第一部 人造少年 (2)
施設を脱走してから、もうすぐ三日目になる。少年は僅かな隙間からドルドーロの大時計台をそっとうかがう。日付けが変わるのを待ちながら、彼は考えていた。どことなく手持ち無沙汰だった。溜まった雨水が漏れてくる鉄板の隙間を見つけ、乱暴にひねり潰して塞いだ。
満月の明るさが遮られ、視界が急に暗くなった。
ここは街の空家の屋根裏だ。フラルとメーサは二日前からここに暮らしている。せっかく見つけた寝場所だったが、一体いつまでここに身を隠していられるだろうか。不安がよぎる。彼は冷静だったゆえ、苛立つことはなかった。それでも、どこか心もとなかった。
そもそも、なぜ隠れねばならぬ。なぜ追われねばならぬ。とめどない思考の渦が、ふいに疑問形に凝固するたびに、彼はそれを振り払う。考えるな。無意味なのだ。
「無意味だ」
と。彼は微かな肉声でつぶやいた。
「まったく、多すぎるんだ」
頭の中が煩雑で、霧のかかったようだった。
(知らされないことが、多すぎる……)
自分を育ててきた機関のこと。彼らがしばしば自分を檻に入れたこと。ドルドーロ王国の欺瞞のこと。そして、彼が今、かくまっている王族の姓をもつ少女・メーサ ドルドーロの素性のことだ。彼はあえて聞かなかった。彼女が自分の素性を聞かないように。
「メーサ」
少年は、ボロ布にくるまって横たわっている、黒髪の少女に呼びかけた。返事はすぐにはこなかった。眠っているのか。しかし、髪の毛がひとふさユラユラと立ち上がると、蛇のようになり辺りを見回すと、どうやらそれで少年を認識したのか、少女自身の身体の方ものろのろと起き上がった。
「あー、フラル? おかえり。どこへ行っていたの?」
「偵察に。城下街があまりにも静かだから、不安なんだ」
「兵隊はいた?」
「いや。いなかった。何かがおかしい……」
ドルドーロの城下街は、フラルの想像以上に荒んだものだった。湿気た風にさらされたこのような廃屋が、いくつも見られた。住民の姿もちらほらとしか見かけない。彼らは灯りをあまり点けない。ひっそりと、生活の匂いを押し殺すようにして暮らしている。一方、彼のいた廃屋の地下の施設は、奴隷を歯車扱いする鬼の根城だったが、屋内の設備そのものは無機的な清潔さがあった。そこは、ごく一部の特権者によって営まれていた。
「おかしいって、どういう……」
言いかけて、メーサはフラルの背後を指差して、唐突に悲鳴をあげた。
グァン!
衝撃とともに、鈍い激突音と鋭い破擦音とが同時にり響いた。
「メーサ! 伏せろ!」
黒い壁が、鉄の甲板が倒れてくる。フラルはとっさに右手で受け止める。風圧で埃が舞い、彼の腕に垂れ下がる鎖がはげしく鳴った。
(何だ!?)
