ウーニャの恋


第5話 ウーニャ、嘆くの巻


 「聞いてくれますか、神様」
とウーニャは天を見上げて言った。
「ぼくはこのコが好きなんです。ほら、ここでお昼寝している、このコですよ、このコ!」
と上半身を使ってくいくいっと指し示す。扇風機が回る快適な環境の中、リーガは幸せそうにすやすやと寝ていた。
「だのに、このコはぼくに意地悪なんです! 今日、ぼくはついにおこりました。ぼくは、たしかに彼女が『緑の抹茶まんじゅう買ってこい』と言ったのを聞きました。買いました。貢ぎました。だのに彼女は、茶色い茶まんじゅうの方が良かったと、駄々をこねたのであります。お使い、がんばったのに。すごくがんばったのにぃぃ……」

言っているそばからどんどん胸が熱くなり、ついには吹っ切れたように演説調になった。
「そのとき、ぼくは思ったのだ」
ありもしない観客をぐるりと見渡すこと、約3秒……。
「民よ! こんな理不尽なことが許されていいのか。いにゃ! 断じて、駄目だよ、って! ぜったい、駄目だよ、って! だから!」
彼はたくらみ顔をしてふふふと笑った。
「もうぼくは、ひとりで生きることにしました」
そう言いつつ、ノソノソと這う。家出をするつもりである。
(いいぞ、ぼく。彼女は目を覚ました時、彼女はどんな顔をするだろう。ぼくを虐げたことを後悔し、ほろりと泣いてしまうんじゃなかろか。はっ! そんなことになったら、誰が彼女をなぐさめるんだ? ああ、可哀そう、おお、なんて可哀そうなリーガさん)
ウーニャの心臓はトクトクと激しく動悸した。が、彼はパチパチパチと瞬きをすると、先ほどの決意を思い出し、じっと我慢した。
(いいやぼくは振り向かないぞ。ぼくはクールなんだ。つれないオトコなんだ。だから、だるまさんが転んだみたいにひょいひょい振り向いたりしないのだ)
と自分に言い聞かせつつ、ひょいと振り向いた。
「うにゃあ……!」

いつの間にかリーガは目を覚まし、寝癖のついた髪をなおしている。
「おい」
「は、はい」
と猛ダッシュで駆け付ける。
「おまえ、以前にたしか、私の言うことは何でも聞くと言ったな?」
「にゃーお、なんなりと。あなたのためなら、たとえシベリアにだってアラスカにだって群馬にだって行きますとも! なんなら冥王星にだって……」
ウーニャはここぞとばかりに饒舌にしゃべくった。おお、何という絶好のアピールタイムが廻って来たことか。ふぁんくすごっど、と彼は思った。
「あなたがやれと言うなら、ボスネコとだって戦いますとも。青いバラだって作っちゃいますとも。おメメに悪いお役所の書類だって書いちゃうますとも。なれと言うなら、ソーリ大臣だって、メンタリストだって、メダカにだって、何にだってなっちゃいます」
「そうか。じゃあ、やっぱり茶まんじゅう買ってこい。やはりどうしてもあれが欲しい。ここ半日、あれのことが頭から離れない」
「了解!」
ウーニャは大きな声でお返事をした。リーガのグレイの瞳を、うるうると見つめながら。

(そうだ。家出なんかしたら、彼女のお声も聞けないじゃないか。彼女のお顔も見られないじゃないか。聞くのだ、善良なる国民たちよ。ぼくは今、全身全霊で後悔しているのだ。あの時、もっとよく寝顔を拝んでおくんだったなぁ……。ぼく、バカやったなぁ……)
リーガは大事な鎌を片手に、箱の中のまんじゅうの残りを数えている。ウーニャはマイブームである演説調のひとりごとをやめると、彼女をじっと見据えた。
「そ、そんなに好きなんですか?」
「ああ」
「ケッコンしたいくらい、好きなんですか?」
「ああ。いづれはコイツを婿にとろうと思う」
「……おお!」
ウーニャは嘆いた。彼の周辺だけで、昼下がりのドラマが始まった。悲愴なヴァイオリンの音色と一筋のスポットライトに照らされ、彼は苦悩する。

