ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第2章


 それは、場末の小さな酒場だった。重い扉をそっと開けると、中ではやはり彼が見たことのない世界が広がっていた。暗い照明。安っぽい酒と香水の香り……。男達は豪快に酒を飲み、大声で喋り、化粧の濃い女達がそんな男達に酌をする。どのテーブルにもビールとつまみの皿が並べられ、いい匂いがした。が、少年が目を引いたのは食べ物ではなかった。店の奥から聞こえて来るピアノの音色。その店では生の演奏を行っていた。曲はクラシックからポピュラーまで何でも有りのリクエスト制で、酔っ払いの叫びに演奏者が応え、その場その場に応じて拍手や合唱が起きる事もあれば、気に入らないと文句をつけられて酒を掛けられる事もある。が、それでも、ピアニストは何も言わず曲を弾き続けている。少年はふらふらとピアノの前に出た。

「何だ? 小僧。リクエストか?」
1曲終わってピアニストが言った。
「ピアノ……弾かせて……」
「何? これは幼稚園の発表会じゃないんだよ、坊や。誰と来たんだい? ここは子供が来るような場所じゃないんだぜ。ああ、誰か、この子のお父さんかお母さんはいませんか?」
ピアニストの男が立ち上がると店内に呼びかけた。客達がその声に振り向く。
「何だ何だ? 今日はお子様参観日かい?」
「坊やがピアノを弾くってさ。何の曲を弾いてくれるのかな? 『小さいハンス』かい?」
ビールのジョッキ片手に男が叫ぶ。
「おれ、『メリーさんの羊』がいいなあ」
また別の男がおちゃらかす。と、その隙にちゃっかりピアノの椅子に腰掛けている子供を見つけてピアニストが言った。
「おい、おまえ……」
無理やり引きずり下ろそうとする男に抵抗する子供。

「いやだよ! お願い。ぼくに弾かせて……!」
「あら、いいじゃない。わたし、その子のピアノが聴きたいわ」
踊り子風の衣装を着た女が言った。
「そうだそうだ。小僧に弾かせろ」
酔った勢いで男達が騒ぐ。
「たまにゃ純真無垢な子供に帰ってかわいいお歌を聴くのもいいねえ」
「し、しかし……」
渋るピアニストに客が煽る。
「何だ何だ? おまえさん、こんな子供にビビッてんのか?」
「あら、やだ。もしも弾かせてこの子の方が上手かったらどうしましょう?」
ごつい強面の男が体をくねらせて裏声で叫ぶ。客達がどっと笑う。
「わかった。弾かせてやるよ。ただし、1曲だけだぞ」
そうピアニストは言って隅のテーブルに着いた。その彼のジョッキにビールを注ぐ女。男は一気にそれを煽った。
「ふん。馬鹿馬鹿しい。あんなガキに何が弾けるってんだ」
そんな男にじっと寄り添う若い女。そんな二人のテーブルには長いキャンドルの影が揺れていた。

場違いな演出。場違いな観客。しかし、ルビーはその奔放で荒々しい客達の心の裏側に潜む寂しさに共鳴していた。
(弾きたい)
何にも捕らわれず、何よりも自由な心のまま……彼は音楽と向き合いたかった。そっとキャンドルに火を灯すように、彼は最初のピアニシモを弾いた。その瞬間時が止まったように全ての炎の揺らめきが止まった。そこにある空気が、流れが、彼らの純粋な記憶の奥に忍び寄り懐かしい風が鼻腔をくすぐった。誰もの心に秘められた記憶の1番やわらかい部分に触れられて、彼らは自然と涙を流した。

「ちくしょう! 何てこった! たかがピアノの演奏に、涙が止まらなねえや」
「ホント。すげえよかったぜ。おれは音楽のことなんかちっともわからねえが、聞いてるうちにこう胸がじーんとしちまって……」
しんと静まり返った酒場……。と、突然誰かが叫んだ。
「ブラボー!」
「おうよ! ブラボー!」
一斉に拍手が巻き起こった。
「すげえぞ! 坊主!」
「おれ、すげえ感動した」
店の中は大騒ぎになった。
「あ……ありがとう」
子供はその雰囲気に圧倒されながらも、微かにうれしそうな表情を浮かべた。

「坊主。名前は?」
その店の主人だという男が来て訊いた。
「……ルビー」
少年が応える。
「そう。ルビーか。いい名だ。そら、オレンジジュースだ。飲め」
テーブルの上に置かれたそれを見て彼は目を丸くした。
「くれるの?」
「ああ。喉が乾いただろ? そうだ。腹は減ってないか?」
男は言ってチキンの入った皿も持って来た。
「食え」
「ありがと」
彼は喜んでそれにかぶりついた。夢中になってチキンを食べている子供に主人は話し掛ける。

