RUBY
〜練習曲3 哀しき玩具〜

Part 3 / 3


 夜、ルビーを乗せた車は街道を走っていた。両側に並ぶ幾つかの建物にはまだぽつぽつと灯りが灯っている。その路の端をそぞろに歩く人々。路地の向こうにある劇場の公演が終わったらしく、彼らは皆興奮し、頬を紅潮させて喋っていた。ルビーはぼんやりとそんな人間達の流れを見ていた。が、不意に何かを思い出すと身を乗り出して反対側の窓を見た。

「あれ? ほんとだ。もう無くなってる」
さっき事務所に向かう時見た骸は確かにその場所から消えていた。きっと誰かが埋葬してくれたに違いない。
(もしかして、モーリーが……?)
ルビーはふと、そんな気がした。

 車は黒いベンツ。運転しているのはマウリッヒではなかった。ルビーとは面識のないエラールというギリシャ人の男だ。エラールは運転は上手かったが、乗っている間、ほとんど口を利かなかった。
「モーリーはいないの?」
「マウリッヒは別に仕事が出来た」
ルビーが訊くと、事務的な返答が返って来た。

(あの本、もらっておけばよかったな)
ルビーはぼんやりと本の赤い表紙を思った。もらったところで自分が読める訳ではなかったが、日本語の勉強をしているなら、ギルフォートの役に立ったかもしれないと思ったのだ。
(ギル……)

――ギルフォート グレイスを殺せ!

ジェラードの言葉が頭の中で響いた。ルビーはそれを追い払うように別のことを考えた。
(日本か……。マイケルはもうヤマトナデシコを見つけただろうか)
 その青年はアメリカで知り合ったカメラマンだった。彼は大学で日本学を専攻し、近いうちに日本へ行ってヤマトナデシコをゲットするのだと張り切っていた。

――殺せ!

(ヤマトナデシコか……)
日本の女性は人気があった。マイケルならずとも、機会があれば、日本人の彼女が欲しいとか、日本人女性と結婚したいと望む若者の声も決して珍しいものではなかった。
 日本人の女性は控えめで夫や彼を立ててくれるというイメージから欧米の男性達からは絶大な人気を誇っていた。
 一説によれば、現代ではそんな風でもなくなって来たらしいと聞くが、何しろ遠い国のことである。若者の間では、憧れが先行し、夢見る者も多かった。
(僕も見つけられるかな? 僕だけの特別な女の子)

――殺せ!

払っても払っても言葉が追い掛けて来た。

――ギルフォートを

「黙れ!」
突然、ルビーが叫んだ。ハンドルを握っていたエラールが一瞬だけ顔をこちらに振りむけた。が、すぐにまた、何事もなかったかのように正面を向いて運転を続けた。

――娘から何か聞いていないだろうか。例えば、このティンカーペルに纏わる何かを……

膝の上の人形は何かに耐えるようにじっと動かずにそこにいた。
窓の外では街灯の光が、まるで劇場の舞台を照らすライトのようにチカチカと眩しく輝いていた。しかし、それはクリスマスツリーに飾るイリュミネーションのようにやさしい光ではなく、心に深く突き刺さる針のような鋭い光だった。

(やめて……!)
ルビーが目を光から庇うように手を翳した。膝の上の人形がバランスを崩して足元に転がる。
(やめて……)
その手の影がルビーの顔半分を覆った。遮られた光の渦は、路面をカーブして天に昇る……。

突然、視界の隅に薄い羽のような残像が見えた。
「ティンカーペル……」
ルビーが呟く。
(今、確かに……)
彼は窓を開けると身を乗り出して周囲を見た。暗い路面に映るのは街路樹と高い信号の影……。

「止めて!」
ルビーが叫んだ。エラールがブレーキを踏む。車は静かに停車した。
「ありがと」
ルビーはドアを開けて飛び出した。

「変だな、何処にもいない……」
ルビーは周囲を見回して見た。が、その辺りには灯りもなく、まるで人通りもなかった。ルビーは路を遡るように駆け出した。

 「確かこの辺りにいたんだけど……」
しんと静まり返った道路。月の光に照らされて、積まれた石材の窪みが、五線譜のように細くくっきりと伸びている。

「どうして? 確かに見たと思ったのに……」
それは薄暗い路面に反射する淡いブルーの羽を持つ、ティンカーペルのような少女だった。
「確かに見たんだ」
ルビーは何度も心の中でその姿を反芻した。
 少女は淡く光るグリーンの帽子を被っていた。そして、光沢のある黒い上着を着ていた。長く垂らした髪は黒髪。そして胸元に垂れた淡いブルーのスカーフが風に揺れて、軽い羽のように靡いていた。

