RUBY
〜練習曲1 マスカレード〜
Part 1 / 3
「100万ユーロだって? たかがピアノのコンサートに……!」
依頼主の男は目を剥いて怒鳴った。空はどんよりと雲っていたが、窓の向こうにはアルプス山脈が臨み、まるで絵に描いたような素晴らしい眺めが広がっていた。
そこはスィッツランドの小さな町だった。部屋の中には暖房設備も整えられ、二重ガラスの窓は完全に外気を遮断していた。が、氷のように透き通ったその冷気は肌に冷たかった。
「いくら何でも横暴過ぎる」
テーブルを挟んで男が二人。特別会合の交流会のゲストの出演料を巡って交渉を続けていた。
「高いとおっしゃる? なら、片手で50万ユーロというのはどうでしょう?」
妖艶なる黒髪のピアニスト、ルビー ラズレインが子どものような微笑を浮かべて言った。
「片手だって? 馬鹿な……! ピアノは両手で弾くものだ」
中年の男は眉間に皺を寄せ、唇の端を震わせて言う。
「馬鹿な、ですって? 世の中には、片手のピアニストだって存在していますよ。数は少ないけれど、それ用のアレンジだってちゃんと出ている。人を感動させるのに、両手でなくてはいけないなんて決まりはないでしょう?」
「そ、それは……」
男が詰まった。
「僕なら出来る。左手でも右手でも同じようにそこにいる全員の心を虜にしてみせる。どうです? それとも、僕の言う事が信じられませんか?」
「いや……。その、君の噂は聞いている。だが……」
「いやなら結構。僕は弾かない。パーティーにも出ない。それでいいですね?」
ルビーはサッと踵を返すとそこを出て行こうとした。
「ま、待ってくれ。妻が君の演奏を聴きたがっているんだ。オーストリアで君の噂を聞いて以来ずっと憧れて……。それに、ようやく回り番でパーティーを主催する権利を得たんだ。各国からの招待客達も皆、君のピアノを聴きたがっているのだよ。頼む。私の顔を潰さないでくれ」
と、ホテルのオーナー、シュッツバウムが頭を下げる。
「そんなの僕は知らない。出演料をくれるのか、くれないのか。それだけです」
ルビーがドアノブに手を掛ける。と、男は蒼白な顔をして言った。
「わかった。君の言う通りにしよう。100万ユーロ出す。それでいいだろう?」
「わかりました。支払いはスイス銀行の僕の口座に……。振り込まれたのを確認次第、詳しい事をお知らせします。ただし、当日のプログラムはすべて僕に任せる事。それでいいですね?」
「わ、わかった。すべては、君の望むままに……」
「ありがとう。では、幸運を」
バタンと小さな音を立て、ルビーは部屋を出て行った。
「成立したよ」
ノックもなしにいきなり部屋にやって来たルビーが言った。
「それで?」
ギルフォートは振り向かず、パソコンで何かのシュミレートをしながら言った。
「お願い。また、手伝ってくれない?」
「例の団体に寄付するのか?」
「うん。いくらあっても足りないんだ」
「そんな事をしてどうなる? 飢えた子どもなんて世界中にいくらでもいる。ほんの一部を救ったところで根本的な解決にはならない」
銀髪の男は冷淡に言った。
「それでもだよ。それでも僕は救いたいんだ。たった一人でも……。たとえ、それが一瞬だけだったとしても……。生まれて来てよかったという救いの光になりたいんだ」
「一瞬でも、か……」
ギルフォートは画面を閉じるとまた別の画面を立ち上げた。
「で? 今度はどれくらいにするんだ?」
「全部だよ。僕が持ってる全てのお金」
「全部? そんな事をしたら、おまえの欲しい物が買えなくなるぞ」
「いいんだよ。もう、僕の欲しい物は何もない。それに、なくなってもすぐ、また振り込まれるよ。ヘル シュッツバウムが100万ユーロ払ってくれるって……」
「馬鹿な男だ。殺される相手にわざわざ大金を払おうと言うんだからな」
「知らないんだから仕方がないよ。それに、これとそれとはちがうお仕事だもの」
「そうだな」
話ながらもギルフォートの指はパソコンを操作し続ける。
「よし。振り込んでおいたぞ。『L・ファントム』の名前で246万7000ユーロ」
「ありがと」
そう言うとルビーは部屋を出て行った。
「スイスか……」