「おまえ、ピアノが好きか?」
「うん」
「なら、うちの店の専属ピアニストにならないか?」
「ピアニスト?」
「そうだ。おまえ、可愛い顔してるし、人気者になれるかもしれないぞ。ただ子供だから遅い時間だと問題があるかもしれないが、早い時間だけでもいい。初めは小遣い程度かもしれないが人気が上がれば給金も弾もう」
「お金をくれるの?」
「そうだ」
「お金があればキャンディーも買える?」
「ああ。買えるとも」
子供はパッと顔を輝かせた。

「だが、このことを君の両親がどう思うかだ。おまえは何処から来たって?」
「知らない」
少年は俯いた。
「親は?」
「……死んだ」
「それじゃあ、今、何処に住んでいる?」
「わからない」
男は怪訝な顔をした。
「わからないとは?」
しかし、ルビーは本当に困惑したような顔をした。
「本当にぼく、何もわからないの。昨日までは病院だったんだけど、嫌いなの。だって、病院はぼくに酷いことばかりするんだもの。だから、もうあそこへは帰らない」
「ふん」
男が低く鼻を鳴らす。再びチキンを持って口に運ぶ子供。その白いシャツの袖口に小さな赤い染みが出来ている。よく見ると爪の間や髪の一部にもそれが染み込んでいた。男はふと唇の端を上げて言った。
「他に欲しい物があれば持って来てやろう。サンドイッチはどうだい?」
「ありがと」
子供は言ってうれしそうに頷いた。
「上着がないんじゃ寒いだろう? 毛布を持って来てやるから待っておいで」

男が行ってしまうとルビーは店の中を見回した。飲んだくれの荒くれも多いがみんな根は悪くなさそうだ。何しろ自分のピアノを褒めてくれた。そして、店主は飲み物や食べ物をくれて親切にしてくれた。ルビーはチキンを食べ終えてしまうと店の中をうろうろと歩いた。客や踊り子達が彼をからかったり、褒め言葉をくれたりしたので彼はうれしくなった。ここでは全てが認めてもらえる。他の誰でもない自分でいられるのがいい。ほの暗い店内を照らす小さな灯し火を見てルビーは満足した。ここで専属ピアニストになるのはいい事かもしれない。そう思った。

その時、店の裏口近くから突然女の悲鳴が聞こえた。それから何やら怒鳴っている男の声や物音……。ルビーは近くの客に告げた。
「男の人と女の人がケンカしてる」
だが、客は笑って彼の頭をぐいと撫でて言った。
「なあに、いつもの事さ。気にすんな、坊主。ありゃあ、痴話ゲンカ。犬も食わねえって奴さな」
「平気なの?」
男が頷き、また新たな酒の注文を叫んだので、彼はそっとそこを離れた。裏口のドアからはまだ声が漏れている。


 「おまえまで馬鹿にしようってのか? おれの方があんなチビより下手くそだと……!」
男が喚いた。
「今のあんたは最低よ! 酒飲んで自分をごまかしてばかり……!」
女が言い返す。微かに開いていたドアの隙間から見える影。そこには先程のピアニストの男と黒髪の女が言い争いをしていた。
「おい、最低だとは何だよ?」
「最低だから最低だと言ったのよ。あんな子供に嫉妬して、何処まで見下げ果てた男なの?」
「うるさいっ! 黙れ!」
いきなり男が女を殴りつけた。女は狭い路地の反対側の建物の壁にぶつかる。
「あ、あ、大丈夫?」
ルビーは驚いて慌ててドアから飛び出すと言った。女は乱れた髪を5本指で掻き上げて微かに笑う。
「ありがとう、坊や」
その声が少しだけ母に似ていた。

「何だ、このガキ! こんな所にまで来て、おれを馬鹿にしようってのか?」
男が怒鳴った。
「何言ってんのよ。この子には関係ないでしょ?」
女が立ち上がり、再び男の前に歩み寄る。
「うるさい! どけ! このガキのせいでおれは店をクビになったんだぞ!」
「クビ……?」
「そうだ! この店を辞めさせられたんだ! おまえのせいで……!」
「ぼくの?」
女を突き飛ばし、子供に詰め寄った。
「そうだ! 店主め! このおれよりおまえの方がずっとピアノの腕があるなどと言いやがって……。子供を雇った方が何倍もましだと……! ふざけやがって……!」
いきなり乱暴しようとする男を女が止めた。

「ちょっと! 止しなさいよ! こんな子供に……! 大人気ないじゃない? 何処まで自分を落としめたら気が済むのよ? 恥を知りなさい!」
「うるさい! おまえなんかに何がわかる? このガキが……! こいつさえ現れなきゃ、おれだって……」
「ぼくのせいなの?」
ルビーが訊いた。
「違うわ」
女が言った。が、男がすぐに否定する。
「そうだ! おまえが悪いんだ! 何もかもおまえが……」
子供の襟首を掴み激しく揺する。
「やめて! 苦しい……。やめて!」
「駄目よ! 放して! フリードリッヒ!」
女が割って入って叫ぶ。

(フリードリッヒ……?)

