青春シンコペーション


第2章 キャッチされた僕(2)


翌日。井倉は6時ジャストに目を覚ました。そして、素早く着替えを済ませると、急いで階下へ降りて行った。
「ここに置いてもらうなら、その分働いてお返ししなきゃ……」
彼はまずリビングと玄関、それにキッチンを掃除した。それから和室。花の水も取り換えた。そして、庭の花壇にも水を撒く。

それから家の中へ戻って来てリビングの時計を見ると、6時40分になっていた。
「いけない。もうこんな時間……。早く朝食の準備に取り掛からないと……」
井倉は大急ぎでキッチンに向かって走った。その足元に猫達が絡みついて来る。
「ああ、ごめん。僕、君達の餌が何処にあるか知らないんだ」
そんな言い訳をしながらも彼は棚から食器を出し、お湯を沸かした。
「えーと、コーヒーは何処かな? それに先生のココアも見当たらないけど……」
井倉があちこち探していると美樹が降りて来て言った。

「あら、お早う。井倉君、早いのね」
「あ、お早うございます。あの、すみません。勝手にこんなことして……。でも、僕、何かお手伝いしたくて……。」
「まあ、ありがとう。ごめんね。遅くなって……。昨夜はほとんど寝ないで原稿書いてたものだから……」
「え? そうだったんですか。すみません。僕が来たせいで時間がなくなってしまったんですね」
井倉が心からすまなそうに言った。
「いいのよ。いつものことなの。井倉君がいなくてもハンスが纏わりついて離れてくれないし……。昼間だと何かと落ち着かないしね。どうしてもお仕事は夜になってしまうの」
と、言って彼女は首を竦める。

「あの、お食事にしますか? それとも、もう少しお休みしますか? 僕は、お二人に合わせますので……」
「そう? それじゃ、目ざましにコーヒーもらおうかな。あ、飲み物のあるところわかった?」
「あ、いえ」
「コーヒーやココアはあっちの棚よ。井倉君も遠慮しないで好きな物選んでね」
「はい。あの、ハンス先生は?」
「ああ、もうそろそろ帰って来ると思うわ」
美樹が時計を見ながら言った。

「帰って来るって、こんなに早くお出かけだったんですか?」
「ああ、彼、6時前にはトレーニングに出ちゃうから……」
美樹は何気なく言ったが、井倉は心密かに明日からは5時半には起きようと決めた。

それから、彼は美樹に何がどこにあるかを教えてもらった。
「僕、何でもやります。掃除も洗濯も料理もです。一人暮らしだったので家事は結構慣れてるんです」
「まあ、それは助かるわね」
「そうだ。買い物だって重い物やかさばる物が多いから女性の方には大変でしょう? これからは僕がやりますから……。美樹さんはお仕事に専念しててください」
「ありがとう。でも、どうせなら、他のこと手伝って欲しいんだけど……」
美樹が少し遠慮がちに言った。
「え? 何ですか? 僕、何でもやります。やらせてください」
井倉が身を乗り出して言った。

「あのね、できれば、わたしがお仕事している時、ハンスの相手をしていて欲しいの」
「え? 相手ですか?」
怪訝そうな顔で井倉が訊いた。
「そう。何度言っても彼って『待て』ができないのよ。だから、お願い。それだけでもすごく助かるから……」
「わかりました。僕、頑張ります」
困惑しながらも井倉は胸を張って言った。

その時、丁度ハンスが帰って来た。
「ただいま! 美樹ちゃん! 僕はとっても寂しくて君に会いたかったです!」
彼は美樹に抱きついて何度もキスした。
「もう、ハンスってば……。井倉君がびっくりしてるじゃない」
美樹が無理に引き剥がすと彼は今初めて視界に入ったように井倉を見た。
「ああ、井倉君、起きてたですか? おはようです」
「おはようございます、先生」
井倉は目の前で展開していることにどぎまぎしながらもハンスを見た。

