PLANET DESIRE
Clue Ⅱ デザイアー

Part Ⅲ


 洞穴の天井にたゆたう煙をユーリスはぼんやりと見つめていた。何処かに抜け道があるらしく、煙は天井高く上って行った。そして、時折吹き込んで来る隙間風に煽られて横に広がったり、渦を巻いたりしている。

――君は復活するんだ。あの不死鳥のようにね

煙は実態のない幻影の鳥の姿を映した。
「青い鳥が……」
彼は手を伸ばしてそれを掴もうとした。が、苦痛のせいで視界が歪んだ。そして、幻のそれも姿を消した。掴み損ねた夢の名残が彼の嗅覚を刺激した。砕かれた夢……。朽ち果てた願い……。
「わたしはまた……」
剣が欲しかった。が、握る力がなかった。炎の側に怪物がいた。背中を向けたまま、何か作業をしている。黒い大きな影が伸びている。紅蓮の炎が怪物を照らし、まるで怪物から放たれたオーラのように輝いている。
「破壊神……か」
それは確かにこの怪物を呼ぶのに相応しい呼称であった。が、まだその真意は掴めない。たとえ人語を理解するといえども、安易に信用するのは危険だ。が、身体が自由にならない以上、あの怪物に運命を委ねるしかないのだ。天井を漂うあの煙のように……今の彼は水面に揺らぐ浮き草のように流れるまま身を任せるしかなかった。

 「ユーリス! 散歩が出来るようになったんだね」
病院の中庭をシーザーが駆けてきて言った。
「まだ、車椅子だけどね」
ユーリスが言った。
「それでもすごいよ。少し見ない間に顔色も大分よくなっているし、手も動かせるようになったんだってね」
シーザーはうれしそうだった。
「でも、まだ握力が全然足りないんだ。この間もコップを落として割ってしまったんだ」
そう言って笑うユーリスの表情には、11才の子供らしい素直さが表れていた。
「大丈夫。無理をしなくてもだんだん筋力は戻ってくるからね」
シーザーはやさしく言うと車椅子の向きを変え、遊歩道の向こうにある人工池へと向かった。
「パンくずをもらってきたんだ。鯉にあげてみようよ」
「うん」

 明るい陽光の下、花と緑に囲まれた広い歩道……。行き交う人々も皆、のんびりとおしゃべりをしたり、松葉杖や車椅子に乗った人も多かった。ユーリスがこれまで生きてきた社会とはまるで違う、ゆったりとした空間がここにあった。
「ぼくは、少し焦り過ぎていたのかもしれないな」
ユーリスが言った。
「ぼくね、誰かと遊んだり、剣以外の物に夢中になれたことってなかったんだ。学校と道場と、朝も夜も全部剣の練習につぎこんで、こんな風にのんびり景色を見たり、ただ風に吹かれて空を見上げたり、誰かのことを好きになったり……そんなこと一度もなかった。花の名前もその色も、そこに集まる虫達の役割も何も考えたことなんかなかった。本当に大事なものが何なのかなんてさ、一度も考えたことがなかったんだ。あるのはただ剣のことばかり……。ライバルを倒し、他人を傷つけることだけ考えて……ぼくは自分が強くなれればそれでいいと、それしか頭になかったんだ……」
ユーリスの瞳に涙が浮かんだ。目の前の池では鯉が自由に泳ぎ回り、水面には青い空や緑の木々が映り込んでいる。

「でも、君は気がついた」
シーザーが言った。が、ユーリスは寂しそうに自分の足を見つめて言った。
「自分が怪我をしてやっと気がつくなんて……。それとも、これは罰なのかな? ぼくがこれまでやってきたことへの償いなのかもしれない」
「考えることはよいことだよ。でも、自分を責めてはいけないよ、ユーリス。君はこれから使命を果たさなければならないんだ」
「使命?」
「そう。君は選ばれた者なんだ」
そう言ってシーザーは笑うと目の前の池にパンくずを投げた。途端に悠々と泳いでいた鯉達が集まってくる。
「ほら、君も投げてごらん」
ユーリスの手にそれを握らせると促した。
「うん」

