星空のミシェル
Prequel Ⅱ Cross――19才

Part Ⅱ


「さっきはありがとう」
僕は生化学教室の脇にある庭園にいたルディーの所まで駆けて行って礼を言った。そこには大小様々なプランターに色鮮やかな植物が植えられ、つる草が絡んだ棚からは赤や黄色や紫の実が鈴なりになっている。
「傷の手当をしてくれたのは君だね?」
僕がそう言うと、何故か彼は少し気まずそうな顔で頷いた。
「止血テープを1枚貼っただけだ」

上空で反射する絶妙な光のモザイクの下で彼は珍しい生き物でも観察するようにじっと僕と手の甲のテープを見つめた。恐らく、あのことを聞きたいのだろうと察しは着いた。だから、僕は先回りして答えた。
「僕は血が苦手なんだ」
しかし、彼は納得いかなそうな顔をした。風に乗って球技を楽しむ学生達のはしゃいだ声が聞こえてくる。隔てられた柵の向こうでは何人かの学生が測定器を持って印を付けて回っていた。

「何故……? おれや猫の血を見ても動じなかったくせに……」
ルディーがぼそりと呟いた。もっともな疑問だ。
「僕、自分の血に関してだけ駄目なんだ。だから、他人の怪我の治療をしたり、手術をしたりするのは平気なんだよ。そうでなければとても医者の資格なんか取れないでしょう?」
僕が説明すると、ルディーは正面から僕を見つめた。彼の黒い瞳に僕と空が映り込む。
「変わってるな」
と、彼は言った。けれど、それきりその話題には触れようとしなかった。彼は黙って視線をずらし、空だけを見つめる。何処までも透き通ったコバルトの空を……。しかし、この空は人工的に作られたものだ。気候変動の激しいこの星では、人が快適に過ごすために改良が必要だった。中には、そんな自然を活用し、上手く産業を発展させた街がないわけでもなかった。が、多くの街ではこの人工の空と気象コントローラーのシステムを取り入れている。

ルチーナクロスの首都である、ここ、ブレーンワルトでは当然システムを起用していた。そして、その気候は温暖で過ごしやすいように設計されている。が、季節の変化が堪能できるようにという工夫や配慮も忘れてはいない。僕は腕時計を見て言った。
「ここにいると風邪を引くよ。あと30分で雨が降り出す」
「雨?」
「聞かなかったの? 明日の明け方4時30分まで、気象科学部が大気イオンと降雨量についての実験を行うから室外に出る者は注意するようにって……」
「実験? そんなものは郊外でやればいいのに……」
「そうはいかないよ。実験に際しては、本来あるべき自然に負担や影響を与えないよう、十分に配慮しなくてはいけない。惑星の環境を破壊しないよう、最低限のルールを厳守しなければならないんだ。開発して人が移住できる地域はその星の陸地の6分の1以下に限られている。君だって知っているだろう?」

そう。人が宇宙へ乗り出した時、こぞって乱開発をした結果、強引な掘削と改造によって幾つもの惑星を失ってしまった。人類にとっては苦い経験だった。母なる星、地球にしてもそうだ。未熟な時代に原子力を扱ったせいで、未だに一部の地域では放射能汚染という重大な問題を抱えたままでいる。が、それでも、人は何度も過ちを繰り返す。何故そうも頑なに過去の経験を活かそうとしないのか? 僕にはまるで理解出来なかった。
「行こう」
僕は言った。西の空からゆっくりと雨雲が湧き出している。もうすぐ実験が始まるのだ。


僕達はクリニックの隣の小部屋で休むことにした。ここなら誰にも邪魔をされることはない。キエナ先生が戻るのは7時過ぎ。それまで患者が来なければ、僕はここで自由に過ごせるというわけだ。
「何か飲む? 僕はココアにするけど……」
「ふん。お子様の飲み物だな」
「コーヒーもあるよ」
「それじゃブラックで」
彼が言ったので、僕は自慢の助手を呼んだ。
「チャラ」

