RUBY
〜練習曲1 マスカレード〜
Part 2 / 3
その夜。パーティーは盛大に催された。ライトアップされた庭。品のいい装飾が施された室内。そして、ルビーが奏でるピアノの幻想……。それはまるで甘美なワインのように。唇から爪先まで酔いしれて、自分が一体何処から来て、何処へ行こうとしているのかさえわからなくなる程に……。
「お兄ちゃん、きれい……」
ベッチーナがそっと窓を覗いて言った。
「ああ……」
ペーターも頷く。
「ルビーがピアノを弾いてるわ」
壁越しにではあったが、その響きは子ども達の心を虜にした。
「本当に、何て素敵なの。お兄ちゃん、もっと近くに行ってみようよ」
ベッチーナにせがまれて、彼はホテルの中へ入って行った。広間に近づくと、いきなり拍手と喝采が聞こえた。それから、静かなBGM……。
「なーんだ。もうルビーのピアノ終わっちゃったのかしら?」
ベッチーナがガッカリしたように言う。と、その時。
「こら! おまえら、こんな所で何をしている!」
いきなり怒鳴られて二人は思わず首を竦めてあとずさった。
「汚い格好してホテルに入るんじゃねえ! この卑しいドブネズミ共が!」
大男がペーターの襟首を捕まえて殴りつけた。
「やめて! お願い! お兄ちゃんのせいじゃないの! ベッチーナがいけないの! ルビーのピアノが聴きたいからって無理に連れて来てもらったのよ。だから、お兄ちゃんをぶたないで!」
「うるさいっ!」
兄を庇おうとした少女にまで手を上げようとするその大男の腕を掴んだのはルビーだった。
「よせよ。この子達は僕の客人だ」
「し、しかし、こんな薄汚れた奴ら……」
男は納得が行かない顔で奥に控えたシュッツバウムを見た。が、彼は渋い顔で子ども達を中に入れるように命じた。
「さあ、どうぞ」
ルビーが恭しく彼女の手を取り、ピアノの側のテーブルに招いた。
「今日はパーティーだから、これを付ければ誰だって入れる」
と言って二人に銀の仮面を渡す。
「仮面を付ければ誰が誰だかわからない。そうですよね? ヘル シュッツバウム」
ルビーのことばに男は歯がみしたが、どうにもルビーに逆らう事など出来なかった。
「さあ、子ども達に飲み物を」
ルビーはウエイターに命じた。
「それにね、ここにある食べ物はみんな食べてもいいんだからね」
そう言うと彼はピアノの席に戻った。
「ランデブーはワルツの後で」
ルビーはさり気なく作戦の変更をジェラード達に告げる。OKの返事をグラス越しに確認すると、彼はそっと目を閉じた。いつの間にかBGMが消え、しんと静まった会場に静かな照明が灯る。そうして微かな揺らめきと共に演奏が始まった。
すべるように滑らかにルビーの指が鍵盤の上で遊ぶ。グラスの中で、シャンデリアの中で、それは淡い虹となって揺れる。小さな泡粒のようにやさしい音で……。時には嵐の夜に翻弄される小船のように激情がほとばしるドラマティックな曲だったり、繊細な乙女の吐息のような哀愁と慈愛に満ちた曲だったりする。誰もが知っている有名な曲でさえ、ルビーが弾くと初めて聴いたような新鮮な感動を覚えた。
「ピアノがこれ程までに官能的で美しいものとは思わなかった……」
「本当に……。今まで聴いていたものは何だったのか耳を疑いたくなりますわ」
皆、ため息混じりに絶賛した。
「まさしく彼は天才だよ」
「100万ユーロの価値はあったという事だな」
「それに、見て。彼の仕草の品のいい事」
「ああ。ここだけの話。彼、本当は貴族の出身だってことだよ」
「まあ。それは納得出来ますわね」
ヒソヒソと囁く声が聞こえる。
「お兄ちゃん。ルビーって本当はすごい人だったのね」
ベッチーナが言った。
「ああ……」
その演奏に心奪われながらも、ペーターは怒りを覚えた。
(もとは貴族の出身だって……? 馬鹿野郎!)
