星空のミシェル
Prequel Ⅱ Cross――19才
Part Ⅰ
惑星ルチーナクロス。その首都であるブレーンワルトは銀河系髄一の学園都市だった。俗に銀河中央大学と呼称されているこの大学は、6つの専門大学及び研究所から成る総合教育機関である。ただし、基礎科目は全大学共通で、他の科目についても相互の大学で自由に受講することが出来た。つまり、一つのユニバースと言っても問題はない。
ここには、銀河系のあらゆる星から選抜された優秀な学生達が集っていた。ありとあらゆる専門学部と学科があるこの大学で専門知識を学び、それぞれの星で活躍する人材を育成するのだ。
僕は8才で入学し、以来11年。すべての学部を履修した。そんなことをする必要はなかったのだけれど……。僕はずっと答えを探していた。唯一無二の答えを……。そして、それは今も見つかっていない。しかし、僕はもうここを出なければならなかった。次の僕の誕生日。僕が二十歳になる前に……。
「おい、聞いたか?ザウバー教授が辞表を出したって……」
「ああ、知ってる。授業で、新入生に論破されたってあれだろ?」
「すげえな。そいつ、まだ14才の子供だっていうじゃないか」
「ミシェル以来の天才児出現か」
学期半ばでの退職。表向きは体調不良だということだったが、学生達の間では公然の秘密としてあちこちで囁かれていた。学生に論破されるなど教授にとっては屈辱だろう。しかし、ザウバー教授に対しては僕も思うところがあって、一度議論し、彼の論を根底から覆してやったことがある。僕がその学部に席を置いていた15才の頃だ。
彼は経済学を専門としていたが、古典学派の資本論さえ全うに理解していなかったのだ。教育者としての資格を疑うようなレベルだった。だから、僕としては教授が辞職に追い込まれたと聞いても当然のことと受け止め、特に感情を動かされることはなかった。実際、多くの学生がそう感じていたようだ。彼は知識だけでなく、評価についても不正を働いていたのではないかという疑惑を持たれていた。ひいきもしていた。敏感な学生達はそんな空気を悟り、彼を嫌っていた。つまりは自業自得の結果だったのだ。
それはともかく、僕が感心を持ったのはその教授を論破したという学生の方だった。
「それで、その学生ってのは誰なの?」
「確か経済学部のルディオ クラウディスとか……」
「ルディオ クラウディス……」
僕はその学生に会ってみたかった。しかし、そんな機会はなかなか訪れなかった。学内は広く、僕達はお互い、アクティブに動き回っていたからだ。特に彼はスキップ(飛び級)してきた子だ。僕もそうだったのだが、そういう場合、幾つかの学部を履修したいという希望を持っていることが多い。結果として複数の学部を掛け持ちするか短期集中の方式で独習し、論文と試験のみで単位を取得する。そして、興味の追求に追われ、他のことに費やす時間などほとんどなくなる。
大半の学生は一つの学部を18〜22才まで4年間掛けてじっくり学ぶのだが、それを僕達は駆け足で超えていく。多くの学生達からすると、スキップ組というのは特殊な者として見えるのだろうか。差別的ではないけれど、やはり何処か態度がよそよそしい。それとも僕がそう感じているだけだろうか……。もう随分長く大学にいるのに、僕には特定の友人ができなかった。どんなに親しく会話している時も冗談を言って笑っている時も、僕は距離を感じていた。それは年々強くなっている。今ではもうすっかりそんな状況に慣れてしまったのだけれど……。
特に僕の場合は別の事情もあった。僕は惑星メルビアーナの皇太子。公的な人間であり続けなければならない。そのためには自分自身の欲求は抑えねばならなかった。特定の誰かを愛したり、肩入れすることは禁じられている。王となったら、誰にでも平等な愛を注がなければならない。それは僕にとって決して苦痛ではなかった。でも……。違和感を招くのはそれだけが原因じゃない。本当は何もかもわかっているのだ。みんなが僕を避ける本当の理由を……。