奥から直径73.9センチの円柱に卵を横に乗せたような赤いロボットが床を滑ってやってきた。その両脇からはほぼ人間の手に相当する仕事ができるアームが伸びている。卵の部分には一応ランプ系統が人間の顔に模して並んでいた。
「私の名前はツァラトゥストラ。チャラなどというふざけた名前ではありません」
ロボットは不平そうに緑や黄色のランプをチカチカさせて言った。人工頭脳を組み込んだそのロボットのボディーは鮮やかな赤い色をしている。3年掛けて完成させた僕のスーパーロボットだ。
「飲み物を頼むよ。僕はいつものココアで。ルディオにはコーヒーをブラックで」
無視されたのでチャラは怒ってBYUBYUというノイズのような音を立てた。が、いつものことなので僕は無視した。それでも、仕事は完璧にこなす。きっかり12.5秒で僕達の飲み物を用意した。

チャラの身長は123センチ。体重は119.5キログラム。あらゆる機能を組み込んだ万能タイプだ。その胸の辺りにあるスライド扉が開いてカップが2個出てきた。それを器用にアームで掴むと彼と僕の前の机に置いた。
「どうぞ」
「こいつはおまえが作ったのか?」
「ああ」
ルディーは興味深そうな顔をしてチャラを見ている。

「ルディオ。私のことが気になるのですか?」
チャラが訊いた。
「へえ。人間に質問してくるんだ。そうだ。おれはおまえのことが気になっている。おまえ、さっき自分のことをツァラトゥストラと言ってたろう?」
「はい。私の名前はツァラトゥストラ。哲学するロボット」
「哲学だって?」
「はい。私は人間のように考えます。そして、人間のように悩むことも傷つくこともあれば、喜びを感じ、愛することさえ可能なのです」
「おまえをつくったのは誰だって?」
「ミシェルです」
チャラは得意そうに喋った。人工音声は滑らかだ。僕としてはまあ満足のいく出来だと思っている。でも、当のチャラはそうでもなかったらしい。

「でも、彼は私の名前をいつも正しく呼んでくれません。チャラなどとふざけたあだ名で呼ぶのです」
「ツァラトゥストラなんて名前よりずっといいじゃないか」
と、ルディーは言った。
「何故ですか?」
チャラは不満を表明する。
「それを書いた奴は気がふれていたんだ」
そう言って彼はカップからコーヒーを飲んだ。チャラは彼の言葉に衝撃を受けたらしく、一瞬の沈黙ののち、いそいそと奥の部屋へと引き上げていった。

「僕も、君に質問があるんだけどな」
一口だけ飲んだココアのカップを机の上に戻して言った。そのカップからはまだ熱い湯気が立ち上っている。
「さっきはどうやって僕をここまで連れてきてくれたの?」
「抱えて」
「宇宙船のようにワープしたのかい?」
「わかってるなら訊く必要ないだろ?」
彼は残りのコーヒーに口を付けて言った。
「残念ながら覚えていないんだ。だから訊きたいんだよ。どんなだったのかなって……」
「どんなって?」
「原理をさ。何故、人が瞬時に空間を跳ぶことができるのか」
「さあ」
彼は僅かに首を傾げてカップの中の液体を見た。そこにあるのは漆黒の宇宙……。

次の瞬間。彼は残りのコーヒーを一気に飲むと席を立った。
「ありがとう。美味かったよ」
「待てよ。それじゃ答えになってないだろ?」
部屋から出て行こうとする彼を僕は止めた。
「でも、他に言いようがないから……」
「え?」
「原理なんか知らない。気がついたら、跳べるようになってた。それだけ……」
「ルディー……」
僕はまだ彼と話がしたかった。しかし、彼は一瞬だけ僕を見てすぐに踵を返して行ってしまった。
「ミシェル、ココアのお代わりしますか?」
チャラが訊いた。
「いや、今日はいいよ」
そう答えるとロボットは二つのカップをさっと取って洗浄を始めた。