彼が行ってしまうとギルフォートは立ち上がって窓際に近づいた。雪がちらついていた。本当ならば、冷たい季節が訪れる前に来る筈だった。ルビーと、そして、永遠に損なわれてしまったかけがえのない人と……。ルビーは何も訊いて来なかった。何の疑いもなく、以前のように信頼を寄せて来る。
――僕は、あなたのお人形だから……
そうやっていつまでも付いて来る彼を突き放す事も出来ず、真実を告げる事も出来ないでギルフォートはただ黙って仕事をした。そうする事でしか自分をつなぎ止めておく方法を思いつかなかったのだ。
「エレーゼ……」
ルビーは自分の部屋に戻ると窓を開けて、降り始めたばかりの雪と戯れた。
「風、冷たいね。君は何処へ行ってしまったの? 白くて冷たいこの雪のように……冷たい身体を抱いて、雪の女王が連れて行ってしまったの? 遠く閉ざされた氷の国へ……。こうして窓を開けたまま眠ったならば、女王は僕も連れて行ってくれる?」
吹き込む風に混じってハラハラと散るそれを見て、彼は何かに似ていると思った。が、それはもう思い出せない記憶の向こうに閉ざされたきり、何ももたらしてはくれなかった。
「ルビー。何をしているんだい? 部屋がすっかり冷えてしまっているじゃないか」
ジェラードがやって来てバタンと窓を閉めた。
「身体もこんなに冷えて、また熱を出したらどうするんだい?」
彼に上着を掛けてやりながら、ジェラードは言った。
「何か熱いものでも飲んで身体をあたためなければいけないよ。坊やの好きなショコラにしようか? それとも、ホットミルクがいいかな?」
ジェラードは例の事件以来、ずっとルビーにやさしくなっていた。共に愛する者を亡くした者として、互いに気持ちがわかり合える。そして、独り残されたジェラードにとって、ルビーだけが唯一心許せる存在なのだと打ち明けて来た。しかし、ルビーは何を聞いても何処か遠い世界での出来事のように思えた。すべてが他人事のようだった。そうして、何も納得できないうちに時は過ぎ、季節は流れ、いつもと変わらない日常が彼を取り巻いた。
ジェラードもギルフォートも、他の誰も彼女の名前を口に出すことはない。もう二度と笑えないのではないかと思った。しかし、実際は、違った。テレビやラジオ、そして、街の何処かで面白い物を見かけると、ルビーはすぐに夢中になった。楽しいおしゃべりや耳に心地よいジョークは明るく愉快な気持ちにさせてくれたし、ゲームに勝てばうれしかった。エスタレーゼがいなくても自分にとっては何一つ変わりはしないのだ。
そうしてだんだん記憶は薄らいで、いつか彼女の事を忘れてしまう。そう思ってしまった自分が恐ろしかった。もう、誰も彼女を呼ばないし、話題にさえも上らない。まるで、はじめからいなかったかのように……。自分もいつかそんな風に皆から忘れられてしまうのではないかと思って悲しくなった。しかし、それは自分が忘れられる悲しみであって、忘れられて行く彼女に対する悲しみではない。
(どうして……?)
彼は混乱していた。
(僕は、本当に彼女を愛していたのだろうか? そして、彼女は、本当に僕の事を……)
戒めにはめたリングに蛍光灯が反射する。
「さあ、坊や。早くお上がり。冷めてしまうよ」
ジェラードが微笑んでいる。ルビーは頷くと、そっと唇を当て、一口飲んだ。しかし、そのカップの中の液体は、いつものように彼を満たしてはくれなかった。色が濃く、クリームもない。甘みも少ないそれは好みではなく、彼にとっては苦く偽りの味がした。
「マスカレード?」
目の前に置かれたマスクを見て、ルビーが訊いた。
「そうだ。皆が偽りの仮面を付けて舞踏会に参加する。互いに誰が誰なのか知らぬままダンスを踊る。なかなか面白い余興だろう? まあ、昔からいろいろな場所で行われ、様々なドラマを生んで来た一夜限りの愛とアパンチュールを楽しもうという企画だ。坊やも参加するかい?」
「僕は、ピアノを担当させてもらうよ。偽りの花園にふさわしい華麗なる円舞曲を……」
ジェラードが行ってしまうと、白いテーブルに残された銀色の仮面が目を吊り上げて睨んだ。
「偽りか……何もかもが偽りのこの世界で、今更仮面を被って何を隠そうというの?」