「あいつは大嘘つきだ! おれ達は騙されたんだ」
少年は唇を震わせた。
「ペーター……」
ルビーが悲しそうにその言葉を受け止めた。
「嘘つきだなんて、そんな……。僕はただ……」
「言い訳なんかするな! おまえは、おれ達と同じじゃない!」
ペーターが言った。
「どうせ心の中では見下してたんだろ? 同情ごっこは楽しいかい?」
「同情ごっこ……?」
その言葉がルビーの胸に突き刺さる。
「そうさ。あんたにとってはごっこでしかないんだろ? おれ達、貧しい者に、物や金を恵んでやって、自分はこんなにいい事をしましたって満足して笑う。そうだろ?」
「それは……」
困惑し、言葉に詰まるルビーにシュッツバウムが言った。
「失礼を……。何せこのガキ共はろくに学校にも行っていない性悪な連中でしてね。どうか気を悪くしないで下さいよ。ヘル ラズレイン」
しかし、ルビーはおべっかを使ってすり寄って来るシュッツバウムを避けて、子ども達をつまみ出そうとしている大男に向かって言った。
「言ったろう? この子達は僕のお客だって。勝手な振る舞いは許さないよ。さあ、その手を放せ。乱暴しないでとっとと向こうへ行け!」
ルビーがその男を追い出すと子ども達に向かって言った。
「さあ。次は楽しいダンスパーティーだ。おいで。君達も踊ろう」
と車椅子のベッチーナの手を取るとルビーは華麗にステップを踏み始める。回したり腕の下をくぐらせたり、自分が彼女の回りで茶目っ気たっぷりに跳びはねたり、自由な振りで音楽と戯れた。ベッチーナは初めのうちは戸惑った顔をしていたが、すぐに自分から車椅子を回転させたり、抱き上げられて一緒にステップを踏んだりするとうれしそうに笑った。
「ベッチーナがあんなにうれしそうに……」
そんな彼女を見つめてペーターが呟く。
「兄としては妬けるか?」
突然の声に振り向くと、背の高い銀髪の男がいた。
「別に、そんなんじゃない。ただ……」
男は置き去りにされた車椅子を見て言った。
「少しブレーキが甘いな。ストッパーも緩くなってる。あとで直してやる」
「余計なお世話だ!」
突っ張るペーターにギルフォートはその肩を掴んで言った。
「言う事を聞くんだ。妹が可愛いならな」
「何?」
「このままだと、本当に危険だ。もしもブレーキが効かずに斜面を滑り落ちたらどうする?」
「それは……」
「人間、素直になれるなら、その方が幸せになれる事もある」
そう言ってギルフォートははしゃいでいるルビーとベッチーナを見た。
「ああ……」
ペーターもそれを目で追う。
「わかってるさ。けど、おれは、どうしても、シュッツバウムが……」
ペーターはじっと主のいない車椅子を見つめた。
「アハハ。楽しかったね。喉が渇いたでしょう? 何か飲み物を取ってあげる」
ルビーは彼女を抱いたままオレンジジュースのグラスを取って渡す。
「うーん。おいしい」
ベッチーナが笑うとルビーもうれしそうに笑った。
「ねえ、ルビー。学校ってほんとにつまらない所?」
彼女が訊いた。
「君は学校に行きたいの?」
「うん。でも、お兄ちゃんには内緒よ。言うとお兄ちゃんが困るから……」
「うん。約束するよ。お兄ちゃんには言わないって……」
「それじゃ、ほんとの事教えて?」
「そうだね。僕もあまり学校には行ってないんだけど、やっぱりよくいじめられたよ。いばりん坊や怒りん坊のいじめっ子はやっぱりどこにでもいるんだ」
「そうなの」
ベッチーナはがっかりしたように肩を落とす。
「でもね、学校はやっぱり楽しい所でもあるよ」
「いじめられたのに?」
「うん。そうだけど、いろんな子がいておもしろいんだ。いやな奴もいるけど、いい子だっている。きっとベッチーナのことを好きになってくれる子や庇ってくれる子がいる。学校に行けば友達が出来るよ」
「ルビーも友達いる?」
「うん。学校の友達とはもう別れちゃったけど、今は別の友達がいる……友達と言っていいのかどうかわからないけど、仲間がいる……」
そう言ってルビーは少し俯いた。
(本当に?)
