ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第3章


 朝。目覚めると、彼はふかふかのベッドの中にいた。品のいいワインレッドのカーテンと落ち着いた深い色合いの絨毯。サイドテーブルには花と小さな置物が飾られている。ルビーはその柔らかい感触の毛布を引き寄せると頬に当てて微笑んだ。清潔でいい匂いがした。まるで、彼が生まれ育った家に戻ったような気がした。

そう。これまで彼が過ごしてきた数年は、事実ではなく、単に悪い夢を見ていただけだったのではないだろうか。長く悪い夢を……。本当は何も変わっていなくて、父は演奏旅行に出掛けていて、母はリビングで微笑んでくれる。呼べば、家政婦のマリアンテが来てくれて着替えを手伝ってくれる。きっとそうだとルビーは思った。今すぐ呼んだら……と。突然ドアがノックされた。
「はい」
彼が返事すると知らない女がやって来て言った。
「お目覚めでございますか? ならばこちらのお召し物にお着替えください」
目の前に出されたそれは彼が望んでいたような品だった。白い絹仕立てのシャツに光沢のある紺色の上着。お揃いのリボンタイ。ズボンも靴も彼にぴったりのサイズだ。洗面台で顔を洗うと女がさっとタオルを出した。それもまた肌触りのよい最高の品だ。髪は彼女がとかしてくれた。シュッといい香りがするスプレーを掛けてくれた。

「マリアンテは何処なの?」
ルビーが言った。が、女は首を傾げる。
「そのような者はお屋敷におりませんが……」
「おかしいなあ。ここがシュレイダー家なら……」
「ここはシュレイダー家ではありません。ラズレイン家でございます」
「ラズレイン?」
ルビーははっと夕べの事を思い出した。

――会わせたいんだ。ジェラード ラズレインに……

「それってジェラードの……?」
「はい。ご主人様がお待ちです。お支度が出来ましたらおいでください」
やはり違うのだ。あれらは全部現実の事であり、夢ではなかった。昨夜遅く、彼は酒場の主人が運転する車に乗せられて遠くまで来た。アウトバーンに出て随分走った。ジェラードの家へ行くのだと男が言った。しばらくは車の窓から暗い外を見ていたのだが、やがて彼は眠りに落ちた。その日一日いろんな事があり過ぎて、彼は疲れていたのだ。


 その男は明るい陽光の中で微笑んでいた。ブロンドに淡いブルーの瞳。グレイのスーツ。がっしりとした体格のいいその男は、いかにもやさしそうで感じのいい紳士に見えた。
「グーテンターク、ルビー」
男はにこにこと笑って彼に話し掛けて来た。
「グーテンターク、ヘル……」
ルビーが苗字を思い出せずに考えていると、男が言った。
「ラズレインだよ。だが、ジェラードと呼んでいいよ」
「わかりました。ジェラード」
男が笑顔を向けたのでルビーも笑った。

「遠くまでよく来てくれたね。ルビー、君に会えてうれしいよ」
言うとジェラードは彼を抱き締めた。ルビーは何かうれしいようなくすぐったいような不思議な気分を味わった。
「ぼくのことを知ってるの?」
黒い瞳で見上げると男はやさしく微笑んだ。
「ああ。昨夜、ヴィルがみんな話してくれたからね」
ジェラードはそっとルビーを放して言った。が、その目はじっと少年を見つめている。
「ヴィルって誰?」
ルビーが首を傾げる。
「ああ。君は彼の名前を聞いていなかったんだね。君をここへ連れて来てくれた人のことだよ」
「ああ、そうか」
と彼は納得した。

