ガイストスキャナー
アクアリウム
5 エゴイストたち
目覚めると、ジョンは点滴に繋がれていた。したたり落ちるその水滴を、少年はぼんやりと見つめた。スタンドに掲げられたボトルに貼られた青いラベル……。それが薄い闇に透けて、中の液体まで淡いブルーに染まって見えた。細かな文字は水底で揺れる海藻のように歪んでいた。
(今は何時なんだろう?)
部屋の中は暗く、辺りはしんと静まり返っていた。ボトルの中の液体はまだ半分も減っていない。
「そうだ。コンピューター」
彼は慌てて半身を起こすと時計を見た。デジタルの数字はAM12:44。
「作戦実行時間は現地時間で13時前後だから、時差を考えたらもう4時間余りしかない……」
ジョンは急いでコンピューターのあるテーブルに行こうとした。が、繋がれた点滴の管が絡まって素早く動くことができない。
「もうっ。こんな時に……」
ジョンは腕に止めてあったテープを剥がし、点滴の針を引き抜いた。ぶら下がった針の先から滴が落ちて、腕には赤い血が滲んだ。が、ジョンは構わずコンピューターを起動させた。
しかし、ジョンはその男のアドレスを知らなかった。しかも、運よくメールを送信することができたとしても、それをデニスがすぐに確認してくれる保証はない。今は深夜だ。
「でも、彼はきっと端末を持っているに違いない。特殊な仕事をしているんだもの」
ジョンはCIAの本部にアクセスした。そこから職員の名簿を探し出せばいい。何度かアクセスキーとパスワードを求められたが、彼にとっては何という問題もなかった。空欄に浮かんで見えるワードを打ち込むだけでいいのだ。しかし、目当ての物はなかなか見つからなかった。あまりに部署が多いのとその所属によって管理する保管庫が複雑に枝分かれしていたからだ。
「見つからない……。ここじゃないのかな?」
悪戯に過ぎる時間。念のため、彼はもう一度父親に宛てたメールを送信してみた。が、何度やり直しても送信エラーになってしまう。
「やっぱりデニスさんに連絡をしてみるしか……」
――コンピューターに残された君の足跡を辿ったんだ
ふと男が言っていた言葉を思い出した。
「ぼくの足跡……。なら、それを逆に辿ることも可能な筈……」
ジョンはコンピューターの中を調べ始めた。
「きっと何らかのポインターがあるに違いない」
それがなければ追跡どころか、識別さえできないだろう。そのコンピューターの履歴を辿るためにマークした痕跡を探した。怪しいファイル。見覚えのないタグ。少しでもその可能性が疑われるものは片っ端から調べた。
それからおよそ1時間半。少年はついに男が所属する事務所を突きとめた。
「アクアリフェクタ コーポレーション」
それは、ごく普通の電子機器会社を装っていた。業務内容は主に電子機器や電子部品の製造、販売、並びに情報機器ソフトの開発。従業員数34人の小さな会社だ。
「これじゃあ、わからない筈だ」
その会社の事務室にあったコンピューターから、彼は早速デニスの端末の番号を引き出した。そこに電話を掛け、ショートメールメッセージを送る。
タイムリミットまではあと1時間40分。
「間に合うだろうか」
ジョンは鼓動の高鳴りを感じた。耳や頭の中まで熱く感じる。漏れた液体が床に点々と小さな水たまりを作っていた。が、彼は見て見ない振りをした。
(もうすぐ3時。夜勤のナースが巡回に来る時間だ。でも、お願い。あと少しだけ気がつかないでいて……)
返信が来た。デニスからだ。何があったのかと訊いている。
――傍受される可能性があります。至急、こっちに来れますか?
