バイオクリーチャーズ


第一部 人造少年 (1)


 走る。走る。走る。必死だった。鋼鉄製の迷路の中は、灯りさえ灯っていない。足元は砕けたガラスの海。彼の裸足の踏まれる度、悲鳴のような破砕音をたてる。彼の両足は金属のごとく頑丈だ。しかし、その両足も徐々に擦り減り、傷つきつつあった。が、そんなことを気にしてはいられない。彼は逃げなければならなかった。脱獄を知られるよりも早く。この悪夢のような施設から。

 暗い道はどこまでも続いているかのようだった。一見すると廃墟だ。それがよそ者を拒むための演出なのだとすれば、なかなか周到なものだ。追手の足音を遠ざけることだけを考え、彼はここまで迷路を進んで来た。そして、ついに一つの部屋に突き当たった。広い部屋だった。真っ黒い壁が一面に並ぶ、妙な空間だった。
(おかしい……)
空気とでも言うべきか。彼はこの部屋の不可視の異様をすぐに嗅ぎ取った。
(何かがおかしい)
彼は行き止まりの道を前に思案した。やっと檻から抜け出したのだ。捕まるわけにはいかない。彼は力をふり絞り、壁へと突進を試みる。両腕から垂れ下がる千切れた鎖が、派手な音をたてる。身体を覆っているぼろのフードが、激しくはためく。壁が鈍い音をたてる。しかし、突破はかなわない。

「待て」
突然の照明と同時に、彼の背後に立体映像の子どもが現れた。自分よりも背丈の低いその子どもの名を、彼は知っていた。
「ビクター……」
子どもの瞳が微かに光る。笑っているようだ。子どもは楽しんでいるのだ。沈黙というにはあまりに短い、言葉が行き詰まる瞬間の静寂を味わう邪悪な笑みは、その童顔を大人びて見せた。
「さて、どうする?」
ビクターが言った。
「先に道はないよ。頭を下げて謝るかい?」
親しみをこめた口調で子どもは告げた。
「それとも、僕を敵に回す?」

「なぜ」
少年は鎖の重さを意識しながら、子どもの顔をじっと見つめた。
「なぜ僕は、〈外〉に行くことが、許されない?」
必死の問いだった。が、子どもは笑った。
「そうかい、〈外〉が気になるのかい? ……で、〈外〉って何だい?」
「とぼけるな」
にらみ合う。と、薄笑いをやめて、ビクターは言った。
「何をどこで知ったんだい?」
少年はぐっと押し黙った。彼の目は今もぬかりなく周囲を探っている。実体のないビクターのヴィジョンが、ふうとため息をつく。
「とんだ裏切りをしてくれたね。率直に言おう。おまえはもう許されない」
「なぜ……?」
少年は喉から声を絞り出す。
「なぜっておまえは」
少年は睨む。壁を。壁の向こうを。
「おまえは裏切り者じゃないか……」
壁の向こうにある、〈外〉の世界。
「……バイオクリーチャー272」
拒否と侮蔑の眼差し。二人の少年の間に、見えない、深い断層が生じた。少年はちらと背後を見、迷った。迷ったのちに疑った。行けるか。疑ってから確信した。行ける。

(砕けろ!)

少年の意志は一本の矢のごとく、凝固する。
「ガアァ!」
黒い壁に突進した。激突。低い破裂音。そして、響きの渦。痛みのように、あるいは冷や水のように彼の耳を刺す空気の音色が、嵐のように暴れ、悲鳴のように尾を引いた。突き抜けたその向こう、光の破片が散る視界に、一瞬だけ何か巨大なものが現れた。鉄色のスクリーンと、その下に集合する図形たち。しかし、彼にはその明かりも闇ももはや見えていなかった。身体を打つ猛烈な風が、彼を強く打った。彼は、〈外〉に突き抜けた!

