RUBY
〜練習曲3 哀しき玩具〜
Part 1 / 3
世界はミニチュアでできていた。
そして、そこに立つルビーは遥かな巨人……。
(僕は今、怒ってるんだ。ものすごく怒ってるんだ。だから、街を……踏みつけて、破壊して、なにもかも滅茶苦茶にしてやりたい)
突然、頭上で轟音が響いた。空を過る巨大な翼……。空港からたった今、飛び立って行った飛行機だった。
そこはフランクフルトにあるワンダーランド。ミニチュアの博物館だった。ルビーはずっとそれを見たいと願っていた。そして、今日、ようやくギルフォートと一緒にここに来ることができたのだ。
建物の中では、部屋ごとに様々な趣向を凝らした街が本物さながらに動いていた。まさに小さな夢の国といった雰囲気である。ルビーはすっかりそれに魅せられていた。だが、そこにギルフォートの姿はない。彼は病院へ行ったのだ。
その日は、先日行ったルビーの精密検査の結果が出る日だった。本来ならルビー自身も同席するところではあったが、彼はそれを拒否した。無理に検査をされたことをまだ恨んでいるらしい。上目遣いに睨んだまま口を利こうとしないルビーをその場に残してギルフォートは一人で病院へ行くと言って出て行った。
目の前の小さな道路を車が過ぎて、滑走路では、今まさに飛行機が飛び立とうとしていた。点滅している赤いライトがドラマティックな雰囲気を盛り上げた。
「どうしてだろう? 僕だって同じおもちゃを持っているのに……」
街はあまりにもリアルだった。作られた自然。そして、偽りの人々が、あたかもそこで生きて働いているような錯覚を覚えた。電車も橋も工事現場も、何もかも……。
ルビーは幾つもの部屋を回り、再び最初に見た空港の部屋へ戻って来た。港に船が戻って来るように……彼もまたそこへ戻って来たのだ。すると、時計の針が時を刻むのと同じように、街の時間も静かに動いていた。
「最初の時と違う……」
人も車も微妙にポジションを変え、動きも変化していた。時間によってはいろいろなアクシデントやイベントも起こる。まるで生きている人間がそこで暮らしているかのように……。
そこには人形達の日常があるのだ。いくら見ても飽きることはなかった。ふと見ると偽りの少女が空を見上げていた。
(何を見ているんだろう)
ルビーも見上げた。すると、ガラスに映った本物の街が覗いた。それはあまりにも巨大に見えた。しかし、空から見れば、そんな建物さえも、恐らく小さな造り物にしか見えないだろう。そこは硝子の檻の中、安全神話のミニチュアの街……。
「ルビー」
不意に呼ばれて振り向くとそこに男が立っていた。見慣れた銀色の髪。その瞳に映るのは深い緑の偽り……。
「結果が出た」
ギルフォートが言った。しかし、ルビーは関心なさそうに再び囲われた部屋の中で過ぎる電車の車両を数えた。
「アインツ、ツバイ、ドライ……」
「特に異常は見つからなかったそうだ」
ギルフォートは彼の隣に来て言った。しかしルビーは俯いたきり黙っている。
「どうした? 浮かない顔だな。どこにも問題はなかったと言ってるんだぞ」
「またわかんなくなっちゃった……」
手すりにそっと手を掛けて彼は空港を模した模型を見つめる。それから静かに男を振り仰いで言った。
「結果なんかはじめからわかっていたよ。それなのに、無理やり、僕を病院なんかに連れて行った」
その手が微かに震えていた。
「確かに検査の結果では異常は見つからなかった。だが、微熱は一向に下がらないし、おまえだっていつも身体がだるいと言っていたじゃないか。それに、ウェーバー先生も気にされていた」
「そんなの……」
ルビーはそのまま男の脇を通り過ぎ、通路へ出て行った。その影が窓から射し込んだ光に溶けて陽炎のように揺らめく。
「ルビー……」
男は静かにあとを追った。背後で突然、緊急車両のサイレンが響いた。一日のうちに何度か催されているパフォーマンスの時間になったのだ。見物人達がわっと歓声を上げた。が、ルビーはそれも見ずに行ってしまった。
(小さなおもちゃの街……。ここでは何もかもが小さくなっているのに、時計だって小さくなってるのに、どうしてだろう? 時間はちっとも変わらない。時計の針は大きさが違ってもみんな同じ時を刻んでいる。それは人間も同じなんだろうか? 身体の大きさが違っても心臓は変わらずに、いつも同じ時を刻むの? ギルも僕も同じ時間を……)
しかし、ルビーは首を振り、足を止めた。