「ああ、もしかして、お庭のお花に水あげちゃったの井倉君ですか?」
ハンスが訊いた。
「え? はい。僕ですけど……。何かいけませんでしたか?」
「大変いけないことでした」
と、井倉の顔の前で人差し指を立て、真面目な顔をして言うハンスに彼は驚いて固まった。
「そもそもです。お花に水をやるの僕がしてたです。ホースでお水を撒くと光にきれいな虹が出るの、僕はとても楽しみにしていました」
ハンスが悲しそうな顔をするのを見て、井倉はしまったと思って詫びた。
「そ、それは、申し訳ありませんでした。僕、少しでも先生達のお役に立ちたいと思って……本当に悪気はなかったんです。許してください」

「井倉君、そんなに謝らなくてもいいわよ。ハンスだって本気で怒ってる訳じゃないんだから……」
美樹が宥める。
「いいえ。僕は本気です。その上、猫達に餌までやっていたら、僕キレちゃいます」
真剣な顔でハンスは言う。
「それはまだやってません。餌のある場所がどこかわからなかったので……」
井倉が慌てて言い訳する。
「そうですか。それはよかった。じゃあ、僕、すぐにあげて来ますね」
そう言ってハンスはキッチンから出て行った。

「すみません。あの、僕、明日からはしない方がいいですか?」
「いいえ。助かってるわよ。ありがとう。ハンスは子どもだから気まぐれなの」
美樹が笑ってそう言った。
「子ども?」
「そう。我がままだし、負けるの嫌いだし、ちょっとね、ハンスの相手をするのは疲れるかもしれないけど、要は子どもだと思ってね。彼、日本に来たばかりの頃事故に遭って、記憶が飛んでるところがあるの」

「事故?」
「ええ。それで、しばらくの間、子どもの頃しか思い出せなくなっていたの。だから、その後遺症で未だに子どものような振る舞いや感情を持っていたりするのよ。だから、お願い。彼にやさしくしてあげてね。井倉君がお兄さんになってくれるといいんだけど……」
「お、お兄さんだなんてとんでもない。でも、事情はわかりました。なるべく先生の気持ちを傷つけないように気をつけます」
「ありがとう」
美樹はそう言ってくれたが、井倉からすれば複雑な心境だった。

そして、朝食が済むとハンスは再びトレーニングに行くと言って出掛けた。その間に井倉は朝のうちにできなかった2階の部屋や階段、水回りの掃除をした。
10時になるとハンスが帰って来てお茶の時間になった。彼がコンビニで買って来たケーキを食べながら世間話をしていると来客があった。

昨日噂をしていた探偵の飴井が資料を持って訪ねて来たのだ。飴井は日本人にしては背の高い筋肉質の男だった。元刑事だったという話を聞けばその目の鋭さも納得が行く。しかし、普段の飴井は温厚で人当たりの良い好人物だった。
美樹の同級生ということだったが、飴井が老けて見えるのか、美樹が若く見えるのか、とても同じ年とは思えない。が、井倉はあえてその年を聞くのは控えた。

「それで、早速なんだけどね、君のご両親の居る場所がわかった。妹さんも一緒だ。これが電話番号」
真の息子である彼がいくら探してもわからなかったことを1日もしないうちに答えを出して来る。それがプロとの違いなのだと井倉は実感した。
「ありがとうございます。本当に……」
井倉は心から感謝した。
「ついでに言うなら、君のご両親に落ち度はない。すべては佐原建設の思惑だ。」
「要は騙されたのね」
美樹が言った。
「そうだ」
飴井が頷く。

「佐原建設は良心的な会社を罠に掛け、合併吸収するか、潰すかしてのし上がって来た会社だ」
「酷いことする会社ですね。潰しますか?」
ハンスが言った。
「つ、潰すだなんて僕は別に……」
井倉が答えにくそうにしていると飴井が言った。
「まあ、恨んでる奴は多いだろうな。だが、こんなやり方をしてたんじゃ、いつか自滅するだろうさ」
「そ、そうですよね」
井倉が頷く。

