青春シンコペーション
第2章 キャッチされた僕(4)
「よし! コンクールだ。いいな? 井倉。優勝しない限り生きて帰れると思うな」
黒木が右の肩を叩いて言った。
「よかったですね。井倉君。きっと上手くいきますよ。いいえ、この僕が付いているんです。失敗はあり得ません」
左の肩を掴んでハンスが言った。
(そ、そんな僕、いったいどうしたら……)
間に挟まって井倉はただおろおろするばかりだ。と、黒木が突然大声で叫んだ。
「ちょっと待て。コンクール申し込みの締め切りは今日の5時までじゃなかったか?」
黒木が訊いたが、井倉にそれがわかる筈もない。黙って首を横に振る。と、腕時計で日付と時間を確かめた黒木は早口で言った。
「そうだ。間違いない。だが、大急ぎで書類を書いて事務所へ持ち込めばまだぎりぎり間に合うかもしれない」
「書類はどこにあるんです?」
ハンスが訊いた。
「確か教授室に1通残っていた筈だ」
「それじゃそれを」
ハンスがせかす。
「わかった。すぐに行って取って来よう」
そう言うと黒木は廊下を走って行った。
「大丈夫ですよ、井倉君」
ハンスが言った。が、井倉の鼓動はどんどん速くなるばかりだ。そんな時、前方のエレベーターの扉が開いて学生達が降りて来た。
(彩香さん……)
賑やかな学生達の真ん中に彩香がいた。一瞬だけその彩香と視線が合った。そんな気がした。しかし、彩香はそんな井倉を無視してハンスの方を見て微笑する。
「こんにちは。ハンス先生」
「こんにちは、彩香さん。僕達、これから教授室に行かなければいけないので、これで」
そう言うとハンスは先にエレベーターに乗った。
「あ、あの……」
井倉は何か言おうとしたが、彩香はハンスに軽く頭を下げると、さっさと歩いて行ってしまった。
「井倉君、早く」
エレベーターの中からハンスが呼んでいる。
「あ、はい。すみません」
彼は急いでエレベーターに乗った。
教授室は8階にあった。部屋を訪ねると、黒木は書類に慌ただしくペンを走らせていた。
「時間がない。申し込み用紙には私がすべて書き込んでおいた」
そう言うと黒木は書類を封筒に入れた。
「あ、ありがとうございます」
井倉が頭を下げる。
「そうだ。君の住所だがね、取り合えず、ハンス先生のところでいいんだったよね?」
「はい」
「それなら、大丈夫だ。よし。今からすぐに事務所へ直行しよう」
黒木は時間を確かめると席を立った。
「僕が行きましょうか?」
井倉が恐る恐る口を挟んだ。
「いや。今から電車を乗り継いで行くとなるとぎりぎりになる。ちょっとね、わかりにくい場所なんだ。迷ったりしている時間はない。私が行こう」
「でも……」
井倉が申し訳なさそうな顔をする。
「それなら、みんなで行きましょう」
ハンスが言った。
「場所を覚えておけば次に行く時にも便利です」
「そうだな」
ハンスの意見に黒木も同意した。
「駅までタクシーを使おう」
黒木は電話を掛けたが、今日に限ってタクシーを依頼する人が多く、車はみんな出払っているという。到着するまでには30分は掛かってしまうと言うのだ。
「それだけあったら、歩いた方が早いです。駅まで歩きましょう」
ハンスが言った。
「仕方がない。そうしよう」
黒木も同意し、三人は徒歩で大学を出た。
駅に着いた。黒木が切符を買い、三人は急いでホームを目指した。黒木が腕時計を気にするので、井倉もハンスも気が急いていた。階段を降りる途中で電車の発車ベルが鳴った。井倉とハンスはホームに着いたが、黒木が遅れた。先に電車に乗ってもよかったのだが、彼がいなければ場所がわからない。数歩遅れて黒木がホームに着くのと同時に電車のドアが閉まった。そして、無情にも目の前の電車は発車した。
「すまん」
黒木が詫びた。
「大丈夫ですよ。次のに乗ればいいんです」
ハンスが言った。
「そうですよ。この路線は結構本数もあるし、大丈夫ですよ」
井倉も言った。が、数分後。アナウンスが非常を告げた。
「ご利用のお客様にはお急ぎのところ誠に恐れ入ります。只今、信号トラブルが発生したため、少々電車が遅れています」
「トラブル?」
黒木が眉を寄せる。
「少々ってどれくらいです?」
ハンスが近くにいた駅員に訊いた。