「それじゃ、ミシェル、あとはお願いしますね」
養護教諭であるキエナ先生はそう言って医務室を出た。医師の資格を持っている僕は空き時間の間、医務室に詰めて養護のボランティアをしていた。ここには22万人もの学生がいて、学内にも総合病院があったが、そことは別にクリニックとして機能している医務室と呼ばれる場所が複数設置されている。今日はその一つであるリンデンクリニックに来ていた。
ノックの音が響いた。
「どうぞ」
僕が答えると細くドアが開いた。複数の人影。けれど彼らは僕の顔を確認すると互いに顔を見合わせ、慌ててドアを閉めた。
「すみません。大したことなかったみたいなので帰ります」
背後では囁き超えが聞こえている。
「ミシェルだ。まずいよ。今日はよそう」
立ち去っていく靴音を聞きながら、僕は窓の外を見つめた。中庭へ続くグリーンの絨毯……。放物線のような影がそこに敷かれた緑の陰影を深めている。僕では何がまずいというのか? グリーンの影の中でさざめいている鳥のように学生達が群れている。
毎年17%の学生は入れ替わっていくけれど、僕はここに長く居過ぎた。確かに僕はこの大学では有名人であり、知っている者は知っている、そんな存在ではあった。だから、僕に挨拶してくる者は多かった。けど、対等に話せる者がいない。大抵の者が媚を売り、そうでなければ恐れていた。でも、何故……? こうして医務室にいる時でさえそうだ。担当が僕だと知った途端に頭痛や腹痛やちょっとした病気が治ってしまったと言うのだ。キエナ先生は笑って言った。
――どうせサボリだから気にすることないわよ
――サボリ?
――どうせあの人達、ミシェルには仮病がきかないと思って逃げ出してるだけなんだから……
キエナ女史は笑う。でも……何故、僕だと仮病がきかないなんて思うのだろう。僕はそれが知りたかった。
――だってほら、あなたって万能だから……
万能……? その言葉が妙に心に引っ掛かった……。
――あなたには不可能なことなんかないんじゃないかしら?
「違う……」
喉につかえたその言葉を取ろうとしたけれど、それはするりと僕の手を抜けて心の深淵に落ちていった……。
その時、再びノックの音がした。
「どうぞ」
僕が返事するとドアが開いて背の高い男子学生の姿が見えた。彼は一人だった。
「どうぞ。入ってきて」
「ちょっと来てくれ」
日焼けした肌に精悍そうな黒い瞳。漆黒の髪は少し長く、肩の辺りで軽く結わえている。フットボールか何かの選手だろうか? 学内のサークルで目ぼしい学生の名,前は大抵知っていたけれど、僕はこの学生の顔を見たことがなかった。
「来て欲しいって? 誰か怪我でもしたの? それとも具合が……」
見ると彼の左手の袖口から血が流れていた。
「君も怪我をしてるじゃないか。さあ、入って。手当てしなきゃ……」
僕は彼の手を引っ張った.
「平気だ。それより……」
彼は拒んだ。でも、僕は放さなかった。
「駄目だ。ここでは小さな傷でも注意が必要なんだ。化膿性のウイルスにでも感染したら大変だからね。君、ワクチンは打ってある? さあ、そこに座って」
強引に部屋の中に入れる。彼は渋々承知すると僕が勧めた椅子に腰掛けた。彼が腕を突き出したので白いシャツの袖口をめくると、複数の傷から血が滲んでいた。
「何か鋭い物で擦過したようだね? やっぱりちゃんと手当てしておかないと……」
そうして僕が消毒薬を塗布していると再びノックの音がした。だけど、中にいるのが僕だけだとわかると学生達はまた、あたふたと逃げ出した。もう何度こんなことを繰り返したろう。僕は万能じゃないというのに……。