という疑問が巡る。その先にいるのは銀狼。そして、それを飼い慣らす者……。
(僕は、いつもあなた達の仲間だと思ってきたけれど、本当はどうだったのだろう? あなた達は、どう思っているの? 僕のことが好き? 本当にそうだったらいいのだけれど……。本当に僕のことを好きでいてくれたら……)
「ごめんね」
とベッチーナが言った。
「え? 何が?」
「さっきはお兄ちゃんがルビーに酷いこと言ったでしょ?」
「いいよ。別に気にしてない」
と、ルビーは笑う。
――同情ごっこは楽しいかい? どうせおれ達貧乏人のこと見下して満足してたんだろ?
(ちがう!)
――自分はこんなにいい事をしましたって笑ってさ
(ちがう!)
ルビーは心の中で否定した。が……。
(本当にそうだろうか?)
そう自問してみた。
(心のどこかでそう思っていた自分がいた。そうではないのか? お金を寄付して、それでよい事をしたと……満足し、優越感に浸っていた自分が……)
たとえ、そうだったとしてもそのお金が役に立たなかった訳じゃない。何もしないよりはずっとましなはずだ。そう思い込もうとした。しかし、出来なかった。
――もっと根本的な解決をしなければ……
ギルフォートの横顔が浮かぶ。
(なら、どうしろと言うの? ギルなら、それが出来るの? 出来るなら、何故そうしないの? そして、何故答えがわかっているのに、ちっとも世の中はよくならないの?
どうしてもっと世界中に住む人が仲良しになれないの? どうして? どうして? どう……)
考えているうちに混乱し、頭が痛くなった。
「ルビー? どうしたの?」
ベッチーナに言われて彼は頭を振った。
「ううん。何でもないよ。そろそろピアノを弾かなくちゃ……」
とルビーは隣の席に彼女を下ろし、ワルツを弾き始めた。彼女はうっとりとその指先を見つめる。振り向くと皆同じ銀の仮面をつけて踊っている。男も女も青いドレスも赤いドレスもみんなだ。
「何だかかぼちゃのお化けみたい……」
ベッチーナが言った。淡い照明に反射して仮面がぼうっと浮き上がって見えるのでますますそんな印象がしたのだ。
(本当だ。あれはかぼちゃの集団だ)
そう思ってルビーはぞっとした。
「ベッチーナ、そろそろ帰ろう」
ペーターが来て言った。
「そうだね。そろそろお化けの時間になるものね」
ルビーも言った。
「ありがとう。ルビー。今日はとても楽しかったわ」
兄に抱かれてベッチーナが言うとペーターも礼を言った。
「ほんとにありがとう。それに、さっきはごめん。おれ、ちょっと言い過ぎちまって……」
「別にいいよ。気にしてない。おやすみ」
「おやすみなさい。ルビー、また明日ね」
二人は笑って会場をあとにした。
そして、本番が始まった。ダンスをしながらの商談と駆け引き。美酒に酔い、媚薬に酔い、人々は音の快楽に身を任せる。
(ギルは、またどこかの女を口説いているのだろうか? 仮面を付けていても美人だと見抜けるのかな?)