彼は感じる。これが、解放。両腕の鎖が宙になびく。耳の奥まで冷気が沁み渡る。
「ガアアァア!」
咆哮が世界にこだましてゆく。外の世界へと。外の空気へと。彼は感じた。自由になった身体が、熱く燃えているのを感じた。そして、もはや〈外〉としてではなく感覚として、瞬くうちに組み替えられてゆく世界の広がりというものを。
冷たくて生温かく……。吸い込まれてゆきそうな程、肌によく馴染む、孤独と欲望が充満している……。その感触を、今、彼は知った。

――「夜気」

その言葉を知らずとも、彼はその本質を、その瞬間で理解した。そして、それが彼、フラル モンステルのはじめて知った、「永遠の夜の国」ドルドーロ王国の真昼の姿だった。

 自由落下が始まった。
 世界が回る。回りながら彼は落ちる。必死で手を伸ばす。石の壁に接触する指先。力まかせに爪を突き立てる。一瞬の痛みの後、彼は驚く。指は石を抉り、そのまま彼の左腕が軸となり、彼を支えている。体力の消耗は感じられない。むしろおさえきれない程の力が腕にみなぎっている。
(僕は)
少年はそのまま宙へと身を投げる。
(何だ?)
彼の身体が飛翔するかのように優雅な弧を描く。しかし瞬間後、落下速度を速め、残酷なまでに強力な力でもって地面へと吸い寄せられてゆく。
(僕は何だ?)

――バイオクリーチャー272

ビクターの言葉が蘇る。美しい豊頬の子どもの顔に浮かんだ、醜悪な笑み。少年は漠然と感じる。運命。運命がすでに振り切りがたく、自分を捉えている。空気に揉まれながら、彼は目を閉じた。……しかし、死ぬ気がしなかった。ただただ、運命に身を任せ、恐ろしく安らかな気持ちで、地上へと落ちていった。


 「ここは……」
突然、彼は瞼を開いた。ここはどこだ。彼は戸惑う。見覚えがない。ふと見上げると、自分を見守る、木の彫刻のような暗い顔があった。それは、ふっとだしぬけに微笑した。
「……!」
少年は思わず後ずさり、自分の目頭を押さえた。そして、その手を見れば、何やら真白い砂のようなものが付着している。
「これは、何だ?」
少年が訊く。彫刻に似た顔をもつ老人はくっくと笑った。
「おまえさんの顔ァ、隠した方がいい。あいにく今日はハロウィーンじゃねえんでな」
言うと、白粉の器を振って背中を向けると、つまらない冗談を言いながら棚を整理する。
「塗り固めれば、良い顔だ。ああ、多分日暮れに遠目で見りゃあ、異邦人か幽霊ってことで片付くだろう」
フラルは笑ってやろうと思った。が、表情のうまく出せない彼の顔は、少しばかり口を動かすのみだった。彼は簡易ベッドと毛布の間からさっと抜け出し、礼を言った。親切な老人だ。見ず知らずの自分を看護してくれたのだろう。ようやく少年にも、状況が飲み込めてきた。彼は、なるべく静かに聞いた。

「僕は、何に見える?」
「うん? 天から落ちて来た、日暮れの化けもんってトコだ」
と老人。
「日暮れとは何だ?」
「おう、日暮れを知らねえか。昔の話さ……」
老人は指をふりふり、言った。
「一日の半分はな、この空は光に満ちていたのよ。信じられるか、坊主。あの空に、光と闇が代わりばんこにだよ、くるくる回っていたんだと。光が闇に空をあけ渡す時にゃ、それはそれは不気味な赤にこの国中が染まったんだと。な、そんな時にゃ化け物だって出てきそうだろ? それで、『日暮れの化けもん』っつうわけさ」
「本当か?」
「知らねえよ。俺の生まれるよりずーっと前の話さ」
そう言って目を泳がせる老人の本心を量りかねるといった様子で、フラルはさらにもうひとつだけ、訊いた。
「僕の素性が、気になるか?」
「いや、取り合えず化けもんってことで良いだろう。ぐだぐだ話すのは面倒だ」
老人は喉の奥で笑った。薄暗いボロ屋の中で、その瞳は異様に輝いていた。
「今週は何かが起こるかもしれんなぁ。二人も続けて、お天道さまから降って来た」
「二人?」
「会うか? 先客に」