彼はそろそろと腕を動かして淵の近くに落とす。大きな赤い鯉がやって来てそれを飲み込んだ。
「食べた」
ユーリスが笑う。
「ほら、もっとやってごらん」
シーザーがまたパンくずを握らせる。ユーリスは頷くとさっきより少しだけ遠くに放ることができた。すると、また大きな鯉が来てそれを食べた。そうして何度か繰り返しているうちに鯉は二人の前で大きくジャンプして水しぶきを上げた。光が当たって水面がきらきらと輝いている。
「すごいね。小さくてもすごい力を秘めてるんだ」
「そうだよ。ユーリス、君にだってすごい力が眠ってる。だから、自分を信じて……ぼくは、ずっと君のことを応援しているからね」

――ずっとずっと応援しているからね

(あの時、シーザーは何を言おうとしていたんだろう?)
ユーリスは考えた。

――君には使命がある。君は選ばれたんだ

それは、先進医療の治療を受ける権利を獲得したという意味だったのか、それとも、治療を受けて国のために働くということだったのか。しかし、どちらも違う気がした。
(シーザーは何を知っていたんだろう?)
また、ユーリスにとっては考える時間が出来た。人間にとって、そういう思考する時間も必要だということなのか。彼は誰にも邪魔されない暗闇の中で自らの心の底を探求し続けた。


 「ユーリス、これを君に……」
ある時、シーザーが小さな竪琴を持ってやってきた。
「何? 楽器?」
「うん。きれいでしょう? ぼくも1年くらい前からやってるんだ。君もきっと気に入るんじゃないかと思って……」
「でも、ぼくはまだ上手く指が動かせないし……」
「大丈夫。これはリハビリにも使われているんだ。それに、適当に鳴らしてもきれいな音が出るんだよ、ほら」
シーザーは手のひらを広げたり閉じたりして弦に触れた。すると、そこからさらさらと美しい音が零れ落ちた。
「ほんと。すごくきれいな音が出るね。ぼくにもできるかな?」
ユーリスが興味を示す。
「出来るよ。ほら、やってみて」
「うん」
膝の上に乗せられる小さな竪琴はそれからずっとユーリスのお気に入りになった。


 「竪琴か……」
洞窟の中でユーリスが呟く。それは彼の頭の上の方にあった。怪物がそこに置いたのだ。

――音……

怪物が言った。怪物はこの音が気に入ったらしい。繊細な竪琴はぞんざいな扱いをすればすぐに壊れてしまうだろう。それをあの怪物は壊さず、ここまで運んできた。これはシーザーの形見なのだ。失いたくない物の一つだった。
「シーザー……」
怪物の姿は見えなかった。消え掛けた火がくすぶっていた。その煙が目に染みる。彼は無意識に何かを掴もうとした。が、それは幻のように彼の視界からも意識からもすり抜けて、闇の何処かへと溶けていった。


 「ユーリス! 遂に出来たよ。グリフィンの実が……!」
シーザーが興奮して叫んだ。その手にはしっかりと木の実が抱えられている。
「それがグリフィンの実?」
大人の手のひらほどもあるその実は茶と緑を混ぜたような胡桃のような形をしていた。
「そうだよ。まだ試作品だけど、これを量産できたら世界の飢餓は解消する」
「すごいね。君は本当に天才だよ」
ユーリスが褒めた。
「そんなことはないよ。ぼくはたまたま植物が好きで、どうせならみんなのために役立つ物が作れないかと思ってさ。グリフィンの実は見た目はよくないけど、食べたらとても美味しいんだよ」
そう言うと彼は、その実を半分にしてユーリスにくれた。

「わあ、美味しそう。それにとても甘い香りがするね」
「食べてみて」
スプーンで掬うと実は柔らかく、水分をたっぷり含んでいた。
「甘―い!」
ユーリスは満足そうに笑う。
「でしょう? ねえ、これならみんなの役に立てると思わない?」
「うん。きっとね。君は世界を飢えから救う救世主だ」
「グリフィンの種は綿毛になって飛ぶんだ。そして、繁殖力も強い。きっと荒れた砂漠にだって根付くと思うんだ」
「それってすごいよ、本当に……。ぼく、尊敬しちゃう」
「ありがとう。ユーリス。本当にありがとう……」