次に僕が彼に会ったのは競技場だった。夕食前の自由時間には様々なサークルが活動している。授業や研究のコマが入っていない学生が中心になって行っている自由参加型のクラブだ。競技場の周りでは常に学生達の活発な声が響いていた。が、それにしても、その日は尋常でない数の学生が集まっていた。彼らは興奮し奇声を発したり盛んに腕を振り上げたりしていた。試合でもないのにこの人だかり。
「何があったの?」
僕は通りすがりの学生を捕まえて訊いた。
「フェンシングだよ。新入生なのにすごいんだ。相手はまだ14才なのに、クラブの連中、てんで歯が立たないんだよ」
「14才? それってルディオ クラウディスのこと?」
「ああ、そう。そんな名前だった」

僕は急いでその人込みを掻き分けて前に出た。確かにそのピットの上で試合をしていたのは彼だった。しかも防具もなしで……。相手をしているのは、サミエル バーナー。フェンシング部の四強の一人だ。そのバーナーが圧倒的に押されている。身長はほぼ互角。ルディーの方が細身なだけに身が軽い。縦横無尽に繰り出す剣と剣との攻めぎ合い。しかし、確実にポイントを攻めるルディーの剣をバーナーはぎりぎり交わすのが精一杯だ。まずいな。そう思った瞬間。ルディーの剣がバーナーの胸を突いた。
「ウッ」
と唸って彼は膝を突いた。
「大丈夫か?」
近くにいた何人かが駆け寄る。が、バーナーは顔を上げ、大丈夫だと言った。が、その表情は引き攣っている。

防具なしで勢いよく剣で突くなんて……。無謀過ぎる。怪我だけで済めばまだよいけれど……まかり間違えば命だって危うい。僕はバーナーのもとへ駆け寄った。
「ちょっと見せて」
「ああ、ミシェル。ごめん。ほんと、大丈夫だから……」
彼はしきりに言い訳したが、僕は構わず服をめくった。突かれた皮膚が赤くなっている。が、幸い骨には異常がなさそうだ。
「確かに軽い打撲だけみたいだけど……」
僕がそういい終わる前にルディーが言った。
「当然だ。加減してやったんだからな」
何という不敵な……。

「君か。何故こんなことをする?」
僕は言った。
「何故? 先輩だからっておれに偉そうなこと言うからだ。これで全員なら、約束通り、おれの命令に従ってもらうからな」
少年とは思えないふてぶてしさで彼は言った。
「命令? どういうこと?」
「すまん。あいつが生意気なことばかり言うもんだから、もしおれ達に試合で勝ったら1週間使い走りをするって約束しちまったんだ」
「おれ達っていうことは、他にもいるのか?」
「グレッグとパシアン。それにジェイリーも……」
「それって主力メンバーじゃないか……」
僕は呆れた。というよりピットの上から余裕で見下ろす彼を新鮮な驚きをもって見つめた。
「ふん。所詮はその程度か。大した運動にもならなかったな」
そう言うと彼はピットから降りて退場しようとしていた。

「待て!」
僕は言った。
「ミシェル……?」
彼が振り向く。
「お説教なら後にしてくれ、夕食がまずくなるからな」
「お説教? 必要ないだろ? どうせ君は僕の命令に従うことになるんだからね」
「何?」
「誰か、僕にブレードを貸してくれないか?」
差し出された剣を持って、僕はピットの上に飛び乗った。
「どういうつもりだ?」
ルディーが訊いた。

「次は僕が相手をしよう」
「何だって?」
ルディーが、いや、そこに詰めていた全員の間からどよめきが起きた。
「僕は、元フェンシング部の部長を務めていたんだけど……。僕が相手では不足かな?」
ふっとルディーが微笑する。
「へえ。驚いたな。机にかじりついてばかりのガリ勉かと思ったら……」
闘志を剥き出しにした熱い瞳。僕は久々に胸の奥でくすぶり続けていた炉に火が灯ったような喜びを感じた。