「でも、放っといたらそれだけ被害者も増えるってことでしょう? その前に叩いておいた方がいいんじゃないの?」
美樹が言った。それに呼応するようにハンスがにこにこと頷く。それを見て、井倉は一抹の不安を抱かなくもなかった。
「まあな。だが、ことはそう簡単にも行かないさ。まずは何をするにしても証拠を固めなきゃならないし……。今は何より井倉君のご家族のことが心配だ」
飴井が冷静に意見を述べた。
「要は井倉君とそのご家族の意志を尊重しなければならないってことさ。どうするね? 井倉君、直接ご家族に会って相談した方がいいんじゃないかな?」
「はい」
井倉が返事する。

「それじゃ、今、電話してみたら?」
「美樹が言った。
「でも……僕、携帯も使えない状態ですし……」
井倉が迷う。
「あら、そこの固定電話使えばいいわよ。もし、聞かれたくないなら、私達席を外しているから……」
「いえ、構いません。それじゃ、電話、お借りします」
と、言って井倉は飴井に渡された番号に電話した。

「あの、もしもし? 親父? おれ、優介だけど……。今、一体どこにいるんだよ? え? 九州? どういうことだよ? そんな大事なことおれに一言も言わないで……! 温泉につかってるだって? ふざけんなよ! おれがどれほど……」
抑えてはいても井倉の怒りが伝わって来る。
「おれ? おれは今、大学の先生のお宅でお世話になって……。え? それなら安心だって? どういう意味だよ? 無責任にも程があるだろ? おれのアパートにまで借金取りが来て、家財道具全部持ってかれてんだぞ。そうだよ。おれの大事なピアノまで……!」
声が震えた。

「そうだよ。おれの夢だったピアノまで……。いくら親だからって子どもの夢を奪う権利なんかないだろ? その話ならもう決着が付いてるんだから……。家には決して迷惑なんか掛けないって……。え? 知らないって? でも、実際そいつらがおれのアパートまで来てるんだ。いや、それだけじゃない。バイト先や大家さんにまで迷惑を掛けて……。そうだよ。それで、おれ……おれは……」
声が詰まった。
「井倉君、電話代わってください」
ハンスが言った。
「でも……」
そう言って迷っている井倉の手から電話を取ると、ハンスが言った。

「はじめまして。僕、井倉君の指導をしているハンス D バウアーです。彼は僕の家で大切に育てます。はい。彼はとてもいい子です。才能もあります。こんなことで死なせたくありません。そうです。僕が助けました。それでここへ連れて来たのです。はい。必要があればお手伝いします。会社ならいくら潰れてもまたやり直すことができますけど、人間は一度潰れたらおしまいです。だから、僕は彼を潰すのは許しません。彼は僕のところにいるのが一番いいです。僕がもらいました。もう悪い奴には渡しません。大丈夫です。だから、皆さんも安心して温泉に入っててください。それでは」
そう言うとハンスは電話を切った。

「先生……」
赤い目をした井倉が言った。
「もう大丈夫です。話はつけました。君はここで暮らしながらピアノを練習したらいいです」
「でも……」
心配しないで、井倉君。ご家族のことは飴井さんが何とかしてくれるから……」
美樹も言った。
「え? おい、勝手にそんなこと約束されても……」
飴井は言ったが美樹もハンスも強引だった。

「進ちゃんならやってくれるわよね?」
「そうですよ。僕、信じています」
二人から言われ、彼は渋々頷いた。
「わかった。できるだけのことはするよ。調べれば調べるほど胸くその悪い会社だ。きっと叩けばぼろが出るだろう」
飴井の言葉に皆が頷く。
「あ、ありがとうございます」
井倉は心から感謝した。


飴井が帰ったあとでハンスが言った。
「あとは井倉君が大学に戻れるようになるといいのですけど……」
「でも……黒木先生のお話だとそれは難しそうだって……」
肩を落として井倉は言った。
「諦めるのは早いわよ。事実がはっきりすればきっと大学だってわかってくれると思うわ」
美樹もそう言って慰めてくれた。
「そうですよ。諦めてはいけません」
ハンスも微笑んで言う。井倉は黙って頷いた。

