RUBY
〜練習曲2 遺書〜
Part 1 / 3
「ロンドンへ行くの?」
射撃訓練場での訓練を終えた時だった。ルビーが驚いたように聞き返した。
「ああ。だが、気が進まないなら、おまえは残っていてもいい」
ギルフォートは手際よく荷物を片づけると言った。
ロンドンにはいやな思い出があった。テロリスト集団「レッドウルフ」の幹部・ヘビーダックの卑劣な罠に落ちたルビーは重傷を負った。そして、今も癒えぬ傷はルビーの身体と心に深い傷跡を残し、彼のコンプレックスを深めていた。
「行くよ。ねえ、僕もロンドンに連れて行って」
しかし、ルビーは明るくそう言った。
「僕、ロンドンに行きたいんだ」
ルビーは手の中でM649を弄んでいた。それは手の中にすっぽり隠れてしまうほど小さな銃である。その銃身は銀色。そこに男の顔が映り込む。
「ならば、今晩中に支度しておけ。出発は明日の早朝だ」
「わかった」
そう言って笑うと彼はご機嫌な顔でオペラの一節を歌い出した。
「楽しみだな。ブライアンは元気にしているかしら?」
「ブライアン?」
その名を聞いてギルフォートが眉を顰める。
「うん。今度ロンドンに行った時、ブライアンが湖水地方に連れて行ってくれるって約束したんだ」
「湖水地方? 奴の生まれ故郷か?」
「そうだよ。ねえ、知ってる? 湖水地方。ピーターラビットがいる所だよ」
「ああ……」
「うふ。すごく楽しみ。僕ね、一度あそこへ行ってみたかったんだよ。すごくきれいなんだもの。絵や写真じゃなくて本物が見たいってずっと思ってたんだ。ねえ、一日くらい遊びに行ってもいいでしょう?」
「ああ……」
「よかった。それじゃ、早速ブライアンに聞いてみないと……。ねえ、彼の連絡先を知ってる? 僕じゃよくわからないの。代わりに聞いてくれない?」
「奴は……いない」
「お仕事なの? また日本へ行ってるのかなあ。僕にお土産買って来てくれるかしら?」
「……」
ルビーは笑いながらバッグを持って車の方へ走って行った。
「奴は……もういないんだ……」
その背中にギルフォートが呟く。が、その声はもう彼には届かなかった。
「ねえギル、早くってば!」
ドアを開いてルビーが言った。彼は何も知らないのだ。自分が何をしたのか、その結果大勢の人間が死んだことも……。そして、その中にブライアンがいたことも……。
フランクフルトからロンドンまでは飛行機で1時間30分。窓際に乗ったルビーは楽しそうだった。その間もギルフォートは現地での仕事の段取りの手順をシュミレートしていた。彼にとっては大した仕事ではなかったが、どんな仕事であろうと決して手を抜かないというのが彼の方針だった。
ロンドンに着くと、彼らはまず市内のホテルに投宿した。
「ねえ、ブライアンのお仕事はいつ終わるって?」
「遊ぶことより、先にやるべきことを片づけてからだ」
彼はそう言うと仕事の準備を始めた。
「僕は何をしたらいいの?」
「何もしなくてもいい。荷物の番でもしていろ」
「ギル一人でお仕事をするの?」
「だから、別に来なくてもいいと言ったろう?」
「だって、僕は来たかったんだもん」
「湖水地方なら、あとでおれが釣れて行ってやる」
しかし、男の言葉にルビーは不服そうに首を横に振った。
「いやだよ。僕はブライアンと約束したんだもの」
「だから……そのブライアンに会わせてやる」
「え? ほんとに? 彼は湖水地方に行ってるの?」
「ああ……」
「それじゃ、僕、いい子にお留守番しているね」
そう言うと、彼はベッドの上に勢いよく腰掛けて足をぶらぶらと揺らした。スプリングの利いたベッドが彼を乗せたまま振動している。珍しくその日、ロンドンはよく晴れていた。
「帰りは深夜になる。先に寝ていろ」
そう言うとギルフォートは出て行った。
『ロンドン塔のゴースト』。それが今回のターゲットだった。ロンドン塔の幽霊ならば夜の散歩をするだけで人間に危害を加えることはない。だが、このゴーストは違っていた。
