RUBY
〜練習曲3 哀しき玩具〜

Part 2 / 3


 「すみれ……」
人形のクローゼットの中を掻きまわしていたルビーが手を止めて呟く。

――まあ、綺麗なお花をありがとう、ルートビッヒ

母はその花を喜んでくれた。息子の小さな手に握られて、しおれてしまった紫のすみれ。
それでも母は美しいと言ってくれた。微笑んで、キスして、それからやさしく彼を抱き締めてくれた。

「母様……」
彼は手にした紫のドレスに唇を寄せた。甘い香水の匂いがした。
「これは特別な時……。舞踏会で王子様と踊るためのドレスなんだ」
そう言ってルビーは人形が来ていた黄色いワンピースを脱がせると、頭からそれをかぶせた。
「僕は魔法使い……。君を美しく変身させてあげるね」
それからルビーは人形の髪を梳かし、真珠のアクセサリーを付けた。そして、おもちゃのピアノでワルツを弾いた。しかし、人形はただじっとそこに立ったまま動かない。

「一人ぼっちじゃ踊れない? それじゃ、お友達も呼んであげる」
ルビーは様々な大きさのぬいぐるみや森のセットなどを並べた。しかし、人形は悲しそうな目でじっとルビーを見上げている。
「王子様はいないんだ。この間僕がたべちゃったから……」
人形達が不思議そうに見上げる。
「だって、僕は魔女なんだもの。何だってできるし、何だって壊せる。世界だって破壊できるよ」

彼の周囲には壊れたおもちゃが散らばっていた。脱線したまま動かない赤い電車や、折れてしまった船の帆や、ビショップの足りないチェスの駒。ビックリ箱のピエロはバネが絡んで動けない。
「どうして違うの?」
ルビーが訊いた。
「あの博物館とどこが違うの?」
白いチュチュのオデット姫は片足だけで狂ったように回り続ける。

金の折り紙で作った冠を頭に乗せて彼は言った。
「おいで、僕が君の王子様になるよ」
ルビーはそう言うと小さな人形の手を取った。
「僕と一曲踊っていただけますか?」
紫の煌めきの奥に映る哀しみ……。

――ルビー、これは秘密のことなのよ

エスタレーゼの姿と重なる。

――秘密?
――そう、お父様にもギルフォートにも、誰にも言ってはいけないの
――ギルにも?
――そうよ。ギルにも……

二人だけの秘密。
「エレーゼ……」
「秘密……」

 二人はたくさんの秘密を共有していた。彼らは、同じ年頃の友人が持っていそうな物なら何でも持っていたし、ジェラードはそれ以上の物を二人に与えていた。が、彼らは決して自由ではなかった。常に監視され、組織にとって有益であることが優先され、世間での常識とは違う枠組みの中で生きて来たのだ。ルビーの素性は明かしてはならず、彼女もまた父の手から飛び立つことを許されなかった。

――ルビー、宝探しゲームをしない?

 それは二人の大好きな遊びだった。彼女が隠した宝石や人形や手紙を部屋の中から見つけるのだ。ヒントは彼女自身が教えてくれることもあったが、そこにある物の中に隠されていることもあった。ゲームはだんだん範囲を広げ、高度になって行った。絵本の中に隠された絵のヒントを辿ってパスワードを見つけ、パソコンのロックを解除して答えを導き出すなどという複雑な形式の物もあった。

「でも、エレーゼはどうしてあんなことを言ったんだろう?」
ルビーはふと疑問に思った。彼女が亡くなってからもう2年半が過ぎようとしているというのに、今になって何故かその言葉が気になって仕方がなかった。

――これはわたし達だけの秘密よ

何度も何度も繰り返されて来た遊び……。
「どうして言ってはいけないの?」
人形に向かってそう訊いた。無論、それは答えない。
(彼女はどうしてあの時、あんなに悲しそうな顔をしたんだろう)

――もしも、日本に行って迷子になったら、ティンカーペルが助けてくれるわ。だから安心してね
――ティンカーペル? ピーターパンのお話に出て来る? 僕、大好きだよ
――そうよ。そこに行けば、魔法の本がもらえるの
――魔法の?