「まさか、あのミシェルが公式じゃない試合をするなんて……」
「しかも、これって単なる賭けごとの遊びだぜ」
「誰か止めろよ。危険過ぎる」
背後でそんな声が聞こえた。
「ミシェル様! お止めください!」
競技場の端でエルバが困惑顔で叫ぶ。でも、僕はそれらすべてを振り切って剣を構えた。
「形式は?」
「サーブル」
それは、突きだけでなく、切りも加えた複合的な攻撃を可能とする型だった。ポイントは上半身すべてが含まれる。
「OK。ルールは?」
「無制限一本勝負」
「いいだろう」
僕は開始線まで下がった。

「せめて防具を付けてください」
エルバが叫ぶ。が、僕は首を横に振った。
「要らない。14の少年が剥き見で勝負すると言ってるんだ。僕だけ防具をつけるなんてできないだろ?」
「しかし、ミシェル様……」
駆けつけてきたエルバが僕をピットから降ろそうとした。が、僕は剣を彼の喉元に突きつけて言った。
「命令だ。引っ込んでいろ」
それから、僕はゆっくりとルディーを見た。彼は余裕で身長差のある僕を見下ろす。

「ふん。恥をかく前に下りたらどうだ?」
ルディーが憎まれ口を利いた。
「君の方こそよく考えた方がいいよ。みんなの前で泣き顔を披露したくはないだろう」
僕の挑発に乗って、彼は軽く唇を噛んだ。
「すぐにけりをつけてやるさ。血をみたって知らないぜ」
「負けはしないさ。君があの力を使ったりしなければね。もっともそれでも僕の勝利は揺るぎないものだけど……」
僕が微小すると、彼はきっとこちらを睨んだ。その全身から殺気のような気迫を感じた。

互いに準備が整うと電気仕掛けの審判が合図を送る。開始線の前で礼をし、構えて試合開始の「アレ!」という審判の声と共に突っ込んだ。僕達が選んだのはサーブル。突きと切りつけで相手の上半身に剣が触れれば勝ちという単純なものだ。スピードと力。攻めと守りの賭け引き。瞬時に繰り出される剣の閃きを受け流し、打ち払い。切りつけ、一瞬の隙を突いて剣を突き出す。判定はほとんど人間の目では追いつけないほどの速攻。が、決して間違うことのない電子審判による判定。彼は先に4人も相手にしてきたというのに全く体力の衰えを見せない。鋭い突きと驚くほど大胆な踏み込み。一瞬たりとも気が抜けない。生死を賭けた真剣勝負のように……。

――剣を持ったら真剣なのだとお思いください。

ふと、シャーロッテの言葉が浮かぶ。僕に剣の扱い方を教えてくれたのはシャーロッテだった。

――ぼくが騎士になってあなたを守ります
――では、どうぞ強くなってください。たとえどのような試練があったとしても、あなたは一人で戦わなければならないのですから……

何故、あんなことを言ったのだろう? 彼女は……。僕にとって敵が多すぎると……? それとも試練が有り過ぎると……?

――大丈夫です。ぼくは絶対に負けません。必ず勝ってあなたとメルビアーナの人々をみんな幸せにすると近います

でも、僕はあなたを守ることができなかった。けれど、僕は決して諦めてはいません。必ずあなたと国民の幸せのために努力します。必ず……。

「くっ……!」
喉元すれすれに繰り出された剣をかわすと、僕は左に跳んで攻め返す。ブレードの閃きが左右に散って高い天井の照明に反射する。観客はかたずを飲んで見守っている。左へ右へ、上から下へ、斜めから切り返し、正面を突く。彼の攻撃はストレートで重い。剣を払い、ぶつかる度に強さを増した。僅かに呼吸が乱れている。お互いの心拍数が上がる。僅かに汗ばんだ手のひら。彼が繰り出してくる剣は競技用のそれではない。殺傷能力のある真剣で戦うやり方だ。彼もまた、そういう護身術を叩き込まれてきた人間……。けど、それにしてはまだ脇が甘い。豪快だが、強引な攻撃と特攻。じりじりと追い詰めてくる彼の攻撃をかわし、突いてきた彼の剣を切り返して叩くと同時に右手の甲を切りつけた。彼は僅かに表情を歪めたが、握った剣は落とさなかった。大したものだ。同時にわあっと会場に歓声が上がった。
「勝負有り!」
電気審判が僕の勝利を宣言した。