「ちがう」
前方に回り込んだ自分の影を見つめて彼は思う。
(人間はみんな同じじゃない。僕とギルの時間の針はちがう時を刻んでいる)
それは脈の速さなのか、それとも歩く速さによるものなのか。誰にもわからない。しかし、時としてあまりに早く時を刻み切ってしまう者がいる。
「同じじゃない……」
彼は光の当たる扉の向こうへ駆けて行った。低いエンジン音を響かせて、薄い光の空へ飛行機が飛んで行く……。
「彼らはきっと……」
ブライアンやエスタレーゼは多分、自分とはちがう時を刻んでいたのかもしれないとルビーは思った。
(それなら、それも運命なのか? 殺される者達のためへと続く運命……)
彼は軽く手を握った。そして、透ける血管を見た。そこに流れる赤い血を……。運命は、自分をどこまで生かしてくれるだろう。そして、いつかそれが破れる瞬間が来るのだろうか。彼らの死にざまがそうだったように……。自分もまた赤い泥濘の中に沈むのだろうかと……。しかし、それは耐えられないと思った。
彼が歩き出したその先の植え込みには、薔薇が咲いていた。それを手入れしている者達が、人形のように身を寄せ合っていた。
鮮やかな赤い薔薇……。香りのいい黄色い薔薇。そして、母が好きだった白い薔薇……。ルビーはじっと記憶の向こうで見つめていた。その花は好きだった。いつも母の近くで咲いて、いい匂いをさせてくれた。だから、彼はその薔薇の香水を好んだ。その高貴な香りを……。しかし、その棘はいつも彼を傷つけた。
(母様……)
白い薔薇にキスすると、唇の端を切った。赤い薔薇を奏でると、その手を赤い雨が染めた。それから彼はずっと離れられなくなってしまったのだ。血と薔薇と遠い風の記憶……。何度手を洗っても落とせない。瞳に強く焼き付いてしまった。そして何よりも心の底にこびりついてしまった悲しみが、彼の鼓動を急がせた。
――こんなことをさせるためにおまえをここに呼んだんじゃない
「アル……」
ルビーは頷き、そっと懐に手を当てた。そこには闇を凝縮したような鉄の塊がある。取り上げられてしまった銃の代わりにジェラードがくれた黒いボディーガード……。
「僕だってわかってる。でも……」
それを使ってはいけないのだ、と……。
彼は道路に膝を付いた。鼓動が異常に速かった。まるで胸の奥で炎が燃えているような熱さを感じた。が、その指先も首筋も氷のように冷たい。
「どこにも異常がないだって? 藪医者め」
彼は胸を押さえてうずくまった。
「異常がないなんて嘘だ! だって、僕は……。こんなにも熱く、こんなにも苦しくて、泣きだしてしまいそうなのに……こんなにも……!」
言葉の端が光に散った。
「ルビー……」
男が呼んだ。
「薬を……」
ルビーは顔を上げずに言った。
「鞄の中にはなかった。ポケットの中にも……。ギルが持って行ったんでしょう?」
「そうだと言ったら?」
「返してよ」
男に向かって腕を突き出す。
「おまえはどこも悪くない。だから、もう薬に頼るのはよせ」
「悪くない? そう。僕は何も悪くない。だけど、薬は必要だ。だって、僕はこんなにも苦しいんだもの」
「それがあれば楽になれるのか?」
「わからない……。でも、楽になれると信じられる」
それはジェラードがくれた物だった。その男のことをルビーが本気で信じているとは思えなかった。が、それでも彼は薬を欲しがった。ギルフォートではなく、ジェラードが処方した薬を……。
「薬ならここにある」
男がそれを差し出した。背後でまた飛行機が飛び立って行く……。
「ダンケ」
ルビーはそれを掴むとさっと建物の方へ駆けて行った。その後ろ姿を見つめてギルフォートが呟く。
「もう……戻れないのか……」
まだらの羽を持つ1匹の蝶が目の前を斜めに過ぎて、遠い光に紛れて行った。
ルビーは売店でミネラルウォーターを買った。そして薬を飲んでしまうとボトルを鞄に入れて歩き出そうとした。その時、窓の向こうを行く人の横顔がルビーの遠い記憶を呼び覚ました。
「ヨハン……?」
黒いスーツに帽子を目深に被った年配の男だった。彼は思わずその窓に駆け寄った。遠ざかって行くその男の左腕には見覚えのある銀の鎖の付いた時計……。そして、何よりも深い栗色の瞳……。
(間違いない。あれは……)
ルビーの心臓が高鳴った。
――ヨハン! ヨハン、車を止めて! 今すぐにだよ
――ルートビッヒ坊ちゃま、どうなさいました?