彼はそっとその仮面を手に取ると自分の顔に当ててみた。それから、すぐに外して言った。
「僕には仮面なんかいらない。だって、僕の人生そのものが仮面で覆い隠されているのだもの……」
そうして、ルビーはそれをポイとゴミ箱に投げ捨てた。
翌日、目を覚ますと外は一面銀世界になっていた。
「わあ! すごい、きれい!」
窓の外を見ると、木の枝という枝にきらきらと光が反射していた。ルビーは急いで外へ飛び出した。それが何か確かめたかったのだ。それは、天然の氷の粒とライトアップするための豆電球だった。それらが朝の光に反射して見えたのだ。夜になって明かりが灯れば、さぞかし幻想的でロマンティックな雰囲気をかもし出す事だろう。ルビーはふとホテルの建物を振り返った。それは、丁度広間から見える位置。
「これもパーティーの演出の一つだったのか」
ルビーは化粧された大きな木を見上げて微笑した。と、その木の枝の隙間からそりで遊ぶ子どもの姿が見えた。手前は急な崖だが、向こう側はなだらかな斜面になっていて、そり遊びをするのに絶好のコースになっていた。
「おもしろそう!」
ルビーはホテルの敷地いっぱいの場所に並んだ木々の向こう側に出ると柵を飛び越え、一気に斜面を降りて子ども達の側へ来た。
「やあ! 楽しそうだね。僕も仲間に入れてくれない?」
ルビーが話し掛けると、そりを押していた少年とそれに乗った女の子が顔を見合わせて俯いた。
「立派なそりだね。君が作ったの?」
男の子に話し掛けた。
「ああ」
子どもが警戒しながらも返事をしてくれたのでルビーは更に言葉を繋ぐ。
「僕も子どもの頃、そりに乗った事があるよ。でも、その頃は自分では手足がうまく動かせなかったから、滅多に乗せてもらえなかったけど……」
「お兄ちゃんも? お兄ちゃんも歩けなかったの?」
そりの上に座ったまま女の子が目を見開いて訊いた。
「ベッチーナ!」
男の子が制止しようと声を出したが、少女は身を乗り出してルビーの話を聞きたがった。
「ううん。全然歩けなかった訳じゃないけど、走る事が出来なかったし、すぐに転んじゃうから、学校には車で送り迎えをしてもらってたんだ」
「ふーん。そうなんだ。いいな。ベッチーナはね、全然歩く事が出来ないの。だから、学校にも行けないの」
悲しそうな少女。
「学校なんか行ったって何の役にも立たないさ」
吐き捨てるように少年が言った。
「みんな、いつも怒ってばかりいるんだ。いやな奴が悪口言ったり、いやがらせしたり、いい事なんか一つもない。だから、学校なんか行かなくていいんだ。ずっとおれといた方が幸せなんだよ」
「ペーター……わかったわ。もう言わない。ごめんね、お兄ちゃん」
説得されて彼女も頷く。
「君達は兄妹なの?」
ルビーが訊くと二人は頷いた。ペーターは12で妹のベッチーナは7つだと言う。
「僕はルビー。そこのホテルに泊まってるんだ」
「ああ、ドイツから来た金持ちの連中か」
軽蔑するように少年が言った。
「僕は別にお金持ちじゃないよ。実際、今は全然お金ないし」
「ホテルに泊まれるんだから金持ちさ。おれは、そのホテルで手伝いをしてるんだ。それで、少しばかりの金と食料をもらってる」
「君が働いてるの? 親はいないの?」
「そんなもの、とっくに死んじまったさ」
少年は怒ったように言った。
「母ちゃんは病気で、父ちゃんは、シュッツバウムに殺されて……」
そう言い掛ける妹の口に慌てて手を当てるペーター。
「ベッチーナ! 言っちゃだめだと言ったろう?」
「だって、お兄ちゃん。みんなほんとの事でしょう?」
「それでもだ。奴を怒らせたら何をされるかわからない。今度は足だけじゃ済まないかもしれないんだぞ」
「お兄ちゃん……」
不安そうにペーターを見上げる少女。
「君の足を傷つけたのはシュッツバウムなの?」
ルビーが驚いて訊いた。しかし子ども達は俯いたきり何も言わない。
「シュッツバウムの悪い噂はたくさん知ってる。それが事実なのかどうか、僕は知りたい。もし、それが本当なら許せないと思ってね」
ルビーが言うとペーターは口を尖らせて言った。
「そんなの、全部本当の事に決まってるじゃないか!」
「ルビーは警察の人なの?」
