ダーク ピアニスト
〜練習曲4 人形遣い〜

Part 2 / 3


 オールヒット。二人の腕は全くの互角。ギルフォート グレイスとブライアン リース。ライフルもピストルも二人の右に出る者はいない。静なる標的も動なる標的も自在のまま、彼らの手に掛かってはまるでマジックのように思いのままの場所へ弾丸が飛ぶ。
「へえ。二人共すごいんだね」
ルビーが感心したように見つめる。
「いや。君もどうしてなかなかな腕だ。油断したら優勝を持って行かれそうだからね」
と笑うブライアン。
「僕だって1番になりたいけど、ギルやあなたがいては無理だよ。でも、僕にはピアノがあるからね。それなら、誰にも負けない自信がある」
とルビーが言った。
「うん。君はピアニストなんだってね。噂は聞いてる。ここにピアノがないのが残念だ」
「じゃあ、今度ピアノがある所に行ったら、聞かせてあげるね」
とルビーは自信たっぷりに言った。

「それにね、僕だっていつまでも3番でいたいとは想わない。いつか越えて見せますよ。あなたを。そして、ギルフォートも!」
ゾッとするような目だった。純粋で可愛らしいお人形のような瞳でありながら、何処か深淵で魔性を秘めている。そんな不思議な目だった。
「それは楽しみにしているよ。ライバルが多い方がおれは燃える性質でね」
とブライアンも野心的な鋭い瞳でルビーを見返す。
その間にもゲームは本番さながらに行われていた。港の大型倉庫を丸事使っての実践バトル。何処から狙って来るかわからない10人の敵を相手に銃で応戦し、全ての敵を倒したらゲームオーバー。ただし、使える弾丸は12発。敵に扮している10人は、もちろん全てが軍上がりの精鋭ばかり。防弾チョッキを着用させ、ヒットした弾丸の位置も審査の対象になる。ギルは、匠な移動と立地条件をとことん生かした戦略でほとんどが一発必中で仕留め、予備の弾1発を残しての完全勝利を飾った。

「さすがだな」
戻って来たギルにブライアンが労いの声を掛ける。
「まあな」
とギルフォートは苦笑する。途中、1発を潜んだ敵をおびき出す為に積まれた木箱を壊し、崩壊させる為に使った。それが、彼にとっては気に入らないらしい。ギルフォートのやり方は、なるべく最小限の動きで最も効果を上げる。スマートで目立たない戦術に長けていた。一方、ブライアンの方は、銃ばかりでなく、周囲にある物を何でも利用し、最低限の時間で決着をつけるという少々オーバーアクション有りのやり方である。と言っても実質二人の戦法に差程大きな差がある訳でなし。結果としては、ほぼ互角と言ってよかった。

「次は僕の番だね」
と言って、ルビーは銃を持って駆け出した。彼が持つと本物の銃もおもちゃのピストルを手にはしゃいでいる子供のように見えた。が、それは、確かに本物であり、シリアスな瞳は硝煙の煙さえもよく似合った。彼は大胆にも中央に飛び出すと間髪入れない速攻の早撃ちでたちまち数人の敵を仕留めた。
「ホウ。なかなかやるじゃないか。お人形ちゃんも」
ブライアンは感心したように目を細めた。が、次にアクションを起こした時。突然、倉庫の天井が崩れた。
「ルビー!」
爆発が起きたのだ。
「罠だ」
ギルが走る。何者かにより、仕掛けられたのだ。

「ギル!」
ブライアンも追う。倉庫の中では更に小さな連続した爆発が起き、壁や積荷が壊れて散乱していた。その中で何人かが下敷きになり、血と粉塵と火薬の臭いが漂っている。朦々と立ち込める煙が視界を覆い、瓦礫の隙間のあちこちから火の手が上がっている。
「ルビー……」
そこに動く者の気配はなく、背後で慌しく駆け回る靴音やサイレンが響き渡った。
「おい……」
ブライアンが厳しい顔でギルを見た。が、彼は無表情のまま、じっとその煙の中央を見つめている。と、盛り上がっていた山のようなプレハブの板やコンクリート片がグイと膨れ上がったかと想うとその大きな破片がバンッと空中に持ち上がって弾け飛んだ。そして、その隙間からゆっくりと片手を突き出した者がいる。それから、更にその周りの破片を全て吹き飛ばす。