 その時には彼女が何のことを言っているのかまるでわからなかった。いつもの遊びの延長のように、彼女は何かのヒントをくれたのだ。
「ティンカーペルと魔法の本……」
それがどうして日本にあるのか。何故迷子になった時だけ助けてくれるのか。彼にはその意味がわからなかった。

「どうしてそれをギルに言ってはいけないの? ティンカーペルの人形なら僕持ってるよ」
そう言ってルビーは箱の中からオルゴール人形を出した。
「それに、魔法の本だっていっぱい持ってる」
本箱からカラフルな絵本を何冊も取って並べた。しかし、エスタレーゼの水色の瞳は悲し気に俯く。

「違うの?」
人形は答えない。
「何が違うの?」

――もしも日本で迷子になったら……

「僕は迷子にならないもん」
ルビーはぷっと頬を膨らませて言う。

――坊ちゃま、お一人で遠くに行ってはいけません。迷子になってしまいますよ。森の中は危ないこともあるんです

昔、ヨハンが言った。

――危ないこと? それがあるかを見に行くんだよ。ねえ、ヨハン、森にはほんとに魔女が済んでいるの? それで子どもをみんな食べちゃうの? ぼくはそれを確かめようと思ったの
――魔女なんかおりませんよ。あれはみんな作り話なんです
――でも、絵本の中には出て来たの。それに学校のみんなも言ったの。森には恐ろしい魔女が住んでるって……。それで、ぼくが泣いたら、弱虫だって笑うの。だから、僕は言ってやったんだ。それなら森には本当に魔女が住んでいるのかどうか確かめてやるって……。だから放して!

(僕を自由にして……)

ルビーは転がっていたおもちゃの杖を取った。
「僕は魔法使い」
その杖を人形に向ける。そして、呪文を唱えようとして彼は首を傾げた。
「忘れちゃった」
彼は杖を下ろした。

「もしかしたら、僕は今も捕らえられているのかもしれない」
(グルドという深い森の魔女に……)

 突然、ノックの音が響いた。
「だれ?」
ルビーがドアを開けると、そこにはマウリッヒが立っていた。
「ボスが呼んでるぜ」
「ジェラードが?」
「ああ。車で待ってる。支度ができたら降りて来な」
「いいよ。もうできてる」
マウリッヒはドアの隙間から見える散らかった部屋の様子をちらと見たが、黙って背中を向けた。


 外はすっかり暗くなっていた。街灯の下で白い車のボディーが浮かび上がって見えた。
「あれ? 車変えたの?」
「ああ。こいつは日本製さ。なかなか調子がいいよ」
「へえ」
ルビーが外観を見て回る。
「ほら、乗んな」
マウリッヒが助手席のドアを開ける。
「ありがと」

 ジェラードのいる事務所まではそこから5分もかからない。ルビーは窓から見える甲虫のような光を数え始めた。しばらく行くとふいに車がカタンと揺れた。その拍子にダッシュボードから本が落ちた。

「何の本?」
ルビーがそれを拾いあげて訊いた。
「ああ。今流行ってる小説さ。もう読んじまったからやろうか?」
「いらないよ。僕は本なんて読めないもん」
「そうかい? でも、これは日本の作家が書いたやつなんだぜ」
「誰が書いた本だろうと僕はいらない。それに、この本には絵だって付いてないもの」
パラパラとページをめくってそのままダッシュボードの上に返す。

「もっと面白い話ない?」
「面白い話か。そうだな、本屋で狼さんを見掛けたぜ」
「ギルは本の鼠だからね。別に珍しくないよ」
「でも、持っていた本が珍しい物だったんだ」
「何?」
ルビーがその横顔を見つめる。
「絵本さ」
「何だ。彼は絵本をコレクションしてるんだ。たくさん持っているの、僕知ってるよ」
ルビーはがっかりしたようにバックシートにもたれた。

「だが、みんな日本語の本だぜ。奴は日本語に興味あるのかな?」
「日本語?」
ルビーはそれがどういうことなのか考えた。

――この作戦がうまく行ったら、おまえが焦がれている日本へ……

(でも、あれは失敗した……)
ルビーは軽く拳を握ると唇を噛んだ。
(そのためにエレーゼは死に、僕達はグルドに取り残された……。あれ以来、ギルは何も言わない。日本のことも、彼女のことも、何も……)

――データを手に入れたの

(データ? それはグルドにとって大切な……誰にも知られたくない秘密……)

――これさえあれば、きっとあなたを自由にしてあげられる

(エレーゼ……)
暗闇に包まれた道路の端に小さな動物の骸があった。
「埋めてやらないの?」
ルビーが訊いた。
「明日になればなくなるさ」
車はスピードを落とさない。

(だから、君は殺されたのか?)