「はい。君のはこれでOK。それじゃ、行こうか。他にも怪我人がいるんでしょう?」
彼は落ち着いた様子で袖口のボタンを留めると、じっと僕を見つめて言った。
「おまえって、そんなに下手なのか?」
「え?」
「さっきの連中、担当がおまえだとわかると逃げてったじゃないか」
「ああ……」
僕はため息混じりに言った。
「何故だろう。嫌われてるのかな? 僕……」
窓から陽射しが降り注いでいた。そして、何もかもが清潔なこの部屋をくっきりとした線で浮かび上がらせる。白い薬品戸棚には大小様々な容器に入れられた薬が並び、コンピュータのモニターが衛星から送られた最新のトピックを表示している。
「それとも、信用がないのかな?」
僕は僅かに苦笑した。
「……名前を偽ったりしてるからだろ?」
彼は視線を逸らさずに言った。
「偽ってはいないよ。ミシェルは僕のサードネームだ」
僕は返した。けれど、彼は動じない。獣のような鋭い目で僕を直視してくる。彼は知っているのだ。僕の素性を……。
「君がルディオ クラウディス……?」
僕は訊いた。直感的にそう思ったからだ。
「ああ」
彼は、僕が想像していたよりずっと強烈な印象を持っていた。
「驚いた。それじゃ、君は14才?」
「ああ」
とてもそうは見えなかった。18、いいや二十歳だと言っても通りそうなくらい顔立ちも体型も大人っぽかった。
「君とは一度話してみたかった」
僕が笑い掛けると彼もにっと微笑する。
「おれもだ」
彼はまるで物怖じしなかった。堂々とした態度でこちらを見返してくる。
「ザウバー先生を辞任に追い込んだのは君だと聞いたよ」
「あんな者はくずだ。ここにいるだけ無駄だ」
彼は切り捨てるように言い放った。
「なかなか手厳しいね。僕はちゃんと教授の逃げ道を用意しておいてやったのに……。どうやら君は容赦なかったとみえる」
鋭利な刃物のような危険な輝きを持つ少年だった。でも、危険だからこそ美しい……。純粋無垢な心……。
「当たり前だ。潰す時には徹底的に潰す。中途半端はためにならない」
青白い炎のようなクールさで彼は宣告した。
「僕のやり方が甘いと言うの?」
そう訊いてみた。
「ああ。甘いな。まるで砂糖漬けの甘辛トンボだ」
僕は苦笑した。
「参ったな。でも、そんな風に肩肘張ってばかりでもいけないよ。心は自分が思うより遥かに繊細に出来ているんだ。大事にしないとあっという間に壊れてしまう」
「硝子細工で出来ているとでも言いたいのかい? 生憎、おれのは特製の鋼鉄で出来てるんでね。心配無用さ」
「ルディー……」
彼は僕とはまるでタイプの違う人間だった。しかも彼はまた別の意味で星を支配する者になる。すべてはまだ未知数のまま、無限というシンボリックなメタファーが宇宙を漂っていた……。
「何処に行けばいい?」
取り合えず、困っている人がいるのなら助けなきゃ……。僕は彼のあとに付いていった。
中央政治学部の2号館と地学研究室R−12号館の間を抜けて広い中庭に出た。緑の芝の絨毯とそこここに配された樹木と季節の花々。夏は木陰に配されたベンチでランチをとる学生も多い。しかし、今日はそれが目的ではない。そして、彼は並木のように植えられた木々の脇を通り過ぎ、道のない斜面へと降りて行った。そこはかなりの急斜面。雑草が茂り、落ち葉などが重なって足元が悪い。まさか人が落ちて……。10メートルほど先は崖になっていた。あんな所から落ちたら……。
「ルディー、呼ぶなら僕じゃなく、救急隊の方がよかったんじゃないか?」
僕は周辺に怪我をした人がいないかと注意しながら進んだ。
「いた」
突然、ルディオの足が止まった。
「何処?」
僕は急いで周囲を見回したがそれらしき人影はない。
「この上だ」
彼は高い木の枝を指差した。僕はじっと目を凝らして見た。でも、やっぱり何も見えない。風に吹かれて大きな楕円形の葉が幾重にも重なって揺れているだけだ。でも、僕が何か言う前に彼はヒューッと口笛を吹いた。