バラバラと散る、鉄片、石の飛沫。さらに二度目の衝撃。今度は上だ。はがれた板が崩れ、鉄筋がむき出す。フラルは落下物を殴り飛ばしてから、それが天井板であることに気がついた。降り注ぐ煉瓦片、鉄筋、鉄パイプ。フラルは再びメーサを呼んだ。
「フラル!」
同時にメーサも彼を呼んだ。彼女の髪の毛が一束、蛇となってするりと伸びると、彼を目指して飛んできたパイプを噛んで受け止めた。
「気をつけてよ」
「悪い。しかし、蛇の髪ってのは便利だな」
「でしょ?」
駆け寄る二人。低く身構える。むき出しになった黒い空を見上げ、第三陣を予感する二人。
背中合わせになる。およそ一秒で、二人は状況を把握した。壊し屋だ。フラルはメーサを左腕で抱くと砕けた壁を右肘で破り、そのまま跳躍して屋外へと突き抜ける。夜の風が二人を吹きさらす。手近な煙突を伝手に住宅の屋根に着地してから、フラルは思わず目を見開いた。巨大な首をもたげた機械仕掛けの首長竜が、彼らの頭上にそびえ立っている。
「何だこいつは……」
軋みながら、機械の首長は方向を転換してくる。フラルは少女を背負ったまま跳んだ。そのまま自然落下に身を任せる二人。かすめてゆくのは鋼の鉄球。直径およそ少女の身の丈。
「どこから現れたんだ、こいつ……」
少年の背後で粉砕された煉瓦がばらばらと飛散する。幾片か背中にくらいつつも、何とか無事に地面に着地する。
(こんなでかいの、どこから持ってきた……)
わずか数分前。様子をうかがいに街へ繰り出した時には、こんな巨獣は姿も形もなかった。唐突に、あまりにも唐突に、鉄の首長竜は現れたのだ。
「石城解体用の公用クレーン車よ」
とメーサが言った。
「王宮から直接の命が言い渡されない限り、駆り出されない代物だけど……」
「じゃ、あれの狙いは……」
フラルは直感した。連中はメーサを取り戻そうとしている。それも、街ぐるみの大がかりな作戦を計画しているのかもしれないのだ。作戦の内容こそ、まだわからない。しかし、自分たちは連中に大幅な遅れをとったのかもしれない。そう考えておくべきだ、と……。
「そうだ、地下……」
彼はしごく当然の推理をした。廃屋群の地下には広大な地下迷路が広がっている。彼はそこから脱出してきたのだった。あれは何の意味をもっていたのか。そこにとらわれる奴隷層の者たちは、何のためにそこに監禁されていたのか。彼にはわからない。しかし、この鉄の怪物の唐突な出現を説明するには、地下通路が利用されたとしか考えられない。だとすると、近くに出入り口となるべき場所があるはずだ。フラルは疾走しながら考えた。
「フラル、追ってきてる!」
「わかっている」
重たげな首の方向転換を済ませた鉄の首長は、予想したよりもはるかに速く、地を滑り出した。地面を抉りながら、こちらに猛進してくる。
「よけて!」
振り子鉄球が背後から迫った。フラルは地を蹴った。低い唸りをあげて、鉄球は跳ね上がり、前方のビルディングに激突。煉瓦の破片の雨を降らせる。フラルはその向かいの建築の壁面を蹴ると、迷わずクレーンの鉄の綱を掴み、伝い、揺れる鉄球の上に身を乗り上げた。
「フラル、何をする気?」
メーサの問いに答える間もなく、彼は悪鬼の如き力で鉄細工の綱を引きちぎった。その綱は非常にたおやかな鎖の織物であり、恐ろしい強度があった。が、人造少年――バイオクリーチャー272――の怪力はそれを凌駕した。迫り来る墜落の感覚。
「目をまわすなよ」
落下中の鉄球を蹴り上げると、少女を背負った彼の身体は、両腕の鎖をなびかせながら、クレーン車の首の継ぎ目を正確にめざした。狙いは一点。
(へし折れろ!)