「ところで、ルビー。君の年は幾つなんだい?」
「15才だよ。シュミッツ先生がそう言ったの。誕生日が来たから……」
「そう」
ジェラードは頷いた。が、少年はとても15才には見えなかった。身体も小さく、痩せていて、顔もしゃべり方もひどく幼い。
「15なら、丁度、うちの娘と同い年だ」
「娘がいるの?」
「ああ。エスタレーゼというんだ。仲良くしてくれるかな?」
「うん。でも……」
と少年が口ごもる。
「でも何だい?」
「いじわるなことしない? ぼくをぶったり、酷いことを言って困らせたり……」
見上げる目に涙が浮かぶ。
「もちろんしないよ」
「本当?」
「ああ。きっと君が来てくれて喜ぶと思うよ。娘は一人っ子でね。ずっと兄弟が欲しいと言ってたんだ」
「ほんと?」
ジェラードが頷くとルビーはうれしそうに笑った。

「よかった。ぼくね、ほんとはすごく怖かったの。また、あの病院に連れて行かれると思ったの。でなければ警察に……。ぼく、もう怖い所に行きたくないの。だって、ぼくはずっと……」
彼はついに耐え切れなくなってぽろぽろと泣き出した。そんな彼をやさしく抱いて背中を撫でてやるジェラード。
「ルビー……。君はもう何処にもやらないよ。君は私の息子になるんだ」
「あなたの息子に?」
「そう。ルビー ラズレインとして生きる。それが君にとっては一番いい事なんだ」
「正義の人になるために?」
「そうだよ。君は素晴らしい素質を持っている。人々に喜ばれる正義の使者にきっとなれるよ。私の側にいて、私の言う事をきいていればね。そしたら、何でも買ってあげよう。君が望む物なら何でもね」
「ピアノも?」
「ああ。ピアノも」
「お人形やままごとセットや、それからえーと、ウサギさん! 大きくてふわふわしてていい匂いがするぬいぐるみ」
「ああ。買ってやるとも。君が私の言う事をきいてくれたらね」
「うん。ぼく、ジェラードの言うことをきくよ。そして、いい子になる。そしたら、ぼくのこと、ずっと好きでいてくれる? ぼくを愛してくれる?」
「ああ。もちろんだとも、ルビー。愛しているよ」
それを聞いて彼は安心した。

「それより、お腹が空いたろう? 昼食を食べたら必要な物を揃えて君の住む家に案内しよう」
「ここはジェラードの家じゃなかったの?」
「いいや、ここも私の家だよ。だが、家は他にもある。娘もそちらで暮らしている。素敵な所だよ。きっと君も気に入るだろう」
「花が咲いてる?」
「ああ。庭には花壇があって、小さな温室もあるよ」
「わあ! ぼくね、お花大好き!」
ルビーはうれしそうに言った。一瞬、明るく華やいだ気分がそこに広がる。温室……。それは温かいイメージがした。温かい母のイメージ……。いつも温室で花を育てていた。そこから切り出して来る薔薇は見事で、それをいつもリビングやテーブルの上や子供部屋に飾ってくれた。赤や黄色や白い薔薇を……。母が好きだった白い薔薇……。それが散って影が歪み、やがてモノクロームのフィルムが早送りされたように頭の中で繰り返された。そして、それはまた巻き戻されて空っぽの花瓶へ……。何の色もない壁と飾りのない部屋……。消毒薬の臭いがした。
「花が好き……」
彼は繰り返し呟いた。
「でも……」

病院の無機質なイメージが少年の白い心を傷つけた。そして、彼に言葉を吐き出させた。まるで何か恐ろしいものに追われているかのように少年は早口でまくし立てた。
「なのに、病院には何もなかったんだ。壁も床も汚れていて花瓶は罅割れてお皿はプラスチックで、パジャマはいつも固くて、ぼくの大きさに合わないの。それに、いつもみんながぼくのこと怒ってばかりいて、誰もぼくの言うことを信じてくれないんだよ。だから、ぼくは早くあの病院から出たかったの。シュミッツ先生は、ぼくを家に連れて行ってくれると言ったけど、院長先生がだめだと言ったの。ぼくにはまだ注射が必要だと言ったの。でも、ぼく、注射は嫌い! だって、針を入れる時、とっても痛いんだもの。痛くていつも泣きそうになるの。でも泣いたら叱られる。何度も刺されてすごく痛い。だから、ぼく、病院は嫌い! 大嫌い! ぼくに痛いことばかりする。看護士はぼくの肌が白くないと言ってゴシゴシたわしでこするんだ。痛くて血が出て、ぼくはやめてって言ったのに、ちっともやめてくれないんだ。それで、お風呂に入らないって言ったらもっと叱られて、無理に縛って酷いことされた。医者も看護士達もみんな、ぼくのこと悪く言うんだ。ぼくが悪い子だって……。そして殴るの。白い集団がやって来て、ぼくに酷いことをする。医者も嫌い! 白衣も嫌い! 嫌い! 嫌い!」

