークはフリードリッヒと握手した。それから、黒木や美樹とも肩を叩き、抱擁を交わした。
「それじゃ、お元気で、アーニーおじさん」
最後にもう一度ハンスを抱き締めると、ピアノの巨匠、アントニー・ルークは日本を後にした。


そして、ついにハンスのデビューコンサートの日が来た。
その第一弾は東京。サンアートホールには、出演する二人はもちろん、スタッフとして黒木や美樹、井倉に彩香も集まって、朝から主にハンスの世話を焼いていた。
「ハンス、欲しい物ない? 何か買って来ようか?」
美樹がハンカチでそっと汗を拭いてやりながら訊く。
「いいえ、大丈夫。今、僕に足りないものがあるとすれば、『アイ』だけです」
そう言うとハンスは美樹を抱き締めてキスした。
「それなら、いっぱいあげてるでしょう?」
「もっといっぱい欲しいです」
「じゃあ、このコンサートが終わったら買いに行きましょうね」

二人がそんな会話をしているので、彩香が不思議そうな顔をした。
「愛を買うって?」
「ああ、それならきっとアルファベットの積み木の事ですよ。先生は『I』がお気に入りなんです」
井倉が答える。
「でも……」
「Iって主語でも使うし、母音だからたくさん出て来るでしょう?」
井倉の説明を聞いて、彩香はようやく納得した。

「ハンス、そろそろゲネラールプローベだ。準備したまえ」
舞台の上からフリードリッヒが声を掛ける。
「必要ないよ」
「何を言ってるんだ。本番前の大事な調整じゃないか。それに、君はほとんど練習していないようだが、本当に大丈夫なのか?」
「ああ。僕はいつだってベストコンディションだからね」
「いくら君が天才だったとしても自惚れは禁物だ。地道な練習を怠っているといつか足元を掬われるぞ」
フリードリッヒが渋い顔をして言う
「余計なお世話だ、放っとけよ」
「ハンス!」
一瞬、二人の間に険悪な雰囲気が漂った。
(そうか。あの事、バウメン先生はまだ知らないんだ)

――僕は……手術の後遺症で、長い時間弾くことができないんです

この場に至って言おうか言うまいか、井倉の胸の奥で鼓動が速くなった。

――知っているのは美樹とルドルフ、それに黒木さんだけ……。他の人には言わないで

(だけど、このままじゃ……)

「私だって君の実力は認める。しかし、練習を軽んじるのは感心しない」
厳しい口調でフリードリッヒが言った。
「待ってください! 違うんです。ハンス先生は……」
思わずそう言ってしまった井倉をハンスが睨む。一瞬びくっとして井倉が竦む。「言ったら殺す!」……そう言われたような気がした。
「井倉君、何か意見でもあるのかね?」
フリードリッヒが訊いた。
「いえ。僕はただ、先生には先生のお考えがあるのではないかと……。練習する事の大切さについては、レッスンの時、散々聞かされましたし……」
「当然だ。私だって承知しているさ。彼の実力はこれまで積み重ねて来た努力の成果だという事くらいはね。でも、一度は通しておかないと……。どんなアクシデントが起こるかしれないからね。ああ、右のライトが眩しいな。もっと搾ってくれないか?」
フリードリッヒがスタッフに指示を出す。

「ところでハンス、君、本番ではどのネクタイを結ぶ?」
鏡を覗きながらフリードリッヒが訊いた。
「もちろん、こないだ美樹ちゃんが買ってくれたブルーの鍵盤が付いたやつ。チーフもブルーのにするつもりだよ」
「ブルー? でも、チーフはやっぱり白の方が映えるんじゃないのか?」
フリードリッヒが首を傾げる。
「ほら、これだよ。淡いからほとんど白って感じだし、その方が統一感があっていいと思うんだ」
ハンスが見せる。フリードリッヒは彼が手にしたチーフと自分のそれを見比べる。
「なら、私も君に合わせるよ。何しろ初めてのコンサートだからね。二人の息がぴたりと合っているところを世間に知らしめなくては……」
「ふん。別におまえと息が合っているところなんか、アピールする必要ないと僕は思うけどね」
「そんな事はないさ。さあ、一度連弾の曲だけでも合わせようじゃないか」
フリードリッヒがピアノの前に座る。