「何と言うこと。何と言う非情なこと。ぼくの愛はこんなにも無力だというのですか。聞けや、このまんじゅうめ。せいぜい今のうちに、ぼくを嘲笑うがいい。ぼくはおまえなんかに負けないぞ。腕っ節だって。男前だって。こんちくしょー」
ウーニャは必死に理由をつけて自分をなだめる。そして、次のような結論に達する。
「そうだ、きっと彼女はテレビジョンの悪影響を受けたのだ。婿にとる、なんてむつかしい繊細な言い回し、彼女が知るわけがないのだ。彼女はきっとテレビジョンでそのことばを知っただけなのだ。愛の種類をうまく分別できていないだけなのだ。きっと、そうだよ」
それでもそわそわと落ち着かない彼は、わざとらしくひとりごちる。
「ぼくとケッコンしてくれたら、そんなもの。毎日毎日、いくらでもおごってあげますのに……」
ぼそりとそう言った。リーガはそんなウーニャをひょいと摘みあげると、じっと眺めまわす。ウーニャが戸惑っていると、だしぬけに彼女は言った。

「ウーニャ」
「は、はい?!」
「ケッコンしてくれ」
「そ、そ、そんにゃ……!」
ウーニャは愕然となった。
(こんなに簡単に?)
頭の中で思考がぐるぐると廻った。
(こんなにあっけなく?)
彼の全身はカッカと熱くなった。
「う、う、うう……」
込みあげる思い。溢れだす涙。歓喜の歌。ハレルヤ。

「や、やった。ついにやたぞ」
ウーニャは跳ねあがった。
「きゃはははは……っ、にゃーはっはっはは!」
が、しかし。
「……はっ!」
彼は気がついたのである。彼女は彼を摘みつつ、今なおその目はまんじゅうの数をカウントしていることに。
(彼女は、ぼくの男気に惚れたんじゃないのだ。彼女は今、おまんじゅうしか見ていないのだ。ぼくは……おまんじゅうなんかで彼女を釣ったぼくは、彼女にとっておまんじゅうのおまけでしかなかったのだ! おお、神よ……)

彼は静かに目を閉じて言った。
「だ、だめです、そんな……。」
「何だと、きさま……」
「け、けっこんというのは、けこんとゆのは、けことゆうは、愛あってこそのものなのです! あなたがぼくを愛してくれない限り、それはけこにならんのです、けこにならんとです、あなたが答えてくれないかぎり……うっうっう……」
リーガは少し考えてから言った。
「それはつまり、おまえを愛してるか愛してないか、ということか?」
「そうです!」
彼女は微かに牙を見せて不敵に笑んだ。

「この際、はっきり答えておく」
ウーニャはごくりとつばをのんだ。
「茶まんじゅうが食えるなら、私はどちらでも構わない。食えるなら愛す。食えないなら愛さない。それだけだ」
彼女の眼差しは本気だった。ねぼけからようやく醒めた今の彼女は、一寸の迷いもない、まっすぐな眼光をしていた。ウーニャは彼女を崇拝した。
(おお、なんという断固たるアンサー。ぼくは彼女に真の漢の在り様を見た! そうだよ、迷うことなんかありません。ぼくはただ彼女についてゆこう。ぴたっとくっついてゆこう。そしてあわよくば、彼女の初恋がぼくになりますように……)
リーガはウーニャを肩に乗せ、ふいに立ち上がると、最近手に入れた安っぽいマイ手提げカバンを手にした。

「じゃ、いっしょに買いに行くぞ」
「え? いっしょに?」
「おまえがまた間違えたら、私は今度こそ泣く」
「そ、そんにゃ……ぼく、間違えてないのに……」
その時、ウーニャは部屋の隅からひとり頑張って風を送ってくれている扇風機に気がついた。それはまるで、二人の外出を見送っているようでもあり、そして同時にぼくを忘れないで、と主張しているようでもあった。ウーニャは扇風機が不憫になった。
「リーガさん。ぼくらがいない間、扇風機さんが孤独の人になります。せめて眠らせといてあげてください」
「どうやるんだ?」
「ほら、そこにあるリモートコントローラーさんの赤いパワーボタンをプッシュするのです。頑張ってください。ぼく、リーガさんならきっとできると信じてます」
「ほう、これか」