少年の拳が首長の首に到達しようとしたその瞬間、目前に煙幕と火花が散った。地上からの攻撃だ。おそらくは兵士たちの。まとっていた布の一部が千切れ、彼の腕はむき出しになった。彼は煙で見えない視界で、伸ばした腕が、対象を掴み損なったのを感じた。落ちる。フラルとメーサは、再び墜落を感じた。フラルにとっては致死的な高さではない。しかし、下に敵の罠があるのは明らかだ。集中砲火をくらえば、さすがに無傷のはずがない。
「くっ」
フラルはとっさに彼女をかばって上にしようとした。しかし、逆巻く風のせいで、もはや上も下もわからなかった。思わず目を閉じた。が、来たるべき衝撃がなかった。
「何……?」
フラルはメーサを背負っていたはずが、逆に彼女の両腕に抱かれる格好になっていたのに気がついた。メーサの長髪は無数の黒い蛇と化して何倍もの体積に膨れ上がり、空を舐め、地上を這い、彼らを持ち上げていた。さすがに、フラルは驚いて言葉を失った。メーサ自身は、その力を使い慣れているのか、至って冷静であった。
「奴らの煙幕を逆に利用するの」
と彼女は言った。
「相手の視界がきかないうちに、逃げるのよ、早く!」
少年はこくりと頷くと、腕の鎖をムチのように闇の中で振るい、ひとまず敵の不在を確かめると、メーサとともに口元を覆って疾走した。
彼らが再びたどり着いた場所もまた、廃屋だった。入り組んだ細い路地をいくつもくぐり抜け、振り子鉄球を失った鉄の首長から、だいぶ距離をとったはずだ。その間、住民と遭遇しないことが、あまりにも不自然だったが、構ってはいられなかった。
「ねえフラル、どこに向かってるの?」
「あては……ない」
二人は同じことを迷っていた。敵の数がわからない。安全な逃げ場も見つからない。ならば、せめて少しでも状況を理解するための努力をする必要がある。そして、それは命懸けになるだろう。廃屋をすぐに出るべきか。ここに潜むべきか。
「一人が出て、一人残る」
それがフラルの見つけた苦しい答えだった。
「僕が外を見てくる。ここで待ってて」
「行っちゃだめ」
メーサが鋭く言った。
「今、気配を感じたの。……たぶん、兵隊。ストリートの向こうから……」
フラルは驚いて目を見開いた。
「なぜわかるんだ?」
「蛇の髪が教えてくれるの」
彼女の巻いた髪のふた束が首を起こし、威嚇するように左右にうねっている。大層便利な髪の毛だ、などと多少ふざけた調子で思いながら、フラルは廃屋の奥へ進むことを選んだ。クレーン車の駆動音こそまだ聞こえない。が、早急に裏口を探して逃げる必要がある。
「待って」
石造りの部屋を三つほどくぐり、螺旋状の階段が印象的な大広間に到着した時点で、メーサが制止したのと、フラルが立ち止まったのとほぼ同時だった。二人は顔を見合わせた。彼らは、広間のどこかから聞こえてくる、耳慣れぬ息遣いに気づいたのだった。
「誰かいる」
しかし、背後に姿は見えない。フラルが上を見上げたその時。
「ガウウウウ!」
獣のように広間の階段の裏から踊りかかってきたものは、少年だった。バサバサの髪は荒々しく逆巻き、頬は土に汚れ、瞳はぎらぎらと輝く灰褐色。野生児の牙を腕に巻いた鎖で受けとめたフラルは、しかし少年の俊敏な動きに翻弄された。胸ぐらを爪に掻かれ、数歩後退した時には、少年はすでにフラルの背後に跳躍し、噛み付きを仕掛けてきた。
「やめなさい!」
メーサの髪が怒涛の水流のごとくはためいて、少年の全身にすみやかに巻きつくと、その身体を締め上げた。少年はもがいた。彼の両腕にも千切れた鎖があった。鉄がきしきしと音をたてる。蛇はちろちろと舌を出しながら、少年の両肩両膝に食らいつく。
「グウウ……」
少年は唸り声をあげると、蛇の塊に食らいついて、首を小刻みに振った。ちりちりと髪の毛の束が千切れてゆき、黒い飛沫となって辺りに舞った。
(仕方ない。眠ってもらうか!)
