ルーは小さな男の子です。
ドイツで生まれました。
黒くて大きな瞳の奥には、きらきらとした夢がたくさんつまっています。
でも、ルーは病気でした。
一人でベッドから起きることができません。
でも、ルーは、いつもにこにこと笑って、みんなを幸せな気持ちにしてくれました。
ルーが大好きなもの。
それは、ピンクのウサギのぬいぐるみです。
名前はメートヒェン。
ドイツ語で女の子という意味です。
ルーはいつも、どんな時もメートヒェンといっしょでした。
そして、もう一つ。
ルーの大好きなものがありました。
それは空でした。
空は、時には怒ったり、泣いたり、笑ったりして、いろいろな顔を見せてくれます。
それに、窓の外では風が吹いたり、雪が降ったり、時にはやさしい春の陽だまりをくれたりもします。
ルーはそんな空を見るのが大好きだったのです。
それから、時々、窓の近くに飛んでくる鳥や虫を見るのも好きでした。
彼らは、ルーの知らない世界のことをたくさんお話してくれます。
昨日は、ツバメが来て、南の国のめずらしい食べ物や花の話をしてくれました。
「ぼくもお外に行きたいな」
ルーはメートヒェンに話しかけます。
「ぼくもいつか空を飛べる?」
ルーは自分も鳥のように空が飛べると信じていました。
「空の上はどんなかしら?」
それを思うと、ルーはうれしくなりました。
「もうすぐだよ。ぼくの病気が治って元気になって空を飛べるようになったら、メートヒェン、君もつれて行ってあげるね」
今はあまり力の入らない手で、ルーはしっかりとウサギを抱きしめました。
――約束よ
だれかが言いました。
「え? だあれ?」
ルーは部屋の中を見ました。
でも、広い部屋はがらんとしてだれもいません。
「うふふ。ここよ」
ぬいぐるみがピクンと小さくふるえました。
「メートヒェン、きみなの?」
ルーはおどろいて言いました。
「そうよ。さあ、扉を開けて。わたしたちの冒険の旅に出発しましょう」
「冒険?」
ルーがききました。
「そうよ」
メートヒェンがこたえます。
「でも、どうしたらいいの?」
「心で感じて、心で願えばいいのよ。あなたが今、一番やりたいことを」
「心で……」
ルーはじっと目を閉じて考えました。
「ぼくはね、お空を飛びたいの」
ルーが言いました。
「それじゃ、飛ぼう!」
メートヒェンがピョンと跳ねて言いました。
「でも……」
ルーは天井を見つめました。それはとても難しいことに思えたからです。
「だいじょうぶよ。さあ、勇気を出して……」
メートヒェンに励まされ、ルーは心で願いました。
――窓を開けて
すると大きな窓は音もなくすっとルーの目の前で開きました。
「わあ!」
思わず声を上げました。
気持ちのいい風が部屋いっぱいに入ってきて、ルーのほっぺや頭をなでました。それから、花や葉や土のにおいもしてきます。
「お外のにおいがする……」
ルーはうれしくなりました。冷たい風は体によくないからと、これまではいつも、ほんの少ししか窓を開けてもらえなかったのです。
お散歩に行く時でさえ、しっかりと毛布に包まれて、だれかに抱っこされるかベビーカーに乗せられるかしていました。
「ねえ、地面は熱いの? 冷たいの?」
ルーがききました。
「木は? 花は? 鳥は? ふれたらどんな感じ?」
ルーは何でも知りたがっていました。
「なら、その手でさわって確かめてみましょう」
メートヒェンが言いました。
「ぼくの手で?」
「そうよ」
「できるの?」
メートヒェンがうなずきました。
「できるわ。さあ、心で願って。ルーは飛べる」
「ぼくは飛べる」
ルーは目をつぶって言いました。