「そうだ。今日は子ども達のレッスンの日でした。美樹ちゃん、何かおやつは用意してありますか?」
ハンスが訊いた。
「ううん。これから何か買って来るわ」
「あ、それなら、僕が買って来ます。美樹さんは休んでいてください」
井倉が言った。
「いいえ。君が一人で行くなんていけません」
ハンスが強い口調で反対した。
「君を独りにしたら、また変な気を起こすかもしれません。僕が一緒に行きます」

「でも、今日はルドルフが来るんでしょう?」
「ああ、そうでした。タイミングがよくないです」
「僕、大丈夫ですから……」
井倉が言った。
「いいえ。駄目です!」
しかし、ハンスは聞かない。
「だから、私が一緒に行くから……。それならいいでしょう?」
「そうですね。美樹ちゃんが一緒なら許可しましょう」


そこで、彼らは昼食を済ますと早速二人で買い物に出掛けた。
「下は2才から上は大人まで……。人数は13人よ。レッスンを受けてるのは6人だけどね」
美樹が説明する。
「そうですか。それじゃあ、柔らかくて食べやすい物がいいですね」
「そうね。悪いけど選ぶの手伝ってくれる?」
「はい。もちろんです」
そう言うと井倉は美樹と並んでショッピングセンターの中にあるファンシーショップに入って行った。

「井倉……」
そんな二人の姿をじっと見つめる人物がいた。赤い猫型のトレイを持っていた井倉がその顔を見て固まった。
「彩香さん……」
思わず持っていたトレイを落としそうになる。
「あら? 知り合い?」
くまの砂糖菓子をトングで挟んだまま美樹が振り向く。
「え? はい。大学の……」
と、井倉が言い掛けた時、彩香が言った。

「ふうん。大学を追われて意気消沈しているかと思ったら……。こんなところでデートができるようなら問題ないわね」
「デートだなんて僕はただ……」
トレイの上に山盛り乗っているカラフルなお菓子が傾く。
「言い訳なんて見苦しいわよ」
彩香がつんとして言う。

「あ、でも彩香さんはどうして宮坂へ? もしかして僕のことを心配してくれたんですか?」
「何言ってるの? つけ上がらないで!」
彼女はぴしゃりと言って井倉を睨んだ。
「ここに来たのは偶然よ。新作のバッグが入ったからと馴染みのブティックから連絡をもらったの。それでたまたま立ち寄っただけよ」
「でも、今日は確か音楽史とソルフェージュの授業が……」
「退学したあなたには関係のないことでしょう?」
「そうでした。すみません。余計なこと言って……」
井倉が詫びた。

「わたし、急いでるの。失礼」
そう言うと彩香は踵を返した。
「あ、彩香さん……」
思わず呼びとめた。が、彼女は振り向かず店を出て行ってしまった。

「あの、井倉君、追わなくていいの?」
美樹が訊いた。
「いいんです」
井倉が肩を落として答える。
「でも……。彼女、井倉君の大切な人なんじゃ……」
「はい。でも……いいんです。僕なんかにはとても手の届かない高貴な薔薇なんです。彼女は……」
「まあ、井倉君ってロマンティストなのね」
美樹が言った。
「え? そんなこと……」
井倉は自分が何を言ったのか思い出すと顔面がカーッと熱くなった。

「それにとても情熱的。ハンスに似てるかも……」
「そ、そんな……。叶いません。僕なんかとても……。先生にも、彩香さんにも……僕は凡人ですし、何をやっても冴えなくて……」
「そうかしら?」
美樹が笑う。
「そうですよ」
カラフルで可愛らしい商品の棚に囲まれて、井倉は俯く。
「そう思ってるのはあなただけかもしれないわよ」
「え?」
「ハンスも彩香さんもきっとあなたのことを買っていると私は思うの」
「美樹さん……」

