風の狩人
第1楽章 風の紋章
5 約束
龍一が目を覚ました時、真っ先に飛び込んで来たのは、分厚い化粧を施して着飾った叔母の姿だった。きつい香水の匂いに咽そうになりながらも、龍一は辺りを見回して訊いた。
「どうして……?」
ここにいるのが父や母ではなく叔母夫婦と1才年長の従兄弟だけなのか? 龍一は、ぼんやりと病室の白い壁を見つめた。そんな彼を叔母がいきなり強く抱き締めた。
「かわいそうに。兄さんも姉さんも死んで、おまえは独りぼっちになってしまったのよ。でも、心配しなくていいのよ。叔母さんがちゃんと面倒みてあげますからね」
そう言うと、叔母はわざとらしくハンカチを取り出して涙を拭った。背後の叔父は困惑した表情を浮かべていたし、従兄弟は俯いたまま携帯をいじっていた。
(そうか。父さんも母さんも、あの火事で……)
思わず涙が出そうになったが、叔母は話を続けた。
「ところでねえ、龍一、兄さんはしっかり者だから、きっと保険に入ってたんじゃないかと思うのよ。うん。火災保険の方はすぐに来たわよ。そうじゃなくて、個人的に加入してた生命保険のことなんだけど」
甘ったるい声で囁く。
「おい」
叔父がつついた。
「何も、今、そんな事聞かなくても……」
と、妻を睨んだ。
「あら。こういう事は早い方がいいのよ。ねえ、龍一、あなた、聞いてないかしら?」
彼は、軽く首を横に振った。他のことが気になっていた。
(あの赤ちゃんはどうなったんだろう? それに……)
龍一の脳裏に恐ろしい光景が浮かんだ。炎に追われ、必死に逃げようとして書類を掻き出す自分の姿。大量の白い紙が宙に舞い、引火して彼に迫った。古い書類の幾つかには黒く塗られた部分があり、まるで闇の風のように龍一を襲った。その時には逃げるのが精一杯だったので、黒い部分はただの書き損じを消した跡だろうと思っていた。が、今思うと妙に禍々しく見えたのは何故だろうと思った。
(でも、あれは元々使われていなかった物だし、紙だって変色してた。きっと廃棄する書類を集めただけの棚だったのかもしれない)
繋がれた点滴の管を見ながら考えた。
(あの時の赤ちゃんは助かったのかな? 何だか、結城先生がいてくれたような気もするんだけど……)
まだ、半分靄の中にいるような気持ちだった。そこへ、突然、ドアが開いて若い看護師が入って来た。
「あら? 龍一君、気がついたのね。意識が戻ったら、すぐにナースセンターへお知らせくださいと言った筈です」
看護師に言われ、叔母は慌てて言い訳した。
「たった今、目を覚ましたんですよ。これから、連絡するところだったんです」
「そうですか? 話し声が外まで漏れてましたけど……」
看護師は疑わしそうに叔母の顔を見た。
「あの……」
龍一がおずおずと話しかけた。
「赤ちゃんは……?」
龍一の問いに、彼女はにこりと微笑んで答えた。
「ええ。もちろん無事よ。別の病院に運ばれて行ったけど、元気にミルクも飲んだって聞いてる。本当によかったわね。龍一君のおかげよ。ああ、それと、高校の結城先生がね、朝まであなたの側に付いていてくださったの。とても心配していらしたわ。どうぞ、よろしくお願いしますって。また、夕方には来てくださるって」
「そうですか」
龍一は安堵したように頷いた。
(赤ちゃん、助かったんだ。よかった。それに、結城先生のこと、夢じゃなかったんだ)
安心したのか、龍一はまた、うとうとと目を閉じた。それを見て、叔母が慌てて何か言いかけた。が、看護師がそれを制して言った。
「それに、その香水何とかなりませんか? 患者さんに良くありませんので……。今、ドクターを呼んで来ますから」
看護師が出て行くと、叔母は気に入らなそうに舌打ちをした。
「ふん。うるさい小娘だね。婦長は一体どんな教育してんだか」
だが、その叔母は、叔父の接骨医院で婦長をしている。それを思うと、龍一は目眩を感じた。
(それにしても、これから先、ぼくは一体、どうなってしまうのだろう?)