 その実は彼が願った通り、砂漠に根付いた。怪物が持ってきた薬だという茶色い液体を容れていた器はグリフィンの実の殻に違いなかった。現にユーリスも綿毛が風に乗って飛ばされていくのを見た。森や林に実っている野生のそれも見つけた。そうして、確実にグリフィンの実は育ち、人々の飢えを救おうとしている。
「シーザー、君は本当に世界を救ったんだ」
しかし、彼はその結果を見ないまま逝った。


 「チェックメイト!」
ユーリスが言った。シーザーと二人、病室でゲームをしていた。
「参ったな。また負けちゃった」
シーザーが笑う。
「どうしたの? 君、今日は何だか疲れてそう」
ユーリスが言った。
「ああ。ごめん。何でもないんだ。ただ……」
シーザーは言葉を濁した。
「ただ、何?」
ユーリスは妙に胸騒ぎを覚えて不安になった。
「新しい研究が少し上手く行かなくて、それで少し疲れてるだけ……」
シーザーはそっとボードを脇に寄せてベッドの上の彼を見た。
「本当?」
念を押すようにその顔を覗き込むユーリス。

「ああ、そうだ。これね、ぼくが作ったんだ」
そう言って彼は美しい花の細工を施した銀の飾りを見せた。繊細な彫り物と虹のように光る硝子の結晶が散りばめられている。
「きれい……!」
「どう? 本当はこれ、髪飾りなんだよ」
そう言うと彼はユーリスの髪にそっと止めた。
「あは。すごく似合う。でも、いやかな? 女の子みたいでさ」
「そうだね。でも……」
ユーリスは鏡を見て頷いた。
「すごくいいよ」
と笑う。

「気に入ったんなら君にあげる。出来れば持っているといいよ。いざという時、それ相応のお金に出来ると思うから……」
「シーザー……?」
何故、彼がそんなことを言うのかわからなかった。ここにいればお金の心配などする必要がないのだ。そういう契約だった。
「やっぱり君、今日は変だよ。どうしたの?」
「実は、しばらくここに来れなくなりそうなんだ」
「そんな……!」
ユーリスにとってははじめてできた友達と言ってもよかった。一緒に散歩したり、遊戯をしたり、子供らしい時間を過ごせた貴重な友人。彼が面会に来るのを心待ちにし、だからこそ、単調で辛いリハビリにも耐えることが出来たのだ。

「いやだよ」
ユーリスが言った。
「君と会えなくなるなんて、ぼくはいやだ!」
「ユーリス……」
「君と会えないなら、もう訓練なんかしない」
そう言って彼は毛布をかぶった。
「会えない訳じゃないよ。ただ、少し会える回数が減るだけ……」
「それもいやだ」
「ユーリス……」
シーザーは困ったように盛り上がった毛布を見つめる。と、転がったチェスの駒に目を移した。それから悪戯っぽく笑うと、言った。 「ようし、それならくすぐってやるぞ」
シーザーはユーリスがくるまっている毛布の下から手を入れた。
「わっ! やめろ! あはは。やめて、くすぐったいよ」
ユーリスが笑う。
「そんなら、ぼくだってシーザーをくすぐってやる!」
と、負けずに手を出す。
「あは。だめだよ、ユーリス! あははは」
二人はベッドの上で騒ぎ回ったあと、お互いに顔を見合わせて笑った。

「ユーリス、随分動けるようになったんだね」
「そうさ。勉強ばかりしている君になんか負けないんだから」
「そうだね。君は強いよ、ユーリス」
シーザーが言った。
「でも、もっともっと強くなる。そして、君が世界を救うんだ」
「シーザー……君、何を言ってるの?」
「君が世界を救うんだ。真実の鍵を探して……」
「真実の鍵?」
シーザーは真剣な瞳で頷いた。
「世界は今、混沌として闇に支配されようとしている。それを君の力で救って、ユーリス」
「あは。何を言ってるの? シーザー。ぼくにそんな力はないよ。ぼくはまだ自分の体一つでさえ支えられないんだ。手も足もやっと少しだけ感覚が戻ってきたところだし、ぼくは君のように頭もよくない。学校の勉強より剣の練習に力を入れてたせいで、勉強の方はからきしだめなんだ」
ユーリスが自嘲する。しかし、シーザーはそんな彼を抱きしめて言った。
「そんなの関係ない。君が好きだよ、ユーリス」
「シーザー……ぼくだって……。ぼくも君が好きだ」
沈黙が流れた。