泣きながら訴える子供の背を撫でながらジェラードは言った。
「可哀想に……それは随分辛い目にあったね。だが、安心しなさい。ここにいればもうそんな事はない。誰であろうと君を傷つける事など出来ない。私がさせない。約束するよ」
「本当?」
「もちろんだとも。だから安心していいんだよ。君は何も悪い事なんかしていない。そうだろう?」
「うん。そうだよ。ぼくは何も悪くない。悪いのは連中だ! 医者は注射して……そのせいで女の子が死んだ。それに、シュミッツ先生が死んだ時も、あいつらは笑っていた。遺産が手に入ると言って悲しむよりも先に喜んでいたんだ……!」
憤る感情が彼を怒らせた。

「そして、君は昨日、その院長と音楽大学の教授を……」
その言葉にルビーは怯え、慌ててジェラードから離れようとした。
「いいんだよ。怖がらなくていいんだ。君は正しい事をした。そうだろう?」
ルビーはじっとその目を見つめ、それから視線を泳がせるとコクンと小さく頷いた。
「あいつは、シュミッツ先生の悪口を言った。先生は悪くないのに……。何も悪くなんかないのに……。だから、ぼく……。ぼくは……!」
言葉を詰まらせた子供をそっと抱き寄せてジェラードは静かに言った。
「その時、君は何をしたんだい? 大人2人を始末するには、君は幼過ぎるだろう」
「ぼくは力を……。あの力を使ってしまったの。我慢出来なかった……。いけないって思ったんだけど、とても我慢出来なかったんだ」
子供はジェラードの胸の中で泣きじゃくった。

「力とは?」
「えーとね、ぼくにもよくわからないの。でも、ぼくには出来るんだ。手を使わずに力を使うことが……。缶詰を開けたり、ワインのコルクを抜いたり、それに……」
彼はゴクリと生つばを飲み込んだ。
「それに?」
ジェラードが尋ねる。少年は怯えたように男を見、それからゆっくりと頭を左右に振りながら応えた。
「力で引き裂くことも出来る。人の体を鋼の光で貫くことも……」
その途端、彼の頭に闇を食い破るおぞましい怪物の姿が浮かんだ。
――あーっ!
ルビーは心の中で絶叫した。両手で耳を覆い、がたがたと震える。

ジェラードはそんな彼をもう一度やさしく抱き締めた。それから何度もその背や頭を撫でながら耳元で囁く。
「いい子だね、ルビー。大丈夫だ。もう何も怖がらなくていいんだよ。私は君の味方だ。どんな事をしても君を守るよ。君はちっとも悪くないんだからね。ルビー、大切な私の息子……」
「息子……」
男にもたれながらルビーは思った。
(ぼくの味方? ぼくのことを守ってくれるの? そして、愛してくれるの? ずっとぼくのことを守って……。この人が……ジェラードが……)
温もりを感じていた。男の体温が、撫でる手の摩擦が、少年の冷えた心を氷解させて行った……。