「どうやら踏切で事故が起きたようなんです。詳しいことはわかりませんが、処理が終わり次第動くと思いますのでアナウンスが入るまでお待ちください」
「何てこった」
黒木が額に手を当てて唸った。
「他に方法はないんですか?」
ハンスが訊いた。が、黒木は首を横に振った。
「このルートが最短だ。車で行くという方法もあるが、重体がひどい。どんなにスムーズに流れても電車で行くより早くは着かない。」
「そんな……」
井倉は途方に暮れた。と、同時にこのまま書類が間に合わない方がよいのではないかとも思った。
(コンクールに出て、彩香さんと対決するなんて……。そして、彩香さんに勝つなんて、絶対に無理だ。だったら、始めからそんなコンクール出ない方が……)
二人の恩師の横顔を見ながら井倉は思った。
(もし、このまま電車が来なければ……。そうして書類が間に合わなければ……。それは事故なのだから、誰の責任でもない。誰も着ずつけず、僕も恥をかかずに済むんだ。ああ、神様。どうぞこのまま電車が来ませんように……)
彼は祈った。
「井倉君」
そんな彼を見てハンスが言った。思わずびくっとしてハンスを見返す井倉。
「時間があるようだから何か飲みませんか?」
ハンスの言葉に思わずほっとしたが、その表情はまだ強張っていた。
「ああ。私が買ってきましょう」
黒木が言った。
「そんな、僕が……」
井倉が言った。が、黒木はもう販売機の前にいた。
三人がコーヒーを飲み終わってもまだ電車は来そうになかった。人もだんだん増えて来た。その間に何度かアナウンスはあったが、いずれも遅れを告げるものばかりだ。しかも、だんだん遅れの幅は広がって行く一方だった。
「まずいな」
黒木が腕時計を見て苛立った。
「事情を話して待ってもらったらどうですか?」
ハンスが言った。
「そうだな。よし、早速連絡してみよう」
そうして黒木は携帯からコンクールの事務所へ電話を掛けた。が、
「何て紋切り型の応答だ!」
教授は怒り心頭で電話を切った。
「まったくもって話にならん」
「駄目だったんですか?」
ハンスが訊いた。
「ああ。締め切りは何があろうと変更できないと言われた。受付期間はそれなりにあったのだから、こちらの手落ちだとね」
「それなら……」
もう仕方がないのでは……と井倉が言い掛けた。と、その時、アナウンスが遅れていた電車が間もなく到着すると告げた。
「おお。よかった。今来てくれれば何とかなるかもしれない」
黒木の表情が明るくなった。反対に井倉の表情が暗くなる。
「よかったね、井倉君」
ハンスが笑ってその肩を抱く。
「は、はい」
井倉は微笑したが、その顔は引き攣っていた。
遅れて到着した電車はぎゅうぎゅう詰めだった。更にホームに溢れていた人々が乗ろうとするので恐ろしいほどの混雑となった。
「これじゃとても三人は乗れませんよ。次の電車を待ったらどうですか?」
強引に乗ろうとしている黒木の背中から井倉が小声で言った。
「何を言うか! この電車に乗らなければ絶対に間に合わん。そしたら、コンクールに出られないんだぞ」
黒木が怒鳴る。
「そうですよ。ここで諦めたら人生終わりです」
ハンスも言った。
「でも……」
どう見ても入れる隙間などない。発車のベルが響く中、駅員も必死に叫ぶ。
「なるべく奥へ詰めてください!」
「そうだ。もっと奥に詰めてくれ! ここに一人の学生の運命がかかっているんだ。私達を乗せてくれ!」
黒木が叫ぶ。その声に中の人々が反応した。
「おい、もっと詰めろよ」
「運命がかかってるんだってよ」
ざわめく乗客達。ほとんど身動きとれない状態になっていたにもかかわらず、彼らは少しずつずれて隙間を空けてくれた。
「よし」
黒木が乗った。が、肝心な井倉が乗れずにいる。
「井倉」
黒木が呼んだ。が、もうほとんど隙間がない。それでも、黒木は強引に井倉の手を引っ張った。
「そ、そんな。無理ですよ」
井倉は言ったが黒木はその手を放さない。駅員とハンスがその背中をぐいぐいと押す。半ば黒木とぴったり抱きあう格好で収まった。と同時にハンスが黒木の脇に入り込む。瞬間、ドアが閉まり、電車は無事に発車した。