死んでいたのは野ウサギか、それとも猫かハリネズミ。暗がりに一瞬だけ赤い目が光る。
(殺されたのか……。グルドの秘密を持ち出そうとしたから……)
車がカーブを切った。再び落ちかけた本の表紙は赤い色……。フラッシュする信号を無視して、車は進む。不意に街灯が途切れ、周囲が闇に沈んだ。

(では、そのデータは何処に? ギル、あなたが持っているのか? いいや、違う。もしもそうなら、彼がここに残っている意味がない。なら、何処に……?)
灯りが戻って来た。

「グルドは、今度アジアに拠点を設けようとしてるらしい」
唐突にマウリッヒが言った。
「アジアに?」
「ああ。まだ何処になるかはわからない。中国か、韓国か、あるいは、日本やフィリピンかもしれない」

「何だ。ちゃんと情報を掴んでいるんじゃないか。それなら、ギルが日本語を勉強しようとしてたって不思議じゃないよ」
「ははは。おまえ、案外知恵が回るじゃないか」
「モーリー! 僕をからかったのか?」
「そんなことねえよ。まだ、そこが日本になるかどうかは未知数なんだ。候補には違いねえけどな」
「ふうん。けど、関係ないよ、僕には」

――もしも日本で迷子になったら……

(もしも……)
「おや、日本へ行きたくないのか? せっかくおまえが喜ぶ情報だと思ったのにな」
「それでわざわざ日本製の車や本まで用意したの? 用意周到じゃないか」
「まさか。こいつは偶然さ。ここに住んでりゃ、いやだって日本製の品物がじゃんじゃん入って来るだろ? 今や日本製品は生活にとっても切り離せない存在だからね」
「そうだけど……。やっぱり、実際に日本に住んでるのとは違うと思うよ」
ルビーが言った。

「フランスやイギリスも住んでみると、やっぱりどこかドイツとは違っていたもの。ましてや、日本はヨーロッパとは違う国なんだ」
「ほう。いっぱしのこと言うじゃないか」
「アニメで見たんだ。僕は母様が日本人だったから、日本語話せるけど、日本に行ったことはない。だから、多分、本当の日本のことはよくわからない。何度見てもわからないことがいっぱいあるし、見たことのない物や会話がたくさん出て来るよ。それに、たまにテレビで見るニュースの中に出て来る日本の景色は確かにきれいだけど、色が濃いし、何だかとても恐ろしい気がするんだ。人がいっぱいいて、まるで得体が知れないって感じがするんだもの」

「確かにな。おれも行ったことはないけど、どこかエキゾチックな雰囲気を持っている国だとは思うよ」
「エキゾチックか……。ねえ、日本にはまだ忍者とか妖怪っているのかな?」
「さあな。とっくに滅んだんじゃないのか?」
「でも、ヤマトナデシコはいるみたいだよ。マイケルが言ってた。いつかヤマトナデシコを探しに日本へ行くって……」
「ナンパしたいんならいい穴場を知ってるぜ。日本からの留学生がたくさん屯してる」
「いいよ。だって僕は……」
ルビーはきっちりと閉まった胸元に手を当てた。
(だって僕は……絡みついた鎖から逃げ出すことができないんだもの)

 建物の前で車が止まる。
「着いたぜ」
「うん。ありがとう」
ルビーはドアを開けると走って建物の中へ入って行った。


 「ジェラード!」
ルビーが執務室に入って行くと、ボスはにこやかな笑みを浮かべて彼を迎えた。
「やあ、坊や。元気そうだね。よかった。ギルフォートから、おまえが病院で検査を受けたと聞いたものだからね、心配したんだ」
「心配? なら、もう安心していいよ。特に異常は見つからなかったってギルが医者に聞いて来たから……」
「そのようだね」
ジェラードは微笑して彼を抱き締めた。

「あれ? ティンカーペルだ」
ジェラードの影に置かれていた人形をルビーが見つけて言った。
「ああ。可愛いだろう? おまえが好きなんじゃないかと思ってね」
そう言うとジェラードはその人形を取ってルビーに渡した。
「これ、僕にくれるの?」
「ああ。アメリカの知り合いからの贈り物だよ。どうも先方はルビーという名前を聞いて、女の子だと勘違いしたらしいんだが、まあ、おまえはそういう可愛らしい物が好きだから丁度よかっただろう」
「うん。ありがとう」
ルビーはうれしそうに笑ってその人形を撫でた。