「いい試合だったよ。ありがとう。手は大丈夫? ちょっときつくやり過ぎたかな?」
ピットの上で膝を突いたままのルディーに僕は右手を差し出した。けれど、彼はじっと僕を睨みつけると持っていた自分の剣を床に叩きつけた。そして、観衆を掻き分けて会場を出ていった。
「どうした? 逃げるのか?」
そこに集っていた連中がはやしたてる。が、彼は振り返りもしない。

「ミシェル! おめでとう!」
「さすがはチャンピオン」
「生意気なガキをとっちめてくれてありがとう」
皆が僕の周りに集まってきた。
「あまり褒められたやり方じゃなかったけどね」
僕は差し出されたタオルで額の汗を拭きながら思った。結果として、みんなの前で恥をかかせることになってしまった。きっと傷ついたろうな。あの子、プライド高そうだから……。でも……。彼が投げ捨てていった剣の握り手が歪んでいた。こんなに強く握り締めて……。自分の強さを増強してくれる物に対する固執……。しがみついたその強さで自分もまた強くなれると信じている。僕が昔、そうだったように……。彼もまた孤独なのかもしれない……。


そして、翌日。僕がクリニックに詰めていると、突然、彼がやってきて言った。
「一週間。おまえの言うことを聞いてやる。昨日、約束したから……」
その表情は相変わらず愛想がなかったが、昨日の試合のことはあまり気にしていないようだ。
「そいつは助かる。ここを出る前にどうしても調べておきたいことがあってさ。惑星における周期的地殻変動についてのデータを集めてるんだけど、君、天文物理はグレード幾つ? 地電位変革と大気圏電位の解析できる?」
「β3までなら……。でも、やれと言うなら半日で覚える」
「そいつは頼もしいね。ぜひ頼むよ。急いでるんだ」
しかし、彼はまだそこに立ってじっと僕を見つめていた。

「他に何か?」
僕が訊くと彼はおずおずと俯いて言った。
「その前にコーヒー飲ませてくれないか?」
やけにおとなしい物言いだと思った。こうしてしおらしくしていると14の少年っぽくて可愛い。
「昨日から何も食べていないんだ」
と、彼は告白した。
「何も? 何故?」
「昨日……おまえに負けたから……それで悔しくて眠れなかった。そのせいで腹も減らなかったんだ」
「それで今はコーヒーを飲めるくらいにはお腹が空いたという訳だね? なら、サンドイッチくらい食べれるでしょう? チャラに作らせるよ。僕も丁度何かつまみたくなったし……。一緒にお茶にしよう」
「それは命令?」
「そう。命令だ」
僕が言うと、彼はもっともらしく頷いて大人しく席に着いた。


それから、僕達は地下7階の資料室に行って必要な文献を集めた。すべての文書がデジタル言語化されているこの時代にも、紙に印刷された書籍は存在する。そのほとんどは趣味的嗜好により個人が印刷し、保有するものであったが、中には公的機関によって出版される物もある。それらは、特に重要な資料だ。人類の変革や歴史に措いての核心に触れるような重大な機密は外部への流失を防ぐため、コンピュータ言語化されていない。安易にコピーできないよう、特殊なインクを使って印刷された最重要事項。それは、ごく一部の人間以外、決して目に触れぬよう、地下深くの書庫で保管されていた。3箇所のうちの一つは地球に、そして、一つがここにある銀河中央大学の地下に。だが、もう一箇所の保存場所は公表されていない。もしかすると、そこには、更に知られざる重大な機密項目が隠蔽されているのかもしれない。