「いいかい? ユーリス。これから、ぼくの言うことを黙って聞いて」
「シーザー……?」
「しっ! 声を出さないで」
唇に指を押し付けられてユーリスは怪訝な顔で友人を見た。
「今度、いつ来れるかわからない。だから、今、言っておく。いいかい? ユーリス。このままリハビリを続けて走れるようになったら、ここから逃げ出すんだ」
「え?」
あまりのことにユーリスは耳を疑った。
「逃げるんだ。遠くへ……」
シーザーはその耳元に囁いた。
「どうして?」
「国は君を、ぼくたちの実験や研究を悪用しようとしている」
「何だって?」
「もしも外でお金に困ったら、竪琴の底にある穴を覗いてごらん。そこに金貨が止めてある。それでも足りない時にはこの髪飾りを売って……」
「君は一緒に来れないの?」
「ぼくは……。すぐには行けない。けど、必ずあとから追いつくから……」

と、そこへ誰かが部屋に入ってきた。看護士が検温にきたのだ。
「あらあら、二人共、随分仲良しなのね」
笑って言う看護士の瞳はしかし、実際には笑ってなどいなかった。
「あ、ごめんなさい。ユーリスがわがままを言うからくすぐってやったんだ」
シーザーがベッドから降りて言った。
「だって、シーザーがお仕事が大変だから、もうぼくと遊んでくれないなんて言うんだもの」
と、ユーリスも言った。
「遊んでやらないなんて言ってないよ。ただ、これからは毎日来るのは難しいって……。何日か来れないかもって言っただけなんだ」
シーザーが肩を竦めて言った。

「そうね。シーザーはお仕事もしているんだから、あまりわがままを言ってはいけないわよ、ユーリス。」
「はい。わかりました」
ユーリスはペロッと舌を出して言った。それを見てシーザーも看護士も笑う。
「それだけ元気になれば回復も早いわね」
「そうだね。リハビリをさぼっちゃだめだよ。そして、早く走れるようになるんだ」
シーザーが言った。
「わかった。そしたら、どっちが早いか競争しよう」
ユーリスが言った。
「そうだね。競争しよう」
シーザーも言った。

「約束だよ」
「約束」
二人は小指を絡ませた。触れた指は熱かった。そして、その温もりが離れた時、シーザーが微笑んだ。
「きっとね」

――約束……

 しかし、その約束は果たされなかった。それから何日待ってもシーザーは来なかったのだ。そして、2週間が過ぎた時……。突然の訃報がもたらされた。彼らの研究施設で事故が起きたのだという。そこで働いていた何十人もの人々が犠牲になり、その中にシーザー クリス マグリードとダニエル C エマーソンの名も含まれていた。
「嘘だ!」
テレビのニュースを見てユーリスは愕然とした。報道によると彼らが法を犯し、強引に行った禁断の実験のせいで化学反応が起き、核が暴走したというのだ。しかも、そのせいでローザンノームシティーに最悪の事態をもたらした。

「ユーリス、すぐにここから引越すのよ」
看護士が来て言った。
「引っ越す? 何故?」
「シティーはおしまいよ。核がこの街のすべてを呑み込んでしまうの」
「でも、まだ怪我をした人が残っているでしょう? まだ見つかっていない人もいるし……」
ユーリスが言った。僅かな望みを託したかった。研究施設は破壊され、汚染が激しかったため、誰もそこに近づくことが出来なかった。そのため、働いていた者達のうち、連絡が取れなかった者の名前を暫定的に発表していた。つまり、まだ死体が発見された訳ではなかったのだ。
「ぼく、シーザーを探しに行く!」
ユーリスが言った。
「駄目よ。何時、次の爆発が起きるかしれないの」
「でも……もし、怪我をして、動けないでいるとしたら……」
ユーリスは必死にそちらへ向かって走ろうとした。が、足は自由に動いてはくれなかった。走るどころか、彼の足はまだ歩くことさえままならなかったのだ。