 それは、漆黒の髪の少女だった。ウェーブのかかった長髪は、何か他の生き物のようにつやつやとしていた。彼女が向かいのベッドにひょこんと座ってこちらを見つめていたことにようやく気がつくと、フラルは思わず自分の顔を手で隠した。が、
「あんたの名前は?」
と親しげに話しかけられ、おそるおそる手を離した。少女は気にせず続けた。
「私はメーサ。よろしく。で、あんたの名前は?」
「フラル モンステルだ」
少年は言った。何を話すべきかわからずに戸惑った。
「おまえも、落ちて来たのか?」
「ううん、逃げて来たの……」
少年は思わず心が緩んだ。同じ境遇だと思っただけで、不思議と安らいだ気持ちになった。
「僕もだ」

そう言ってから、彼女の首にかかっている石のペンダントを見つめて呟く。
「良い色だ」
「これね? いいでしょ、青空みたいな色で気に入っているの。本当の青空は、きっともっと綺麗なんだけどね」
「青空?」
とフラルは聞き返す。メーサは微笑んだ。おそらく話したいことに突き当たったのだろう。
「知ってる? 昔はね、白昼の空は青空と呼ばれていたの。けれど昔、人々は何かひどいことをして空の神を怒らせ、私たちの国の空は、青さを失くしてしまった。そして、ドルドーロを訪れた異邦人はこう呼ぶの、『永遠の夜の国』……。伝説だけどね」
フラルはふと、やっと見ることが叶った本物の空が、ひどく黒々としているのを意識した。もしそれが、メーサのペンダントのように……いや、それよりももっと深い青をしていたとしたら……。フラルは考えようとしたが、どうしてもはっきりとしたイメージを掴めなかった。それだけに、強く惹かれた。

そんな彼を見ながら、メーサが言った。
「いつか青空を、取り戻せたらいいのに」
夢見るような声だった。
「太陽の光る空を」
「太陽の、光る、空?」
フラルは思わず繰り返して言った。天窓からは、白く濁った太陽がぼんやりと覗いていた。
「青空……」
それは宝石のように煌々と青く輝いているのだろうか。それとももっと水気を帯びた、儚い色をしているのだろうか。しかし、インクのような薄っぺらい青ではなかろう。フラルは自分の知っている青を思い返した。幼児用のボウルのブルー。緑がかった液晶画面のブルー。ボトルの中の溶液のブルー……。しかし、彼は不満だった。
(明るい、空、だって?)
彼の中にひとつのイメージが生じた。それは遠いノスタルジーのように哀感を帯びている。しかし、それに触れようとするたび、混じりけのない喜びが芽生えた。子どもが新しい空想遊びを見つけたように、夢を駆り立てられた。

(青空)

いつかそれを拝もう。そう彼は思った。その時だ。
「なあ、随分と楽しい昔話をしているな、お二人さん」
不意に背後で老人の声がした。いつのまにか彼は部屋の隅へと退いでいた。フラルは不審に思い、姿勢を変えぬまま、両脚の筋肉に力を込めて警戒した。老人は言った。
「だが、おまえさんらはそろそろお家に帰るがいいよ。土産にひとつ、聞かせてやるから。……俺も面白い話をもう一つ、知ってるんだ」
老人はくっくと笑う。フラルはやはり表情のない顔で二人を見つめている。
「底なしの夜、終わりのない夜」
歌うように老人は言った。滋味のある声だ。
「夜は化け物を生む」
老人はフラルをまっすぐに見つめた。
「おまえさんのような……化け物を……」
フラルは確信した。こいつは、仕掛けてくる。この老人は、敵だ。
「だが、忘れるな。夜を明かすことができるのは、化け物だけさ」
言うと同時、老人は指をパチンと鳴らした。