ベッチーナが少し警戒したように訊く。
「ちがうよ。でも、僕は真実を知りたいんだ。あいつが今までやってきた事のすべてをね。そして、それがどんな罰に値するかを判断しなきゃならない。だから、ねえ、君達のことを教えてくれない?」
二人は顔を見合わせた。それから、ベッチーナがぼそりと言った。
「車に轢かれたの」
「父ちゃんへの見せしめにな」
ペーターが憤然と付け加える。
「どういうこと?」
ルビーが訊いた。
「シュッツバウムは、父ちゃんが持っていた会社とその土地が欲しかったんだ。何度も土地を売ってくれと家へ来てた。でも、父ちゃんは断り続けた。すると、奴はとんでもない手段に出やがったんだ」
ペーターは怒りで拳を震わせた。
「あいつは……よりによってベッチーナを車で轢いて傷つけた。しかも、奴はそれを逆手にとって脅してきやがったんだ!」
「脅された? どうして?」
「妹の怪我は手術をすれば治ると医者が言った。けど、それには莫大なお金が掛かるんだって。それで、父ちゃんはやむなく土地を手放したんだけど、あいつが紹介した医者は真赤な偽物で、妹の足を直すどころか金を持ってとんずらしちまいやがった。それで文句を言ったら逆に言いがかりだって殴られて……。シュッツバウムと手下の連中に殺された……!」
「そいで母ちゃんはショックを受けて、それでも、あたし達を育てるために必死に働いて……そんで病気になって死んだの」
ベッチーナも涙ながらに訴えた。
「それで、君達は今、どうしてるの?」
「倉庫に住んでるの」
ベッチーナが言った。
「倉庫?」
「うん。それで、お兄ちゃんがいろいろな仕事をしてお金をもらって、それでパンを買うの」
「何故? ちゃんとした家には住まないの?」
ルビーが訊いた。
「そんなの……家賃が払えないからに決まってるじゃないか!」
ペーターが怒ったように言う。
「でもね、お兄ちゃんと寝るととってもあったかいの。毛布はぼろぼろのが1枚しかないけど……高窓からお月様が見えるの。お星様もいっぱいで、そのお星様の欠片が雪になって降って来るのよ」
彼女は夢見るような瞳でうれしそうに言った。
再び雪が降り始めていた。
灯りのない部屋。
地下室の記憶……。
ルビーの瞳に映るのは、過去の記憶の断片……。
切り刻まれた紙片のように白い記憶が降り積もる。
「ルビー? どうしたの?」
ベッチーナがそっと彼の手に触れた。
「……僕も見たんだ。明かりのない暗い地下室で……。高窓から差し込む月の光を……そして、冷たい星の欠片が舞い込んで部屋を冷たくした。もし、あの時、君のような妹がいてくれたら、僕はもう少しまともになれたかもしれない……」
その瞳から伝い落ちる涙……。
「ルビーもなの?」
ベッチーナがそっと彼の頬に触れ、こぼれ落ちる涙を拭う。
「おまえも……? おれ達と同じ想いを知ってるのか……?」
二人の子どもはルビーの心に共鳴した。
その時、教会の鐘が時刻を告げた。
「いけない。おれ、もう行かなきゃ……」
とペーターが妹の乗ったソリを引っ張って斜面を登る。
「行くって何処へ? こんなに早く学校へ行くの?」
ルビーが訊いた。
「仕事だよ。ホテルの仕事を手伝ってるって言ったろ?」
「ごめんね。お兄ちゃん。わたしのせいで遅刻したら、またわからずやの大男に殴られちゃうよ」
ベッチーナが泣きそうな声で言った。
「平気だよ。殴られるのなんか慣れてんだ」
「ねえ、僕がベッチーナを連れて行ってやるよ。君は早く行った方がいい」
ルビーがそりを押しながら言った。が、ペーターは応じない。
「だめだ。これはおれの責任さ」
「でも、僕と話をしてたから遅くなったんでしょう? 手伝わせてよ」
「そんな何処の馬の骨だかわからないような奴に大事な妹を任せられるか」
息を切らしながらペーターが言う。
「僕の事が信用出来ないの?」
ルビーが訊いた。
「当然だ! おまえなんかさっき会ったばかりなんだからな。それに、ここはシュッツバウムの領域だ。どんな汚い手を使って来るかしれやしない」
「僕がシュッツバウムの仲間だと思ってるの?」
「ちがうのか?」
「ちがうよ。僕は……」