財界や財閥の娘ばかりを狙い、卑劣な暴行を繰り返していた。本来ならば警察の仕事だが、犯行が犯行なだけに表沙汰になれば家名に傷がつくばかりでなく、娘の将来にも懸念が及ぶ。現にそのせいで精神を病んでしまった娘もいた。依頼して来たのはその娘の父親だった。
犯人の目星は付いていた。情報屋から手に入れたソースは警察のそれよりも信頼できた。あとは自分自身の目で確認すればいい。ギルフォートはレンタカーを借りると郊外のフラワーマーケットへと向かった。
広いマーケットの敷地には所狭しと様々な植物が並んでいる。涼し気な緑の葉を持つ観葉植物やカラフルに咲き誇る花々。周囲には甘い香りが立ち込めていた。その通路を鉢植やプランターを台車に乗せて運んでいる若い男がいた。やや小太りで茶色の髪にはくせがあり、目は更に濃い焦げ茶色をしている。右のこめかみに二つ並んだ黒子。特徴は情報屋から得たそれと一致していた。
「これは美しい花ですね。蘭ですか?」
眼鏡を掛け、仕立てのいいスーツに身を包んだギルフォートが男に近づいて訊いた。
「ええ。蘭の新種です。珍しいでしょう? これは日本で品種改良されたばかりの花なんです。ロンドンでは、うちの店以外ではまだ何処の店も取り扱っていないんですよ」
店のロゴが入った水色のエプロンを付けた男が愛想笑いを浮かべて説明した。
「日本。それはいいですね」
ギルフォートがすっと目を細めて呟く。
「贈り物ですか?」
「ええ。私はラズレイン家で執事をしているヴェルナーと申します。ルビーお嬢様は日本がお好きですからきっと喜んでくれるでしょう。わざわざベルリンから来た甲斐がありました」
「ベルリン? ドイツの方ですか?」
「ええ。お嬢様は身体が弱く、ロンドンへは静養に来たのですが、ベルリンのお屋敷ではいつも花に囲まれてお過ごしだったので、ホテルの部屋は殺風景で寂しいとおっしゃるのです。この蘭と白い百合、それにそこの小花で花束を作っていただけますか?」
「ええ。もちろんです。ルビーお嬢様は白いお花がお好きなんですか?」
「そうですね。彼女は潔癖なお方ですから……。お年頃になられたというのに、このままでは花と結婚してしまうのではないかとご主人様もご心配なさっているのです。おっと、これは余分なことでした」
「でも、お花が好きだなんてきっと心のやさしいお嬢様なのですね。さぞかし、おきれいな方なのでしょう?」
「それはもう、ベルリンでは知らない人はいないほど聡明で美しい方ですよ。おや、いけない。もうこんな時間だ。私はもう行かなくてはなりません。大切なアポイントがあるのです。申し訳ありませんが、ホテルまでその花を届けてもらう訳にはいきませんか?」
「かまいませんよ。ただ、日中は店を離れることができませんので、お届けは店を閉めてからになってしまいますが、よろしいでしょうか?」
「結構です。ホテルのフロントで預かってもらえるでしょう。明日にならなければご主人様達もお帰りにならないので、今夜はお嬢様一人でお寂しいのです。せめて花に囲まれておやすみいただければと思いまして……」
「わかりました。なるべく早くにお届け致します」
「ではよろしくお願いします。ジェインストリートのホテルフリージアの711号室。お名前はルビー フォン ラズレイン様です」
「承知致しました。間違いなくお届けします」
そう言うと男は深く頷いた。
「フォン ラズレイン……。貴族のお嬢様か」
走り去る車を見送りながら、男はほくそ笑んだ。
その頃、ルビーはその711号室にいた。持って来たノートパソコンを開くと、音楽ソフトを立ち上げた。それは子ども用の音楽教育用ソフトで、キーボードを使って様々な楽器の音に変更して演奏ができる。画面に現れるブロックを並べて曲を作ったり、音の高さや曲名を当てるゲームなどをしながら楽しく学べるというシリーズだった。それが今の彼のお気に入りだった。
「ラララ、チェロにバイオリンにフルート。これなら一人でオーケストラだってできちゃうよ。僕はベートーヴェンにだってなれちゃうんだ」
ルビーは得意そうに自動演奏用として収録してある歓喜の歌を鳴らすと、指揮者のように腕を振り回しながら部屋の中を歩き回った。