10分で着くと返信があった。
「10分……」
ジョンは時間を気にしていた。
「あと92分……」
――OKです。
そう打診した。
デニスは7分30秒で駆け付けて来た。
「ジョン、いったい何があったと言うんだ?」
男がどうやって深夜の病院に侵入し、この部屋へ来たのか疑問に思ったが、それはあえて訊かなかった。
「もう時間がありません。これを見てください」
ジョンはコンピューターの画面に図を映し出し、手短に説明した。
「なるほど。で、こっちの図は?」
「軍の配置とレッドウルフの拠点からターゲットを割り出してみたんです。数値は0アワーまでのカウント。緑色がダミーで、もし本隊がここに潜んでいたとしたら……大勢の犠牲者が出ます」
それは、とても11才の子どもの洞察力とは思えない的確な判断だった。
「彼らのモジュールでの通信を傍受し、解析してみたんです。ぼくの思い過ごしだといいんですけど……」
「うむ」
じっとその画面を見つめ、腕組みをしていたデニスが頷く。
「可能性は否定できない。すぐに手を講じよう」
「ありがとうございます」
「構わんさ。礼を言わなきゃいけないのはこちらの方だ。だが、君はもっと自分自身の身体を大事にしなくてはいけないようだね」
外れたままの点滴を見てデニスが言った。
「それは……」
ジョンが俯く。
「あとのことは大人に任せて、君はゆっくりと身体を休めなくてはいけないよ。いいね?」
「でも……」
「心配しなくても大丈夫さ。お父さんのことも、他の人達のことも、極力犠牲者が出ないように、我々も最大限努力すると約束しよう。それでいいだろう?」
「はい……」
「では、あとでまた報告する」
「わかりました」
男が出て行くと、ジョンはナースコールを押した。
「あの、点滴の針が外れちゃったんですけど……」
それから、ジョンはずっと眠れずにいた。
(デニスさんはうまくやってくれただろうか)
闇に支配された時間は、深海を這い回る海蛇のようにのろのろとしか進まない。
――あとのことは大人に任せて、君はゆっくりと休むんだ
(大人? でも、その大人達が闇の風に翻弄されて判断ができなくなっているからこんなことになっているんじゃないか)
ジョンは自分が子ども扱いされたことが不満だった。
(ぼくを作戦に加えてくれれば、もっと役に立てるのに……)
――心配しなくてもいいさ。君のお父さんのことも、他の人達のこともね
男の言葉が心を過る。ジョンは思わずはっとした。
(ぼくは本当に考えていたんだろうか? みんなが救われた方がいいなんて……)
波打つ鼓動が少年の心に問い掛ける。
(もしかしたら、ぼくはパパや自分自身にとって有利になることしか考えていなかったんじゃないだろうか。他の人の命より大事だったこと。それは、ぼくが調べて考えたことが正しいって認められること。それだけだった……。だって、ぼくは褒めて欲しかったんだもの。だって、パパは……)
そんな彼の心の中をガイストが見つめる。
――今年こそは、パパと一緒に海へ行こう
(約束したのに……。ぼくはまた病気になって、パパを失望させた)
――パパはずっと男の子が欲しいと思ってたんだ。何事にも屈せず、立ち向かうことができる強さを持った勇敢な男の子がね
「パパ……」
闇の中に透けるデジタル時計。その数字が瞳の中でぼやけ、幾つもの数字と重なって見えた。
「ぼくはその期待に答えたかった……」
父の後姿を追って走りたいのに、そうできずにいる自分がベッドの上で歯噛みする。
(確かに、テロリスト達は残酷だ。罪のない大勢の人々を犠牲にする。悪い奴らだってわかってる。誰であろうと人の命を奪ってはいけないし、それが止められないのはとても悲しいことだ。でも、ぼくは……それを利用した)
天井を這う闇の風……。それを追うガイストの舌が床まで伸びて赤い檻を作る。そして、闇の生き物が
エゴイスト
という単語を吐き捨てた。
(そうだよ。ぼくは自分のことしか考えていなかった。他の人なんかどうでもよかったんだ。パパさえ無事でいてくれたならば……)
頭の中がくらくらとした。彼を取り囲んでいた赤い檻がぐにゃりと歪み、彼を絡め取ろうとした。そこにのたうつ赤いラインは彼の腕へと繋がっている。細い線は渦潮となって小さな巻貝になった。そこには白い砂浜があって、一人の少女が歩いていた。金色の髪の少女。しかし、彼女は悲しそうな目をした。
――会いに来たら、面会謝絶だって言われたの。もう駄目なんじゃないかって……弟と同じように……。それが恐ろしかったの。それがとても恐ろしかった……
「リンダ……」
(彼女はぼくのことを心配してくれた。他人であるぼくを……。彼女にとっては大切な夢だったはずの大会を欠場してまでも、ぼくのために骨髄液を提供してくれた。なのに、ぼくは自分の思いだけを彼女に押し付けようとした)
――また来てくれる?