(彼はすぐに車を止め、ドアを開けてくれた。僕はそこに咲いていた野の花が欲しかった)
――見て! 坂の途中にきれいなお花が咲いてるの。ぼく、あれを母様に差し上げたいの
――足元が危のうございます。私が取って参りましょう
――だめだよ。ぼくが自分で取りたいの
――坊ちゃま……
(それでも彼はずっと待っていてくれた。斜面で滑って、僕が転びそうになった時、そっと僕の手を取って支えてくれた。そして、遂に僕がその花を持って斜面を上り切ると、彼は笑ってくれたんだ)
――本当に美しい花ですね。きっと奥様もお喜びになるでしょう
「ヨハン……」
ルビーは急いで出口に向かうと、男のあとを追った。それは昔、シュレイダー家の執事をしていたヨハン カルマイヤーに違いないと思ったのだ。
「ヨハン! 待って! 僕のこと忘れたの? ヨハン!」
しかし、ルビーが外に出た時にはもう、男の車は発車してしまったあとだった。
「ヨハン……。僕だよ。ルートビッヒだよ! ヨハン……!」
千載一遇のチャンスに思えた。もし、その男が本物のヨハン カルマイヤーならば、彼はもう一度光の世界に戻れるかもしれない……。そんな幻想に囚われたのだ。しかし、そのチャンスは消えてしまった。ルビーは固く拳を握ると唇を噛んだ。
(今更、シュレイダー家に戻ってどうするって言うんだ。僕にはもう帰るところなんかない……)
――きっと奥様もお喜びに
「もう誰も……僕を待っていてくれる人なんかいないんだ……!」
車が列をなして流れて行った。まるでミニチュアの道路を走るミニカーのように……。昔の思い出を連れて流れて行った。
「ルビー……」
背後から近づいて来たギルフォートが呼んだ。ルビーの肩は微かに震えていた。
「どうした? 寒いのか?」
男がその肩に手を乗せて訊いた。
「ちがう」
彼は首を横に振った。その頬に光が伝う。
「具合がよくないのなら……」
「ちがうよ。薬のせいだ。きっと薬の……」
ノックの音が響いた。
「入れ」
ジェラードが返事する。
「失礼します」
ギルフォートが入って来て言った。
「少々お話したいことがあるのですが……」
「丁度よかった。私からもおまえに話がある」
開き掛けのファイルを閉じるとジェラードはにこやかに言った。
「グルドの活動の拠点としてアジアの候補地を検討していることは承知しているだろう?」
「はい」
「その一つの候補として東京、もしくはその周辺でと考えている。どうだね?」
「日本ですか」
一瞬、男の脳裏にルビーの顔が浮かんだ。が、それはすぐにブラインドの影に歪んで消えた。光と影と……。同じラインの先でジェラードが頷く。
「そこでだ。おまえに一つ現地での調査を依頼したいんだ。どうかね?」
ジェラードが訊いた。
「自分は日本語が堪能ではありませんし、そういった調査ならば他にもっと適任者がいるのではありませんか?」
ギルフォートは慎重に言葉を選んで言った。
「それはもっともな意見だね。しかし、今回はぜひおまえに行ってもらいたいんだ」
「何故です?」
ギルフォートは怪訝な顔をした。
「依頼が一つ舞い込んでいる」
ジェラードはテーブルの上で手を組み直して続けた。
「依頼……?」
「そうだ。男を一人消して欲しいとね」
「それは日本人ですか?」
「ああ。政治家でね。黒い噂が絶えない男だ。相当敵も多いらしい。同業者からの依頼だ。憎まれたものだな」
「それが、何故わざわざグルドに?」