などと思いながらワイングラスを傾ける。鍵盤の上で遊ぶ男女の影……。言い寄る女達の唇。甘い誘惑……。ガラス細工のような耽美な時間に酔いしれて、ルビーは少しだけ気分が高揚した。
(ジェラードは……)
ルビーは、甘い夢の国を髣髴させるような美しい旋律を奏でながらその影を探す。左胸に銀の薔薇。彼は壁際に立ち、茶髪でやや小太りの男と密談している。そして、ギルフォートは、紫の薔薇……。中央よりやや右の辺りで淡いベージュのドレスを着た女といい雰囲気だ。そして、シュッツバウムは……入り口から少し入った右隅で例の大男と何やら話をしていた。ルビーはもう1曲短いワルツを弾いて確認する。ジェラードとギルフォートの位置はほとんど変化がない。しかし、シュッツバウムは……。大男と離れて一人だ。丁度中央の人込みに向かって歩いて来る。青いドレスの女とピンクのドレスの間から上半身が覗く。
(今だ)
ルビーは調子のいいスタッカートを叩きながら確実にターゲットの左胸に向けて念を放った。瞬きするよりも早く光のニードルがシュッツバウムの胸を貫通した。
一瞬の静寂……。
そして、その肉体がゆっくりと沈む……。
ルビーは何事もなくピアノを弾き続ける。
美しく優雅なその調べを……。
やがて、
「キャー!」
という女の甲高い悲鳴が上がり、周囲が騒ぎ出す。
「誰か……!」
「人が倒れて……」
「死んでる……!」
いつもと同じ騒動が始まる。誰かが救急車を呼び、警察が来て、事情聴取が始まる。だが、絶対的アリバイがあるルビー達に嫌疑が掛かることはない。ある程度事情聴取をしたところで解放される寸法だ。
(もう、闇のお化けに怯えたりしない。僕の心は雪よりも冷たい。何も感じずにいる事に慣れてしまったから……)
ルビーはゆっくりとピアノの蓋を閉めて立ち上がる。銀色の仮面の列が右往左往して不気味だ。遠くでサイレンの音がしている。ここまではいつもと同じ。だが、その日は展開が違っていた。
「こいつが犯人だ!」
いきなり大男が叫んだ。
「犯人だって? 馬鹿な……」
その男が捕まえていたのはあのペーター少年だった。
「ちがう! おれじゃない! おれはただ、妹が落とした母ちゃんの形見のブローチを探しに来ただけなんだ」
ペーターは必死に訴えていた。が、大男は頑として彼が犯人だと言い張った。
「おれは見たんだ。ヘル シュッツバウムが倒れた時、丁度こいつが入って来て何かをしたんだ。こいつは前からシュッツバウムさんに恨みを持ってた。だから殺ったんだ。こいつが犯人だ」
「ちがう!」
ルビーが叫んでそちらに行こうとした。その手を掴んでギルフォートが止める。
「騒ぐな」
「でも……」
「すぐに疑いは晴れる」
ジェラードも来て言った。
「あの子は何も凶器を持っていない。物証がない以上、警察は何も手を出せないさ」
しかし、ペーターは警察に連行された。
「どうして?」
チクリと何かが首筋に刺さった。
「痛いっ!」
思わず顔を歪めて首の後ろに手をやると、そこに小さなブローチが引っ掛かっていた。
「これは……」
――妹が落とした母ちゃんの形見の……
ルビーはそっとそれを握り締めた。
(多分、あの時とれたんだ)
ベッチーナを抱き上げてダンスをした時、彼女の胸にはこれが付いていた。そのあと、しばらくして彼女を下ろした時にはなかったような気がした。
(あの時……)
彼女はうれしそうに笑ってルビーにしがみついて来た。楽しい時間……。たくさん笑って、おしゃべりをして、それから……。
「ベッチーナは何処?」
ルビーは慌てて外へ飛び出した。
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