(ここに来るか来ないかは彼女の自由なのに、ぼくはそれを強要した)
あれからもう、2週間が過ぎた。が、彼女は病院へ来なかった。ジョンはそれに対して少しばかり腹を立てていた。
――来てくれるって約束したのに……。うそつき! きっともう、ぼくのことなんか忘れてしまったんだ! ぼくのことなんかどうだっていいんだ……!
――ジョン、彼女にだって、都合があるのよ。きっとまた来てくれるわ
――だって、ママ。ぼくはいつもここで一人でいなきゃならないんだ。それを彼女だって知ってるくせに……
母は毎日、病院に来た。学校の先生や友人達もお見舞いに来てくれた。しかし、彼の心は満たされなかった。そこに父とリンダがいなかったから……。
(彼女にもらった細胞がぼくの中で根付いて、ぼくのために血液を作り出している。その血液が、ぼくの身体の隅々にまで行き渡ってぼくを生かす。君にもらった新たな命……。だから、君は特別なんだ。ぼくは今、こんなにも君を感じている。ぼくの血液型は君と同じになり、遺伝子の一部を引き継いでいく。そして、ぼくはこんなにも君のことが……)
闇の中に浮かぶ金色の影。
(もしもガイストが君を連れて行こうとするなら、ぼくはそれを許さないだろう。けれど、もし、他の誰かを連れて行こうとしたならばどうするだろう? ぼくの手は冷たくなって、心もどんどん冷たくなって、いつか闇と……)
途切れた時間のピースを集めて、もう一度織り上げるための宇宙……。
「ぼくは生きて、ぼくは聞いて、ぼくは泳ぐ。そして、いろんなものに出会ってみたい。海を行く魚のように、未知なるものに驚いたり、感動したりしたいんだ。でも、それを得るためにはどうしたらいいの?」
白い天井の節目から一つ目の巨人が覗いている。
(冷たくて白いぼくの手が握っているのは彫刻刀……。これでおまえを突き刺したなら……。だけど、おまえはもういない。赤く染まったぼくの左手を残して……。すべては闇の向こう側……。ぼくは目覚め、おまえのために墓を掘る……すべての屍を葬るために、深く……もっと深く……)
だんだんと思考が曖昧になり、視野が霞んだ。眠れない彼のために夜勤のナースが点滴に睡眠導入剤を入れたのだ。
朝。ジョンが目を覚ましたのは6時半。0アワーを過ぎていた。
「いけない! パパは? 作戦はどうなった?」
彼はベッドから飛び起きた。急いで状況を確認したかった。しかし、肝心なコンピューターがどこにもない。
「おはよう、ジョン」
ドアが開いて、落ち着いた雰囲気の医者とナースが入って来た。
「あの、ぼくのコンピューターはどこですか?」
ジョンは焦って訊いた。
「先生の部屋だよ。君はどうも夢中になると、約束を忘れてしまうようだからね。今日は一日コンピュータなしでやってごらん」
「……返してください」
蒼白な顔で少年は言った。
「お願いします。返してください」
必死に訴えたが、医者は承知しなかった。
「駄目だ。今日は検査の日だし、君は少し身体を休ませていなければいけない。食事が済んだら、もう一つ点滴をして、大人しくしているんだ。いいね?」
「でも……」
ジョンは泣きそうな顔で医者を見つめた。
「ならば、お願い。せめてテレビをつけてください。ニュースが見たいんです」
「いいだろう」
エルビン医師の背後に付き従っていたナースがスイッチを入れた。淡いブルーの背景にテロップが流れ、中年のキャスターが硬い表情で原稿を読み上げていた。
「……の付近で発生した大規模な爆発により、一般市民多数を巻き込んで犠牲者が出ているようです」
