RUBY
〜練習曲1 マスカレード〜

Part 3 / 3


 あれから大分時間が過ぎていた。雪はどんどん激しさを増し、白と黒で出来た闇の怪物が生き物全ての気配を消した。ぼんやり灯って見える窓からは仮面の集団……。裏庭に回るとそこにはほとんど明かりがなく、雪のせいですぐ目の前に何があるのか、足元がどうなっているのかさえよくわからない。
「ベッチーナ! 何処?」
敷地のずっと外れにあった倉庫にはぼろぼろの毛布が1枚落ちていただけで誰の気配もなかった。

「ベッチーナ……」
ルビーは再び外へ出て行った。駐車場を横切り、もう一度ホテルの建物に近い植え込みの辺りまで来た時、豆電球の消えた木の近くで彼女の車椅子が横倒しになっているのを見つけた。斜面のすぐ近くだ。が、肝心な彼女の姿が見当たらない。
「ベッチーナ……」
そして、ルビーがそれを起こそうと持ち上げた時だった。
「あっ!」
突然足元の雪が崩れた。そして、彼はそのまま斜面を滑り落ちた。

「ううっ……!」
ルビーは必死に何かを掴もうとした。が、そこにあるのは軟弱な雪……。その雪のせいで視界が悪く、足元の境がわからなくなっていたのだ。数メートル滑り落ちた所でようやく止まった。身体中が雪に塗れ、すっかり冷え切ってしまった。

「冷たい……」
見上げると闇と銀色の魔物が牙を剥き、鋭い鱗のような刃を撒き散らして来る。
「やめろ!」
ルビーは自分を呑み込もうとして来る闇の獣を両手でかき散らした。
「来るな!」
闇の中に浮かぶ仮面。笑う銀の葬列……。偽りの愛に弄ばれ、奈落の底へと堕ちて行く……。

(いやだ……!)
銀色に隠された顔は見えない。笑っているのか? 泣いているのか?
「そこにいるのは誰? ジェラード? それとも、ギルフォート?」
あるいは、死んでしまった者達の魂であったかもしれない。
「僕は知ってるんだ。いくら仮面をかぶって僕にやさしくしたって、本当のことみんな知ってるんだ。みんな僕を騙して……よってたかって僕を人殺しにした……!」
ルビーは闇に叫んだ。が、その声は雪に吸われて消えた。
「返して! 返してよ、僕の本当を……!」

――本当は見下してたんだ

「ちがう! いつも見下されていたのは僕の方だ。馬鹿にされて、同情されて、それが悔しくて泣いていたのは僕の方なんだよ! 愛して欲しかったから……いつも誰かに愛されたくて、独りぼっちが寂しくて、それで……!」
だが、そんな彼の叫びに答えてくれる者はいない。握り閉めた指輪は、それをはめた手と同じくらい冷えていた。それをはめた彼の心と同じように……。

――100万ユーロいただけますか?

「あれは、きれいなお金なんだ。人を殺した報酬じゃない。人を感動させたお金だもの。誰かを幸せにするために使えるお金なんだ。だから、それをベッチーナの足を治すために使ってもらおうと思っただけなのに……」

――そんな金はもらえない。おれ達は物乞いじゃないんだ

「どうして……?」

――おまえにはわからないさ

(僕にはわからないって……どういうこと?)

――おれ達は物乞いじゃない

――もっと根本を変えなければ……

――仕事をして少しばかりの金をもらってるんだ

その時、遥か頭上から声がした。
「おい。本当に大丈夫なんだろうな?」
「ええ。チビはこの崖の下でさ。今頃は首の骨でも折っておっ死んじまってまさあね」
「まさか、あのガキに聞かれちまうとはとんだ番狂わせだったが……確実な仕事をしてくれる『グルド』のおかげで一石二鳥、邪魔者を一気に始末する事が出来た」
「これで、このホテルもシュッツバウムの資産もみーんなあんたさんのものですがね」
「そうだな。おまえにも報酬をやらないとな」
「へえ。そいつはありがとさんです」
バシュッと鈍い音がした。それから、男の巨体が雪の崖から滑り落ちた。
(サイレンサーだ)
そいつは、ルビーのすぐ脇を通って更に数メートル下の窪みに落ちて止まった。それは、あの大男だった。上の男はすぐにそこから立ち去ったらしく何の気配も感じない。

「おい」
ルビーは大男を揺すった。
「おまえをやったのは誰だ?」
男はうっすらと目を開けて言った。
「……医者……だ……奴が…全てを牛耳る闇の……」
そこで男の言葉は途切れた。
「医者だって?」