「飛べる」
するとどうでしょう。
ルーの体は本当にふわりと空中に浮いたのです。
「すごい! ほんとにぼくは飛べたんだ」
ルーはうれしくて手足をバタバタ動かしました。ベッドの中では動かせなかったのに、空中では自由に動かせるのです。
「なんてステキ! ぼくは小鳥。ぼくは自由。この広い世界のどこへだって飛んで行ける。どこへだって……」
ルーの瞳はきらきらと輝いていました。
「さあ、行きましょう」
メートヒェンが言いました。
「しっかりとわたしにつかまって」
「うん」
ルーはメートヒェンと手をつなぎました。
そして、窓から外へ、憧れた空へ飛んで行きました。
「わあ! 広いね。大きいね」
ルーは見るものすべてがめずらしくてしかたがありません。
「あれは何?」
大きな木を指差してききました。
「ボダイジュよ」
「それじゃあ、あれは何?」
その木の枝を指差してききました。
「あれは……まあ、鳥の巣だわ」
メートヒェンが言いました。
「鳥の巣?」
「そうよ。ヒナがいるかもしれないわ」
「ヒナってなあに?」
「鳥の赤ちゃんよ」
「ぼく、見てみたい」
ルーが言いました。
「それじゃ、そっとね」
そう言うとメートヒェンはルーの手を引き、そちらに向かって飛びました。
「大きな木だねえ」
ルーはそっとその木にふれました。
「やさしいにおいがするね」
ルーが言うと木の葉がさらさらとゆれました。
「それに葉っぱが歌ってる」
ルーが見上げて言いました。
「ほら、のぞいてごらん? ヒナがいるわよ」
メートヒェンが言いました。
「かわいいね。それにとってもちっちゃいね」
ルーはうれしそうでした。ヒナはぜんぶで3羽です。みんな元気にピイピイと鳴いています。
「どうして鳴いてるの?」
「お母さん鳥が来るのを待っているのよ」
「お母さん鳥はどこに行ったの?」
「エサを取りに行ったのよ」
「もし、お母さん鳥がもどって来なかったらどうするの?」
ルーはとても心配になりました。
「だいじょうぶよ。ほら、お母さん鳥が帰ってきたわ」
メートヒェンが言いました。
見上げると、大きな翼を広げたお母さん鳥がさっと下りてきて、巣の中に入りました。そして、クチバシにくわえていたエサを順番にヒナたちに食べさせています。ヒナたちは、もっともっとというように大きな口を開けています。
「ヒナたちは何を食べてるの?」
ルーがききます。
「虫よ」
メートヒェンが答えます。
「虫を食べちゃうの?」
それを聞いて、ルーはとてもおどろきました。
「そうよ。生き物はみんな何かのエサになっているのよ」
メートヒェンが言いました。
「それじゃ、鳥も何かに食べられてしまうの?」
「そうね。鳥は動物に……」
「それじゃ、動物は?」
「人間が食べてるでしょう?」
「それじゃ、人間も、ぼくも何かに食べられてしまうの?」
ルーは泣きそうな顔で言いました。
「いいえ。人間は食べられたりしないわ」
メートヒェンの言葉を聞いてルーは少しほっとしました。
「でも、どうして? なぜ人間は食べられないの?」
「人間は道具を使う知恵を持っているから……」
「知恵?」
それがどういう意味なのかルーにはよくわかりませんでした。
その時、バサリと音がして、またお母さん鳥がどこかへ飛んでいきました。
「どこへ行ったの?」
ルーがききます。
「またエサを取りに行ったのよ。お母さん鳥は何度も何度もエサを取りに行くの」
「また……」
ルーはそっと自分の手をのどに当てて考えました。
(ヒナが大きくなるには、どれくらいたくさんの虫を食べるんだろう? ぼくが大きくなるにはどれくらいたくさんの動物を食べる?)