モニターの中では擬人化された音符達が楽しそうに踊っている。
「だけど、観客が一人もいないなんてつまらない」
ルビーは鞄からぬいぐるみを引っ張りだすとベッドの上に並べた。
窓から細い光が射し込んでそれらを照らす。曲はクライマックスに差しかかっていた。
「第九交響曲……」
不意に通りを行く車のクラクションが響いた。
――あのベートーヴェンのように強く生きてくれたら……
誰かが言った。
――ルートビッヒ、この子に神の御加護を……
静かな部屋で教会の鐘の音だけが響いていた。細い光とステンドガラスの影がゆりかごの上の赤ん坊を照らす。
「ルートビッヒ……僕の名前と同じ……」
クロスした銀色の光と影に抱かれて、彼の人と同じ地で生を受けた。
ルートビッヒ ヴァン ベートーヴェン。
その生涯は苦労が多くとも意志を貫き、強く情熱を持って生きた偉大なる作曲家。
しかし、ルビーが得意としたのは繊細で危うい芸術家の魂を持ったフレデリック F ショパンの方だった。
「ベートーヴェンは好き。だけど僕は……」
繰り返される歓喜は、やがて波のようにうねり、咳き込むような拍手と喝さいで幕を閉じた。
モニターの中では青いスクリーンセーバー……。
静かな電子音とともに愛らしい動物のキャラクターがとことこと過ぎる。
「愛したいのに……」
ルビーはもう一度ソフトを立ち上げるとカーソルをピアノの音に合わせた。そして、でたらめにキーボードを鳴らす。どの音を叩いてもきれいな音がころころと響いた。
「これは本物じゃない……!」
ルビーはその蓋を閉じると頭を抱えた。
「これは本物じゃない……。僕のこの手は……」
かざした手の隙間から滴り落ちる赤い脈動……。
――あのベートーヴェンのように強く……
「ちがう!」
彼は叫んだ。
「強くなんかない! 僕は……彼はただ愛されたかっただけなんだ。ショパンだってベートーヴェンだってみんな……。愛する人から愛されたかっただけなんだ。それなのに……」
――強く生きて欲しいんだ
父親の影が言った。
「何のために?」
――運命に負けないように……
「そうして、僕は負けないために……僕は自分を殺した……! 愛する人を守れずに……。父様と同じように……愛する者を殺した! 僕がこの手で……」
――ルートビッヒ
「殺したんだ!」
――運命を
「無頓着になれと言うの? 見て見ぬ振りをしていろと……。僕は愛しちゃいけないの? 誰からも愛されてはいけないの? どうして? 罰せられなきゃいけないの? 僕が人を殺したから……。幸せにはなれないの? 教えてよ、父様! 何故僕を憎むのか? 何故僕はあなたをこんなにも……」
――強く生きるんだ
「強く……?」
――負けないように……
髪が落ちた。艶やかな黒髪の一本がその手にかかる。
「ちっとも似てなんかいない。僕は他の誰でもない。僕は僕だけの運命を生きる。だからもう邪魔なんかしないで。亡霊のように僕に付きまとうのはやめて……」
――神の御加護を
「消えろ!」
力任せに叩いたテーブルが壁に当たり、パソコンが滑り落ちた。開き掛けた蓋の隙間から反射する光。機械がかたかたと悲鳴にならない音を立てて、合成音声が吃音を漏らす。
――来ないで!
水色の光が白い壁紙に当たってそこに泳ぐマーメイドがこちらを睨んだ。彼女が求めているものは幻のグリーン……。たゆたう水草を掴もうとする細い指。
「何故僕じゃ駄目なの?」
泣きそうな瞳でルビーが訊いた。
「エスタレーゼ……」
その影がすっと水色に透けて通り過ぎる。
「知ってたよ。望んでも頼んでも、誰も僕のものにはなってくれないって……。けど僕は……僕……」
彼は自らを抱き締めようと腕を震わせた。
「……!」
突然、胸の奥に痛みが走った。
(何だろう? 今、一瞬だけ突き抜けて……)
痛みはもうなくなっていた。冷たい汗が伝わって、軽く咳き込む。
「風邪かな? 今夜は早く寝よう。ギルも遅くなるって言ってたし……」
――ギルフォートも……?