――シュッツバウムが紹介してくれた医者は妹を治すどころか金を持ってとんずらしちまいやがったんだ

何となく裏の糸が繋がって来たような気がした。連中は『グルド』でさえ利用した。ジェラードはその事に気がついているのだろうか? 子ども達が巻き込まれたのが偶然だったとしても、結果として、自分も彼らがやった事に協力してしまった事になる。そして、あの小さな兄妹を苦しめた事に……。

「ベッチーナは……? あの子もおまえがやったのか?」
「そ、そうだ……殺れと言わ…れて……おれが……」
「それでおまえは何をした? 言え!」
しかし、大男はそれ以上何も語ってはくれなかった。ルビーは、周辺の雪を掻き分けて少女を探した。まだ、差程長い時間が経っている訳ではない。単に突き落とされただけならば助かるかもしれない。ルビーは必死に痕跡を探した。グローブも何もつけていない手はすっかりかじかんで感覚がなかった。爪先は痺れ、全ての関節が凍りついているようにうまく動かせない。

「ベッチーナ! 何処にいるの? 返事をして……」
意識が朦朧とし、何度も急斜面を滑り落ちた。ふと、子どもの頃、庭で雪遊びをした事を思い出した。
(そうだ。あの時もうまく手足が動かなくて雪の中で何度も転んで雪だらけになった……。そして、転ぶ度に誰かが抱き起こしてくれた……やさしく、あたたかな母様の手が……)

――だめだ。自分の力で立たせるんだ

突然、厳しい声が遮った。

――でも、あなた、この子は……
――自分の力で立たせるんだ。ほら、立ってごらん、ルー。本当は出来るはずの力を使わせないで甘やかしてばかりでは、この子はいつまで経っても自分で立つ事を覚えない。生きて行くためには、強くならなければだめなんだ。さあ、立ちなさい。ルートビッヒ

酷い父親だと思った。その頃の彼にとっては、ただ立つということが本当に難しい事だったのだ。何度も何度も失敗を重ねた。かぶった帽子や上着に雪が積もった。それでも諦めずに続けた時、彼はついに自分の力で立ち上がることに成功した。見ると、脇に立つ父の肩や頭にも白い雪が積もっていた。しかし、父はそれを払おうとはしなかった。そして、小さなルーを抱き上げ、自分のことのように喜んだ。

――よし。よくがんばった。おまえは強い子だ

父は自分が強い子に育って欲しいと望んでいたのかもしれない……と彼は思った。何があろうと決して諦めない強い心になるのだと……。
(どうして、今更、あなたの事を思い出す?)
頬に冷たさを感じた。いつの間にか斜面に伏していたのだ。

――どうした? ルートビッヒ。それで終わりか? おまえの力はそれまでなのか?

父の声が木霊する。

――それで終わりか?

「ちがう……!」
彼は起き上がり、再び雪の中で捜索を始めた。そして……。遂に見つけた。半分雪に埋もれて身体は冷たくなっていたが、まだ心臓は動いている。
「ベッチーナ……よかった……本当に……」
彼は少女を抱えると空を見上げた。そして、挑むように降りしきる雪の中を飛んだ。彼の体は淡い光に包まれて、まるで不死鳥のように輝いていた。

 ベッチーナは無事だった。部屋でギルフォートが手当てをしてくれた。そして、ルビーはジェラードに連れられて医者に行った。雪で身体を冷やしたことが原因で熱を出したのだ。翌日にはその熱も引いた。が、念のためにと再びジェラードに付き添われ、病院に行った。

「大丈夫。熱も下がったし、もう肺炎を起こす心配もなくなりました。あとはしっかりと身体を温めて、栄養のつく物を摂って過ごせば問題はないでしょう」
医者が言った。
「それはどうもありがとうございました」
ジェラードが礼を言う。
「よかったね、坊や」
と、ルビーに言って笑う。
「うん。ありがとう。でも、どうして夜中に雪遊びをしちゃいけないの?」
と、ルビーが医者に訊いた。

「雪は身体を冷やしてしまうからね。それに、夜、外に出るのはよくないよ。夜はお家で寝るものだ」
医者の言葉にルビーはクスクスと笑って言った。
「そうだね。ねえ、先生、僕のウサギさんもカゼを引いちゃったの。この子も診てくれない?」
「ああ、そのウサギさんなら大丈夫。それはぬいぐるみだからね、カゼを引いたりしないんだ」
「どうしてぬいぐるみだとカゼを引かないの?」
「生きていないから……」