「何っ?」
突如、爆音と共にボロ屋のドアと天井が破られた。黒い制服に身を包んだ男たちが侵入してくる。五人。六人。手には銃。フラルは破壊された天窓を凝視する。
「つかまれ!」
フラルは少女を抱え、跳躍する。爆音と共に粉塵が散る。背中に降り注ぐ赤い火の粉。羽織っていた布が引き千切れた。しかし、少年の皮膚は爆風に耐えた。彼は煉瓦の壁を蹴りつけると、向かいの窓の桟に手を掛ける。メーサは驚愕していた。
「フラル……? あんたって……!」
皆まで言わせず、フラルは少女を宙に放ると、自分も壁を蹴る。少女を空中で背に抱え直し、煉瓦の壁面を疾走。その背後でガラスが砕け、火の手が上がる。

――あんたって、何者?

少女の声には答えない。いや、答えられない。フラルはビルディングの屋上から、獲物を睨んで身構える鳥のように、鋭い目で人間の群れを凝視した。抱きかかえた少女の黒い髪の毛が、妖気のようにゆらめいている……。
彼は思った。乾いた心で地上を見下ろしながら。
(愚かなやつらだ……)
地上からはまだ発砲が続いている。
(あんな軽装で僕を拘束するのは不可能だ)
彼は少しばかり助長していた。
(僕を造ったおまえたちにそれが分からぬはずがない)
そして、数歩下がってから、彼は勢いよく助走をつける。
(だのに、なぜ挑発する?)
フラルは向かいのビルディングへと跳んだ。肌に感じる空気が、夜気が、異物によってひどく乱されているのを感じる。屋上の岸に手を伸ばす。しかし、彼は掴みそこなった。どうも力の加減にまだ慣れていない。少女を抱いているためか、感覚が狂う。
 迷わず壁を蹴った。入り組んだ建築群を伝手に、跳躍に跳躍を重ね、勢いづいた彼の身体は、銃弾をよけ、住居から住居へと高速で飛び移ってゆく。彼は廃工場の煙突を這い上り、またたく間にその先端に辿り着いて、猫のように身構えた。展望塔は目の前だ。目指すはその傘状の屋根の上。そこなら、銃弾をしのげるはずだ。その隙に体勢を整える計らいだ。

「メーサ」
と少年は少女を抱え直して言った。
「やつらに見覚えはあるか?」
「ええ」
「やつらは何者だ? なぜ僕たちを狙う?」
「あんたを追ってるんじゃないよ」
言うと少女の目が鋭くなった。ざわざわと黒い髪が不安げに揺れる。
「あいつらが追っているのは、この私」

シュウウッと不穏な音が鳴った。三角錐の火炎弾が無数に打ち上げられる。同時に、少年は展望塔目指して跳んだ。空気を割いて、夜に溶けて宙に舞う。
彼には全てが緩慢に見えた。周囲に飛び散る赤い火花。火薬の匂い。そして、眼前を泳ぐ、回転する火薬玉。靡いている両手首の鎖。見切った。
「くそっ」
彼は悪態をつくが早いか、少女を庇うように身体を丸め、左手で強く宙を凪いだ。手応えと衝撃。その火を吹く凶器は、彼の鎖の鞭に切り裂かれ、真紅の花火となって拡散する。その間、わずか1秒。身を投げた勢いのままに、少年は煉瓦の展望塔の屋根にしがみ付くと、転げるように乗り上げた。

「さて、どうする……? 手頃な逃げ道はないな」
そう言うフラルの左頬の化粧は破け、まるで傷跡のようになっていた。
「私を連れていると、でしょ?」
メーサが言った。フラルは思わず目を見開いた。
「もういい、あんただけで逃げなよ」
「なぜ?」
少女は黒いドレスの襟の紋章を見せた。唐突に。呆れるほどの素っ気なさで。
「私の名前は、メーサ ドルドーロ。その意味がわかる?」
少年は驚く間もなく、喉にへばりついたような声で答えた。
「……王族!」
「そう。けれど、私はドルドーロの家系図から消された存在。外をうろつかれては王族も困るのよ」
少女の目にはひとつの決意があった。
「あんたは一人で生きていけるでしょう。私なんかに構ってたら、駄目。檻に戻されてしまうでしょう?」