(ぼくは……)
窓の外に光が射した。
(待ってた……)
命が羽ばたいて行く。
(こんな風に……)
1羽、2羽……。連なって飛ぶ。
(抱き締めて欲しかった)
木の葉が揺れる。
(いつまでもやさしく撫でて欲しかった……)
鳥達が愛を囁く。
(愛しているよと言って欲しかった……)
そして、鳥は愛の巣へ……。
(母様のように……)
やがて、時が満ちて卵が生まれ……、
(ぼくはずっと待っていた……)
新しい命が誕生する。
(やさしい人を……ずっと待ってた)
が、天敵が幼いひなを狙う。

(けれど、その人は……。ようやく来てくれたその人は死んだ。母様のように……)
ひなを守って母鳥は死んだ。
(それでまた、ぼくは独りぼっちになって……)
ひなは落ちて……落ちて……。そして……。
(暗闇に落ちて……また、冷たい闇の病院に連れ戻されるのなら……)
瞳が闇に閃いた。
(ぼくは闇の生き物にだってなる)
その口元が微かに微笑む。
(獣にだってなってやるんだ)
彼の中で鼓動が高鳴っていた。
(そして、邪魔する奴はみんな引き裂いてやるんだ。ぼくやシュミッツ先生の悪口を言った奴はみんな闇に突き落としてやる。ぼくのことを悪魔だと言うなら、ぼくはそうなってやる………! 誰にも愛されず、誰にも認めてもらえないのなら……!)
彼はジェラードにしがみついたまま背中に回した自らの手を見つめた。
(殺してやる……!)
爪は少し伸びていた。その爪に光のコーティングがゆっくりと重なる。
(破壊してやるんだ!  何もかも……!)
その爪をゆっくりとジェラードの首筋に近づける。動脈が震え、ゆっくりと鼓動を刻んでいた。

と、その時。
「ルビー、私は君の味方だよ」
ジェラードが言った。
「君を愛しているよ」
「愛して…る……?」
ルビーはふっと首をもたげた。
「ああ。私の愛する息子」
「ジェラード……」
光の爪はすっと消え、闇の獣は影を潜めた。
「さあ、もうそんなに泣かないで。ショコラーデをお上がり」
そう言うと彼は子供をソファーに座らせた。テーブルに置かれたカップから立ち上る湯気の向こうで男は微笑んでいる。ルビーはじっとその顔を見つめた。それから、膝に置かれた自分自身の手を……。そこにもう狂気はなかった。悪魔の爪の残像も、昨日付いた血の沁みも……。彼はゆっくりとカップを持ち上げた。

(ジェラード……。この人がぼくの新しい保護者……)
ルビーはふうっと息を掛けてからそれを飲んだ。甘くて微かに苦い独特の味が口の中に広がった。それからそっとカップを下ろし、ジェラードを見つめた。
「ルビー ラズレインか……。悪くない響きだね。わかった。ぼく、あなたの息子になるよ」


 そして、午後。ルビーはジェラードに連れられて彼の別邸であるドレスデンの屋敷に来た。そこで、彼はジェラードの娘に会った。
「初めまして、ルビー。わたしはエスタレーゼよ。よろしくね」
光の中で微笑む彼女の髪は淡い金髪。それはまるで光の一部のように透き通って見えた。
「よろしく」
ルビーはおずおずと差し出された彼女の手を掴んで握手した。彼女の手は本当に白かった。

――卑しい血が混じっているから、この子の肌は白くないのよ

(白くない……)
彼はじっと自分の手を見つめていた。
「どうしたの? 家の中を案内するわ。来て」
エスタレーゼが快活に言った。
「うん」
ルビーは彼女のあとを付いて行った。それを見ていたジェラードが微かに唇の端を上げて微笑む。そして、使用人の一人を呼ぶと子供を監視するよう命じた。