そうして密着すること35分。ようやく新宿駅に着いた。事故の影響もあってか駅はいつになく混雑しているような気がした。コンクールの事務所はそこから更に中央線に乗り換えて4つ目。徒歩で15分ほど歩いたところにあるという。
「ふう。心配したが、これなら何とかなりそうだ」
時計を見て黒木がほっとしたように言った。
(間に合っちゃうんだ……)
井倉は心の中でため息をついた。電車の窓から見える景色はすっかり都会のそれに代わっている。
「僕、この電車に乗るの初めてです」
ハンスが言った。
「そうですか。この界隈にはいろいろ興味深い物がありますよ。小さいけれど質の言い劇場なんかも多くあります。ハンス先生はお芝居とかには興味ありますか?」
黒木が言った。
「ええ。できれば日本の時代物のお芝居が観たいです」
「おお。それなら、幾つか良いものをご紹介しましょう」
「ありがとう。僕、もっと日本のこと知りたいです。ぜひ、教えてください」
二人はそんな話をして盛り上がっていたが、井倉の心は憂鬱だった。電車は刻一刻と目的地へ向かって進んで行く。
(僕はいったいどうしたらいいんだろう。コンクールに出るなんて彩香さんが聞いたらどう思うだろう)
井倉の胸は妙な胸騒ぎを感じて落ち着かなかった。
その頃、音大では、彩香の取り巻きの学生達が賑やかに喋っていた。
「ねえねえ、彩香さん、大変よ」
「何?」
「さっき井倉が来てたでしょう? あれって大学に文句をつけに来たんですって……」
「そうそう。よりによって今度のコンクールに出て、彩香さんに勝つなんて挑戦状を突きつけていったらしいわ」
「何ですって?」
彩香が驚いて聞き返す。
「そう。あの井倉がよ。大学を辞めさせられたことを恨んでるらしいわ」
「それにしたって馬鹿な……。彩香さんに勝とうだなんて無謀過ぎるわ」
「でも、ハンス先生や黒木教授を味方にしたって話よ。それで図に乗ってるんだわ」
「ひどーい。彩香さんにはあれほどお世話になっておきながら、まさしく飼い犬に噛まれたってカンジ?」
学生達は盛り上がった。
(あの井倉が私に挑戦ですって?)
彩香は呆然としていた。
「ねえ、彩香さん、どう思います?」
「井倉の奴、つけ上がってるんですよ」
「そうね。無駄な足掻きだと思うけど、この際だから、実力の差というものをはっきりと思い知らせてやるわ」
彩香が言うと彼女達はそうだそうだと歓声を上げた。
井倉達を乗せた電車は順調に走っていた。いよいよ次の駅が目的地だ。
「ああ、ほら、あれがコンクール事務所のあるビルですよ」
黒木が窓の外を指さして言った。それは線路沿いの道から少し奥に入ったところにあった。手前に丈の低いビルが幾つかあり、その向こうから頭を覗かせている少しモダンな造りの建物だ。
「へえ。ちょっと洒落た形ですね」
ハンスが言った。
「ええ。有名な建築家にデザインさせた斬新さが売りの建物です。上はマンション。4階から下はテナントになっていて会社の事務所や店があるんです。地下には専用のホールもあってよく若者達を中心としたコンサートが開かれています」
黒木が説明するとハンスは興味深そうに聞いていた。
と、突然、電車が速度を落とした。駅が近いからかとも思ったがそうでもない。電車は緩やかにブレーキを掛けて行き、やがて止まった。前方で鳴る踏切の音だけがいつまでも止まずに響いている。
「何だ?」
「どうしたんだ?」
乗客達が互いの顔を見合わせたり、囁き合ったりしている。と、車内アナウンスが入った。
「ただいま、緊急信号のため停車しております。乗客の皆さまにはお急ぎのところご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございませんが……」
「何てこった!」
黒木が再び頭を抱えた。
「困りましたね」
ハンスも言った。
「一難去ってまた一難だ」
黒木は何度も腕時計を見てため息をついた。電車はなかなか動かない。2度目のアナウンスの時、踏切内で立ち往生している車を撤去するのに時間が掛かっているということがわかった。
「くそォ、このままでは間に合わん」
黒木が歯をぎりぎりいわせて言った。
「事故なんですから仕方がありません」
井倉はそう言ったが、教授は腹立たしげに足を踏み鳴らした。