画面が切り替わり、現地での映像が流れた。崩れたモスク。破壊された車と散乱した瓦礫。そしてそこにうずくまり、泣きじゃくる女性。右往左往する大勢の人々。軍服の兵士や警察官の姿も見える。
「爆発が起きたんだ。でも、どうして……」
ジョンは食い入るようにその画面を見つめた。
「ああ、酷いもんだな。解放軍に加担するテロリストが主犯らしい。中東情勢はまだまだ落ち着かないようだね。確か君のお父さんもこの地区に派遣されていたんだったね。だが、我が軍の犠牲者はなかったようだ」
医者が教えてくれた。
「そうですか」
ジョンはそれを聞いてほっとした。だが、何の罪もない子どもや女性が犠牲になってしまったことを知り、衝撃を覚えた。
(犠牲者は出さないって約束したのに……)
それは人間の、いや、自分自身の限界だったのかもしれないと少年は思った。
(もっと早く情報を捕まえられたら……。それとも、ぼくがもっと上手に情報を操作できたら、少しは緩和することができたのだろうか)
しかし、それは傲りだとジョンは思った。
(ぼくはただの小さな子どもでしかない。今はまだ弱い、ただの子どもでしか……)
その日の午後、デニスがやって来て言った。
「すまない。軍の上層部の連中は石頭でね。すぐに私の部下を派遣したんだが、人的被害を食い止めることはできなかったらしい」
「いいえ。いいんです。パパは無事だったのでしょう?」
「ああ。マグナム中佐は敵の動きを察知していたようだ。おかげで部隊の犠牲者は出なかった。中佐の判断は正しかったようだね」
「ぼくなんかが口を出さなくても事態は変わりなかったということですね」
「いいや、君の情報は実に的確だったよ。だが、それを信じることをしなかった大人達の怠慢だ」
この人は公平なのだとジョンは思った。
「すみません。ぼくが調子を崩したりしていなければ、もっと大切なことを伝えられたかもしれないのに……。それに、今日はエルビン先生にコンピューターを持って行かれてしまったから……」
「昨夜は眠れなかったんだって?」
「はい。でも、いつもそうなんです。眠ろうとすると恐ろしい闇の風が現れてぼくを脅すんです」
「闇の風?」
そう訊き返すデニスにジョンは慌てて言い訳した。
「はい。でも、変だなんて思わないでくださいね。それに、子どもらしい夢だなんてことも言って欲しくないんです。だって、あれは……」
目の前を過る闇にはっとする少年。その闇を平然と踏みつけて男が言った。
「ガイストだからか?」
少年は驚いて、じっとその顔を見つめた。
「どうしてそれを?」
「私はもともと西ドイツでその概念についての研究をしていたんだ」
「西……」
今はもう壁が崩壊し、ドイツは再び一つの国として統一されている。そして、その統一ドイツではいち早く闇の風についての研究が行われていた。
「だが、それは単なる学問の領域では収まらず、実際、今も世界中で吹き荒れている闇そのものの怨念だと知った。このままでは世界は闇に閉ざされ、ガイストに支配されてしまうとね」
「それじゃあ、デニスさんにも見えるんですか? 闇の風が……」
「ああ。それに少しなら使うこともできる」
「使う?」
ジョンは驚いて訊いた。
「そうだ。世の中にはその力を利用し、人々を憎悪と悲しみのどん底に叩き落して喜ぶような輩もいるんだ。そして、その反対に、その風のエネルギーを使って闇を浄化させ、人々を救うことを生業としている者達もいる。私は主に後者の仕事に携わっている。君のようにガイストを見たり感じたり、操る能力を持つ者を探し、実際に情報を集め、事件を未然に防ぐことを旨としている」