 「冷えますぜ」
戻って来た車から、エラールが声を掛けた。
「そうだね」
ルビーは上の空で返事をしたが、すぐには車に戻らず、そこに立っていた。
「いったいどうしたと言うんでさ?」
男が訊いた。
「見たんだ」
「何を?」
「ティンカーペルだよ」
ルビーが答えると男は笑いだした。
「夢でも見たんじゃないのかい?」
「違うよ。確かに見たんだ。僕の、僕だけの可愛いティンカーペルをね」
ルビーは主張したが、エラールは信じなかった。

「いいから早く乗って下さいよ。あんたをちゃんと家まで送り届けねえと、おれがボスからどやされちまう」
「わかったよ」
ルビーは仕方なく車のドアを開けて助手席に乗り込んだ。
(本当に見たんだ)
ルビーは人形を拾って、また膝の上に乗せた。
(僕は見たのに……)
人形の髪を撫でながらルビーが訊いた。

「あの辺りには何があるの?」
「靴屋とカフェ。もっとも今はもう店はやっていませんがね」
「劇場もあるんだね?」
「ええ、少し奥に入ったところにありますよ。手前にはホテルもあるんで観光客にとっちゃ重宝されてるみてえです」
「それなら、そこの泊り客かもしれないな」
ルビーは夢見るような瞳で窓の外に流れて行く街灯の群れを見ていた。


 家に戻ると部屋に灯りが点いていた。
(ギルが戻ってる)
 その建物は、元は木製のおもちゃの工房だった。それを改装して、今はギルフォートと二人で住んでいた。そこが選ばれたのは立地的に条件が整っていたことと、グルドの事務所に近いので借りの住家として便利だったからだ。

 しかし、ジェラードはほとんど事務所に詰めているか、外に出ていることが多かった。大人とはいえ、いろいろ問題を抱えているルビー一人をそこに置いておく訳にはいかなかった。かといって、誰も彼の面倒を見てもいいという奇特な者もいなかった。結果、ルビーの扱いに慣れているギルフォートに白羽の矢が立ったのだ。

 「ギル、帰ってたの?」
ルビーが階段を上がって行くと男が顔を出して言った。
「部屋はいつもきちんと片付けて置けと言ってあっただろう?」
「うん。でも、仕方がなかったんだ。急にモーリーが呼びに来るんだもの」
床に散らばったおもちゃを見つめてルビーが言った。
「それに、玄関の鍵を掛け忘れていた」
「そうだっけ? 僕、すっかり忘れてたんだ。ごめんなさい」
特に反省しているでもない様子で彼は男に近づいて行く。
「それで? いったい何処に行ってたんだ?」

――殺せ!

「ジェラードのとこだよ。これをもらったんだ。でも、もういらなくなっちゃったから、ギルにあげるよ」
そう言ってルビーは人形を彼に放った。
「ティンカーペルか……」
受け止めたそれを、彼は確認するようにロゴを見た。
「本当にいらないのか?」
「うん。いらない。だって僕、本物のティンカーペルを見つけたんだもの」
「本物の?」
「そうだよ。すぐそこの通りを歩いてたんだ。だから僕、もう一度探しに行くよ。さっきはエラールが一緒だったから諦めたけど、今ならまだ近くにいるかもしれない。だから、僕行くよ」
そう言うとルビーは出て行こうとした。

「待て!」
ギルフォートが止める。
「まだ身体の方が本調子じゃないんだ。夜風に当たるとまた熱を出すぞ」
「平気だよ。僕、ちゃんとお薬飲んだから……」
「また、ジェラードの薬か?」
「そうだよ! だから、今はとっても気分がいいんだ」
明るく笑うと彼は玄関を飛び出していた。
「ルビー……」
手の中の人形を見てギルフォートは思案した。

 ルビーの具合がよくないことは承知していた。しかし、ずっと付き添っている訳には行かなかった。彼には彼の仕事があるからだ。しかし、ルビーをこのまま放置しておくこともできなかった。

(今ならまだ間に合う)
薬物依存はまださほど重傷ではなかった。今なら薬を断つことも容易だろう。しかし、これ以上強い薬を用いられてはそれも不可能になる。ジェラードはルビーを駒の一つとしか考えていない。彼の真の価値をまるで理解していないのだとエスタレーゼも何度となく忠告していた。

――ルビーを自由にしてあげたいの

エスタレーゼに似た人形の瞳を通じて彼女の思いが胸に響いた。
「何故、それをおれに望む?」

――あの子は身体の調子が悪いんじゃないのか?