「くー、ビルはすぐそこに見えているというのに……!」
その間にも時間は無情に過ぎて行く。
「4時50分を過ぎた。もう駄目だ」
黒木が絶望的な声を上げた。
「事務所はあのビルにあるんですよね?」
ハンスが訊いた。
「ええ。あそこの4階に……。しかし……」
「書類を貸してください。僕が行きます」
ハンスの言葉に黒木も井倉も驚いた。
「それはいくら何でも無理ですよ」
黒木が言った。
「そうですよ。電車は動かないし、もういいんです。お二人の努力には十分感謝していますから……。所詮、僕なんかには無理だったんです。だから……」
井倉は必死にそう言った。しかし、ハンスは笑ってその肩に手を置く。
「大丈夫です。心配しないで。さあ、早く書類を」
急かされて黒木が封筒を渡す。
「まさか、ここから行かれるつもりじゃ……。近くに見えますが、ここからだとまだ相当距離があるんです。全力で走ったとしてもとても……」
黒木が暗い顔で言う。が、ハンスはにこりとして言った。
「間に会います。駅で会いましょう」
そう言うとハンスは書類を持つと電車のドアを開けた。何故開いたかはわからない。が、彼はさっとそこから飛び降りると風のように走って行った。
「ハンス先生」
井倉と黒木も慌ててあとを追おうとしたが、丁度巡回して来た車掌に止められた。
「危ない! ドアから離れてください」
「でも……」
「いいから早く! 危険なことはおやめください」
車掌が二人の腕を掴んで引き戻す。
「それにしてもどうして開いたんだ。このドア……」
彼は訝しみながら手動でドアを閉めた。その窓からはもうハンスの姿はどこにも見えなかった。目の前にある線路とその向こうにある高い柵。しかし、その柵は人の身長よりも高い。そして、見渡す限り、続いているそれをどうやって越えたのか二人にはわからなかった。
それから数分して電車は動き始めた。およそ3分後に駅に到着すると、もうそこにハンスが来ていた。
「ハンス先生!」
二人が同時に叫ぶ。
「大丈夫。間に合いました」
ハンスが言った。
「間に合ったって、でも……」
有り得ないと井倉は思った。
「車を拾えたんですか?」
黒木の質問にハンスは笑って首を横に振った。
「いえ、走って行って来たんです。ちゃんと書類は受け取ってくれました。予選までに受験票が送られて来るそうです」
「ありがとうございます」
井倉は言った。が、どこか納得がいかないような不思議な気分だった。
「いやあ、ほんとによかった。あとは練習あるのみだな、井倉」
黒木がぽんとその肩を叩いて言った。
「あ、はい」
「エチュード4番は君が得意としているところだし、ベートーヴェンも……」
黒木はそう言い掛けて止まった。井倉の顔が一瞬硬直したからだ。
「あの、今、何ておっしゃって……」
井倉の声が震える。
「課題曲はショパンのエチュードからだったから4番を選び、自由曲の方はベートーヴェンのソナタ14番にしといたんだが……」
そう言う黒木の顔も蒼白になった。
「エチュード4番が得意なのは彩香君の方だった……」
「4番……」
さすがにハンスも言葉を失くした。
「無理です! 僕にはとても……」
井倉が泣きそうな表情で訴えた。
「そうだな……。すまん。これは私のミスだ。いくら慌てていたとはいえ、よりによって教え子の得意な曲を間違えるなんて……」
黒木は携帯を取り出すとコンクール事務所へ電話した。
「……という訳で曲の変更をお願いしたいのですが……」
しかし、一度登録した曲の変更は認められないと却下された。黒木はがっかりと肩を落とした。が、次の瞬間、彼はきりっとした顔で振り向くと井倉に言った。
「やろう! やるしかない! こうなったのも私の責任だ。徹底的に指導してやる。いいな?」
「は、はい!」
井倉は怯えながらもそう返事した。そう言うしかなかった。
「そうですね。4番は確かに難しいけど、僕は子どもの頃2週間で弾けるようになりましたから、きっと井倉君も大丈夫です」
そう言ってハンスは笑ったが、井倉は心の中で悲鳴を上げた。
(黒木先生忘れてる。僕が大学に入った頃、僕が4番弾けるようになるには3年は掛かるって言っていたことを……)
|