「このお人形、ちょっとエレーゼに似ているね」
「そうだな。あの子もそういった物が好きだった……。彼女とそんな話をしたことがあるかい?」
「うん。ピーターパンのお話をしてくれたよ。絵本も読んでくれたの」
「彼女は他には何か言っていなかったかい? たとえば、ティンカーペルに纏わる秘密とか……」
「秘密?」

――誰にも秘密よ

「これはとても大切なことなんだがね、ティンカーペルにはエスタレーゼが託した秘密が隠されているらしいんだ。彼女の思いやメッセージのようなものが……。もし、そんなものが残されているとしたら、父親である私としては何としても知りたいんだよ。あの子が最後に何を伝えたかったのか。もしも何か望むことでもあったならぜひ叶えてやりたいと思うんだ」
ジェラードは彼の目を見つめて言った。
「やさしいんだね、ジェラード」
「父親だからね。当然だよ。だが、悲しいものだな。いくら望みを叶えてやれたとしても、その娘はもう戻って来ないのだから……。おまえは何か聞いていないだろうか。もし心当たりがあるなら教えて欲しい」
ジェラードが熱心に訊く。が、ルビーはじっと人形だけを見つめて言った。

「残念だけど、僕は何も知らない。ギルに訊いてみたら?」
「たとえ知っていたとしても、奴は何も言うまいよ」
ジェラードは軽くため息をつくと首を横に振った。
「どうして?」
「奴は裏切り者だからさ」
「裏切り者……?」
ルビーは蝋人形のように硬直して男を見つめた。秒針の音がいつもより大きな音を部屋の中に響かせ、鼓動は更に大きくルビーの耳の奥で鳴り続けた。

「気がついていたかい? あいつは娘を裏切り、グルドを裏切り、そして、おまえをも欺いている」
「僕を……?」
その瞳が微かに震える。そこに光る蛍光灯の灯りが分裂して行く……。ルビーはその意味を測りかねて意識が遠くなるのを感じた。
「そうだ。だから、坊や、ギルフォートのことは信用してはいけないよ。奴はおまえを利用しているんだ」

「ギルが……?」
「そうさ。私は前からずっと心配していたんだ。いざとなればおまえさえ、奴は平気で切り捨てることができる非情な心を持っている。娘も奴に唆され、利用されたんだ。ああ、可哀想なエスタレーゼ……」
ジェラードが額に手を当て、苦渋に満ちた顔で人形を見つめた。

――たった一人のお父様なの

「たった一人の娘だったんだ……。私にとってたった一人の……」
それはあまりにも寂しい中年の男にしか見えなかった。一人の父親として娘を思う父親の……。

「僕、知ってるよ」
ルビーは僅かにあとずさると蒼白な顔で言った。
「エレーゼのお腹には赤ちゃんが……ギルの子どもがいたんだ! 二人は僕を騙して……僕が何も知らないと思って騙してたんだ! 結婚しようなんて……! みんなで幸せになろうなんて言って……。それで……」
ルビーの手から人形が落ちて、固い音を立てた。

――ルビー、気をつけて! お父様は……

「それで? 連中は他に何を言っていた?」
ジェラードはやさしくルビーの肩を掴むとその瞳を覗きこんだ。
「痛い……!」
ルビーはその手から逃れようと抵抗した。
(やめて! やめてよ! 痛い!)
しかし、男はしっかりと彼を包みこんで放さない。

「息が……」
ルビーは胸を押さえて喘いだ。
「可哀そうに……。おまえをこんなにも辛い目に合わせるなんて……。許しておくれ、坊や。そして、どうか娘のことも許してやって欲しい。彼女には悪気はなかったんだ。娘は利用されただけなんだよ。悪いのはギルフォートだ。奴がすべてを台無しにしたんだ」

「苦しい……」
ルビーはぐったりと男の肩にもたれ掛かり、ジェラードはその背を撫で続けた。
「だけど、おまえは何も心配しなくていいんだよ。何もかも私がいいようにしてあげるからね」
甘い男の声がルビーの思考を麻痺させた。そして、伸ばした手が床の人形を掴もうとした。が、霞んだ目には遥か遠く霧の向こうに去って行く女の幻が見えた。