それを思うと、ルーはとても悲しくなりました。
「メートヒェンはいいね。きみはぬいぐるみだから、食べなくても生きられるもの」
「いいえ。わたしたちは人間から愛をもらって食べてるの」
「愛? それがエサなの?」
「そうよ。それがなければ生きていけない……。愛がなければ、わたしたちはただの置き物になってしまうの」
「愛ってなあに?」
ルーがふしぎに思ってききました。
「大好きって気持ちよ」
「大好き? きみは、ぼくのことが好き?」
「もちろんよ。ルーは?」
「ぼくもだよ。大好き! きみが大好き! 鳥が好き! 花が好き! パパもママもみんな好き! 世界が好き! 大好き!」
ルーは、うれしそうに何度も言いました。
「ルー、頭に羽がついているわよ」
メートヒェンが言いました。
「あれ? 本当だ」
ルーは羽を手に持って言いました。
「きっとお母さん鳥の羽ね」
「きれいだね。それに、とってもやわらかい……」
ルーはその羽をほっぺに当てて言いました。
「ねえ、ぼく、この羽をもらってもいいかしら?」
メートヒェンはにっこりとうなずきました。
「でも、ヒナやお母さん鳥が怒ったりしない?」
ルーは少し心配になったのです。
「だいじょうぶよ。羽は自然に生え変わるの。人間の髪の毛だってそうでしょう?」
「メートヒェンも?」
ルーはメートヒェンの左の耳の毛のはげている部分を見つめて言いました。それは、この間、ルーがかみついたところでした。
「ぬいぐるみは生え変わったりしないわ」
メートヒェンが少し悲しそうに言ったので、ルーは泣き出しました。
「泣かないで、ルー」
「だって、きみのケガ、もうなおらないんでしょう? ぼくがかみついたから、こんなに傷ついて、ボロボロになって、それで……」
「なおるわ」
メートヒェンが言いました。
「ほころびはママが縫ってくれたわ。それに、ルーがかみついたのは大好きって意味でしょう? わたし、ちゃんとわかってる。ルーはわたしのことが大好きなんだってちゃんとわかっているから……」
「メートヒェン……!」
ルーはぎゅっとウサギを抱き締めると右の耳をかみました。
「ルー……」
本当はかまれてとても痛かったのですが、メートヒェンはルーのためにガマンしました。と、その時。
「あ、羽が……」
ルーの手からするりと抜けて羽が飛んでいきました。
「ぼくの羽……」
ルーが手を伸ばしましたがとどきません。羽はくるりと回ってふわふわと飛んでいきます。
「待って!」
ルーが叫びました。
「行きましょう」
メートヒェンはまたルーといっしょに飛びました。そして、芝生の上に落ちたそれを拾いました。
「お母さん鳥の羽……」
ルーはもう一度羽をほっぺにすりすりすると、それをだいじそうにポケットにしまいました。
「ここは緑がいっぱいだね」
ルーがうれしそうに言いました。
ルーは緑色が大好きです。ルーは、とてもきれいなエメラルドという宝石を知っていました。ママの指輪についていたからです。光に透けてその石はキラキラとかがやいていました。
「これは芝生よ」
メートヒェンが言いました。芝生もお日さまの光に当たってうれしそうにかがやいています。
「きれい……。でも、地面はどこにあるの?」
ルーはあちこち見回して言いました。
「この下にあるのよ」
「下に?」
ルーはふしぎに思いました。
それで、そっと芝生を手でかき分けてみました。
「ないよ。どこにもないよ。草がいっぱいあるだけで……」
「その下にあるの。草は地面から生えているのよ」
「草はどうして地面から生えてるの?」
「風に飛ばされないように……。それから、地面から水や栄養をもらっているの」
「栄養ってなあに?」
「食べ物のことよ」
「草は何を食べてるの?」
「土よ。死んだ虫や動物は時間がたつと土になるの。その土には栄養がたくさん入ってる。だから草はその土の中にある栄養を吸って食べてるの」
それを聞いて、ルーは考えました。
「虫は鳥に食べられて、鳥は動物に食べられて、それから、動物は人間に食べられる……。虫や動物が死んで土になるなら、人間も死んだら土になってしまうの?」
ルーがききます。
「そうよ」
「それじゃあ、草は鳥や人間も食べてるの?」
「そうよ」
メートヒェンが言いました。
「それじゃあ、みんなだれかに食べられてるんだね」
ルーは空を見上げました。また、お母さん鳥がエサを取って巣に帰っていくところでした。
「それじゃあ、ぼくたちはみんな同じなんだね。同じ一つの命なんだ」
メートヒェンはうなずきました。
「緑……。とってもきれいだね……」
ルーは芝生をなでました。
「それにいいにおいがする……」
ルーはねそべってほっぺを芝生にくっつけました。
「こうしてると気持ちいい……」
ルーは目をつぶりました。
地面のずっと深いところから、低くてやさしい音がしました。耳の近くからは草の葉が子守唄を歌うようにさわさわと鳴っています。