「なら、今回のこともわかっていたんですか?」
「君がもたらしてくれた情報を元に、訓練中だったガイストスキャナーを派遣したのだが、残念ながら、彼らはまだ、風の使い手としては未熟だったようだ」
「ガイストスキャナー……。その能力者ってどれくらいいるんですか?」
「潜在的にはかなり潜んでいると思う。が、実践で使えるのはまだ相当に少ない。私が把握している者は国内では5人。ドイツで17人。イギリス、イタリア、フランスなどEU諸国に16人。そして、日本人が2人。アジア方面での情報はかなり不足しているんでね」
「もっと増えるといいですね」
「ああ。ガイストは何処にでもいるからね。だが、能力者も実際にはもっと大勢いるだろう。今あげた数字はあくまでも自覚を持って訓練している者達の数字に過ぎない」
「ぼくは見えるけれど、使うなんてことはできません」
「そういう者もいるよ。だが、君は無意識のうちに使いこなしているだろう? コンピューターのパスワードを打ち込む時には見えるのだろう?」
「あれは闇の風の力なんですか?」
「そうだ。闇の風が持つ記憶を再現しているんだ。が、君にはもっと大きな力が宿っている。それを、意志の力で引き出すことができれば……」
その時、ノックの音とともにナースがやって来た。
「ジョン、検温の時間よ」
彼女が体温計を渡す。
「はい」
少年がそれを受け取るとデニスが言った。
「どちらにせよ、君はまだ療養中の身だ。無理せず治療に専念するんだ。いずれはもっと突き詰めたことを話さなければならなくなるだろうからね。それまでは、しっかり養生して、体調を整えておくんだ。それがお父さんの望みでもあるのだから……」
「パパも知っているんですか?」
「それはわからん。だが、恐らく中佐も何らかの形で闇を認識しているのかもしれない」
「パパが……」
午後の陽が長く伸びて、男の顔を照らす。
「デニスさんは怖くなかったんですか? ガイストが……」
「ガイストは人によって見え方が違う。私には漠然とした黒い雲のようにしか見えない。絡みついて来る風はおぞましいと思うが、さほど恐ろしいとは思わなかった。私にとってはずっと幼少の頃から見慣れていたのでね」
「そうなんですか……。ぼくは恐ろしいです。ぼくにとってガイストは死神そのものだから……」
「だが、ガイストは生きている者には叶わない」
そう言うとデニスは少年の肩に手を置いて言った。
「生きている君の意志の強さには叶わないんだ。屈してはいけない」
「……はい」
ジョンはそう返事をしたものの、心の中では不安でいっぱいだった。男の影にはやはり死神が潜んでいる。威圧感に満ちたその影は、少年の身体をすっぽりと覆ってしまった。
「熱が下がって白血球の数が落ち着いたら家に帰れるんです」
「そうか」
「ところでリンダも能力者なんですか?」
「いや、彼女にはその素養はない」
デニスは素っ気なく答えた。それを聞いて、少年は落胆したような、それでいて少しほっとしたような複雑な表情をした。
「ぼくも訓練を受けなければいけませんか?」
「そうだな。だが、それは君の病気がすっかりよくなって義務教育を終えてからの話だ」
「そうですね」
そう返事をしたものの、その時が来たら家を離れなければならないのかと思うと、急に寂しくなった。やさしい母やバルドーラと離れて暮らす。まだ随分と先の話だというのに、ふと少年の脳裏に不安が過った。
(ああ、バルドーラに会いたいな)