(エレーゼ? それとも……誰?)
上を向いたままの人形はじっと白い蛍光灯の光を見つめている。
「おまえがグルドの新しいボスになるんだ」
男の囁きは続いていた。
「僕が? どうして?」
「おまえは何もかもクリアしたんだ。スナイパーとしての腕も、能力者としての実力も……。私の跡を継ぐ者として十分な実力があると認められたんだ」

「でも……僕は読み書きが……」
「そんなことは皆、秘書にやらせればいいんだ。おまえはただボスとしてそこにいてくれればいいんだよ」
「でも、みんなが僕を馬鹿にするよ」
「気にするな。私が認めたんだ。そうすれば他の連中も認めるだろう。誰にも文句は言わせない。どうだい? 素敵だろう?」
耳元で囁き続けるジェラードの声はまるで人工甘味料のように甘過ぎて、ルビーは吐き気を感じた。

「やめてよ。今はまだ何も考えられないよ。苦しいんだ。それに頭も痛い……とても痛くて……」
「いいよ。ゆっくり考えればいい。ほら、薬をやろう。これを飲めば、落ち着くだろう」
そう言ってジェラードは彼に錠剤を渡した。
「水を持って来てあげよう」
そう言ってジェラードは部屋から出て行った。

「薬……」
手の中のそれを見つめてルビーが呟く。
「これを飲めば、本当に楽になれる?」
(何もかも忘れて楽に……)

――奴は裏切り者だ。いざとなれば平気でおまえだって切り捨てる非情な心を持っている

手さぐりで人形を拾い上げるとそれをそっと机の上に置いた。その表情は悲しそうにも見えたし、怒っているようにも見えた。
「笑ってよ」
泣き出しそうな声でルビーは言った。
「お願いだから、楽しそうに笑って……!」

――次にイギリスに来た時、湖水地方へ連れて行ってやるよ

「ブライアン……約束したのに……」

――奴は死んだ

思い出の風が吹く十字架の前でギルフォートは言った。

「どうして……!」
苦痛に喘ぎながら彼は妖精に話し掛けた。
「どうしてなの? ギル……あなたは何故そんな風に……」

 ジェラードが戻って来た。
「ほら、水を持って来たよ」
「ありがと……」
ルビーはその水で一気に薬を流し込んだ。
(何も考えたくない……。もう何も……)
「そこのソファーで休むといい」
男はルビーを抱えるようにソファーに座らせた。

「ほら、もう落ち着いて来ただろう?」
「……うん」
「実はね、今度、グルドは日本にも拠点を設けようと思っているんだ」
ジェラードは自分もルビーと同じソファーに掛けて言った。

「日本?」
「そうだ。ギルフォートには下見を兼ねて仕事の依頼をした。おまえも同行してくれないだろうか?」
「僕が日本へ? ギルと一緒に……?」
「そうだ。ずっと行きたがっていただろう?」
頭の中で分裂する光。その煌めきの中に浮かぶのは黄色いさざめきと深い緑。構想ビルやデフォルメされたモンスターの群れ……。寺や神社やサムライの少し不思議で滑稽な姿……。

「日本へ行ってどうするの?」
気分は悪くなかった。薬のせいで頭がぼうっとし、心は軽く痺れている。
(日本に行けば母様に会えるかもしれない……)
ルビーは少しだけ心が高揚していた。
「ねえ、ジェラード……」
潤んだ瞳でルビーは訊いた。上質のワインを飲んだ時のように、彼は自分の空想に酔っていたのだ。そんなルビーの様子を見て、ジェラードはゆっくりと彼の背を摩りながら、落ち着いた口調で言った。

「奴を始末して欲しいんだ」
「え?」
一瞬、男が何を言ったのか彼には理解できなかった。
「おまえがグルドに対して確かに忠誠を誓ってくれるならね、さっきの話を進めようと思う。だが、おまえが言っていた通り、グルド内部にも異議を唱える者も多い。そういった連中を黙らせるためにも、おまえ自身でそれを証明することが必要なんだ。わかるね?」
「でも……」
ルビーは戸惑っていた。が、ジェラードはそんな彼の意思など無視して言った。
「命令だ。おまえ自身の手で、ギルフォート グレイスを殺せ!」