「わかっています、ドクトル」

だからこそ、ルビーを強引に病院へ連れて行った。が、それはすべて裏目に出た。
検査を受けさせれば、当然、薬物反応が現れるだろう。そうなれば、それを断つための治療が開始されるに違いなかった。医者であれば当然の判断だ。それに、もし本当に病気があるならば、治療も受けることができる。しかし、結果は否だった。

「所詮はグルドの息の掛かった病院か……」
データの数値は買い残されていた。何事もなかったかのように、異常なしの診断。

――病院なんか大嫌いだ! 医者はいつも僕に酷いことばかりする! それに、嘘ばかり言うんだ!

「まったくその通りだな……」
ギルフォートは自嘲気味に呟いた。
(ここにいては、取り返しのつかないことになる……)
「だが……」
今、組織を出ることはできなかった。彼は探していたのだ。エスタレーゼが持ち出そうとしてできなかったグルドの機密を……。

 「さて、どうしたものかな」
ギルフォートは机の上に人形を置くと上着を取った。ルビーを連れ戻さなければならない。しかし、ドアノブに手を掛けた時、微かにPCの起動音のような音が聞こえた。
「ん? ルビーのか……」

電源を切ってあったとしても自動的にセットしてあるアップデートや保存などが行われる可能性はある。しかし、今はその時間ではない筈だ。何かが妙に心に引っかかった。
ギルフォートは部屋の中に引き返すとルビーのパソコンを開いて確認した。電源はオフになっていた。彼は急いで自分のパソコンを見に戻った。玄関の鍵が掛かっていなかったのだ。その間に誰かが侵入しなかったとも限らない。ドアを開くと、彼は念入りに周囲を観察した。

先刻、自分が戻った時には異常はなかった。が、何かを見落としていないか念入りに探る。特に危ぶむべきことは何も見つからなかった。カーテンの波の数も、ペンの向きも朝、彼がこの部屋を出た時と何一つ変化はない。そしてパソコンも……。無線LANもオフになったままだ。彼は自分自身の手で起動させると、データを確かめた。ウイルスチェックも行ったが、特に怪しい兆候は見当たらなかった。

「気のせいか……」
彼はPCをシャットダウンして再び上着を取った。

 エスタレーゼが亡くなって以来、データに関して、彼は神経質になっていた。高度なセキュリティーシステムを導入し、個々のデータは暗号で処理した。そして、万が一のことを考え、なるべくPC内にデータを残さないようにしている。まさしく完璧なガードを施していたと言ってもよかった。

(指輪のせいだろうか)
ルビーはずっとあの時の指輪をはめたままだ。
(それとも、ティンカーペルの……)
それは暗号の一つだった。エスタレーゼが残してくれた暗号の……。しかし、それがすべてではなかった。

(ティンカーペル。魔法。本。そして、日本……)
それが彼女が残してくれたヒントだった。それはデータの場所を示している言葉に違いなかった。

ジェラードがダミーのデータを囮にすることは十分に予見できた。だが、あえて騙されたように振る舞い、敵の目を欺き、真のデータを引き出すこと。
はじめからそれが目的だった。

――大丈夫。きっと上手くやるわ。でも、それには時間が掛かるの

本来なら、素早く行動に出た方がリスクが少ない筈だ。それを何故彼女はあえて「時間」という言葉で表現したのか。何故、不完全なままのヒントしか出て来ないのか。彼にはどうしても納得がいかなかった。

(彼女はおれのことを完全には信用していなかったのかもしれない……)
ならば、誰がそのヒントを解く鍵を持っているのか。
「ルビー……」
最も可能性のあるのは彼だった。が、ルビーはその件についてはずっと口を閉ざしている。いや、ルビーは本当に何も知らないのかもしれない。というより、彼が知らないうちに持たされている可能性が高かった。
そこで、ギルフォートはあらゆる方法でルビーの周辺を調べた。無論、本人にもそれは尋ねた。が、無駄だった。

――奴のことは信用できないさ。何の気まぐれで裏切るかもしれん

部屋の隅で床に転がったまま笑顔を向けているピエロの人形……。
(ルビー、おまえは……みんなから操られ、踊らされている哀れな人形……。哀しき玩具なのかもしれない……。それとも、踊らされているのはこのおれか?)
バタンとドアが閉まり、ギルフォートは背中を向け、階段を降りて行った。
 主のいなくなったその部屋の奥で、PCの電源が光り、カタカタと小さな音を立てると再起動が始まった。見えない糸によって紡がれて行く大きな運命の行く先を、今はまだ誰一人知る由もなかった。


――殺せ!