「シーザー! ダニー!」
避難するバスの中から、シティーが燃えて行くのを見た。爆発し、上空に噴出する巨大な黒雲……。街はその雲と灼熱の光に焼かれていった……。
「シーザー……!」
その頬に赤い涙が流れていた。きつく抱いた竪琴に食い込んだ指先からも赤い血が滲んでいる。しかし、その時の彼にとっては痛みを感じる余裕などなかった。彼らは何かを知っていた。だから、消されたのだ。最後にシーザーが伝えようとしていたこと。それが何なのかユーリスにはわからなかった。


 「雲が……」
ゴーッという恐ろしい地響きと共に膨れ上がった恐怖の雲……激しい稲妻の光と共に消えて行った人々……。
「駄目だ……そっちに行ってはいけない……! 戻って来て! シーザー!」
闇の中でうなされていた。もう届かない過去へとユーリスはその手を伸ばす。
「シーザー……」
呼ばれたのかと思って怪物が近づくと、彼は目を閉じたまま苦しそうにしていた。息遣いも荒く、体は汗ばんで、触るとかなり熱かった。怪物が軽く爪で突いても彼は目を開けなかった。
「水を……」
彼が微かな声でそれを望んだので、怪物はそっとその口に水を含ませた。それから、包帯にしていた布の端でそっと顔の汗を拭ってやった。そして、しばらくの間、怪物は彼の様子を見ていたが、やがてそこを離れて洞窟を出た。洞窟の入り口は大きな岩で塞いであった。それをどかし、自分が外に出ると岩を持ち上げて完全に穴を塞ぐ。そうして自分は飛ぶように森へ駆けて行った。

 森といってもほとんどの木は枯れていた。が、場所によっては小さな植物が生えて来ている。細い小木も育ち始めていた。そんな植物をかき分けて怪物は何かを探していた。が、目的の物は見つからず、代わりに今までとはちがう小さな赤い実を見つけた。怪物はそれを一つ摘んで考えた。鼻に近づけると甘い香りがした。しかし、怪物は迂闊にそれを口に含んだりしなかった。以前、それによく似た実の毒で酷い目に合ったことがあったからだ。これにも毒があるかもしれないと考えて彼は赤い実をそこに投げ捨て、更に奥へ進んだ。
 そして、遂に目的の物を見つけた。それは薬草だった。彼はそれを引っこ抜いて何本か持ち帰ることにした。そして、もと来た道を行くとさっきの赤い実を鳥がついばんでいた。しばらく見ていたが、特に変わった様子もない。この実に毒はないようだった。シーザーは自分も一つ摘むと今度は口に入れてみた。甘さと水分が口の中に広がった。それが何という名前なのかはわからなかったが、見るとそれはそこいら中に生えている。シーザーはそれをもいで食べた。

 しかし、それは、とても彼の空腹を満たしてくれるような量ではなかった。なので、彼はそこにいた鳥も捕まえて食べた。が、腹はまだ満たされない。怪物は、ふとねぐらに置いて来たユーリスのことを考えた。あれを食ったらさぞかしうまいだろう。人間の男一人の肉の量は、怪物の胃袋を満たすのに丁度よい。何より、あれは鍛えられ、引き締まった上質の肉である。しかも、あれは傷を負い、未だ動けずにいる。怪物がその気になればいつでも食うことが出来た。今日こそは食おうか、と怪物は思った。
 と、そこへ、また大きな鳥が飛んで来た。彼はサッと岩の陰に隠れた。鳥はしばらく警戒して空の高い所を旋回していたが、やがてその実を啄ばもうと下りて来た。そして、首を垂れて枝に近づく。その時。いきなりシーザーが岩の上から飛び掛り、その胴を掴んだ。鋭い爪が食い込んで鳥が悲鳴を上げ、大きな翼をバサバサと開いて暴れた。が、細い首をぐいと捻って大人しくさせると、シーザーはその鳥もバリボリと食った。先程の小物とは違い、大型の鳥を胃袋に収めるとシーザーは少し落ち着いた。