水色の瞳が囁いた。
「そう。ギルも……」
ルビーはそっと左手の指輪にキスをした。忘れえない彼女の面影には常にあの男の影が付きまとっている。
(まるで父様みたいに……)
そう思ってルビーははっとした。似ているのだ。父とエスタレーゼ。その瞳の色と髪の色が……。
「だけど、僕は似ていない。母様が日本人だから……? それとも、僕が変だから?」
「デア モントシャイン……月光の夜」
彼は空想の鍵盤でそれを弾いた。
日暮れに一本の電話が掛かって来た。ベッドでうとうととまどろんでいた彼が携帯を取る。それは放浪の画家アルモスだった。
「アル? 今まで何処に行ってたの?」
――「そっちこそ今何処にいる?」
「ロンドン」
――「そいつはちと遠いな」
「遠い?」
――「こっちは今ウィーンにいるんだ。ホイリゲで美味いワインをご馳走しようと思ったんだがな」
「ワイン? 僕、ワインなら大好きだよ」
――「だが、ロンドンじゃちょっとな。イギリスは入国審査がきつくていけねえ。おまえの方からこっちへ来れないか?」
「ウィーンへ?」
――「ああ。今、ハイリゲンシュタットに腰を落ち着けてるんだ。おれは当分ここにいるから、来たくなったら連絡してくれ。最高のワインを飲ませるぜ」
「うん。僕、行く! あ、でもね、ちょっと待って。ギルがお仕事終わったら、僕、湖水地方へ行くんだよ。そこでブライアンに会うの」
――「亡霊にか? こっちにだって有名な亡霊がいるぜ。何しろ、あのベートーヴェンの遺言が書かれた処だからな」
「ベートーヴェン?」
ルビーが興味を持った。
「遺言って何?」
――「死ぬ前に親しい人や大切な人に宛てて手紙を書き遺しておくんだ」
「死ぬ前に?」
――「ああ。死んだら誰に財産を残したいとか、まあ最後に言いたかったこととかな」
「でも、いつ死ぬのかわからないよ」
――「書いたら自ら命を絶つんだ」
「ベートーヴェンは自殺したの?」
――「いや。だが、自殺しようと思ってこれを書いたんだろ? 結局思い止まったみてえだけどな」
「アルも遺書を書いたことある?」
――「おれはねえけどな。いつくたばっちまうかわからねえから、一応書いておいた方がいいかもな」
「僕にも書ける?」
――「ああ。将来偉人になれるかもしれないぜ」
「ベートーヴェンは何故死のうと思ったの?」
――「そりゃ、遺書にも書かれてる通り、耳が不自由だということを誰にも理解してもらえなくて苦悩してたからじゃないのか?」
「悩んでいたの?」
――「まあな。音楽家にとっちゃ耳が聞こえないってのは致命傷だろ? 絵描きのおれにとっちゃ目が見えなくなったらやっぱり絶望して自殺だって考えるさ」
「そうなんだ……」
ルビーは考えた。
(もし、僕がそうだったらどうするだろう? もしも、目が見えなくなったら? もし耳が聞こえなくなったら? やっぱり絶望して自殺するだろうか? それとも……。もしもピアノが弾けなくなったら……?)