ルビーは彼女に案内されるまま、屋敷の中を見て回った。使用人もたくさんいた。彼女は本棚を3つも持っていた。そして、そこにびっしり並んだ本を自由に読んでいいと言った。が、彼は首を横に振った。
「あら、どうして? 本を読むのは楽しいわよ」
「いいよ。ぼく、本は嫌いなの。文字ばっかりだし……。それに、ぼくは字が読めないから……」
「それじゃ、これから覚えればいいわ。それに挿絵の素敵な本だってあるのよ」
差し出された本には美しい天使が描かれていた。ブロンドに青い目の……。それは何となく彼女に似ていると思った。
「いい! 要らない」
彼はそれを突き返すと急いでそこを出て行った。

――ルイの奴、ABCも読めないんだぜ
――ルートビッヒ君、これが何だかわかりますか? アップフェルのAですよ

彼をからかい、馬鹿にした子供達……。
「やめろ……」
リビングの隅で彼は頭を抱えてうずくまった。
「ルビー……?」
エスタレーゼが心配そうに立っていた。
「どうしたの? 頭が痛むの?」
「ちがう。でも……」

(心が痛い。痛い……)

「今日は何日?」
そっと目を上げ、ルビーが訊いた。
「12日よ」
「誕生日から何日経った?」

(シュミッツ先生が亡くなってから……)

「誕生日? あなたの? いつ?」
「3月4日」
「それなら、8日ね」
「そう……」
何が言いたいのかわからずにエスタレーゼは彼を見つめた。
「ぼくは算数も出来ないんだ……」
彼は俯いた。
「でも、それは病気のせいでしょう? お父様がおっしゃっていたわ。あなたは随分長く入院していて、それで少しだけ勉強が遅れているんだって……」
しかし、彼は首を横に振った。
「ちがうよ」

――いくら教えても覚えられない。おまえは生まれつきの馬鹿だから……

「ぼくは馬鹿だから……」
目を背けて言う彼の肩を抱いて彼女は言った。
「何故そんなこと言うの? 人間は少しずつ進歩していくものよ。繰り返しやればきっと覚えられるわ。たとえどんな僅かでも人は先へ進むことが出来るのよ。だから、諦めないで。努力を続けていればきっと出来る。ねえ、わたしも手伝ってあげるから……。だから、ね?」
「エレーゼ……」
彼女は微笑した。そして、手を差し伸べてくれた。
「うん。ぼく、やってみるよ」
ルビーはようやく微笑した。
「ところでねえ、ぼくのピアノは何処にあるの?」
「あなたの?」
「うん。ジェラードが買ってくれると言ったの」
「そう。今はまだ新しいピアノは届いていないけど、わたしが使っているピアノならあるわよ」
「それ、弾いてもいい?」
「ええ。もちろんよ。ほら、あの大きな扉の向こうに……」
それを聞くとルビーは一目散にそこへ向かって駆け出した。

 扉を開けると白いグランドピアノがそこにあった。
「あ……」
窓から入る光のレースが細波のように揺らめいて見えた。それはきらきらと輝いてピアノに掛かり、まるで花嫁がまとう長く美しいヴェールのようだった。
「白いドレス……」
ルビーはそっとそのボディーを撫でた。
「白いピアノ……。こんな純粋な色からは純粋な音が流れるのかしら?」
ルビーは鍵盤の蓋を開けるのを躊躇った。
「ねえ、ルビー。あなたはすごくピアノが上手なんですってね。それならぜひ聴かせて欲しいわ。あなたのピアノ」
エスタレーゼが来て言った。

「だって、ぼく……。弾いてもいいの?」
見上げると彼女は黙って頷いた。
「でも……。ぼくは純粋じゃないんだよ。母様は日本人で、ぼくは君達ほど白くない」
と俯く。
「日本人? 素敵じゃない」
エスタレーゼはうっとりと言った。
「日本には素晴らしい技術や物がたくさんあるんですってね。みんなが豊かで差別も何もない善良な人達ばかりが住んでいるって聞いたわ。日本のゲームやマンガやアニメーションは本当に素晴らしいし……。それに健康的でヘルシーな食生活をしているから、みんながとても長生き出来るんですって……。素敵だわ。何だかとてもうらやましいと思う。わたしもそんな国に行ってみたいわ」
「ほんとに? エレーゼもそう思う?」
「ええ」
それを聞いてルビーはうれしくなった。今までずっと心の底にわだかまっていた物がすっと何処へ引いて行った。春のあたたかい風がもうすぐそこまでやって来ている。そんな気がした。

