PLANET DESIRE
Clue Ⅱ デザイアー

Part Ⅱ


 じっと誰かが覗き込んでいる。それは目を開かなくてもわかる。何者かが松明の火を灯したのだ。微かな足音がして、獣のような臭気が漂った。恐らくはここの主人が狩りか何かをして獲物を獲って戻って来たのだろう。そして、火を灯した。男は燃える炎の音に安らぎさえ感じた。やがて、主は横たわっている男に近づくと、その胸に触れた。遠慮がちに触れる指の温もりとやさしさ……。
(女か? 恥ずかしがっておるのか? ならば……)
彼は自分の胸に触れた者が誰なのかを確かめようとそっと右腕を動かした。が……。華奢で柔らかな女の手を想像していた彼の脳裏に衝撃が走った。

「何……!」
驚いて目を開ける。と、そこには固い岩のように盛り上がった怪物の手があった。
「貴様……!」
その鋭い爪が、彼の喉元に届きそうな位置にある。男は無理矢理半身を起こした。が、身体は自由にならず、激痛に顔を歪めた。
「うぐっ……!」
男の肩を怪物が掴む。彼は慌ててそれを払おうともがいたが、痛みと酷い怪我のせいで腕はうまく動かなかった。
「放せ! わたしを食らう気か?」
怪物は、彼を元の位置に戻そうとした。
「放…せ……!」
抵抗する男。その体を強引に押し倒すと怪物は喉から搾り出すようにざらついた音をたてた。
「傷…止まる…ない………」
それは言葉のように聞こえた。
「何……!」
男は驚愕し、怪物を見た。
「傷……治…る…ない……」
再び怪物が発した……。それは確かに言葉だった。
「おまえは……言葉がわかるのか?」

それは一つの衝撃だった。怪物が人語を話す。そんなことをこれまで誰が想像しただろう。皆、怪物は獣のような下等な生き物だと信じていたのだ。が、そんなユーリスの驚きを無視して、怪物は慣れた様子で作業を始めた。そっと爪の先に引っ掛けて包帯を外し、傷に押し当てていた薬草の葉を取り替える。先程の騒ぎで、せっかく塞がっていた傷口からまた血が滲んでいた。怪物は液体に浸した小さな布でその血を拭う。
「うっ!」
それが沁みたらしく、男が体を反らしたので、怪物は肩を掴んで押さえつけた。
「うっ……。何をする……!」
彼が喚いたが、怪物は無視した。そして、黙々と作業を続けている。
「何なんだ? 一体……」
そんな彼の問いも無視して、怪物は火に掛けてあった鍋から茶色い液体を掬うと、再びそれを持って近づいて来た。それは固い木の実を半分にした掌ほどの器だった。つんと鼻をつくいやな臭いがした。覗けば茶色い泥水のような禍々しい液体がぶくぶくと小さな気泡をたてている。その液体を近づけられただけで咽せた。

「これは何だ? わたしにこれを飲めとでも言うのか?」
怒りに震えて男が言った。
「飲む……」
怪物が頷く。そして、固い葉でできた匙のような物で液体を掬って男の口に近づけた。
「いらぬ! こんな訳のわからぬ物が飲めるか!」
彼は上手く動かない手を強引に振り回した。その腕が当たって怪物の手から器が落ちる。液体が飛び散って男の頬や腕にも掛かった。沸騰しているそれは熱かったに違いない。が、彼は何も言わなかった。そんな男の様子を怪物はじっと見つめていた。が、再び火の側に行くと、もう一度鍋から掬った。そして、また、男のところにやって来てそれを飲ませようとする。

「お…まえ……飲む……」
が、彼は固く口を閉じたまま怪物を睨んでいる。
「飲む……」
更に匙を突きつけて怪物が言った。
「何故飲まねばならぬ?」
と男が訊いた。
「……よい…なる……」
と怪物は答えた。が、彼は睨みつけた。
「飲まない」
「……ない……? 死ぬ……」
「わたしは、死など恐れない」
きっぱりと言った。怪物はそんな彼の横顔をじっと見つめていた。が、不意に彼の背中に腕を入れて抱き起こすと、顎を掴んで無理矢理口を開かせ、器を押し付けた。痛みと驚きで思わず開いた僅かな口の中へ液体を流し込む。彼は咽せた。熱さと激痛にしばらく苦しんでもがいていた。が、やがて諦めて大人しくなった。