「気持ちいい……」
眠ってしまったルーのとなりでメートヒェンも眠ります。同じ一つの子守唄を聞きながら……。
「ミャーオ」
何かが鳴いている声がしました。
「ネコだ。ネコがいるよ」
ルーが目ざめて言いました。
「ほんと。ネコだわ」
メートヒェンも言いました。
「かわいいねえ」
ネコは黒とグレーのしましまをしていました。目はアーモンドの形をして金色に光っています。そして、とんがった耳とりっぱなヒゲと、それからいばったように口のはしが少し上がっています。
「おいで」
ルーが手をのばしました。でも、そのネコはこちらを見てくれません。じっと上ばかりを見つめています。
「ネコさんは何を見てるの?」
ルーがききました。
「鳥……」
ちょうど、お母さん鳥が巣から飛び立ったところでした。
「ネコさんは鳥となかよしなの?」
ルーがききます。メートヒェンがどう答えようかと思っていると、いきなりネコが大きな木をかけ上がり、巣と反対がわのえだに乗りました。
「すごい! ネコさん早いねえ」
ルーが目をまるくして見つめます。
「ヒナをねらっているんだわ」
「ねらうの? どうして?」
「ネコはハンターだから、鳥を狩って食べるの」
「ハンターって?」
ルーにはよくわかりません。でも、次のしゅんかん、ネコはパッとヒナに飛びかかると1羽、その口にくわえました。
「だめえ! そのヒナはだめえっ!」
ルーがおどろいてさけびます。ネコが光る目でこちらを見ました。
「おねがい! 放して!」
ルーが泣きながらうったえます。
それがわかったのかネコはくわえていたヒナを放しました。が、そこは高い木の上です。ヒナは地面に向かって落ちてしまいました。
「いやあ!」
ルーが手をのばします。すると、ふわりと体がういて、ボダイジュの下にきました。そして、そのヒナはルーの手の中に落ちました。ヒナはぶじでした。ルーの手の中でピイピイ鳴いています。
「よかったねえ……」
ルーも泣きました。
「鳥さんあったかいねえ。それにとってもやわらかい……」
「それじゃあ、お母さん鳥が帰ってくる前に返してあげましょう」
メートヒェンが言いました。ルーはそうっと指の先でヒナの背中をなでて言いました。
「バイバイ、鳥さん。早く大きくなるんだよ」
それからルーは木のかげからこちらを見ているネコに言いました。
「ありがとう。ぼくのおねがいをきいてくれて……。お礼にぼくのミルクを半分あげるね」
それを聞いて、ネコの口がちょっぴり笑ったような気がしました。
風がそっとルーの頭をなでました。
「風はどこから吹いてくるの?」
ルーがききました。
「遠い国から……」
「遠い?」
「うんとあたたかい南の国やここよりも寒い北の国から……」
メートヒェンが答えます。
「ふうん。それで風はいろんなことをよく知っているんだね」
ルーが言いました。
「そうよ。その風に乗って渡り鳥は旅をするの」
「渡り鳥?」
「そうよ。ツバメのような鳥よ」
「鳥さんはいいね。羽があるからいろんな所に行けるもの」
ルーがちょっぴり悲しそうに言いました。
「人間には羽がないんだもの。それに、ぼくは……」
ルーは病気でした。自由にベッドから出ることができません。それを思い出してとても悲しくなったのです。
「泣かないで、ルー。あなただって飛べる。心の翼を広げたら、世界中どんなところにだって飛んでいけるわ。わたしが案内してあげる。いつもルーのそばにいて、ルーの手足になるわ。だから、お願い。泣かないで……」
メートヒェンがなぐさめました。
「本当? ずっとぼくのそばにいてくれる?」
「もちろんよ」
と、メートヒェンが言ってくれたのでルーは安心しました。
「さあ、そろそろベッドにもどりましょう。ママが心配するわ」
「うん」
そうして、二人はルーの部屋のベッドにきました。
「ルー、ミルクの時間よ」
ママがきて言いました。
「ねえ、ママ、そのミルクを半分ネコさんに分けてあげて。ぼくね、やくそくしたの。鳥さんのヒナを食べないかわりにぼくのミルクを半分あげるって」
ママは笑ってうなずきました。
「ありがとう」
ルーはお礼を言いました。
「ぼくね、メートヒェンとお外に行ったの。それでね、お外のこといっぱい教えてもらったの。とっても楽しかったんだよ。ねえ、メートヒェン」
でも、メートヒェンは何も言いません。
「ステキな夢をみたのね」
ママが言いました。
「夢?」
ルーはとなりのメートヒェンを見ました。それはただのぬいぐるみにしか見えません。そして、ルーの手足もそんなにうまくは動きません。
「あれは本当に夢だったの?」
窓の向こうを鳥が飛んでいきました。そして、虹色の光がこぼれて、あの時の羽がルーのほっぺをなでました。
「夢じゃなかった……」
ルーが笑ったのでメートヒェンもうれしそうに笑いました。
(おわり)