「おれだよ。降りておいで」
すると茂った葉がカサカサ動いて何かが顔を覗かせた。
「猫?」
「ああ……。怪我をしてるんだ」
しかし、ここからでは状態がわからない。それに……。
「僕、獣医学は専門外なんだけど……」
「出来るだろ? 傷に消毒薬塗るだけなんだから……。それに」
そう言って彼は悪戯っぽく笑って言った。
「おまえなら何だって出来る。そうだろ?」
「誰の受け売り? 買いかぶり過ぎだよ」
僕はどうしたら猫を木から下ろすことが出来るのか考えていた。と、思った瞬間、ひらりと猫が飛び降りてきた。
それは茶と白の縞模様の猫だった。怪我をしているのは左耳。恐らく雄同士のトラブルか縄張り争いか何かだろう。背中としっぽの先にも血が付着していたけれど、傷口ではなさそうだ。僕は消毒薬を持って近づこうとした。が、猫は威嚇モードで寄せ付けない。
「おいで」
ルディーが出した手に向かってフーッっと嵐を吹いた。どうやら彼の手に出来た傷はこの猫にやられたものらしい。
「無理だよ。これじゃ近づけない。無理強いしても君の傷が増えるだけだよ」
「でも……」
彼は諦められないようだった。猫は警戒し僕達に敵意を剥き出しにしている。少し離れたところからスプレーで吹き掛けてみようか。いや、駄目だ。そんなことをすれば飛沫が目に入ってしまう。それにますます猫を驚かせてしまうかもしれない。何かいい方法は……。
その時、彼が唐突にポケットから何かを出した。
「フード?」
彼が頷く。それから彼は手にしたそれらを猫の前に撒いた。木の幹の背後からじっとこちらの様子を見ていた猫がくんくんと鼻を鳴らす。猫は警戒していた。餌と僕達とを交互に見ている。
「大丈夫だよ」
彼が言った。穏やかな微笑だ。人間には厳しいのに、動物にはやさしく出来るんだ。そんな彼に木漏れ日が差し込む。強くしなやかな心と肢体……。それは自然の中にあるたくさんの木の中で一際太くがっしりと枝を張っている巨木のように逞しく見えた。僕より5つも年下なのに、彼は肝が据わっている。そんな気がした。
ふと見ると猫は餌を食べている。僕はガーゼに消毒薬を染み込ませるとそっと猫に近づいた。が、寸前のところで猫がフーッと怒って爪を立てた。僕は慌てて手を引っ込めた。が、彼がそれを捕まえて言った。
「おれが押さえてるから早く」
彼が胴を掴んだ。
「わかった」
僕は傷ついた耳の付け根にガーゼを当てた。耳は半分ちぎれかけていた。が、これで化膿はしなくて済むだろう。薬が染みたのか猫が暴れ、ルディーも手を放した。猫はさっと何処かへ駆け去った。でも、ルディーはうれしそうだった。
「ありがとう」
彼は笑ってそう言った。その顔には少し幼さの片鱗が残っていた。
「どういたしまして」
僕も笑って頷いた。
結局、僕が来たところで大したことは出来なかった。なのに何故彼は僕をここへ連れて来たかったのだろう?
「ミシェル」
歩き始めた僕を呼び止めて彼が言った。
「何?」
僕が振り向く。
「手……血が出てる。さっき引っ掻かれたのか?」
「え?」
左の手の甲に掻き傷が出来ていた。それはまるで赤いインクで書いた一本の線のようだった。そこからじわじわと滲んだ液体がラインを膨張させていく……。赤く、太く、くっきりとしたそれはやがて面となり、僕の視界のすべてを奪っていった……。
緑の匂いがした。草や葉や甘い蜜の花の香り……そして、忌まわしい呪いの緑の血の香りが……。
――この子は緑の血の継承者だ
――呪いの血だ
――いいや。星の命運を決める賢帝の誕生だ
封印された記憶の底で静かに波紋が広がっていく……。
――呪われし緑の血の子供……
産まれて間もない僕を取り囲んで、白衣を着た者達がざわめいている。繰り返し頭の中で再生されてきたビジョン……。
――いやだ……!