「何故、わたしにそれを飲ませようとする? それは一体何なんだ?」
「……薬」
怪物が言った。巨大なその体の背後で燃える赤い火を男はぼんやりと見つめた。
「薬だって?」
「……痛い…な…い……薬……」
「痛み止めか?」
怪物がうなずいた。
「驚いたな。おまえは人の言葉がわかるのか?」
怪物が返事するように唸る。男は辺りを見回す。今は火の明かりがあるのでわかる。そこはやはり洞窟の中だった。天井も奥行きもかなり深い。ちょっとした広間と言ってもよいだろう。その中央に簡単な炉端のような物が有り、中央で火が燃えていた。鍋や皿のような食器に模した物もあった。周囲には幾つかの松明が明り取りに置かれている。まるで、人間と変わらないような棲家である。

「おまえは誰だ?」
男が訊いた。
「シーザー……」
怪物が答える。
「シーザー……それがおまえの名前か?」
男の問いに怪物はゆっくりとうなずいてみせた。
「シーザー…か」
記憶の断片が彼の心の闇を照らした。が、そこに映るものは何もなかった。

――シーザー

男はじっと炉端の火を見つめた。熱く美しく、そしておぞましい程に猛り狂う慇懃な炎の舞を……。
「シーザー……。いい名だ」
「いい……?」
怪物が言い、男が頷く。
「わたしは、ユーリスだ。ユーリス ヴァン ロック」
「ユ…リ……?」
怪物が復唱する。
「ユーリスだ」
「ユ…リ……い…い…名前……」
怪物がにっと笑って言った。いや、見た目ではよくわからなかったが、確かに笑ったのだとユーリスには思えた。

「シーザー、おまえは、何故わたしを助けた?」
「……」
怪物は黙っていた。
「わたしを食うつもりだったんじゃないのか?」
「……」
「だから、あの時、わたしを襲ったのではないのか?」
「……」
炎がパチパチと小さな音を立てていた。怪物は、じっとユーリスを見つめている。が、その表情は読めない。男は、ふっと僅かに唇の端を上げて言った。
「何故黙っている? 怪物は人を食うのだろう?」
「……食う」
シーザーはじっと男を見て言った。ユーリスもじっと怪物を見返す。
「それじゃあ、おまえだって人を食うのだろう?」
「……食う」
男は軽くため息をついた。
「なら、何故だ? 何故このようなことをする?」
「……」
怪物はそこから離れると闇の中に消えた。そして、すぐにユーリスの竪琴を持って戻って来た。それに、剣と身につけていた巾着や水筒もいっしょにだ。

ユーリスはまず竪琴を見、それから、そっと手を伸ばして剣に触れた。固く冷たい感触が伝わる。彼はその柄を握ろうとした。しかし、それは上手くいかなかった。傷と痛みのせいで手をうまく動かすことが出来なかったのだ。
「ふっ。剣士が剣を握れなくなったら終わりだな……」
自嘲の笑みを浮かべてユーリスが言った。
「ユ…リ……強い」
シーザーが言った。が、ユーリスは目を伏せて言った。
「皮肉か?」
「…肉?」
シーザーには意味がわからなかったらしく、首を傾げて彼を見た。

「勝ったのはおまえだ」
ユーリスは黒い岩の天井を見上げて言った。
「シーザー…勝った?」
「そうだ」
「シーザー…勝った」
「……」
「シーザー…勝った」
「繰り返すな!」
「な…に…?」
と怪物が覗き込む。
「わたしが惨めになる」
と言うユーリスに、シーザーは竪琴を差し出した。
「慰めのつもりか?」
彼はその弦に指を当てて凪いだ。ころころといい音がした。

「音……」
シーザーが言った。そして、下ろしてしまったユーリスの手を掴むとそっと弦に当てた。
「弾けと言うのか? だが、わたしは弾けぬ。この手ではな」
と固定された右手と肩から腕にかけての生々しい傷を見た。怪物は竪琴を彼の頭の付近に置いた。が、その仕草は、何となく落胆しているように見えた。
(こいつは、言葉だけでなく、音楽をも理解するというのか?)
男は、驚愕の思いで怪物のごつごつとした背中を見た。


 少年の手術は成功した。が、術後の治療は困難を極めた。移植した細胞は、少年自身のそれを培養して作られたものだった。が、何度やり直しても何故か強い拒絶反応を起こしてしまうのだ。
「有り得ない……」
ダニエルは頭を抱えた。が、状態は目に見えて悪化していった。そして、遂には、少年自身の命さえも危うくしたのだ。何度も緊急手術が行われ、薬品の投与や放射線治療が繰り返された。彼の体力が日に日に衰えているのは誰の目にも明らかだった。そして、もし次の治療も失敗すれば、恐らく被験者の体力が持たないだろうということも……。ダニエルは追い詰められていた。
「何故、アレルギーを起こすのだろう? 万全の措置を講じているというのに……何故……?」
が、答えをくれたのは意外な人物だった。それは、やはり、ダニエルと共に研究施設にいたシーザー クリス マグリード博士だった。
「それは、多分、ユーリスが生きようとしていないからだと思うよ」
ダニエルより4才下の少年は温室でそっと花に水をやりながら穏やかに言った。