「おい。あれは……!」
ブライアンが叫ぶ。
「ああ……」
とギルフォートが頷く。その視線の先に立つ黒い影……。瓦礫を弾き飛ばしてそこに立つルビー。
その時、カチリと微かな金属音が響いた。劇鉄だ。ギルとブライアンが同時に反応し、二人は左右に向かってトリガーを絞った。予想違わず、車の陰にいた一人をギルが仕留め、後一人。向かいの屋根から狙いを付けていた男の頭部をブライアンのマグナムが撃ちぬいた。
「またか……」
ギルは銃を構えたまま周囲を見回し呟いた。
「狙われたのはお人形ちゃんか?」
ブライアンも来て言った。
「ああ……」
ギルは頷くと瓦礫の上を走ってルビーの元へ急いだ。

「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよ。見ればわかるでしょ?」
と不満そうに口を尖らせる。
「何処かケガでも?」
後から来たブライアンが心配そうな顔で訊いた。
「洋服が汚れちゃった」
確かに、髪も服も粉塵を被って薄くグレイに染まっている。
「そんなの洗えばいいだろう?」
と言うギルフォートにルビーは言った。
「ダメだよ! 壊れた人間の血も付いちゃったし……」
そう言い掛けて、ルビーは微かに後方へ耳を傾けた。瞬間。ギルとブライアンも反応する。
「火薬だ……!」
と、同時にルビーが二人を抱えて宙に飛んだ。

「しつこいなあ」
不満をもらしながらも、ルビーは一気に瓦礫の外へ飛ぶ。と、着地するのと同時に身体を伏せる。と先程まで彼らがいた辺りで凄まじい爆発が起き、瓦礫の山は粉々に砕けた。それらは、一旦、空中に弾け、スローモーションのように落下した。そして、伏せていた彼らの上にも熱い砂となって降り注ぐ。
「い、一体これは……?」
何が起きたかわからないと言いた気なブライアンが体を起こした。
「やってくれるぜ」
ギルは積もった砂を払い落として呟く。ルビーはサッサと起き上がるとクスクス笑って言った。
「アハハ。みんな砂だらけ……。僕といっしょだね」
見れば確かにその通りだったが、ブライアンは驚愕した顔でそのあどけない顔の人形を見た。

「おまえは……! ただの人間じゃなかったのか!」
「うん……」
ルビーはシュンとして頷いた。
「超能力者……!」
重い沈黙の中で、続く消火活動……黒鉛と炎が背景いっぱいに広がってその向こうの景色を覆う。空も地も人間さえも皆、同じグレイの色に染まって行く……。慌しいサイレンや効果音だけが心の外で響いている。そんな気がした。
「だから、狙われているのか?」
ルビーを見ずにブライアンは言った。
「いや……。こいつの力の事を知っている者は少ない。だが、狙われてもおかしくはない。こいつはジェラードのお気に入りだからな。面白くないと想っている奴は多いだろうさ」
ルビーは、俯いたまま拳を握り、そこを離れて煙を見つめる。ブライアンはそんなルビーとギルフォートを見比べてフッと笑んだ。

「ジェラードのお気に入りだって? そいつは、間違いだろう?」
「何?」
「こいつは、おまえにとってのお気に入りってことさ。そうだろ?」
何の事だ? と言いた気なギルにブライアンは吹っ切れたような微笑を向けて言った。
「こんなお人形なら、おれだって欲しいくらいだよ」
それに応じてギルも答える。
「取り扱いが面倒だがな」
「しかし、驚いたな。ロシアや中国では超能力研究も進んでいると聞いてはいたが、ドイツでは既に実践段階だったとは……」
「国レベルの事じゃない。だが、奴一人が特別という訳でもあるまい」
「なら、超能力者は他にもいると?」
「恐らくな」

興味深い話ではあったが、そんな彼らの会話等、ルビーは全く聞いていなかった。彼の関心は既に消火活動を始めている化学消防車の方に移っていた。
「ねえ、見て! あの車カッコいい! 僕、あれに乗りたいよ!」
こちらに来てルビーが言った。しかし、いきなり駆け出そうとする彼の腕をギルが掴んだ。
「ダメだ! 今は大事な仕事をしているんだからな。邪魔をするんじゃない」
「じゃあ、お仕事が終わったら?」
「いや。ダメだ」
とギルに言われるとルビーは泣き喚いた。
「いやだ! 僕、あれに乗りたい! 乗りたい! 乗りたい!」
「泣くな! それなら、後でもっといい物に乗せてやる」
「いい物って?」
「機関車ジョミーだ」