僕は大学が所蔵する機密文書へのアクセスを許されていた。ただ、その分量はあまりに膨大だ。天井までびっしりと並んだ書庫は何面にも及び、所蔵巻数はおよそ25万冊。その背表紙をチェックするだけでも時間を要した。その上、実際にその本を手にしようとすれば、脚立を昇るか、やたらスローな昇降機で移動しなければならない。それだけでかなりのロスを生じる。が、そうすることで、最大限、ここに保存された基調なデータ、もしくは見られたくないデータが外部に漏れることを防止しているのかもしれない。書物は持ち出すことが禁止されているし、背表紙から必要な本を探し、手にするまでの時間が掛かり過ぎる。僕はそこの時間を節約するために彼を連れてきた。無論、ルディーにはここの入室許可は与えられていない。でも、彼ならその壁を通過して内部に入り込むことができる。

センサーと監視カメラは僕が婉曲操作で改ざんした。そうして、僕は堂々とIDで受付を通り、彼もまた堂々とテレポートで潜入した。僕の目の前の空間に現れた彼を観察してみる。外見からは特に変化はなさそうだった。熱も上昇している気配はない。脈拍も呼吸も乱れている兆候はない。彼が現れる一瞬、僅かに空気に揺らぎと淡いオーロラのような発光現象が起きたようにも見えた。が、確証はない。最新のESP探知センサーででも測定すればその痕跡をトレースすることができるのかもしれないが、ここにはない。今まではそうした能力者に会う機会がなかったのであまり気に留めていなかったけれど、今後は必要になるかもしれないと考えていた。潜在的にはずっと多くの能力者が潜んでいるかもしれないからだ。考えてみれば、そういう能力を持つ者がいちいちそれをアピールする筈もない。一部の企業や軍部などでは優遇されているらしいが、一般社会に溶け込むのは幾らかの問題を孕んでいるに違いない。

「何だ?」
彼の手に触れていた僕の手を払ってルディーが言った。
「あ、ごめん。ちょっと脈を取らせてよ」
「そんなことをやっている暇なんかないんだろ? さっさと始めようぜ」
「そうだね」
僕達は早速作業を開始した。これまで人類が犯してきた罪の数々を隠蔽しようとしてきたこの倉庫で……。
「リストはこれだ。探せる?」
僕が渡したメモを読んで彼はサーチを始めた。僅か1分もしないうちに最初の1冊を僕の手に渡してきた。

僕は急いでページをめくり、文書を読んだ。持ち出しができない以上、この場で覚えるしかない。ここでは一切の電子機器の持ち込みは禁止されている。しかも1回の入室時間も週に一度60分までと限られている。
「言ってくれればこっそりICコピーを持ってきてやったのに……」
と、ルディーが言った。
「無駄だよ。この部屋に入った途端、機能しなくなる。直接頭に入れた方が早いよ」
僕が言うと彼は少し気に入らなそうな顔をして、最後の1冊を脇に置いた。全部で7冊。いつもなら、ここまでで半分くらいの時間を費やさなければならなかったが、彼のおかげで6分の1の時間で済んだ。彼は高い棚の本を念動で引き寄せることができるのだ。僕にもそんな能力があったらよかった。なんて言ったら、彼は僅かに顔を顰めた。やはり、能力者にとって、その力は幸福をもたらすものではないのかもしれない。

「よし。OKだ。必要なデータはすべて頭にインプットした」
僕が言うと彼は急いで読んでいた本を閉じると棚に戻した。それは、開拓され得ない惑星と人類の心理に潜む闇についての考察という本だった。
「もっと見たい? いいよ。あと2分40秒ある」
僕は言った。が、彼は首を横に振って言った。
「いいよ。それらを戻す時間もある」
「そんなの一瞬だろ?」
「それより、おまえの方はもういいのか?」
「うん。今日は時間がかかった方だよ。これくらいの本なら、30分くらいで全部コピーできるもの」
「400ページ以上ある本を7冊も……。まるでコンピュータ並みだな。さすがに銀河系髄一の頭脳だと言われているだけのことはあるようだ」
「何? それ。僕は機械じゃないよ。いつも普通のことばかり考えてる」
「それで、普通のことで悩んだり、普通のことで傷付いたりしていると言いたいんだろ?」
「そうだね」
僕は否定しなかった。
「でも……」
その時、アラームが鳴った。時間がきたのだ。そして、彼はテレポートし、僕は扉の外に出た。