再び胸の奥に突き刺さるような鋭い痛みが起きた。が、やはりそれは一瞬で引いた。
「僕、ハイリゲンシュタットに行ってみたい……」
そこで巨匠が何を思ったのか、自分の目で確かめてみたかった。
――「そんじゃ、あとで連絡をくれ」
「わかった。今日はありがと。教えてくれて……」
――「じゃな」
と、電話は切れた。
――神はこの子に試練をお与えになられたのです
(あれはいつだったろう。僕は抱かれて教会にいた)
目も耳も口も……医者からは歩くことさえ困難だと言われた。その子どもを抱いて教会を訪れた若い夫婦。
――笑ったわ。あなた、見て。わたし達の小さなルートビッヒが笑っている
(母様……)
射し込んだ細い光を掴もうと彼は手を伸ばした。その手を掴んで父が言った。
――奇跡だ
それはアルバムの中にあった一枚の写真。
(あれは夢? それとも僕が空想しただけのただのお話? わからない。思い出せない、何もかも……)
――この子にどうか神の御加護を
「神の……」
――目を覚ましているのです
マダムが読んでくれた絵本の挿絵を思い出した。
「そうだね。今夜は眠らずに見ているよ」
やさしい街の景色を思い出そうとして目を閉じた。しかし、それはやはり霧の向こうに霞んで見えるばかり……。微かに響く馬車の音……。逝ってしまった過去は、二度と戻らず、その温もりは帰らない……。
夜。誰かがドアをノックした。
「誰だろう? ギル?」
それは花の届け物だった。両手に抱えきれないほどの花の群れ……。淡いピンクと白い花。たちまち部屋中に甘い香りが広がった。
「素敵! 僕、ワインも好きだけど、お花も大好き! 今夜はぐっすり眠れそう」
――目を覚ましているのです
彼は念のためにその贈り物の中に何か怪しい仕掛けがされていないか確かめるとテーブルの上に置いて眺めた。灯りを消すと窓から僅かに射し込む月の光が幻想的に思えた。
「こんな夜には妖精が月の橋を渡っているかもしれないな」
ルビーは振り返って窓を見た。そこに覆面で顔を覆った男が窓枠にしがみついていた。布の切れ目から焦げ茶の瞳が覗いている。
「誰?」
ルビーがそちらへ近づこうとした時、向かいのビルの屋上に立つ人影を見つけた。
「ギル……」
銃口が真っ直ぐこちらを狙っている。次の瞬間。窓にへばり付いていた男の身体が弾き飛ばされた。驚愕した男の手がスローモーションのようにもがきながら闇の中へと沈んで行く……。路面に叩きつけられた男の断末魔が響いた。ふと見ると向かいのビルの男の姿はもうなかった。その建物では消えていた窓の灯りが灯り、階下ではあちこちで扉が開く。人々の声や靴音が錯綜した。
数分後。部屋にギルフォートと警察の人間が一緒に入って来た。
「ルビー、無事か?」
ギルフォートが大仰に言って彼を抱き締めた。
「振り向いたら、突然窓のところに男の人が……」
ルビーはそう言ってギルフォートにしがみ付いた。
「可哀想に……怖かったろう」
銀髪の男はやさしく言ってその背を撫でた。
「うん。すごく怖かった……怖くて僕……!」
微かに見上げると男が頷いて見せた。ルビーはそのまま芝居を続ければいいのだと納得して何か言おうとした。が、その時、再び胸に強い痛みが走った。
「ううっ……!」
彼はそのまま意識を失った。
「どうした? しっかりしろ、ルビー!」
彼はそのまま救急車で病院へ運ばれた。
「あの子は生まれつき身体が弱いんです。今回のことがよほどショックだったのでしょう。申し訳ありませんが、しばらくの間、ルビーをこのままそっとしておいてやってくれませんか」
ギルフォートの言葉に捜査をしていた警官達も気の毒そうに見舞いの言葉を残して立ち去った。
ロンドンを騒がせたレイプ犯の男の最後は哀れなものだった。『女性と間違え、ホテルの窓から侵入しようとした男が転落死!』――翌日の新聞にはセンセーショナルな見出しが躍った。
「彼の名前が女性にも使われるものだったので恐らく女性だと思い込んだのでしょう」
ギルフォートもそう警察で証言した。更に週刊誌は転落した男の下半身が露出しており、転落した際、座滅状態だったことから神罰が下ったのだと煽り立てた。
「演技にしては出来過ぎだな」
病室で新聞を畳むとギルフォートが言った。
「演技じゃないよ。本当にすごく痛かったんだ」
ベッドの上で半身を起してルビーが言った。
「具合が悪かったならドイツに残ればよかったんだ」
「いやだよ! 僕は絶対に湖水地方に行くんだ。ねえ、いいでしょう? 僕、もう1秒だってこんな病院なんかにいたくないよ!」
「駄目だ。しっかり身体を治してからだ」
そう言うと男はそっと彼を抱き締めるようにその背を撫でた。
「いつもそうしてくれたらいいのに……」
ルビーが呟く。が、その時にはもう男は背中を向けて病室から出て行こうとしていた。
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