フラルは指を力強く屈伸させ、空気を含まぬ鋼並みの握り拳をつくると、少年の横っ面を殴り飛ばした。メーサの黒髪はほどけて収縮し、少年を解放した。少年は引っくり返って大の字になった。風圧でちりちりと鳴っていたフラルの鎖と、少年の鎖とが共鳴した。
(さて、どうしたものか)
フラルは少年をじっと見つめた。彼もまた、逃げてきたのだろう。それもついさっき。かすかだが、この少年のまとう布からは、施設特有の薬品臭さを感じた。フラルは無人の塔からの墜落によって、はじめてこの世界を知った。が、もしかしたらこの少年は、自分との戦闘がはじめて知った外の世界だったのかもしれない。そう思うと哀しかった。何者かはわからなかったが、捨て置けない。
「起きろ!」
フラルは少年を揺さぶった。メーサは心配そうに様子をうかがっていた。
「目を覚ませ!」
意外なことに、少年はすぐに意識を取り戻した。固い頬には、傷さえ残っていなかった。その強靭さ。それは、紛れもなくフラルと同じ、バイオクリーチャーのものだ。
「いてて……」
目をあけて、少年は頬に手をあてた。正気の目だった。
「あー」
と言って彼は慣れた調子で自分のこめかみを叩いた。
「おれはまた、飛んじまったらしいや」
言うと、むくりと起き上がり、フラルの顔をじっと見、その両腕の鎖を見た。同志であることがわかったのか、少年はぎこちなく笑った。笑うと、犬歯がぎらりと光った。
「そうか。おまえがバイオクリーチャー272か」
言われて、フラルは驚きつつも頷いた。
「気をつけな。脱走した反逆者の処刑命令は、もう出てるぜ。で、おれはバイオクリーチャー281」
言ってから、激しい苛立ちの様子でグウッと唸り、言い直した。
「でも、そう呼ばれんのは好きじゃあ、ない。おれはガルだ。ガル ワズノフだ」
フラルは表情のない顔で相手をまっすぐに見つめ、言った。
「僕はフラル モンステル。君と同じく人造人間で、三日前に脱走した」
ガルは訳知り顔で、歯を見せて笑った。
「へ。おまえを見習って、俺も逃げてきた。で、どうだい、先輩? 自由ってやつはよ」
「奴隷をやめてからは、もっと命懸けの生活をしてるけどな」
「ま、そうだろうな」
立ち上がろうとするガルに、メーサが髪の毛を貸しながら、言った。
「私はメーサ ドルドーロ。あんたが知ってるかはわからないけれど、都市伝説の『蛇王女』って私のことよ。理由があって、王宮から逃げてるの。さっきはごめんなさい」
それを聞いても、ガルはさして驚かなかった。喉の奥から漏れるような声でひゅっひゅと笑い、助け起こしてくれた髪の毛の礼を言ってから、言った。
「そりゃいいや。俺も『狼男児』と呼ばれていた。そのわけは、今見た通り。頭に血がのぼると暴れ狼になっちまう。さっきも追っ手とひと悶着あって、止めらんなかったよ。許してくれな。変なあだ名のあるもん同士、仲良くなれそうじゃん、姫様よう」
会話が途切れたその時、フラルは遠鳴りに低い響きを聞き取った。クレーン車の駆動音。そう確信すると、フラルは目を細めて、言った。
「ぐずぐずしてられない。奴らだ」
「おうよ。逃げるとすっか」
「こっちだ」
駆け出す三人。狼男児のガルは断然足が早い。二人を大きく引き離してから、行きつ戻りつして軽口を叩く余裕まである。三人は一気にストリートに出ると、進路を迷う間もなく、右に走った。それが正しいかどうかはわからない。
「ひとつ聞きたい」
とフラルがガルに言った。
「何でえ」
「君はこの街の地下がどうなっているか、知っているか」