なぜ彼女がフラルが檻から逃げて来たことを知っているのか、彼は気になった。聞いた話では、施設のことは〈外〉には黙秘されているはずだった。が、彼は今それを聞こうとは思わなかった。ただただ、少女を見つめていた。
「気まぐれに私が自由になりたいなんて願ったのが、間違いだったの。でも、もういいの。弟に土産話ができる。外の世界を見て来られたんだもの。あんたは、自由でいなよ。その力があれば、あんたは一人で逃げきれる。一人でも生きていける」
フラルは答えに迷った。ぎこちない瞬きをひとつする。そして、
「ああ、そうだろうね」
と低い声で答えた。
「一人で、生きて行くさ」
ぽつりと唱えるように繰り返す。少女は微笑んで、鞄から縄梯子を取り出して、塔の先端に引っ掛ける。そして、下のビルディングの屋上に降り立つと、備え付けの梯子へと足を掛けた。すみやかに、遠ざかってゆく。
(一人で、生きて行く)
全てがわからなくなった。彼は大きく目を見開いたまま、心を風にまかせていた。黒い波が、尽きない疑問が、苛烈な孤独が、彼をどこまでも押し流して行く。しかし、彼には表情がなかった。識字力も筆もなかった。喉がふさがっていた。伝わらない、声。

――助けて!

胸の中で誰かが叫んでいる。

――ここから出してくれ!

(一人で、生きて行く)
その響きが彼の心の水面でこだまする。
(一人で……)
彼はわからなかった。それが、孤独という感情であることが、彼にはわからなかった。ただただ、両腕の力が抜けて行くような感覚に戸惑っていた。

少女が地上に到達したのか、男たちが静まった。そこに突然、遠くから一つの声。細い声質で、確かな語気で、精一杯の声量で。
「フラル!」
と少女の声が呼び掛けた
「……っ!」
ひょこんと顔をこちらに向けて、少女が梯子の下にいた。彼はパチンと現実へ目を覚ました。動くことさえためらって、じっと見下ろした。
「また、どこかでさ、会えたらいいね……。きっと……ううん、何でもない」
心の揺れ。孤独。同じだ、と彼は思う。同じ心の震えを見た……。
「あんたのことは、忘れないよ!」
叫んでから、寂しそうに笑う。両脇の軍人に拘束されている。
「フラル モンステル」
少女がもう一度、少年の名を呼んだ。風が吹き抜け、少女の黒い髪が闇に溶けた。鋭い笛の音と、一斉に向きを変える軍服の男たちと、聞き取れぬ挨拶とやり取りと……。連れていかれる背中。連れていかれる、小さな背中。

フラルは感じた。自分が思ったよりもずっと深い親しみの感情を、彼女が自分に向けていたことを。彼は思った。少女が自分を逃がすために、自ら捕まりに行った、その度量を。彼は気づいた。衛兵どもの少女を見る眼が、蔑みでほくそ笑んでいることに。
「おまえ……は……帰ってはいけない」
フラルにはわかっていた。
「帰ってはいけない!」
彼はすっと立ち上がった。風が身を撫でた。そのまま夜に溶けてゆきそうに、身体が身軽だった。真の闇へと変わりつつある、ダークグレイの空を、彼は見上げる。そして、空に噛みつくように、牙をむいて絶叫した。

「GAAAAAA!」

獣のように。化け物のように。それで結構だ。心は、決まった。

フラル モンステルは飛び降りた。兵の群れの只中に。男たちの軍靴がざっと向きを整える。銃口を揃えてこちらに向ける。さながらサークルの文様だ。
「何者だ!」
叫ぶ男の喉を間髪入れずにわしづかむと、フラルはそのまま男たちの群れを引きずり倒した。数人が折り重ない、粉塵が舞う。奪った銃はひねり潰し、背中へ向いた銃口は蹴りで跳ね飛ばす。
「化け物め!」
と後ずさり、体勢を直そうとする男たち。
「ああ、化け物さ」
と答えるが早いか、フラルはアスファルトの地面に拳を打ちつけ、土の嵐を巻き上げるが早いか、抉り取った巨大なコンクリート片を片手で担ぎ上げ、獰猛な唸り声をあげた。パラパラと黒い粉が降り注ぐ中、左半分だけ化粧のはがれた少年の顔は、悪鬼のごとく、兵士たちの目に映じた。