ルビーはやわらかな陽射しが差し込む窓から空を見た。その空の向こうを鳥が1羽羽ばたいて行く……。ルビーはそっと目を閉じた。それから耳を澄まして風の音を聞いた。微かな春の気配を……。そして、彼は鍵盤に手を置いた。そして軽やかに指を動かし、甘い春の音を弾いた。それは白いピアノによく似合った。そして、少女の長いブロンドの髪にも……。それは屋敷の内外を問わず、春の温かい空気を人々の心に運んだ。それは深い地面の底にまで達して、春を夢見るもの達を酔わせた。


 夜。割り当てられた部屋に行くと、ベッドには新しいパジャマと大きなウサギのぬいぐるみが用意されていた。彼は軽くシャワーを済ませるとふかふかのウサギを抱き締めた。ポプリのいい匂いがした。

「ここは、案外いい所かもしれないな」
庭は広く、花壇と温室があって、近くには森や草原があり、大きな川も流れているという。散歩するには本当によい所のようだ。食事の時には甘い香りのする蜜蝋を灯し、食器も彼の家で使っていたのと同じマイセン製。給仕がいて、ちゃんと食事の面倒をみてくれた。久しく忘れていた感覚を彼は思い出して満足した。そして、何より、ジェラードも娘のエスタレーゼも彼にやさしく接してくれる。部屋の隅には買ってもらったばかりの人形やミニカーやままごとセットが箱から出したまま乱雑に置かれている。ベッドの淵に掛けた彼はゆらゆらと体を揺すった。それからクスクスと笑う。
「夢みたいだ……」
天井にも壁にも染み一つない。そこは彼にとって居心地のいい場所だった。
「あと、ここに母様さえいてくれたら……」
お茶の時間。出されたケーキはマドレーヌだった。白いティーセットに薔薇の花……。彼は軽く拳を握った。
「あれが全部夢だったら……」

――ルイ? ルートビッヒ、いらっしゃい。お茶の支度が出来ましたよ

母が呼んでいた。
「はーい。母様、すぐに行きます」
ルイはピアノを弾いていた。春、3月のことだった。思えば、それも丁度誕生日が過ぎた今頃のことだったのではないだろうか。母はマドレーヌを焼いてくれた。いつも料理やおやつは専任の料理人が作ってくれるのだが、時々は母が手作りしてくれた。彼はその味が好きだった。その日は父が演奏旅行に出掛けていて、家政婦のマリアンテも休みをとっていた。だから、その日は母と二人でお茶を過ごすことになっていた。丸いテーブルには白いクロスが掛けられ、奥には薔薇のが飾られた花瓶と果物の籠が乗せられている。母が注いだ紅茶の煙がゆらゆらと立ち込めて光の中で揺らめいていた。

「母様、ぼくね、夢があるんだ」
「夢?」
「うん。いつか日本でピアノのコンサートをするんだ」
「日本で?」
「そうだよ。母様が生まれた国で……」
ルイはうれしそうに笑って言った。
「ぼく、きっと母様に喜んでもらえるような有名なピアニストになるよ」
「ルイ……」
「もう、誰にもぼくや母様のこと、悪く言わせないんだ。ぼくは他の子のように学校の勉強はできないけれど、ピアノだったら誰にも負けない。たとえ父様にだって負けないんだ。他の多くのピアニストがそうなように、父様のピアノはテクニックだけ。そんなの練習したら誰だってできる。でも、ぼくはちがう。だって、ぼくは……」
「テクニックだけ? 大層な口を利くんだな、ルイ。いつからそんな身分になったんだ?」
「父様……」
背後に父が立っていた。