「知らねえ。おれはとにかく上を目指して逃げてきた。そしたら廃屋のビルに行き着いた。待ち伏せられていて、戦うことになった。それ以外、わかんねえよ」
「そうか……僕も大体同じだ」
三人は路地を曲がったが、すぐに行き止まりになった。が、迷わない。フラルは壁に手をかけて、ガルは唸り声をあげて地を蹴って、メーサは蛇の髪で壁を這って、十秒とかからずに三人は塀の上に乗り上げ、そのまま住宅の窓の桟を足場にしてビルディングの屋根に乗り上げ、そのまた隣の建物の屋根へと飛び移った。視界が急に開けた。
「連中、これまでにない大人数ね」
とメーサが言った。三人は並んで腰を低くして身構え、敵の様子を見守った。道路を三つ隔てた先を、兵隊が行進している。先の爆撃で黒く煤けた鉄の首長は、厳かに停止していた。ちょうどそちらの方角から、兵隊たちはまるで水が流れるように、道にしたがって二手・三手に別れ、徐々に通り一帯を満たしてゆく。
「この近くに、地下からの出口があるはずだ。やつらはそこから現れる」
実際、フラルの推理は当たっていた。そう遠くない西の一角から、ゆっくりと新たな首長が出現した。彼らには、目分量で正確な距離をはかる技術はない。しかし、首長の振り子鉄球には相当の射程距離があるのは承知済みだ。ぐずぐずしていては手遅れになる。
「奴らのルートを塞いで、あの機械の進軍を止めないことには……」
フラルが言えば、メーサが訊き返した。
「でも、どうやって?」
三人の間に、しばし思案の沈黙があった。ガルがふとフラルに訊いた。
「今のとこ一体。ぶっ壊せるか」
「単体なら」
とフラルは即答した。
「けれど、行き先までに兵士が多い。並の銃弾ならしのげるが、場合による」
その答えに満足したような顔を見せると、ガルは思いもよらぬことを言い出した。
「俺が一番速い。おとりになれる。そして、おまえが一番強い。ようし決まりだ」
「ちょっと待ってよ」
とメーサが強い眼差しで言った。
「私の蛇は使わないつもり? 置いてけぼり?」
「君は連中に狙われている」
とフラル。しかし、狼男児のガルは喉の奥で低く笑って言った。
「おまえの髪が盾、俺の牙が剣ってとこでどうだ?」
「悪くないね」
彼女が答えたその時、眩しい照明の灯りが突然夜を灼いた。灯りは一つ手前の通りからも無数に立ち上がり、屋根をじりじりと照らし出してゆく。と、メーサの髪がざわめいて、地に付いて余るほどの長さになり、そのままゆらりと彼女の身体を持ち上げた。と、地上のストリートに、一個小隊がなだれ込んできた。
「下はだめだ」
フラルが言った。メーサは動ぜずに答えた。
「わかってる。上も下も危ないから、その間を通るのよ!」
蛇は驚くほど滑らかに少女の体を運んだ。彼女本人は空中で足を楽にくずしたままに、蛇の髪はそのまま壁を伝い降りてゆく。蛇たちがバルコニーと螺旋階段の鉄筋に絡みついて、規則的に動き出したサーチライトの盲点箇所に落ち着くと、彼女はちらとこちらを見、二人を手招きするように一匹の蛇がちろちろと舌を出してこちらに首を振った。
フラルはその様子を見ながら、もうたぶん何があっても驚かないだろう、といった諦めの心地で、ビルディングを飛び降りると、向かいの無人住宅の煉瓦に指を這わせ、壁に張り付いた。ガルはバルコニーに飛び降り、すぐさまフラルのいるすぐ隣の窓の桟に飛び移り、フウッと息を吐いてから、言った。
「じゃ、作戦開始だ」
フラルが止める間もなく、狼男児は腰をかがめて跳躍した。
「待て!」
しかし、狼の遠吠えはすでに石像建築を揺るがさんばかりの勢いで天に放たれた。ざわめきが生じた。兵士が一斉に動く気配を見せる。