ここ、ローザンノームシティーには様々な研究機関が集約され、全国から集められた才能有る者達のために開放されていた。そのほとんどが十代の少年少女で構成され、あらゆる先進的技術が研究対象にされている。ダニエルは医療分野の、そして、シーザーは植物分野に措ける専任研究員であった。

「何故そう思うんだい?」
「だって、その子は、自分が両親に捨てられたのだと、実験のために売られたのだと知っているのでしょう?」
「ああ」
「ぼくなら、とても耐えられないもの。けど、自分じゃ、どうにも出来ないんだ。自由に動く手も足も、その子には持たせてもらえなかったんだもの。この花達と同じさ。手をかけてもらわなければ枯れてしまうこの温室の花達と同じように……。自分じゃどうにも出来なくて、自分じゃ動くことも出来なくて、それでも彼らは精一杯美しい花を咲かせ、枯れて行くのを待ってるんだ。まるで恋焦がれるように、枯れて行く自分をね……。ぼくもそうだったからよくわかる。ぼくもね、売られたんだよ。親に……でも、ぼくには動ける手足があったし、ダニーや他の仲間達がいた。でも、その子には誰もいないんだよ。忘れ去られた温室で誰にも知られずひっそりと咲いていた花のように……そして、枯れて行くことを望んでいる。それでも、精一杯微笑んだりしてね。温室の花には、水と肥料をあげたらこうしてまた生きて楽しませてくれたけど、ユーリスには何が必要なのか考えてみないとね」
それを聞いてダニエルは微笑んだ。
「君が来てくれたらうれしいんだけど……ユーリスと丁度同じ年くらいだし……」
「ぼくで役に立てるかな?」
「きっとね」
とダニエルは微笑み、少年をユーリスの病室へ連れて行った。

 「やあ。ユーリス。気分はどう?」
ダニエルが微笑みかけると彼はベッドに横たわったまま微かにこちらを見た。が、それはまるで消え入る火のように弱々しく、あれ程強く輝いていた勇敢な日の面影はない。
「今日はお友達を連れて来たよ」
「友達?」
とユーリスが微かに首を動かす。ダニエルが頷く。すると、ドアが開いて少年が一人入って来た。彼はユーリスと同じ黒髪で黒い瞳をしている。しかし、色白でやや丸顔をした少年は、面長で凛々しい感じのユーリスとは少し感じがちがう。丸顔の少年は人懐こい笑顔で挨拶した。
「今日は。ユーリス。ぼくは、シーザー クリス マグリード。ダニーの友達なんだ。君とも友達になれるとうれしいんだけど……」
と言って無菌ヴェールの手袋越しにユーリスの手を握った。
「よろしく」
ユーリスは唯一動かせるようになった右手でそっとその手を握り返した。が、それは支えてやらなければするりと抜けて落ちてしまいそうなほど危うい印象だった。そして、冷たい……。シーザーは彼の手が離れないように強く握り続けた。

「ダニーの友達……? なら、君も医者なの?」
探るような目でユーリスが訊いた。
「ううん。ぼくは植物の研究をしてるんだ。ここではいろんな研究をしているんだよ。シティーの至る所に研究機関があってね、最新技術の開発をしてるんだ。将来、人間の役に立つあらゆることを……」
「人間の役に立つこと……?」
「そうだよ。ねえ、君は花が好き?」
「うん」
「なら、見せてあげたいな。今、ぼくが育てている花達を……見た目は白い花なんだけど、光の加減で赤くも黄色くも見える不思議な花なんだ。本当は今日、持って来たかったんだけど、ここは無菌室だからダメだって叱られちゃったの」

「そんな夢のような花……。ぼくも見てみたい……」
少年が消え入りそうな声で言った。
「見られるよ。君がここを出られたら……」
シーザーが言った。
「約束するよ。君に一番に見せるって……」
「ほんと?」
ユーリスが訊いた。
「もちろんだよ。一番大きくて美しい花を君にあげる」
それを聞いたユーリスが微かに笑ったので、シーザーはうれしそうに言った。
「ぼくね、テレビで観たんだ。君の試合。武道大会の決勝戦。すごかったな。それに感動した。ああなると、剣も芸術の一つなんだと思ったんだ。華麗で鮮やかで無駄のない動き。軽やかなのに重さと鋭さがある。どうしてあんな動きが出来るんだろうって……ぼくは、運動苦手だから、君に憧れを抱いた。だから、君に会いたかったんだよ。ユーリス」
「ぼくに?」
「そう。君に」