ずっと心の奥に引っ掛かっていたもの……。
医学の勉強を始めた時、僕は片端から文献を紐解いて同様の症例がないか探した。しかし、どの医学書を読んでもそんな症例は見つからなかった。ヒトの血液は赤い。それはヘモグロビンが酸素と結びつくことでそう見えるのだ。緑の血を持つものは一部の節足動物などに限られている。が、そんなある日。特別な許可がなければ回覧出来ない地下の書棚で僕は見つけた。
そこには貴重なデータが示されていた。過去に行われた実験のせいでヒトの細胞が変異を起こしたこと。その一つに血液の色素が緑色に変化するという症例があった。「サルフヘモグロビン血症」である。緑といっても植物のように鮮やかな緑ではなく、深い緑色に変化する。ヘモグロビンが酸素と結びつくのではなく、硫黄族物質と結びついてしまい、酸素の運搬が出来なくなるという障害だ。原因としては、ある種の薬物の過剰摂取による突発性のものと、特別変異による先天性のものとに分類される。先天性のうちでも特に先の実験による遺伝子損傷によるものは「グリーンブロッド症候群」と呼ばれ、区別されている。
しかし、最近では特効薬並びに遺伝子修復の技術が向上したため激減し、症例はほとんど見られなくなった。治療は先天性の場合は速やかに骨髄移植を行い、血液交換を施す必要がある。薬物治療が有効に働く。予後は良好。観察期間5年を経て99%が完治する。僕はその先天性グリーンブロッド症候群だったに違いない。
地方の惑星では、そのような子供が産まれると不吉だといって処分されたり、差別を受けたりと不遇な扱いを受けたこともあったようだ。しかし、メルビアーナでは幸いなことに、呪われた血と恐れられながらも、一方では賢帝になる気質を備えている者として崇められてもいた。あまり過剰な期待は困るが、そのせいで僕は大切にされてきたのかもしれない。最もそれを未だに忌み嫌い、根強い反対派もいなくはなかった。が、それと王の選定とは別の次元のことだ。ともあれ、今では、僕の血は皆と同じように赤い色をしている。が、それでも、僕は自分自身の血を見るのが怖い。たとえ今は他の人と同じ赤い色素を持っていたとしても、内側から湧いて出る緑の呪いを払拭することは出来なかった。たとえそれがどんなに小さな傷口だったとしても、その呪いを外部に放出することを僕は拒んだ。
目覚めると、そこはクリニックのベッドの上だった。傷は止血シールで覆われていた。
「ルディー……?」
僕は慌てて半身を起こして周囲を見た。が、そこには誰もいない。
「彼がここまで運んでくれたのかな?」
14才といえども、彼は僕より背が高く、体格もよかった。しかし……あそこからは大分距離がある。僕はベッドから降りると窓を開けた。爽やかな風が部屋の中を通り過ぎる。刈り立ての芝生の匂いがした。ピンと張った緑の先端が光る。何でもないことなのに、不吉な空気を感じ取った心のセンサーが僕に内側から警告を伝えていた。植物の匂いは嫌いじゃない。なのに、何故だか空気が妙に冷たく感じた。僕はそっと窓を閉めてドアの方を見た。扉の硝子に影が映っている。ルディーか……?ノックの音が響いた。
「どうぞ」
背の高い男。しかし、入って来たのはルディオではなかった。
「エルバ」
彼はメルビアーナの軍人だ。僕が10才の頃から護衛を担当している。
「ご無事ですか?」
エルバの頬は若干青ざめて見えた。
「ご無事も何も、ほらちょっと手に引っ掻き傷が出来ただけだよ。でも大丈夫。誰かがちゃんと手当てしてくれたみたいだし……犯人は猫だから……。ひょっとして僕をここへ運んでくれたのはエルバだった?」
「いいえ」
彼はきっぱりと否定した。
「それじゃ、やっぱりあの子なのかな?」
僕は状況を頭の中で整理した。
「ミシェル……あの者に近づいてはいけません」
突然、保護者のような口調でエルバが言った。
「あの者って……?」
僕が聞き返す。
「ルディオ クラウディスのことです」
循環しない空気のような静けさで彼は言った。
「何故?」
僕も静かに聞き返す。
「人間にはきついけど、猫にはやさしいんだ。いい子だよ」
僕は微笑した。けれどエルバは背筋を正して言った。