ギルフォートの言葉にブライアンは思わず吹き出しそうになったが、二人が真剣な顔をしていたので必死に押さえた。
「ホント?」
「ああ。次はイギリスへ行く予定なんだ」
「イギリス? そこにあるの?」
「ああ。あるとも。そうだよな? ブライアン」
いきなり振られて彼は焦ったが、ギルフォートに突かれて彼は神妙に頷いた。
「ああ。もちろんだよ。あれは、イギリスの作家が書いたものだからね。確か公園で展示していた筈だ」
「そうなんだ。ブライアンも好きなの?」
と訊かれて彼は苦笑しながらも頷いた。
「もちろんさ。おれも子供の頃は何回も乗りに行ったもんだ」
と自慢した。
「へえ。すごいんだね」
と妙なところに感心している。

「僕、そういう人尊敬するよ」
と言って笑う。
「尊敬?」
「そんな風に合わせてくれてさ。ギルはすぐにバカにするし、ジェラードは子供扱いするからいやなんだ」
とルビーは言ってそこを立つ。
「おい。何処に行く?」
ブライアンが訊く。
「こんなんじゃ、もうゲームは終わりでしょう? ホテルに帰るよ」
と澄ましている。

「おい。あれは、一体何処までわかっているんだい?」
混乱したようにブライアンが訊いた。
「さあな。ああいう奴だ。ひどく子供っぽいかと思うと突然わかったような口を利く。なら、わかっているのかと思えばそうでもない。つかみどころのない奴さ。だが、実力だけは本物さ。なめて掛かれば酷い目に合う」
と瓦礫の中から救出されつつある哀れな人間を示した。
「なる程ね。そいつはなかなか興味深いよ」
頭上の風がまた、何処かの記憶を拾う……。
(そう。奴の超能力の事はあまり知られていない。第一、この世に超能力を持つ人間がいるなんて考えてもみなかった。ルビー、おまえに会うまでは……)


 「よし。取り合えず、このトラックを走るんだ。1周は200メートルある。最初は5周だ。いいな?」
それは、まだ出会ったばかりの頃。まずは基礎体力からと訓練を始めた。柔軟性と瞬発力は抜群だったが持久力がなかった。ただ走るのでさえ、長くは続かない。そこで、まずは地道に基礎を叩き込む事にした。
「走るの?」
ルビーは不満そうに見上げた。
「そうだ。強くなりたいんだろ?」
「う…ん……」
歯切れの悪い返事だった。
「ならば、行け! タイムを計ってやる」
とストップウォッチをかざす。

「わかった」
ルビーはフラッと駆け出す。用意も何もない。しかし、ギルは何も言わなかった。
「早い……!」
それは、正に俊足だった。いや、グランドに足が着いているのかどうかさえもわからない程軽くしなやかな動き……。瞬間的に完成した生きた芸術と言えた。しかし、それは、正しく瞬間でしかなかった。その美しいフォームはあっと言う間に崩れ、ペースが落ちて、やがて止まった。
「何をやってる? まだ、50メートルも行ってないぞ!」
ギルが叫んだ。しかし、彼は止まったきり全く動こうとしない。
「おい」
近くまで駆け寄るとルビーは彼を見上げて言った。
「疲れた。もう、走れない」
「走れないだって? そんな事ないさ。まだ、それくらいの力はあるだろう? さあ、行くんだ」
と背中を押す。すると、ルビーは仕方なく、また、ヨロヨロと足を踏み出した。

「そうだ。いいぞ。行け!」
とギルが見つめる。ルビーは勢いを取り戻し、十数メートル進んだ。
(ちゃんと出来るじゃないか)
ギルは、単にルビーがサボリたいだけだと思っていた。が……すぐに様子がおかしいと気づいた。手足の動きがぎこちなくなり、顔色も……。そして、いきなりパタンと倒れた。
「ルビー?」
そのまま起き上がらない彼を見てギルが駆け寄る。
「ルビー!」
抱き起こすと少年はぐったりとして息をしていない。鼓動が停止していた。
「そんな……!」
ギルフォートは慌てて救命措置を施した。心臓に持病があるなどと彼は聞いていなかった。しかも、たったこれっぽっちの距離を走らせただけだというのに……。

ギルフォートの脳裏にミヒャエルのあどけない笑顔が蘇った。死んでしまった彼の弟……。ミヒャエルもまた発達障害のある子供だった。弟は知能も運動能力も極端に弱かった。けれど、両親を早く亡くしたギルフォートにとっては唯一の肉親だった。その唯一の者を、彼は目の前で亡くした。
――ギル。大好きだよ。ギル。ぼくのお星さまをあげる
動かない手足で、彼は必死に幸福を掴もうとしていた。けれど、その手は兄の手をすり抜け、時の狭間へと落ちて行った……砕けて散ったカレイドスコープ……弟が見つけたその星を兄は今も見つけられずにいる。ルビーはそのミヒャエルに似ていた。屈託のない笑顔……純粋な瞳……。いろいろな想いが交錯した。