「おまえ……そんなに不安なのか?」
ハンスが訊いた。
「君は不安じゃないのか?」
フリードリッヒが振り向く。が、ハンスはまだチーフを手の中で弄んでいる。
「おまえがミスしなきゃ問題ないさ」
ハンスが言えば、
「私のタッチにミスはない」
フリードリッヒも負けていない。そんな調子で、二人は本番間際まで屁理屈を言い合っていた。そんな二人の堂々として落ち着いた様子を見て、井倉は感心していた。
(すごいな。こんな大きなホールでの本番前だっていうのに、ハンス先生、余裕なんだ。ああ、僕にはとても出来ないや。本番ってだけでドキドキして上がってしまう。どうしたら、あんな風に落ち着いた態度が出来るんだろう)

皆は控え室に来ていた。
「そろそろ開場ね」
美樹はハンスの着替えを手伝いながら言った。
「わたし達、そろそろ席に行ってますわ」
彩香がバッグを持つ。
「そうそう。チケットを渡しておかないとな」
黒木が皆に配る。
「僕、喉が渇いちゃった」
ハンスが言った。
「お茶にする? それともココア?」
美樹が訊いた。
「ココア。でも、僕が買って来るよ」
ハンスが言った。
「そんな、大事な本番前にお手をわずらわせるなど……。必要なら、すぐに私が行って参りますので……」
黒木は腕時計を見ると、慌てて残りのチケットを机に置いて言った。

「いいんです、僕、ちょっと外の空気に当たりたいだけだから……」
そう言うと、ハンスは控え室の扉を開けて出て行った。
「気を付けてね」
美樹が声を掛ける。
「大丈夫。僕、もう子どもじゃないです」
ハンスが笑う。
「それじゃ、わたし達は、先に出ますね」
彩香が井倉を促す。
「そうですね」
あとは本番を待つばかりだ。井倉と彩香が出て行くと、黒木と美樹が控え室に残った。

フリードリッヒはまだ、リハーサル室でピアノを弾いていた。その音が通路まで漏れている。
「まったく、何度弾いたら気が済むんだ。フリードリッヒの奴、案外気が小さいんだからな」
ハンスが呟く。そこは関係者以外入る事の出来ない通路。ハンスは歩を進め、ゆっくりと非常口の扉を開けた。外の風がさっと流れ込んで来る。周囲には背の高いビルが乱立し、空は灰色に淀んでいた。心なしか空気もそれと同じ色に見えた。上にも下にも先の見えない階段が螺旋状に伸びている。
「コンサートか」
ビル風が強く吹き抜ける。耳の奥で金属の音がキーンと響く。
「やっと……ここまで来たんだ」
彼は頭上を見上げた。空はまだずっと遠くに思えた。それでも、彼はこの地に立っている。その時、どこかで甲高い車のクラクションの音が聞こえた。
「行かなくちゃ……」
彼は重い扉を閉めた。途端に風の流れがなくなった。外が気持ち良かった訳ではない。排気ガスに塗れた都会の空気は吸うと目眩を感じた。それでも、閉ざされた内に籠もった空気より、奔放な風を感じていたかった。
「行かなくちゃ……」
彼はもう一度呟くと控え室の方へと戻り始めた。


「あれ? チケットがない」
受付けの前で井倉がポケットを調べて言った。
「あら、さっき黒木先生が配ってたじゃない。どこかに落としたの?」
彩香が訊いた。
「そんな筈は……。でも……。もしかしたら、控え室の机の上かも……。僕、ちょっと見て来ますね。彩香さんは先に行っててください」
「もう、相変わらずドジなんだから……」
彩香は呆れたが、仕方がないので、先に会場へ入った。


「楽しみね、フリードリッヒ・バウメンのコンサート」
「うん、チケット取れて本当によかったよな」
ハンスが通路を歩いているとロビーに通じる扉の向こうから、そんな会話が漏れて来た。そっと覗くと、広いロビーのあちこちにポスターが飾られ、何人かがその前で記念撮影していた。が、開演が近づき、そこに群がっていた人々も足早に会場へと向かった。
「それにしてもショパンコンクール優勝だなんてすごいわねえ」
「ほんと、どんな演奏が聴けるのか、わくわくしちゃう」
コンサート前の熱気に包まれ、皆、感情が高まっていた。