グルドの名前は、アジア方面ではまだほとんど知られていなかった。そこを拠点としている組織は別に存在しているのだ。本来ならば、そちらに依頼するのが筋だ。あえてグルドに依頼する必要がない。依頼者の意図が掴めなかった。そして、ジェラードの意図も……。それを探ろうと男の目は鋭くなった。
「グルドの下部組織に所属している男を通じての依頼だ。依頼者は個人だが、確実な仕事ができる者を探していたそうだ」
「しかし……」
「無論、私のところに持ち込むなんてことは畑違いだ。だが、我々としてもアジアの拠点を確保したいと望んでいる。アジアの連中に勘づかれることなく、仕事をこなすには、ぜひともおまえの腕が必要だ」
「それはどうですかね。文化も風習も違う国です。地理的条件も定かではない。そんな条件下でいい仕事が出来るとはとても思えません」
「ルビーを連れて行けばいい。奴なら日本語を使いこなせる。ルビーはずっと日本へ行きたがっていた。今回の仕事は奴にとってもうってつけだろう」
「そのルビーなんですが、このところずっと体調不良が続いています。無理はさせられません。こちらのお話というのはその件です」
「検査はしたのだろう?」
「特に問題は……。しかし、奴の神経は我々が考える以上に繊細で、しかも現代の医学の知識を持ってしても簡単には当てはまらない要素が多分に存在します」
ジェラードはそんな男の態度に苛々と机を叩いて言った。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
強い視線がぶつかった。が、男は表情を変えずに答えた。
「ルビーを薬で懐柔することはやめて下さい。このままでは奴の精神が持ちません」
「そうだね。あの子は実に従順だ。餌さえ与えればすぐに喜んで付いて来る。犬と同じだ」
「……」
「だが、どんなに可愛がっても所詮は畜生と同じ。何の気まぐれで裏切るかわからん。あの子は両刃の剣だ。味方にしておけば最強の働きをする。しかし、一度コントロールを失えば凶暴な猛犬となる。おまえだってその目で見たのだろう? 奴を飼い慣らすためには餌と頑丈な鎖だ。そのためには奴を縛り付けておくための薬が必要になる」
「しかし、そんなことをしては奴の身体と精神が持ちません」
「構わんさ。奴の能力は惜しいが、あいつと心中するつもりはないからね。いざとなれば切り捨てる」
「……ルビーを欲しがっている者がいます。そこに預けるというのはどうです?」
「いいアイデアとは思えないね。あの子は内部のことを知り過ぎている。いくら知的能力に劣っていると言っても、何かの表紙にことが表ざたになっては困るのだ。火種は残さず消しておくのがルールだろう? ルビーを組織の外に出すことは断じて許さん」
――わたし、ルビーを逃がしてあげたいの
父は娘と同じ瞳の色をしていた。が、見つめている先は決して同じではない。それがこの父娘の悲劇の始まりだったのだ。
――お願い。ルビーを自由にしてあげて
(ルビーを自由に……。ならば、君は……そして、おれはどう動けばよかったんだ)
窓辺に置かれた植物の鉢植え。そこから伸びる葉の影が絡まり、スクリーンに投影されて広がって行く……。
「では、出発は3カ月後だ。おまえのことだ。それだけあれば準備は十分だろう」
「わかりました」
そう言うと男は黙ってジェラードの部屋を出て行った。
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