「じゃあ、先生は生きているものの先生なの?」
「そうだよ」
「へえ。生きているものを殺す先生なんだ」
ルビーはそう言ってクスリと笑った。
「何?」
医者は微かに頬を痙攣させて訊き返した。
「ねえ、ジェラード、早く帰ろう。僕、まだ死にたくないし、女の子のお人形と遊びたいんだもの。それに、男の子のお人形も早く取り戻さなきゃ……」
ルビーはそう言うと診察室を出て行った。

「私が生きてるものを殺す医者だって? 何がただのピアノ弾きだ! 何もわからないような無邪気なマスクの下にはとんでもない悪魔が潜んでいるのかもしれないぞ。ジェラードめ! 私に一杯食わせようってのか?」
医者は苛々と悪態をつきながら床を蹴って歩き回った。

 「ベッチーナは?」
ホテルの部屋のドアを開けるなりルビーが訊いた。
「大丈夫だ。今はまだ眠っているがな」
少女の脇に寄り添っていた男が言った。
「よかった」
ルビーが近づいて言う。
「ギル。女の子だからってベッチーナに手を出しちゃだめだよ」
「馬鹿言うな。おれはロリコンじゃない」
「だったらいいんだけど……。ギルってば美人を見ると見境ないんだから……」
「あと10年、楽しみに待ってるさ」
「あー、やっぱりそんなこと思ってるんだ」
ルビーが怒って抗議する。

「彼女はおまえのものでもないだろう?」
「そうだけど……」
ルビーは黙って窓の外を見つめる。外はまだ雪が降っていた。
「あの子達はね、誰のものでもない。自由な子ども達なんだ。ねえ、僕、今夜ペーターを助けに行くよ。それから、この子達を何処か安全な場所へ連れて行く」
「何処へ?」
「決めてない。でも、出来れば、この子達が自分の力でやっていける場所がいい。そんな場所知らない?」
「心当たりがない事もない」
「何処?」
「マルコ ヴィスタロッチの所さ」

「マルコだって?」
ルビーは不服そうな顔で男を見上げた。
「心配するな。奴は確かに少年愛的嗜好を持っているが、その趣味が高じて身寄りのない子ども達を引き取って仕事や教育を与え、社会に巣立たせるなどという気の利いた事業も行っている。そこでは、皆、のびのびと自由な夢を持ち、独立した後もよく交流し、助け合っているらしい。中には大人になってもマルコの屋敷や工場で働いている者もいるようだが、奴はけっして無理強いはしない。そういう意味ではあの男は人格者なんだ」
「わかった。それじゃ、マルコおじさんに訊いてみるね」
ルビーは微笑して部屋を出て行った。


 夜。警察の取調室ではペーターの尋問が行われていた。
「君が殺したんだね?」
いかにも温厚そうな表情を浮かべて取り調べ官が言った。
「ちがう! おれは何もしていない」
ペーターが激しく反論する。
「君が殺ったんだろ? わかっているんだよ。君は以前からシュッツバウムを憎んでいた。父親の事業が失敗したのが彼のせいだと思い込んでの犯行だ」
「想い込みだって? 馬鹿な事を言うな! みんな奴が企んだ事じゃないか!」
少年の言葉に、取り調べ官の男はこれ見よがしの笑みを浮かべて詰め寄る。
「ほら、みろ。君はシュッツバウムを恨んでいた。だから殺した。そうなんだね?」
「ちがう!」

「正直に言え! そうすれば、あまり痛い目に合わずにあの世へ送ってやるぜ」
男が怒鳴る。温厚そうに見えていた仮面を脱ぎ捨てた男の本性が笑う。
「何だって? ふざけるな! 警察は正義の法を守るための組織じゃないのか?」
少年が叫ぶ。
「そうさ。正義とは、常に強い者、そして、力のある者が勝つ。おまえらのような虫けらに用はない」
「どういう意味だ」
ペーターが訊いた。
「おまえの父親がいけないのだよ。何でも馬鹿正直に不正を暴こうなどとするからせっかくのチャンスを失くしたばかりでなく、命まで亡くしてしまったんだ。愚か者の末路さ」