しかし、ユーリスは寂しそうに目を伏せた。飛んで行ってしまった青い鳥……。その影を天井に追って、彼は悲しそうに呟いた。
「今はこんなだもの。君達の方がずっとすごいよ」
「そんなことないさ。だって、これから、君は奇跡を起こすんだもの。君は、きっとよくなるよ。ユーリス。そして、もう一度剣を握るんだ。華麗なる不死鳥としてね」
「でも……」
「ぼくは、どうしても君に復活してもらいたい。だって、君は、ぼくの憧れの人だから……そして、ぼくと似ているから……」
「似ている?」
「うん。君とぼくとは同じ年だし、黒髪で黒い瞳で、それから、共に両親に、大人に裏切られているから……」
それを聞いて、ユーリスはじっと少年を見つめた。

「知ってるの? ぼくの親のこと……」
「うん。ぼくもね、売られたんだ。実験に協力する代わりに、両親は多額の保証金をもらった。そして、ぼくを手放した。8才の時だったよ。以来、一度もその両親とは会っていない」
「寂しくない?」
ユーリスが訊いた。
「少し寂しい……」
彼は正直に言った。
「でも、ここには友達がいるから……昔の友達とは会えないけど、ここに新しい友達が出来たから大分いいよ。過去を消すことはできないけど、考えを変えることで過去を受け入れることは出来るよ。でも、それにはうんと時間がかかるかもしれない。焦らないことだよ。ゆっくりとここに、自分自身の心に馴染んでいけばいい。植物が育ち、やがて花を咲かせ、実を結ぶように……。そして、気がついたら悲しいことも辛かったこともみんな過ぎて、窓辺に止まる君だけの青い小鳥を見つけられる」

「青い鳥?」
「そうだよ。幸せの青い鳥がね」
シーザーが微笑む。すると、少年の肩に停まっていたその鳥がゆっくりと自分の方へ近づいて来る。そんな気がした。ユーリスが微笑むと、その鳥も微笑んで、彼の耳に心地よい声を響かせた。
「ぼくと友達になってくれる?」
ユーリスが訊いた。
「もちろんだよ。ぼく達、きっといい友達になれる。だから、おいでよ。元気になって、ここを出て、広い世界を二人で回ろう。君なら出来る。きっと出来る。だから、自分を信じて。ぼくを信じて。ダニーは、本当に君のことを心配しているよ。どんなことがあっても君を助ける。だから、そこから出ておいで」


 「シーザー……」
炎の向こうで過去が揺れた。
「ん?」
火の前にいた怪物のシーザーが振り返った。
「……おまえのことじゃない……ただ、思い出していたんだ。昔のことを……」
ユーリスは遠い目をして言った。
「昔……?」
怪物が訊いた。
「そう。ずっと昔……まだ、わたしが子供だった頃、おまえと同じ名前の友がいたんだ」
「……?」
「シーザー クリス マグリード……彼は、真の意味での天才だった。知識も人柄もすべてにおいて完全な言うなれば理想の子供だったんだ……わたしは、その頃、まだたった11才で、首の骨を折る大怪我をした。そして、ずっとベッドで寝たきりだった。そう。今のように……だからかな? こんなことを思い出すなんて……だが、今の方が余程マシかな? あの時は、本当に辛かった。手も足も麻痺してまるで動かすことが出来なかったんだ。とても自分の体ではないようだった。何度も手術が行われた。だが、なかなかよくならず、わたしは死にかけていた……。そんな時、彼に会ったんだ。シーザー クリスに……」
ユーリスは何かを掴もうとするかのように微かに指先を震わせた。

「シーザーって名前は確かによくある名前だが、わたしにとっては本当に縁があるらしい。前に住んでいた隣の猫の名前がシーザーだったし、小学校のクラスメイトにも二人いた。通りすがりになつかれた犬の名前もシーザーだったし、親切にしてくれたおばさんの弟の名前もシーザーだった。そして、おまえもシーザーだと言う。おまえ、下の名前は何という? 名字は?」
「……?」
怪物は首を傾げた。
「シーザーはシーザーか……そうだな。犬や猫にも名字はなかった」
とユーリスは続けた。
「だが、彼らは、みんな逝ってしまった……あのシーザー クリスも……」
と言ってユーリスは涙を流した。
「あの時、わたしにもう少し力があれば、せめて自由に走れる足があったら、彼を助けられたのに……奇跡は起きるのだと、わたしを救ってくれたのに……どうして、わたしは奇跡を起こしてやることが出来なかったのだろう……? どうして、わたしだけが生き残り、彼らが逝かねばならなかったのか? どうして……!」

怪物のシーザーがゴツゴツした手の甲で、そっと涙を拭ってやった。が、ユーリスは、まるで小さな子供のようにいつまでも泣き続けた。
「傷……痛い……のか?」
怪物が訊いた。
「……ああ」
とユーリスがうなずく。そして、じっと暗い天井を見つめて言った。
「心の傷が……な。酷く痛む……」