大きくて温かい犬の息使いと長いピンクの舌先で顔中なめ回されることを想像すると、それだけで身体がくすぐったくなった。しかし、実際には当分は犬と遊ぶことはできないだろう。ジョンの身体はまだ本調子ではない。免疫力も完全には回復していないのだ。油断して感染症などを起こせば命取りにもなりかねない。
「それじゃあ、私は戻って監視を続けるよ。大丈夫さ。病気の子どもにこんな重要な仕事を任せられないからね。また、何かあったら連絡する」
そう言うとデニスは部屋を出て行った。
そして3日後。ジョンの熱は下がり、検査の結果も良好だとわかった。
「この分なら来週にも退院を考えても良さそうだ」
医者が言った。
「本当ですか?」
ジョンは笑顔で医者を見上げた。
「ああ。今日一日いい子にしていたら君のコンピューターを返してあげよう」
「ほんと?」
「ああ。ただし今日はまだきちんと薬を飲んで散歩のあとは読書でもして大人しくしていないといけないよ」
「わかりました。昨日、ママが持って来てくれた本があるから……今日ははじめからこれを読むつもりだったんです」
ジョンが示した本の表紙を見て医者は微笑んだ。
「ほう。ジュール ベルヌか。いいね。先生も子どもの頃夢中になって読んだものだよ」
「先生も?」
「ああ。名作はいつになっても読まれるもんだ」
エルビン医師もうれしそうだった。
そして、ジョンは約束通り、午後にはずっと部屋で読書をしていた。それは海の冒険物で少年の心をわくわくさせた。
が、その日の夕方。突然、病院内に悲鳴が響いた。
「何?」
読んでいた本を閉じて、少年がドアの方へ顔を向けた。不穏な闇と緊迫した空気。怯える人々の靴音が響いていた。
「闇が共鳴している……!」
一瞬のうちに少年の血液が恐怖で泡立った。
「怖い!」
闇が取り巻いた。ドアの向こうで響く銃声。乱れた靴音。非常ベルがけたたましく鳴り、悲鳴が幾重にも重なった。
「やめてください! ここには重傷の患者さんが……」
一人のナースがドアの前に立った。
「どけ!」
荒々しい男の声とともにドアが乱暴に開かれた。
「お願いです! やめて下…さ……!」
白衣の胸が鮮血に染まった。
「キャシー!」
ジョンが叫んだ。そのナースとは顔見知りだった。
――ジョン。頑張ってね。きっと神様があなたのことをお守りくださるわ
彼女はいつもやさしく、少年を励ましてくれた。
(神様が……)
しかし、そこに神などいなかった。彼女は暴漢に撃たれ、床に倒れた。血に染まったナースキャップが転がって行く様を、ジョンは呆然と見つめていた。
その男の手には小銃が握られていた。銃口からは、まだ硝煙がたなびいている。それが闇のガイストとなって彼女の身体を包み込んだ。廊下ではまだ発砲音が鳴りやまない。扉の前にまた、別の男が走り込んで来た。その手にもやはり自動小銃が握られていた。
(あれは……旧ソ連製のカラシニコフだ……。でも、どうして……)
それらはかなり旧式の武器だった。が、至近距離で使うには十分過ぎるほどの威力がある。
「キャシー……」
ジョンは彼女の傍に駆け寄りたかった。が、彼がベッドから降りるより前に、彼女を撃った男が子どもに銃口を突きつけて訊いた。
「おまえがジョン フィリップ マグナムか?」
ジョンは頷くと、男を睨んだ。それは浅黒い肌にウェーブの掛かった褐色の髪をした野性的な男だった。
「なら、俺達と一緒に来てもらおうか」
「……」
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