「そうか。おまえ達が汚い事をして……だから父ちゃんが……!」
「ガキだからと見逃してやっていたのに、野良犬みたいにコソコソ嗅ぎ回りやがって……。しかも、「グルド」の奴にまで……」
「『グルド』? 何だよ、それ? おれは知らない。コソコソ嗅ぎ回るなんてしちゃいねえ」
「うるさいっ! 黙れ、小僧! せっかく大金払ってシュッツバウムを殺ったのに……! あった筈の金はピアノ弾きの小僧に払っちまいやがったって言うんだ。必ず取り返せるからという約束だったのに……あの医者の奴……初めから私をはめるつもりで……!」
しかし、その憎しみは目の前の少年に向けられた。ペーターの首を締め上げて男は言った。
「心配するな。一人じゃない。妹も一緒に送ってやる」
「畜生! 放せ!」
少年は抵抗するが、男の力には叶わない。
「ベッチー…ナ……」
ふっと意識が遠のきそうになった。その時。一陣の風が吹き込んで来た。

「仮面の下にはいろいろな顔……」
歌うようにその風が言った。そして、二人の前にひらりと影が舞い降りる。それは漆黒のマントを纏った一人の男だった。彼は銀の仮面を付けていた。
「貴様、一体何処から入った?」
驚いたように取り調べ官が言った。

「そうか。わかった。心が醜いから隠さなきゃならないのか」
そう言うとマントの男が銀色のマスクを取り去った。
「貴様は、あの時のピアニスト……」
「そう。僕は闇のピアニスト。闇の心に鎮魂歌を奏で、光の心には希望を奏でる……」
そうして彼は腕を突き出す。
「な、何をする気だ?」
男が怯む。ルビーはゆっくりと男に近づいて言った。

「その子は無実だ。返してもらうよ」
ルビーが言った。
「何が無実だ! こいつは殺人を犯した極悪人なんだぞ」
「ペーターは人殺しなんかやってない」
「何故そう言える?」
男が凄んだ。だが、ルビーは冷静に言った。

「だってあの男を殺ったのは僕だもの」
「何?」
「そう。シュッツバウムを殺したのは僕だと言ったんだ。あなた達からの依頼を受けてね。それとも、もう忘れたのか?」
「馬鹿な……おまえは、あの時ピアノを弾いていたじゃないか」
動揺する男。
「ああ。やっぱりあなたも会場に来ていたんだ。仮面をつけるとほんとに誰が誰だかわからなくなるよね。悪人も善人も何もかも……」
「だ、だから何だと言うんだ?」

「さっきの続き。僕がどうやって殺したのか知りたいという事でしたよね?」
言うと、ルビーは持っていた仮面を男に投げた。そして、それが胸に達する前に仮面の左目の穴から念を撃った。男は何のリアクションもなくパタンとその場に倒れて動かなくなった。ルビーは静かに近づいて仮面を拾い、男の歪んだ顔に乗せた。雪雲の中で雷鳴が轟いている。空で砕けた雪片が次々と地上を覆い、醜いものを隠して行った……。

「ベッチーナは……?」
怯えたように少年が訊いた。
「無事だ。一緒に来るかい?」
差し出した手に少年は恐る恐る掴まる。
「少し震えているね。大丈夫?」
ルビーが訊いた。
「あ、ああ……」
彼は笑うと少年をベッチーナが待っている部屋へと送り届けた。

「お兄ちゃん」
目を覚ました妹が喜んで兄に抱きつく。
「ルビーが助けてくれたのよ」
「ああ。おれもだよ」
ペーターも言って振り向くと、もう彼の姿は何処にもなかった。窓が僅かに開いたまま、カーテンが揺れている。


 「先生、今度はくまさんが怪我をしたの。治してよ」
突然診察室の窓が開いてルビーが入って来た。見ると、彼が抱えたぬいぐるみの顔に、あの銀色の仮面が張り付いている。
「君、今は診察時間外だよ。それに、言ったろう? 生きていないものは私の担当じゃないって……」
「だって可哀想なんだもの。ほら、肩のところが破れてちぎれそうなんだよ。ねえ、お願い。治してよ。先生は何でも治せる優秀なお医者さんなんでしょ?」
「それは……」
「だから、ねえ、お願い。僕ね、ちゃんと針を持って来たんだ」
そう言って見せた彼の手には何十本もの針の束が握られていた。

「ハハハ。針だけでは縫えないよ。それに、私は人間の医者なんだ。それは明日にでもおもちゃの修理屋さんの所に持って行きなさい」
「どうして? 仮面を付ければ誰だかわからなくなるでしょう? 人間でもくまでもいっしょじゃない」
「人間の顔はこんなに大きくはないよ。ほらごらん。こんなに仮面からはみ出している。すぐにくまだとバレちゃうよ」
「そうだね。仮面を付けても隠せない悪い心がはみ出てる」
言うなりルビーはぬいぐるみの仮面を剥がすと医者の顔に投げつけた。すると、仮面はぴたりと医者の顔に張り付いた。が、それは全てを覆い隠せずにはみ出している。