「な、な、な……」
口をパクつかせる衛兵たちに、容赦なく瓦礫を叩きつける。悲鳴。喧騒。舞い散る砂煙の中、殴り飛ばされた男どもの身体が次々と転がり出てくる。残る数人の男どもが走って逃げて行く。そして、フラルは砂埃の渦からゆっくりと歩み出てきた。通りがかりざま、這いつくばって銃を取ろうとする卑劣な腕を一本踏みつける……。
「メーサ ドルドーロ」
フラルはメーサを真っすぐ見つめ、言った。
「未来は自分で選べ」
少年の頬は、微かに土で汚れていた。化粧の下の幾何学模様の傷跡は、彼の肉体が人造のものであることを物語っていた。少女はやがて首を縦に振った。出会った時からずっと憂愁に満ちていた瞳が、はじめてやわらげに、きらりと輝いたように見えた。
「あんたといる」
黒い髪がゆらりと風に乗った。
「あんたといるよ」
フラルは差し出された彼女の手をぎこちなく握った。
「ねえフラル、これからどうしようか?」
「僕と青空でも探すか?」
「それも悪くないね」
気の利いた言葉が浮かばなかった。が、少年の心は熱く火照っていた。

 その時、背後でふらふらとかろうじて一人の男が立ち上がって、怒りのままにフラルに殴りかかって来た。メーサはふっと微笑んだ。妖しい笑みだった。少女の髪の毛は生き物のように蠢き、やがて絡み合う黒蛇の群れと化して、暴れ狂う。
「ぎゃああ!」
悲鳴をあげる男に向かい、メーサはくくくっと喉で笑った。
「知らなかった? 都市伝説とかじゃあないのよ、あの話」
「お、おまえが、そ、そうか……」
男の首と腕とに巻きついた黒蛇は伸縮自在に踊り、弄び、そして牙をむく。
「おまえが、蛇王女か!」
男はそのまま意識を失った。どさりとその身体を捨てて、縮んでゆく蛇たちは少女の頭上でゆらゆらと舞っている。
「ありがとう、メーサ。なかなか便利な髪だ」
フラル モンステルは格別驚きもせずに言った。
「驚かないの?」
「ああ。君が化け物でも驚かない。僕も化け物だ」
そう言うフラルの無表情の顔を、メーサはじろりと睨んだ。
「あーあ。『蛇王女』! まったく、ほんと面白くないあだ名!」
メーサはあか抜けた表情で怒ってみせた。蛇の首をひとつ引っ張ると、蛇はばたばたと暴れたがやがて黒い髪となってほぐれていった。

「そうか? 僕は嫌いじゃない。ただの姫様よか、よほど面白い」
「そう言うあんただって、モンスターでしょ?」
とメーサはフラルの頬をつついた。フラルは左の顔にそっと手を当てた。その傷に気づき、メーサがはっとして謝ろうとすると、彼は穏やかな口調で言った。
「化粧とかいうのをすれば、幽霊くらいには見えるそうだ」
そして、顔から手を離すと、それが冗談であることがわかるように少女の額を軽く指ではじいた。少女は思わず脱力して笑った。少年は感情の読みにくいその声で言った。
「モンスターで結構」
少年は笑ったように見えた。いや、確かに、笑った、とメーサは思った。
「この夜を明かせるならば……」
少年はここで口を閉ざした。心の中で呟いた。少しばかり、勇気が湧いた。
(僕はモンスターで結構さ)

二人はそのまま鉄工場の屋根に登ると、夜闇を透かして、目前に開けた景色――荘厳なドルドーロの王宮を見つめた。グレイの大理石の輝きに包まれた、闇を統べる権力の象徴。それは今、遠くて、近かった。遠くて、近い、未来への道標であった。