 そして、ふと見るとまだ足元に赤い実が残っていたので、幾つか口に入れるとあとは持って来た袋に入れた。それから、更に周辺を歩くと既に誰かに荒らされた気配があった。大きな足跡。そして、踏み倒され、潰れたり、折られたりした植物……。それは、シーザーと同じ怪物にちがいなかった。随分馬鹿なやり方だとシーザーは思った。折れて地面に倒れた木にはあと少しで実が成るはずだった。その実は大きく水分をたっぷりと含んでいるので、この辺りを通る者達にとってはなくてはならない大事な木だった。これで、あと三年はそれが実ることはないだろう。怪物は、露出したその木の根を土に埋めた。だが、シーザーは水の在り処も、それと同じ実が成るもっと大きな木のある場所も知っていた。ここは彼の縄張りなのだ。

 怪物はそこを出ると、荒野を移動した。乾いた土を舞い上げて常に砂が視界を塞ぎ、蜃気楼のような建物の残骸が周囲に転がっている。その岩山を上り、巨大な瓦礫の山を幾つか越えた辺りにこんもりとした森があった。こちらにはちゃんと大きな木がたくさんあって、更に進むと岩から水が湧き出している。それが流れて窪地に溜まり、小さな湖を作っていた。そこから流れた水は、人間の住む村の方まで続いている。
 シーザーは持って来た壺に水を汲んだ。それから、湖に入ると顔や体に水を掛けた。奥の方は少し深くなっていて、シーザーの腰の辺りまで水がある。彼はそこまで行くと腰をかがめて肩まで沈んだ。水は冷たくて気持ちがよかった。それから、湧き出している水を存分に飲み、満足するとそこを出て、今度は森の中で大きな木の実をもいだ。それは、固く大きな実で、果実がびっしりと詰まっていた。人間なら、それを丸ごと一つ食べれば充分な量だった。シーザーはそれを幾つももいで袋に入れ、ひょいと肩にかついだ。

 そして、水を入れた大きな壺を持つと飛ぶように掛け戻り、ねぐらの近くに来た。茶色くはだけた岩山の中腹にそれはあり、ちょっと見には何処が入り口なのかわからないようになっている。洞窟に続く穴には、大きな岩で蓋がしてあった。いつもなら、さっと一飛びにそこへ行くのだが、今日はそうしなかった。入り口を塞いでいる岩の所に何かが張り付いていたからだ。
 それは怪物だった。が、シーザーと同じ種族と呼ぶにはあまりに貧弱な体つきをしている。が、その怪物が岩の隙間に顔を当ててくんくん臭いを嗅いでいるのだ。そいつは、シーザーより二回り以上も小さい。最近この辺りに流れて来て周囲の村や森を荒らしている小物だった。そいつは、シーザーの存在に気がつかず、岩山の臭いを嗅ぎ続けていた。そして、岩の隙間から手を入れてかりかりと土を掻いている。恐らく、ユーリスの血の臭いが怪物を呼び寄せたのだろう。シーザーは気に入らなそうにふんと鼻を鳴らした。こいつがさっきのあの草地を荒らした犯人にちがいなかった。シーザーはヒョイと大きく跳躍するとそいつの背後に降りた。そして、そいつが振り向くよりも早くその怪物の尻を蹴り飛ばした。

「ぎえっ!」
そいつは無様に飛んでどすんと転がった。そして、両手で尻を押さえてひいひい呻いた。貧弱な肉だが、今の腹の空き具合なら丁度いいだろう。シーザーは大声で吼えるとそいつに飛び掛った。驚いた怪物が慌てて逃げ出そうと地面を這いずったがシーザーの動きの方が何倍も早かった。一撃でそいつを倒すと、肉の付いた柔らかい部分だけ齧ると、残りの骨や好みでない部分はぽいと投げ捨て、砂で手を洗った。それから大岩を持ち上げてどかし、取って来た物を洞窟の中へ運ぶ。ユーリスはまだ眠っていた。そこで、怪物はまた別の壺と布を持って、洞窟を出た。