「な、何をする?」
医者は仮面を外そうともがくが、それはまるで接着剤で貼り付けたかのように剥がれない。
「あーあ。やっぱりこんなにはみ出てる。醜い心は切り取ってよく縫っておかないとね」
ルビーが1本だけ抜き取った針をかざす。くり貫かれた目の部分から覗く瞳が針に反射する光を捉えた。
「や、やめろ! 何をする気だ」
じりじりと後ずさる男の背中が壁にぶつかる。

「僕は心のお医者さん。壊れた心を縫い合わせてあげる」
そう言ってルビーはクスクスと笑う。
「でも、まだ慣れていないから、よく失敗しちゃうんだ。刺した針が身体の中で迷子になっちゃったり……」
「じょ、冗談じゃない! 失せろ! この狂人め!」
「心配? でも、大丈夫。針はいくらでもあるんだ。さあ、受け取るがいい! 僕の大切な人形達を苦しめた罰だ!」
そうして、彼は糸のない針で医者とその影を壁に縫いつけた。が、外れない仮面の下のその顔がどれ程恐怖に歪んでいたかは誰にも想像がつかなかった。

 そうして、仲間二人の訃報を聞くとシュッツバウムの手下だった会計係の男は自らホテルの屋上から飛び降りた。彼の部屋には散らばった紙幣と不正取引の契約書、それに纏わる覚書などが散乱していた。そして、ポツンと置かれた銀色の仮面が一つ……。

独り言のようにルビーが言った。
「仮面の下には幾つもの顔……。泣き顔、笑い顔、そして怒りん坊の顔……どうして隠さなきゃいけないのかな? どんな顔をしている時も、みんな自分自身の顔なのに……。どうして、人は心に仮面をしなきゃいけないんだろ?いい事も悪い事もみんな本当の事なのに……。心の中で迷子になって……時々間違った仮面を付けちゃうんだ。仮面なんか捨てちゃえばいいのに……。隠してもその奥で泣いてる自分を決して庇いきれやしないのに……。わかっていながら、人は……。僕は別の仮面を付けるんだ」
「だが、その仮面が唯一の救いになってくれる事もある」
銀髪の男が言った。
「うん……そうだね。そうかもしれないね……」
ルビーは降り積もる雪の向こうに消えかけた微かな幻想を見た。

 それから、ペーターとベッチーナの兄妹は、マルコ ヴィスタロッチの家に引き取られることになった。
「花は好きかい?」
マルコが訊いた。
「はい。おれ、土いじりは大好きです」
ペーターが応える。
「それはよかった。丁度、花壇の手入れを手伝ってくれる子が欲しかったんだ。それから、君達は学校に行かないといけない。ベッチーナの足もちゃんと治療して……」
「でも……」
言い淀む少年にマルコは言った。

「今必要な事は、今ちゃんとしなければいけない。もちろん、その費用は将来、君が働いて返すんだ。いいね?」
「はい。おれ、がんばります」
ペーターは納得した。
「ベッチーナもがんばる」
二人はうれしそうだ。

「ありがとう。僕の願いを聞いてくれて……」
ルビーが礼を言った。
「何、大した事じゃないさ。言ったろう? もしも君に困った事があれば、世界中何処にでも飛んで行くってね」
「うん。本当にありがとう。感謝します」
ルビーは背伸びして彼の首に腕を回すとその頬にキスした。
「おお! 君のキスは純金に値するよ」
そう言って彼を抱き締め、返礼のキスをしようと迫った。
「あん。唇を狙っても駄目だよ。僕の心は愛する人にしか捧げない」
そう言ってルビーは魔手から逃れてギルフォートの後ろに隠れた。

「何てこった! 戻っておいで。私の可愛い天使ちゃん」
がっくりと肩を落とし、両手を広げてマルコは言った。
「いやだ。そんなことするなら二人は渡さないからね」
強い口調でルビーが言った。
「それはないよ、はるばるローマから迎えに来たんだからね」
マルコが言った。
「おれ、付いて行きます」
ペーターが言った。
「わたしも……」
ベッチーナも言う。そして、二人が左右からマルコの手にキスをした。その二人を抱き締めて彼はうれしそうに笑った。

「こんなに愛らしい天使を二人も同時に手に入れた。私は幸せ者だ」
マルコの言葉に皆も幸福な気分になれた。見上げた空には銀色の月。そこに浮かぶクレーターの影は少しだけ人間の顔に似ているとルビーは思った。


Fin.