 風が強くなった。
「寒い……」
ルビーはぼんやりと高い建物を見つめた。そこはホテルだった。しかし、もう客室の灯りはすっかり消えていた。

 「ルビー」
湿気を含んだ夜気の中に男が一人立っていた。
「全部見たんだ」
震える声でルビーは答えた。
「部屋の一つ一つを、僕は全部確かめた。それなのに、あの子はどこにもいなかった……」
「あの子とは?」
ギルフォートが訊いた。
「僕のティンカーペル。小さくて可愛くて、羽が生えてた……」

闇がどんよりと垂れこめていた。
「妖精がいるのは絵本の中だけだ」
自分の上着を掛けてやりながら男が言った。
「違うよ。本当に僕は見たんだ。グリーンの帽子をかぶってた。それで黒い髪をしてた。きっとこの夜に紛れて何処かへ行ってしまったんだ。僕に何も言わず、僕と会おうともせず、一人だけで遠くへ……。僕の手の届かない所へ飛んで行っちゃった!」
そう言うとルビーは悲し気に泣き始めた。

「ピーターパンの絵本を読みたいなら……」
男が言った。
「それって日本語の?」
ルビーが訊いた。
「何故そう思う?」
「だって、モーリーが本屋で見たって……。ギルが日本語の絵本をたくさん買ってたって……。日本へ行くの?」
「ああ……。ジェラードから仕事の依頼を受けた」
「ジェラードは……」

――殺せ!

唐突に空の上から爆音が響いた。夜に発つ国際便だ。
「あれに乗ったら日本に行ける?」
「さあな」
街灯が滲んで見えた。
「僕、日本に行きたいの。そうでなければ、今すぐあの子に会いたい……」
静かに雨が降り出した。
「行けるさ。それに、もしも、おまえが見たという少女が実在するなら、そこで会えるかもしれない……。だから、今は帰ろう」
そう言うとギルフォートは背中を向けて歩き出した。

――殺せ!

闇の空に光る稲妻……。
ルビーはゆっくりと懐から拳銃を出した。そして、男の背中に狙いをつける。
不意にギルフォートの足が止まった。ルビーもそれを構えたまま硬直したように動かない。男は振り向かなかった。
人も車も通らない道路に遠く雷鳴だけが響いている。

「どうした? 撃たないのか?」
後向きのままで男が訊いた。
「……」
銀髪の男が静かに振り向くと、ルビーは構えたまま涙を流していた。

「何故迷う? 撃つと決めたなら、何があろうと容赦なく撃てと教えたろう?」
「でも、僕は……」

――殺せ

二人の視線がまっすぐに重なる。
「これはおもちゃなんだ……」
苦しそうな表情を浮かべてルビーが言った。
「おもちゃ?」
「そう。これは本物じゃない。おもちゃのピストル……。だから、人は殺せない。ねえ、そうでしょう?」
哀しそうに微笑するその顔に雷光が閃く。
「ああ……」
ギルフォートは頑なに握り締めているルビーの手をそっと開かせると、その手から拳銃を取り上げた。

「さあ、おいで。おれの大切な人形が風邪を引いてはいけないからな」
そうして、ギルフォートはまた先を歩く。
「ジェラードが……」
ルビーの唇が僅かに動いた。
「わかっている」
一瞬だけ足を止めてギルフォートが頷く。

「だけど僕は……」
上手く言葉が繋がらない。鼓動が激しくなり、鋭い痛みが胸に走った。
「僕は……」
彼は意識を失った。
「ルビー!」
男が戻って来て彼を抱き起こす。仮面の下の人形は泣いていた。
「暗示を掛けられたか。それとも……」

――ティンカーペルを見たんだ。グリーンの帽子をかぶってた。そして、黒い髪をしてた

「黒髪の……?」
ルビーの言葉が心に引っかかった。
「ティンカーペルは日本人か……」
(だとすれば、暗号を解く鍵が見つかるかもしれない……)
冷たい雨がそこに眠る人形の頬を濡らした。それをそっと手のひらで拭ってやると、ギルフォートはそっと彼を抱きあげて車へ急いだ。


Fin.