「グァァルルル……」
人が蹴倒され、怒号を放ち、そしてもつれ合う大騒音の中、獣は唸りをあげながら人の群れを離脱し、ザスザスと砂煙を巻き上げて疾走を開始する。銃弾の音。しかし人造の狼の脚力の前にはその火花は無力だった。兵士たちはすでに隊列を乱されている。
「馬鹿な……」
フラルは瞳を震わせて、進退を迷った。ガルはそのまま向かい通りにいる連中まで引き付ける気だろうか。さすがの彼でも、そんなことは不可能だ。
「フラル! クレーン車をとめて!」
叫んだのはメーサだ。向かいのビルの屋上に上り、サーチライトの逆光で無数の蛇をまとった少女の異形な輪郭が映し出されていた。サーチライトは彼女に集中してゆく。銃撃が吹き荒れる。しかし、蛇は俊敏に彼女を運び、矢と銃弾はことごとく少女に当たることがない。ビルからビルへと少女は光とともに移ってゆく。その様子を確認すると、フラルは意を決して駆け出した。
「イチかバチかだ」
照明の光同士は折り重なり、深い闇の断層がその横に生じた、そこを駆け抜け、ストリートをひとつ飛び越える。と、地上で狼の遠吠え。ライトの回転。光のゲートは再び開き、闇への入り口が少年を受け入れる。そしてまた、ストリートを飛び越える。鉄の首長が近づいてゆく。フラルは吠えた。鉄の竜はゆるりと回転を開始する。両者は対峙した。さながら竜と鬼の一騎打ちだ。フラルは両足で乗り上げた屋上のフェンスを蹴り上げると、一気にクレーン車へと猛進した。迫り来る振り子鉄球。軋む鎖が生き物のように鳴いた。
少年は身を前につき出した。が、拳が届くより早く、足を鎖綱に打たれる。首長の回転は想像以上に早い。風圧で一度は宙に投げ出された彼の肉体はしかし、すぐさま方向感覚を取り戻し、時計塔の屋根に着地する。再び首長は揺動する。振れ戻る鉄球。一度は空振り。が、二度目は正確に時計塔を目指してくる。
(時間がない)
フラルは仲間のことを思った。蛇王女と狼男児。異形の仲間たちが今、火の嵐にさらされているのだ。彼は意を決すると、それを避けぬ、という選択をした。
「止まれ!」
彼の両腕は鉄球を受けた。腕が軋む。骨が鳴る。足場が崩壊してゆく。彼は呻いた。しかし、手に渾身の力を込めて、鉄球を押し返した。球がへこみ、両手がめり込んだ。
やがて、鉄球は静止した。少年は、半壊する時計塔の、むき出した鉄骨の上で微かに笑った。邪悪の笑みだ。バイオクリーチャー272は、勝機を見出した。
「今度はこちらの番だ」
彼は渾身の力で鉄球を蹴り飛ばした。轟音を上げて墜落してゆく鉄球は、鉄の首長の胴体めざして、隕石さながらに燃え上がり、回転しながら空を裂いた。爆発音。鉄の首長は陥落してゆく。ぐずぐずと。ばらばらと。音立てながら怪物の巨体は圧壊してゆく。
フラルは跳んだ。目指すは半壊の巨大クレーン車の首。その冷たい表面を蹴りつけると、その反動で宙に身を投げた。鉄の首長は激しく傾斜した。彼が着地点を見出すよりも早く、辺りは再びの大爆発に呑み込まれ、その風圧で彼は方向を失った。いくつもの建物を越えて、彼の身体ははね飛ばされていった。地下と地上を結ぶ接点がある通りそのものが崩壊してしまっては、兵士はこれ以上援軍が通ることは不可能だ。フラルはやがて遠くなる意識の中で、背中を石の壁に強く打ちつけられたのを感じると、そのままゆっくりと目を閉じた。炎のまばゆい光が瞼を透かし、ほのかに青く映った。青空の色を見た気がした。しかし、彼にはもう、そんな印象を咀嚼する力が残っていなかった。
少年は、沈黙した。しかし、それはたしかな勝利を携えての沈黙だった。