「彼は能力者です」
「能力者?」
それは意外な返答だった。
「能力者っていうとテレパシーとかテレキネシスとかが使えるっていう……。つまり、超能力者のこと?」
「はい」
エルバは頷き、一言説明を加えた。
「しかも彼はテレポーターです」
「テレポーター? そいつは便利だ」
僕はどういう原理でそれが出来るのか考えてみた。空間を捻じ曲げて飛ぶものなのか、それとも瞬時に体を原子分解し、出現地点において再度構成し直すものなのか。人工的に行うワープ航法との差は? 果たして人は何処まで飛べるものなのか。その限界は何処にあるのか。起こる現象に対して科学はまだ追いついていないのだ。
「証拠は?」
僕は訊いた。
「あなたを連れてここへ瞬間移動しました」
「僕を連れて?」
驚いた。資料だけなら見たことがあった。テレポーターの存在も知っている。しかし、それはほとんどの場合、能力者本人のみの移動に限られていた。他人を連れての移動なんて聞いたことがない。彼は優れた超能力者なのか……。いや、何よりも、僕自身そんな貴重な体験をしたというのに意識を失くしていたということが、あまりに残念でならなかった。空間を飛ぶとはどういう感じなのだろう。痛みはないのか? 熱いとか冷たいとか温度は感じるものだろうか。それに……。訊きたいことが山程あった。が、エルバが僕の思考を遮った。
「今後一切彼に接触することを禁じます」
唐突な提案だった。
「何故?」
僕は納得がいかなかった。
「危険だからです」
エルバの答えは説得力に欠けていた。能力者が必ずしも危険な筈はなかったし、それが彼だから危険だという道理もない。発光パネルの照明は千分の一の揺らぎもない。均等に映す影を従えてエルバは凛としてそこに立っていた。
「でも、危険じゃないかもしれないでしょう?」
僕は言った。
「彼は好戦的な性格です。父親と同様に……」
エルバはこほんと軽く咳払いすると、軍人らしく襟を正して言った。
「クラウディスに近づくことは、あなたにとって、いいえ、メルビアーナにとって得策ではありません」
静かな声だったが、瞳には有無を言わさぬ鋭い光を称えている。
「はじめてだね。君が僕の友人について口出しをし、制約を掛けてくるなんて……」
モニターからは田舎の星ののどかな祭りの様子が流れていた。手書きの文字で書かれた願いを子供達が植物の細い枝にくくり付けている。
「あと2ヶ月で大切な日をお迎えになるのです。どうぞお控えください」
恭しい口調でエルバが言った。モニターに映し出された願い……。
「いやだと言ったら?」
僕は告げた。
「何ですって……?」
青い星型の飾りに、僕は心で書きつけた。
「僕の友人は僕が選び、僕が決める」
「ミシェル……あなたともあろうお方が、そんな……思春期の子供のようなことをおっしゃらないでください」
エルバは困惑していた。それはそうだろう。僕はこれまでずっといい子だった。でも、これだけは譲れない。
「反抗期は子供の成長にとって必要なものなんだ。けど、僕にはそれがなかった。あと2ヶ月したらそれも出来なくなる。だから、今、まとめて反抗しておくよ」
「王子……!」
彼の表情が強張った。が、僕は動じず、ぴしゃりと言った。
「命令だ。今すぐここを出て行け!」
僕は右手を突き出した。エルバは呆然とした顔で僕を見つめた。そして、数秒の沈黙のあと、彼は頭を下げた。
「……わかりました」
エルバは形だけの敬礼と共に踵を返し、硬い靴音を響かせて医務室を出た。
僕は窓を大きく開くと肺に溜まっていた息を吐いた。そして新鮮な空気を思い切り吸って、肺の中を酸素で満たした。それからその窓枠を乗り越えて外に出た。ここは1階。中庭に続く花壇を突っ切ると前方の人影に向かって手を振った。
「ルディー!」
彼も僕に気がつくと僅かに右手を上げた。彼と話がしたかった。危険? そうじゃない。彼は僕と同じ……孤独な星を旅する者……。僕は感じる。運命に誘われ、出会った二つの魂の交流が今、始まろうとしているのだということを……。
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