それは父と同じ名だった……。
「お願い! やめて! フリードリッヒ! その子を放して!」
「黙れ! どいてろ! 邪魔するな!」
「お願い! フリードリッヒ、目を覚まして! そんな事をしてどうなるの? この子には関係のない事でしょう?」
必死に止めようとする女の手と掴み掛かろうとする男の手が彼の目の前でもつれ合う。
「やめて……やめてよ、ケンカしないで……」
耳元で叫び合う彼らの声がだんだん聞こえなくなり、目の前で争う手や口やいがみ合うその目だけが強烈な印象を持って迫って来た。そして、全てが霧の中にいるようなぼやけた映像の中で、突然煌いた銀色の影。それは振り上げた男の手に握られていた細いナイフの陰影だった。甲高い女の悲鳴に、彼の意識はもう一度はっきりとこの場所へ戻って来た。飲食店の裏路地の狭い通路。そこで起きた争い……。

「やめて!」
飛び出した女がルビーを庇う。振り下ろされたナイフ……。

――やめろ!
――お願い、やめて! フリードリッヒ!

「フリードリッヒ!」
女の悲鳴と母の悲鳴……。重なった記憶が彼を弾いた。
「やめろ!」
――いやだ! いやだ! いやあっ!
少年の体から何かが爆発し、光の閃光となって男の体を貫いた。握られていたナイフが落ち、男の体は魂が抜けた人形のようにくたりと倒れた。

「何……?」
女が放心したように言った。
「今の光は何?」
ふと傍らの子供を見る。
「あなたがやったの?」
それから女はよろよろと男に近づくとその体に触れた。
「フリードリッヒ? フリードリッヒ! どうしたの? 一体何が……」
子供は壁にもたれたまま震えていた。
「ぼ、ぼくは……ぼく……」
「人殺し!」
突然、女が叫んだ。
「フリードリッヒに何をしたの? 彼を返して! この獣! 人殺しの化け物め! わたしは見たんだからね! あんたの目が、手が光ってフリードリッヒに何かをした。それでこの人は……!」

喚き散らす女の口を塞いだのは店主の手に握られたベレッタだった。女は目を見開いたまま壁際に屑折れて動かなくなった。

「あ……あ……」
ルビーが何か言おうとして振り向いた時、男は握っていた物を懐にしまうと背後に控えていた男に指示してそこに転がっている死体を始末するようにと命令した。
「ルビー、君は何も心配しなくていいんだよ。君はちっとも悪くないんだからね」
「でも……」
不安そうに見上げる子供の肩にそっと手を置いて男は店の中に招き入れた。

バタン……。

重いドアが閉まった。冷たい外気は遮断され、また、あの暖かい色をした炎の揺らめきが見えた。そして、彼は知ったのだ。それが全ての外界へ通じる道を塞ぐ運命の扉だったのだと――。


 「ルートビッヒ シュレイダー、それが君の本当の名前だね?」
子供は怯えたように男を見上げ、それからゆっくり後ずさった。
「ぼ、ぼくは……ぼく……」
泣きそうな子供に男はやさしく言った。

「君を責めているんじゃないよ。さっきのは明らかに奴の方が悪かったんだ」
「でも……女の人は……」
「あの女だって君に酷い事を言ったじゃないか」

――この獣め! 人殺しの化け物! フリードリッヒを返して! 返して!