「あれ? 藤倉さんだ」
ハンスは、知っている顔を見つけて慌てて扉を閉めた。藤倉はまだ松葉杖を突いていた。足の骨折は、まだ完全に治ってはいないらしい。それを押してホールにやって来るとは、評論家としての執念だろうか。
「怪我しているってのに呆れた人だな」
ハンスは口の中で呟くと踵を返した。開演が迫っている。早く戻らなければ美樹達が心配するだろう。が、扉の向こうから聞こえた言葉が彼の足を引き留めた。

「それにしても、このハンス・D・バウアーって人、何者なんだろう?」
若者のグループの一人が言った。
「さあね。どうせバウメンの前座だろ?」
別の男が言う。
「プログラム見ても、『蝶』とか『黒鍵』とか……。弾くのはエチュードじゃ初級レベルの曲ばっかだし……実力的には大した事ないんじゃないかしら?」
また別の声が言った。
「いったいどうしてこんな無名の人とあのバウメンが組んでいるのかな」
さっきの声が言う。
「あーあ、高いチケット代払ったのに……。不公平よね。ずっとバウメン様の演奏を聴いていたいのに、こんな誰だか知らない人の演奏まで聴かなきゃならないなんて……」
人々は皆、勝手な事を言った。
「そんな事より早く席に行かないと……。そろそろ開演だぞ」
その言葉に促され、皆、早足でその場を離れた。

ハンスは、静かに扉を開けるとロビーに足を踏み入れた。そこは落ち着いた色調の赤い絨毯が敷かれていた。ハンスは関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を閉めて、誰もいなくなってしまったロビーを見回す。
「僕のポスター……」
それは扉の近くに貼られていた。中央からはやや離れている。心なしか少し寂しそうに見えた。その一角には沢山のアーティストのポスターが飾られている。ずっと先に予定されている者達のチラシも置かれていた。ハンスとフリードリッヒのジルベスターコンサートのものもその中にあった。他にも数カ所ポスターは貼られていたが、チラシは一枚も残っていない。チケットは既に完売していた。

――どうせバウメンの前座だろ?
――ずっとバウメン様の演奏を聴いていたいのに……

ハンスはそこに立ち尽くしていた。先程までの高揚した気分はどこかに消えていた。


彩香が会場に入ると、席はもうほとんど埋まっていた。
「あら?」
知った顔を見つけて思わず声を漏らした。
(あれは……生方響……)
彼は3列前の席で、熱心にパンフレットを読んでいた。髪も黒く染め、紺のスーツ姿をしている彼は、まるで別人のように見えた。が、それは彼に間違いなかった。
(でも、妙ね。彼は今、ヨーロッパに行っている筈じゃ……)
しかし、開演間際という事もあり、彼女は声を掛けないまま着席した。

井倉は急いで連絡通路を戻り、控え室を目指した。途中、誰かに腕を掴まれた。
「井倉君」
ハンスだった。
「訊きたい事あるですよ」
「訊きたい事?」
怪訝な顔で言う井倉にハンスは頷き、こう続けた。
「『前座』ってどういう意味ですか?」
「前座? ああ、それは、スターの前に歌や踊りを見せる繋ぎのような人のことですよ」
井倉が答える。

「繋ぎ……? よくわかりません。もしかして、それはあまり上手でない人の意味ですか?」
「うーん。どちらかと言うとそうなのかなあ。新人というか、未熟な弟子が先生の演技や歌を見せる前にやる感じで……」
そこまで言うと、井倉ははっとして口を噤んだ。何かまずい事を言ってしまったような気がしたからだ。
「そうですか……」
ハンスの表情が明らかに暗くなっている。
「あの、先生、どうしてそんな事を……」
恐る恐る訊く。
「みんなが言ってたですよ。僕はあのバウメンの前座だって……」
「そんな……」
井倉は青ざめた。
「わかってます。ショパンコンクールで優勝したのはフリードリッヒで、僕はそうじゃない…。僕はあいつより下だって、みんなはそう言いたいのでしょう?」
ハンスの瞳に涙が溜まる。