ルビーが何か言い掛けた時、上に辿り着いた。すると、ペーターは素早く妹をそりから抱き下ろすと、止めてあった車椅子に乗せ、さっさと向きを変えて行ってしまった。
「バイバイ、ルビー。また今度ね」
ベッチーナが振り向いて手を振る。
「またね」
ルビーも軽く手を振って建物の中へ入って行った。
午後。気温は氷点下を割っている。ルビーはラウンジからじっと外を見ていた。細かい雪が断続的に降っていた。そんな中で少年は外でずっと作業をしている。
「ペーター……」
ルビーは複雑な思いでその影を見つめた。
「どうかしたのか?」
ギルフォートが訊いた。
「あの子、学校にも行かずにずっと働いているんだ」
「ほう。おまえ、学校は嫌いだったんじゃないのか?」
「そうだけど……。あの子達は、働かないとパンが買えないんだって……。こんなに雪が降っているのに……外は寒くて凍りつきそうなのに……。あの子達には帰る家もないんだ」
「あの子達?」
ギルフォートが怪訝な表情で訊く。
「ペーターには、ベッチーナっていう妹がいるんだ。とっても可愛い子だよ。でも、シュッツバウムのせいで怪我をして、今は歩けないから車椅子に乗ってるの」
「歩けない……」
ギルフォートはもう一度窓の外の少年を見た。そこへ、車椅子の少女がやって来て何か話し掛けた。すると、少年が自分の上着を脱いで少女に掛けてやっている。
「ねえ、あの子達に何かあたたかい物を持って行ってやるよ。それに、上着と手袋」
そう言って飛び出そうとするルビーに向かって男は言った。
「やめておけ」
「何でさ?」
不満そうに訊くルビーにギルフォートは続ける。
「余計な事はするな。それよりも自分の心配でもするんだな。今朝、雪で身体を濡らしたろう? 赤い顔をしてるぞ。熱があるんじゃないのか?」
「そんな事ない。僕、平気だよ」
そう言って駆け出すルビー。
(おまえにはわからないさ)
ちらと窓の外の兄弟を見て、ギルフォートはふと昔の自分を思い出していた。弟と二人、社会に放り出された雪の日……。何ヶ月かはホームレスのような生活が続いた。誰の世話にもなりたくなかった。しかし、そんな荒んだ生活に、身体の弱いミヒャエルが耐えられなかった。そこで、彼は何とか弟を施設で保護してもらい、自分はギムナジウムの寮へ入った。寝る場所と食料は何とかなった。しかし、世間の風は相変わらず厳しく、心はいつまでも冷え切ったままだった。
誰の世話にもなりたくない。それが彼の強い信念だった。だから、学校が休みの日には働いて賃金をもらう。それで何かしら弟が喜ぶ物を買ったり、必要な本を買ったりした。それから、将来のためにほんの僅かずつではあったが貯金もした。世間を見返してやるために……。ペーターは、そんな自分に似ていると思った。だから、止めたのだ。他人から施しを受ける事は、あの少年にとっては屈辱でしかない。自分で努力して勝ち取った物でなければ意味がないのだ。いつも誰かに与えられ、それを待っているだけのルビーには理解出来ないかもしれないが……。ギルフォートは思った。窓の外の少年とルビーと……本当に可哀想なのはどっちなのだろう? と……。
「ペーター」
ルビーが二人の側に駆けて行った。両手に湯気の立つ紙コップを持っている。
「外は寒いでしょう? ショコラを持って来たんだ。これを飲んであたたまるといいよ」
「ありがと」
ベッチーナはうれしそうにそれを受け取ってくれたが、ペーターは、いきなりそれを足元に捨てた。その部分だけ雪が染まり、シュウシュウと煙を出した。
「どうして……?」
呆然として見返すルビー。むっとしているペーター。そんな兄とルビーの顔を交互に見ていたベッチーナがそっと紙コップを返して来た。
「いらない。返す」
「でも……」
ペーターはくるりと背を向け、車椅子を押して歩き出した。そして、数歩行ったところで立ち止まり、まだ呆然としているルビーに言った。
「同情なんかいらない」
そして、そのまま振り向かずに行ってしまった。ルビーは手の中に握ったまま、すっかり冷めてしまった液体を、ただ黙って見つめていた。
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