頭の中で女の声が木霊する。
(いやだ! やめて! やめてよ!)
彼は耳を塞ぐ。それでも声は響いて来る。

――フリードリッヒ

「怖がらなくていいんだよ。おれは、おまえの味方だ」
「味方……?」
子供が恐る恐る見上げる。男が僅かに唇の端を上げて言った。
「君をある人に紹介しようと思っているんだ。君には素晴らしい素質があるからね。きっとその人も気に入ってくれるだろう」
「素質?」
「そう。ピアノと、そして、もう一つの力……。それは、おれ達の組織にとって有用だ」
「組織って?」
「まあ、言うなれば会社のようなものだ」
「会社?」
だが、ルビーには、それが意味するものが何なのかまるでわかっていなかった。
「そう。正義を守るための会社だ」
「正義?」
きょとんとしている子供に男はわかりやすく説明した。

「君だってテレビのヒーローが悪い奴らをやっつけて世界の平和を守ったり、人を助けて感謝されたりしているのを見た事があるだろう?」
「うん。悪い奴はいつもやっつけられて酷い目に合うんだ」
「そう。それだよ。おれ達はそういう仕事をしているんだ」
「それじゃ、おじさんもヒーローなの?」
「そうさ。普段は普通の人の中にいて普通の仕事をしているが、何処かに悪い奴が現れたなら、すぐにそいつをやっつけに行くんだよ」
「すごいんだね。ぼく、知らなかったよ」
「普通はね。正体を明かす事はしないんだ。何処に悪い奴が潜んでいるかわからないからね」
「それじゃあ、どうしてぼくに教えてくれたの?」
「言ったろう? 君には、その悪い奴らをやっつける力があるから……。さっきも上手く悪者をやっつけてくれたじゃないか」
「あの人達って、本当は悪い人だったの?」
ルビーが驚いたように訊く。

「そうさ。だから、もし、君がやらなくても、いつか組織の人間が、いや、このおれがそうしたろうさ」
「ぼくがおじさんの邪魔をした? あのピアニストの人の時みたいにおじさんの仕事をとってしまったの?」
「そうじゃない。おれは感謝してるよ。君がやってくれた事も、君の余りある素質に出会えた事にもね。どうだい? 一緒に来ないか?」
男の目に光が増した。
「でも……」
子供が言いよどんでいるので男はさり気なく訊いた。
「君の袖に付いているそれはケチャップの染みなんかじゃないんだろう?」
「……!」
怯えたように彼はテーブルの下に手を隠して俯いた。
「いいんだよ。君はきっと正しい事をしたに違いないんだ」
「あ…あ……」
子供は返答に窮した。

「わかっているよ。君が正しいのだと……。だが、世間では君を悪く言う者もある。たとえば、さっきラジオのニュースで何処かの偉い音楽大学の教授と精神病院の院長が何者かに殺されたってニュースをやっていたんだけどね、今、警察では、その時一緒にいたらしい子供の事を懸命に探してるらしいんだ。その子が殺したのかどうかもわからないのにね」
薄く笑んで男が言った。
「……もし、その子が捕まったらどうなるの?」
俯いたまま子供が訊いた。
「2人も人を殺したんだ。死刑は免れないと思うね」
「死刑……」
それはあまりに恐ろしい響きだった。子供はただ蒼白な顔で震えている。その肩に男の手が触れるとビクンとしてその顔を見上げた。

「でもね、おれ達ならその子を守ってやれる。だってその子は正しい事をしたのだから……。死刑になんかさせちゃいけないんだ。そういう強い正義の心を持っている子は組織で、これからも世界の悪と戦って欲しいから……。どうだい? ルートビッヒ、おれと来ないか?」
「ルビーだよ……」
震える声で少年は言った。
「そうだったな。ルビー、一緒に来いよ。おれ達にはおまえの力が必要だ。おまえの素晴らしい能力を活かすためにも……」
子供は沈黙し、数秒するとおもむろに顔を上げて言った。
「ピアノが弾ける?」
「ああ。もちろんさ。ジェラードは芸術にも理解がある男だからね」
「ジェラードって?」
「そう。ジェラード ラズレイン。それがおれ達の組織『グルド』のボスの名前さ」
「『グルド』……」
男が頷く。

「そこに行ったら、守ってくれる?」
すがるような目で子供は言った。
「ああ」
「そこに行ったらピアノが弾ける?」
「もちろん」
「そこに行ったら本当にぼくを……」
「約束するよ。必ず守る。それが『グルド』だ」
「わかった……」
彼は頷いた。全てに納得がいった訳ではない。不安がなかった訳でもない。しかし、今はそうするしかないのだと悟っていた。逆らえばあの女のように始末される。誰にも知られず何も出来ないまま闇に葬られるのが恐ろしかった。

――君は光になれる

シュミッツが言ってくれた言葉……。その深いところの意味はまだ彼には理解出来なかったが、もしかすると、光とは、正義のために働いて、社会や人々に善い事をすることなのかもしれない。だとしたら、自分が『グルド』に入るのは必然だったのではないだろうか。それは少し闇めいてとても恐ろしい世界のような気もしたが、彼は自ら2枚目の運命の扉を開いてしまったのだ。