彼女は間違わないようにゆっくりと、たしかに、赤いボタンを押した。と、扇風機が微かな音を鳴らす。パラパラパラ……。それはだんだんと静かになってゆく。果たして成功したのか。二人は瞬きもせず見守った。プロペラの回転はさらにさらに遅くなり、……やがて完全に停止した。
「扇風機」
とリーガは呼びかけた。
「おまえは従順ないいシモベだ。私は従順なやつが好きだ。今は安らかに眠れ」
そしてその肩で、ウーニャは目に涙をいっぱいためて絶賛した。
「す、すばらしいです、リーガさん。リモートコントローラーを使いこなす今のあなたは、まさに、まさに文明人そのものですよ。ぼく、感動しました」
彼女はふんと鼻で笑うと、黙って扇風機に背を向けた。
「行くぞ」
「は、はい」

ウーニャはちらと後ろを振り返り、小声で言った。
「留守番お願いします、扇風機さん」
――ぼくにかまわないで、行っておいで
扇風機はニヒルにこたえた。
――さみしくなんてないよ、大丈夫
静かに微笑む扇風機。ウーニャはややためらう。
「でも……」
――ぼくは今、幸福だ。今はただ与えられたこの眠りを眠るだけだよ
扇風機はそんな声にならぬ声でウーニャを見送った。
(……ニヒルだ)
ウーニャは扇風機の心意気に心から感動した。
「ああ、ぼくもまだまだだ。オトナな彼を見習わなくちゃ」

 洞窟を離れるにつれ、扇風機の姿はだんだんと小さくなってゆく。ウーニャはじっとその丸顔を見つめていたが、やがて気がつく。
「はっ!」
彼は後悔する。
(ぼくはなぜセンプーキなんぞに気をとられていたのだ。いけない。今は彼女の肩の上で、彼女に一番接近できる時じゃあないか。この幸福を味わわなくっちゃ)
彼は彼女の頬を見つめる。そろそろと近付く。

ふいにリーガがじろりとこちらを見た。ウーニャはビクリとして縮こまる。が、彼は考え考え、気を取り直す。そうだ、きっと黙っているから、大丈夫だろう。そして、もう一度おそるおそる近づく。
「うぎゃ!」
突然鋭い爪で摘みあげられた。リーガは一族≠フ本能なのか、警戒心むき出しの目でウーニャを睨む。
「貴様、何をたくらんでいる? 反逆か?」
「いにゃ……断じて。ぼくはただ、なんだか、吸い寄せられて……キ……」
彼は迷った。「キス」と言おうか、「キッス」と言おうか。キスはいい。しかし、メジャーすぎる。キッスは音が好きだ。しかし、どことなく古い。「せっぷん」は何だか恥ずかしい。「くちすい」はモダンさに欠ける。日本語は難しい。ボキャブラリイの海をさまようこと約二秒、ウーニャははっと閃いた。

「愛を誓うための、くちづけを」
ウーニャは囁いた。パーフェクトな答えだった。彼は自信をつけた。続きの文句を歌うようにつづけた。
「くちづけをはかったのさ。でも、あってなく拒まれてしまったぜ」
「みじめだな」
「でも、ぼくはそれはなぜだか知っている。はじらう君もキュートだぜ。ふっ……ぎゃー!」
握りしめられ、ウーニャは身の危険を感じる。
「お、お許しを、ぼ、ぼくは、ただ、く、くちづけを……」

「……それは、どんな漬物だ?」
「漬物ではありません」
「……そうか。だましたのか。いい度胸だ」
彼女はその手にじわじわと力を込めた。ウーニャは何か言おうとしたが、しかしその時にはもう、彼の意識はゆっくりと遠のいていった。

八月の蝉がミンミンと鳴いていた。

つづく