「まあ、あなた、いつお帰りに?」
母が取り繕うように割って入る。
「え? 言ってみろよ、ルイ」
「あなたのピアノはなってない。ショパンの曲をあんな風に弾いちゃいけないんだ。もっとやさしく、それでいてしっかりと芯のある音で情熱的に……! ぼくは、もっとドラマティックに、本物を……、ショパンの想いのすべてを伝えたいんだ! あなたのはちがう! あんなの曲じゃない! ただの機械仕掛けの音と同じだ」

バシッ! 父の平手が彼を打った。

「あなた!」
「生意気を言うな! この間まで何もできないひよっこだったくせに……! 誰のおかげでこうなれたと思ってる?」
「少なくともあなたじゃない」
殴られた頬に拳を当てながら彼は下から父親を睨みつけた。
「何を……!」
「ルイ、おやめなさい。お父様に謝るのですよ。あなたもやめてくださいな。ルイはまだ子供なのよ」
「謝る? 何でぼくが謝らなきゃならないの? 全部本当のことなのに……。あなたに教わった訳じゃない。ぼくにピアノを教えてくれたのはぼく自身……。それにショパンとマテラ先生……。あなたじゃない」
「ルイ!」

椅子がひっくり返り、テーブルクロスがずれて上に乗っていた物のすべてが散乱した。熱い紅茶が倒れたルイの体に掛かる。が、彼は何も言わず、ただ黙って父親を睨みつけた。
「何だ? その目は! 言いたいことがあるなら口で言え!」
父は子供を蹴りつける。母が子供を庇って前に出た。それを邪魔だと突き飛ばす。よろけた母の身体に当たってくだもの籠の中身が転がる。りんごや葡萄やオレンジ、そして鞘から抜けた銀色のナイフ……。
「やめろ! 母様に何をするんだ!」
ルイは夢中で飛び出した。不意を突かれて父が手をつく。そこに落ちていた運命のナイフ……。それを拾うと父は躊躇なくルイに向かって振り下ろした。
「やめて! フリードリッヒ! やめて……」
母がその間に飛び込んで彼を庇った。
「母様っ!」

白い薔薇の花びらは散って赤く染まり、頭の中を不協和音が駆け巡った。痛みも苦しみも悲しみさえも何も感じなかった。何が起きたのか、どうしてこんな事になってしまったのか何もわからないまま、彼は意識を失った。背中に衝撃を感じた。何かがゆっくりと背中を流れ、熱さだけを感じた。が、すぐにそれも感じなくなり、すべてが冷たい闇の中に閉ざされた。


 窓の外は闇。すべてが整えられた明るい部屋で彼は嗚咽を漏らす。抱いているウサギの丸い目がじっと彼を見つめている。
「どうして……!」
拳で涙を拭った。しかし、涙はあとからあとから幾らでも落ちて来て丸い粒となってウサギの毛の上を伝わった。
「ジェラードは何故あれが嘘だと言ってくれないの? 今までの事はみんななかったんだって……。言って欲しかったのに……。どうして誰も言ってくれないの? どうして……!」

10才の春。デビューが決まり、皆から祝福を受けたばかりだった。2週間後に行われる筈だったコンサートのチケットは完売。それまで彼のことを馬鹿にしていた学校の友達でさえ、彼の実力を認めてくれた。何もかもがこれから始まり、彼には栄光と将来が約束されていた。

「なのに……どうして……!」
(父様だって喜んでくれた筈だったのに……)

――おめでとう、ルートビッヒ。おまえのことを誇りに思うよ

「どうして……!」


 その晩、ジェラードはある一人の男に電話を掛けた。
「ああ、ギルフォートか。私だ。実は、おまえに一人、面倒を見てもらいたい者がいるんだが……。ああ。少々時間が掛かるかもしれないが、奴には素質も度胸も十分にある。きっとおまえならルビーを上手く育てる事が出来るだろう。やり方は任せる。一度、こっちへ来てそいつに会ってみてくれ」
――わかりました