「そんな事ありませんよ。先生のピアノは……」
井倉は必死にそう言った。が、ハンスは皆まで言わせずに続けた。
「そこでみんな言ってたですよ。僕なんか奴の引き立て役に過ぎないって……」
「それは……。実際、まだ先生の事知らないから……」
井倉は何とか宥めようとするが、ハンスは聞かなかった。
「そうなんだ。知らないって、僕の事……だから……」
その頬に涙が伝う。
「そんなの気にする事ありませんよ。先生のピアノを聴いたら、みんな絶賛するに決まってるんですから……」
井倉は何とか納得してもらおうと頑張った。が、ハンスはなかなか得心がいかないようだった。

「井倉」
その時、奥の扉が開いて、教授が呼んだ。
「何をしているんだ。ほら、チケット忘れてるぞ」
手にしたそれを振った。
「あ、すみません」
井倉は小走りにそちらへ行くとチケットを受け取った。
「ああ、ハンス先生、そろそろ袖の方へ移動してください。本番5分前です」
黒木に声を掛けられても、ハンスは動こうとしなかった。
「ハンス先生……?」
訝しそうに首を傾げる。と、ハンスがぼそりと呟いた。
「僕、弾かない」

「え?」
一瞬、何の事だかわからずに黒木は首を傾げた。
「弾かないよ、僕!」
ハンスが繰り返し喚く。
「それってどういう……」
黒木が困惑していると、フリードリッヒが顔を出した。
「ハンス、何をしている? 最初は君の番だろう。早く舞台袖へ行きたまえ」
しかし、ハンスはそこから動こうとしない。井倉と黒木は顔を見合わせ、狼狽したように立ち尽くす。
「どうしたんだ? ハンス」
「知らない」
ぷいと顔を背けてハンスは言った。
「何だって?」
フリードリッヒが驚く。

「僕は弾かないと言ったんだ! 弾かないと言ったら弾かない!」
ハンスが叫ぶ。
「弾かないって、どういう事だ?」
意味がわからず一同を見回すフリードリッヒ。
「ハンス、どうしたの? そろそろ出番でしょう?」
その時、美樹が来て言った。
「それが……」
黒木が困り果てたように首を横に振る。
「どうしたって言うの? コンサートに出る事はあなたの夢でしょう?」
美樹がやさしく諭す。が、ハンスは口を尖らせてそっぽを向いた。会場では、開演前のアナウンスが始まっていた

「まずいな」
黒木は腕時計を見た。
「もし開演のブザーが鳴ったら、順番を繰り上げて、フリードリッヒ、君が弾きたまえ。その間にハンス先生の方は我々が何とか説得する」
黒木が早口に言う。
「わかりました。それは何とでも致しましょう。でも……」
フリードリッヒは不安な表情を浮かべ、近くにいた井倉に言った。
「いいか? 井倉君、何が何でも必ずハンスを連れて来たまえ! 命に替えても必ずだ。わかったな?」
「は、はい」
井倉はそう答えたものの、自信がなかった。
(ど、どうしよう。ハンス先生を説得するなんて……。僕には出来ないよ。さっきから何度もやろうとしてるけど、とても……どうしたらいいんだろう。いったいどうしたら……)
井倉は途方に暮れていた。

「ねえ、お願いよ、ハンス。みんな、あなたのピアノを聴きたがっているのよ」
美樹が説得を続ける。
「嘘だ! だって僕、聞いてしまったんだもの。ここにいる人はみんな、フリードリッヒのネームバリューで集まっただけなんだ。僕はどうせ奴の前座に過ぎないんだ!」
「ハンス……それはまだみんな、あなたの事知らないから……」
「そうですよ。一度聴けばきっと、誰もが虜になる。ハンス先生はそんな魅力をお持ちなんです」
美樹と黒木が交互に慰め、彼をその気にさせようと言葉を尽くす。が、ハンスは誰の言葉も聞こうとしない。皆はほとほと困り果てた。
「先生……」
その時、ついに開演のブザーが鳴った。
「どうしても弾かないって……そんな事を言うなら先生……」
井倉は並々ならぬ決意のもとに一歩前に出て言った。
「今すぐ死んでください!」