「バカヤロー! 目を覚ませ!」
軽く頬を叩いてみた。だが、反応はない。
――ギル……
ミヒャエルは、淡い金髪をしたとても可愛い子だった。その笑顔は、皆を幸せにしてくれた。この世に天使がいるとしたら、こんな感じなのではないかと彼は想う。確かに、ミヒャエルは他の子供と違って読み書きも出来ないし、歩く事さえ出来ず、ベッドか車椅子で過ごす事が多かった。よく熱を出しては母の手を借り、その都度、兄のギルフォートは寂しい思いもした。が、それでも、ミヒャエルはいつもギルの後ばかり追った。

――待って! ギル。ぼくも連れて行って……!
いつも泣きそうな顔で追って来る小さなミヒャエル。その顔とルビーの顔が重なった。出会ったばかりの日。人形遊びをしていたルビーが言った。
――これね、僕のお気に入りなの。でも、ギルは特別だから貸してあげる。ギルの事,好きだから……
そう言って人形を差し出すルビーの笑顔がミヒャエルと重なる。それを無碍に断った時の今にも泣き出しそうなその顔が……あまりに似ていて、ギルは戸惑い、纏わり着いて来た彼を突き放してしまった。
――違う。こいつはミヒャエルじゃない
心の中で言い聞かせる。髪の色も目の色もみんな違う。いくらアルファベートや計算が出来なくても、ルビーにはピアノがある。それに、彼は歩き、走る事さえ出来るのだ。いくら雰囲気が似ていても育った環境もまるで違う。
――別人だ
ギルは何度もそう言って自分の心を宥めた。
――これは、ミヒャエルではない
不注意に因り、死なせてしまった彼の弟ではないのだと……。

(目を覚ませ)
願いが通じたのか、その頬にうっすらと赤みが差して来た。ハッとして鼓動を確かめる。それは、規則正しく拍動し、呼吸も戻って来ていた。ギルはホッとしてその顔を見つめた。が、意識はまだ戻らない。彼はそうっとルビーを抱き上げると急いで建物がある方へと走った。
「救急車を……」
庭先にいたジェラードの娘、エスタレーゼに声を掛けた。
「ルビー! 一体どうして……!」
ぐったりとしている彼を見て動揺している彼女にギルは状況を説明し、早く病院へ連れて行った方がいいと言った。
「わかったわ。すぐに呼んで来ます」
と言ってエスタレーゼは家の中へと駆け込んだ。すると、抱いていたルビーが目を覚ました。

「病院……?」
ぼんやりとして定まらない視点……。
「ぼくを病院へ連れて行くの?」
「ああ……」
ギルは頷き、状況を説明しようとした。と、その時。
「いやあぁあ――っ!!」
子供が叫び、突然、異常な力と爆発的な光が視界を覆い、彼は弾き飛ばされた。192センチ、90キロの彼の体がいとも簡単に宙を飛び、数メートル先の建物の外壁に叩きつけられたのだ。
「う……!」
一瞬、何が起きたか理解出来なかった。
「いやだっ! いやだ! 病院はいや……!」
ルビーが叫んだ。見ると子供は十メートル程離れた場所にへたり込んで喚いている。
「病院はいやだ! いやあ――っ!!!」
そうして、ルビーは勢いよく立ち上がると花壇の方へ駆け出した。

「待て!」
慌てて後を追い掛ける。
(何て素早い……)
それは、驚愕するばかりだった。つい先程まで心臓が停止し、命とて危うい状況にあった人間とは思えなかった。
「くそっ! 何処へ行った?」
あっと言う間に姿の見えなくなってしまった子供を追って彼は薔薇の咲く花壇へと来た。よく手入れされた美しい花が咲き乱れるその庭を彼は見渡す。すると、赤い薔薇の茂みの中でしゃがみ込んでいるのが見えた。
「あれでも隠れているつもりか?」
子供は頭を伏せていたが、大人の身長からは丸見えだ。ギルはフッと微笑して言った。