慰めてくれているのだと思った。落ち込んでいる自分を励ましてくれているのだと……。その気持ちが有り難かった。そんな彼女のやさしさに応えなければと彼は思った。


そして、夕方。ハンスの家に子ども達が集まって来た。年齢もまちまちな子ども達とその母親達だ。
「井倉君も一緒にやりましょう」
ハンスが呼んだ。
「はい」
井倉は返事をしたが、一体何が始まるのかと興味を持った。
はじめはみんなで童謡を歌ったり、音符や和音を当てるゲームをしたり、リズムに乗って身体を動かしたり、いろんな楽器で合奏したりとアクティブな遊びをした。ハンスがピアノを弾き、メロディーが止むとポーズを作ったり、ジャンケンをしたり様々なアクションを求められ、子ども達は次にハンスがどんなことを言って来るのかわくわくしながら待っている。言語も英語、ドイツ語、日本語を巧みに取り入れて退屈させない。合間に一人ずつ指名して歌わせたり、ピアノを弾かせたり、時には彼と連弾もした。その時の子どものコンディションや気分を考慮してそれぞれの子に合わせて喜ばせた。

(すごい……。これがレッスン?)
井倉はいつの間にかそのプログラムの中に自分も混ざっていることも忘れ、子ども達と一緒になって楽しんだ。
「それじゃ、次は井倉君、ここに来て」
いきなり指名されて戸惑ったが、言われた通りハンスの隣に来て椅子に掛けた。
「メヌエットを弾いてください」
「あの、メヌエットって?」
思わずそう訊くと前にいた男の子がバイエルを広げて見せた。
「お兄ちゃんメヌエットを知らないの? これだよ」

「はい。その曲です。弾いてください。ただし楽譜はなしです」
ハンスが言った。
「はい」
井倉は一応返事して鍵盤に指を置いたが何となくうろ覚えではっきりしない。出だしは何とかなったが途中で音を間違えた。急いで弾き直してみたが、そこから先はぼろぼろだった。
(この曲好きだったのに……。確かにもう何年も弾いていなかったけどここまで弾けなくなってたなんて……)
井倉はショックだった。

「お兄ちゃん、忘れちゃったの?」
小さな女の子が訊いた。
「それなら、わたしの本を貸してあげる」
と、目の前に楽譜を置いた。
「あ、ありがとう。でも……」
ちらとハンスを見た。彼は楽譜はなしで弾くようにと言ったのだ。が、そのハンスは何も言わなかった。
「お兄ちゃんが間違えたのここだよ」
さっきの女の子が指で示す。
「あ、そうだね。思い出したよ」
そうして彼は続きを弾いた。

「そうそう。うまいうまい!」
女の子が手を叩く。
「何だ。やればちゃんとできるじゃんか」
別の男の子もにこにこして言う。
「繰り返して」
ハンスが言った。井倉はもう一度その曲を弾く。と、ハンスがタンバリンでリズムを取った。すると子ども達も次々と楽器を持って参加した。中にはきれいな声でハミングしたり、リズムに合わせて踊ったりしている子もいる。
(何だかすごく楽しい)
曲が終わるとまた誰かがアンコールをねだり、結局、井倉は3度メヌエットを弾いた。最初よりも次、そしてその次の方がずっとイキイキとした音に変わっている。

「いいですね。僕も何か弾きたくなっちゃった」
そう言うとハンスもモーツァルトの楽しい曲を弾いた。彼が弾くと皆うっとりとそのメロディーに聞き入った。井倉も例外に漏れなかった。
(ああ、本当に一つ一つの音が皆生きている……魂が吸い寄せられる……この世にあるすべてを忘れ、ただここに存在する喜びを知る……嬉しい……今ここに存在することが……今、僕はまさに生きているんだ)

レッスンが終わったあとも井倉はその感動に酔いしれていた。
「井倉君……?」
誰もいなくなったリビングにぽつんと立っている井倉にハンスが声を掛けた。
「どうしましたか? みんなもう帰ってしまいましたよ」
「先生……」
井倉は涙を流していた。

「ああ、先生、本当に……。僕は生きていてよかったです。ハンス先生のピアノを聞いて生きているという喜びを実感しました。僕はもう死にません。約束します。もう決して命を粗末にしないと……」
「井倉君」
「だから、先生。お願いします。僕にピアノを教えてください」
井倉は深く頭を下げた。そんな井倉の肩にそっと手を置いてハンスが微笑する。
「もちろんです。君は僕が育てます。真の魂を持った音楽家に……」