「そこにいるのはわかっている。出て来い」
「いやだ!」
そう叫ぶとルビーはその茂みの中をガサゴソと移動した。ギルは呆れてゆっくりとそちらへ近づいて行く。と突然、ルビーが花の間から顔を出して叫んだ。
「来るな!」
と同時に靴音が止まる。その顔を睨みつけてルビーが言った。
「それ以上、近づくな!」
「来たらどうする?」
「殺す!」
そう言ってルビーは一本の薔薇を折ると構えて見せた。
「そんな物で人が殺せるか」
と言うギルの言葉にルビーは僅かに唇の端を上げ、皮肉の笑みを浮かべた。
(何だ? この子供……さっきの力といい……)
一体何をしようというのか? 恐れというより興味が沸いた。そこで、彼は慎重に踏み出す。と、次の瞬間。ルビーの瞳がチカリと光り、手にした薔薇を投げつけて来た。それは鋭利な刃物のように彼の胸を目指して飛び、光の棘が牙を剥いた。

(殺気……!)
咄嗟にギルは銃を抜き、薔薇を撃った。するとそれはたちまち光のコーティングから解放されてか弱い花びらとなって散った。
「あー……!」
驚いて見つめる子供の額に銃口を押し付けると、凄みを利かせて彼は言った。
「フッ。おまえの負けだな。降参するか?」
と、真正面から視線がぶつかる。僅かに逡巡している子供。が、次の瞬間。ガッと突然ルビーが右手を突き出した。と、同時に再び光が弾け彼の手から拳銃を弾き飛ばし、そのままの勢いでギルフォートに飛び掛った。突き出されたその爪は、全て光のコーティングが施され、戦車の装甲でさえ引き裂くぞと言わんばかりの迫力だった。そして、その右手がギルの胸を突いた。が、次の瞬間。ギュッと手首を掴まれて子供は悲鳴を上げた。
「痛ゥッっ! 痛いよ! 放して……!」
両手首を掴まれ、後ろ手に締め上げられては叶わない。子供は遂に泣き出した。が、それでもまだ抵抗を続けている。

「暴れるな! 骨が折れるぞ」
「いやぁーッ! 放してっ!」
とじたばたする。
「ホントに折るぞ」
と押さえ込んだ手に圧力を掛ける。さすがに少し大人しくなった。
「何故、逃げた? あれは、おまえの力か?」
「Ja……」
子供は泣きながら返事した。
「お願い。放して」
「もう逃げたりしないか?」
「Ja」

「何故逃げた?」
「病院へ連れて行こうとしたから……」
「病院が嫌いなのか?」
「Ja」
「何故?」
「だって、だっていやだよ! 病院は人を殺すもの」
「殺す? 逆だろ? 病院は人を助ける所だ。そうだろう?」
「ちがう! 病院は人を殺す! ぼくを殺そうとしたんだ! あの医者も! 看護士も、みんな! みんなでぼくを殺そうとしたんだ! ホントだよ! ホントにぼくを……!」
暴れる子供を強く抱いて押さえ込む。
「ホントなんだ……他にも大勢殺されて……」
涙を流し、訴えて来る彼にギルは穏やかに言った。
「そうか。わかった。信じよう」
「信じてくれるの? ぼくを……」
「ああ」
じっと見つめるルビーの瞳にまた、あのやさしい輝きが戻っていた。

「ホントに?」
ギルが頷くとうれしそうに微笑した。その頬にはまだ幾筋も涙が流れていたが、彼は笑っていた。
「初めてだよ。ぼくの事信じてくれた人って……本当に初めてで……」
と言ってルビーは顔を歪めた。
「どうした? 痛むのか?」
「うん。腕が……」
「どれ、見せてみろ」
袖をめくるとあちこちかき傷だらけだった。
「バカが……薔薇の茂みに飛び込んだりするからだ」
と言って、彼はその腕にそっとハンカチを巻いてやった。
「ありがとう」
とルビーが言った。
「後でちゃんと消毒をした方がいい。家に戻ったら……」

「もう病院には行かない?」
「それは……」
「ぼく、大丈夫だから……。ねえ、ぼくの力を見たでしょう?」
「ああ……あれは、超能力なのか?」
「さあ? 知らない。でも、ぼくには出来るの」
と言って、視線はもう、花壇で遊ぶ蝶を見ている。
「本当にもう大丈夫なのか? さっきは心臓が止まったんだぞ。何でもない筈がないだろう? おまえ、心臓が悪いんじゃないのか? それとも、何か別の病気が……」
「平気だよ。ぼく、別に何処も悪くないもん」
と言って彼はまた、花の群れへ駆け出した。ミヒャエルの背中には、確かに天使の白い翼があったかもしれない。だが、ルビーの背中には、黒く光によって色を変える蝶の羽が付いているにちがいないとギルフォートは思った。