叔母の家には、無論、行きたくなんかなかった。が、父も母もなく、高校生の身の龍一には、どうすることも出来ない。それを考えると心が重く、やさしかった父や母のことを思って涙が溢れた。
結城は、その日、2時間程、遅れて出勤した。その時間は元々空き時間だったので、さほど影響はない筈だった。敷地の中では、昨日の事件で壊れた校舎の修理が行われていた。正門からは業者の車や作業員達が頻繁に出入りしている。結城はそれらを避けるように裏門へと滑り込んだ。が、車から降りると、待ってましたとばかりにマスコミの腕章を付けた者達がマイクを突き付けて訊いた。
「宮坂高校の方ですか?」
「ちょっとインタビューさせてください」
「良かったら、風見龍一君のこと、聞かせてください」
「風見の……ですか?」
結城は困惑した。
「普段、どんな感じの生徒さんなんですか?」
「教えてくださいよ。風見君って、学校でも人気者なんですか?」
「成績は?」
カメラを持った者達が追い掛けて来て、結城を取り囲んだ。そこに、校舎から大きな声が響いた。見ると、生活指導の厚井と白神が駆けて来て、マスコミの人間達を蹴散らした。
「困りますねえ。勝手に敷地に入って来られちゃあ。今は授業中なんですよ。生徒の気が散るじゃないですか。後で校長が会見を行いますので、それまでお待ちください」
口調は丁寧だが、ぐいぐいと威圧し、マスコミを追い出して行く。
「結城先生、今のうちに」
白神が腕を引っ張って結城を校舎へと招き入れた。
「これは一体何の騒ぎですか?」
と、結城が訊く。
「ああ。昨日の病院の火事で、風見が赤ん坊を助けたっていうので、ちょっとした英雄になってるんですよ。で、朝から電話が鳴りっ放し。励ましの電話やら、取材させて欲しいだとか、果ては、テレビ出演の話まで」
「あの子の気持ちも考えずに……」
「そうですね。あの子は、あの火事で両親を亡くしてるんですからね」
白神が沈んだ声で言った。
「ええ……」
(本当に、何もかもなくしてしまったんだ。あの子は……本当に)
結城の心に後悔と、救うことの出来なかった無念さがじりじりと攻め寄せた。
職員室に入ると、いつもとちがう喧噪の中、体育教師の火野がやって来て言った。
「あ、結城先生。昨晩、風見の病院へ行ってたんですって?」
「え? どうしてそれを?」
結城は、怪訝そうに訊き返しながらも引っ切りなしに鳴る電話と、応じている同僚を見ながら、机に鞄を置いた。
「マスコミってのは恐ろしいですからね。気をつけた方がいいですよ。昨日の晩飯に何を食ったとか、どこをどう通って学校へ来たとか、トイレに何回行ったとかまで、連中なら調べ上げかねませんからね」
「そうですか」
結城は、表情を隠して応えた。
「ところで、風見の様子はどうでした?」
丁度、電話を終えた武蔵野が訊いた。
「ええ。医者の話では、軽い火傷と打撲、それに擦過傷がある程度で、検査の結果で異常がなければ数日中には退院出来るそうです。それに、彼が助けた赤ん坊も元気だということですし。本当は、彼が目を覚ますまで付いていてやりたかったのですが、すぐに親戚も来るということでしたので」
「それはよかった。でも、これからですね」
「ええ。あの子には、辛い現実だと思います」
「ま、我々に出来ることは、彼が学校に戻って来たら、出来るだけ力になってやることですかね」
と白神が言った。
「そうですね」
結城も頷いたが、今はまだ、具体的なことは何も思い浮かばなかった。
昼過ぎ、鼓(つづみ)校長が会見を行った。それは、丁度、昼のワイドショーの時間に重なったのでテレビでも生中継された。職員室でも放送が流れ、手の空いた職員達が画面を見つめながら、昼食を食べたり、お茶をすすったりしていた。いつもはしどろもどろの校長も、この時ばかりは胸を張り、誇らし気に生徒を自慢した。
――「ええ。彼、風見君は、我が校屈指の優秀な生徒ですね。成績は常に学年トップ。全く何をやらしても非の打ち所のない子でして。将来が期待される生徒です。無論、正義感に溢れ、思いやりもあり、クラスでも人気者ですよ。ははは」
――「まあ、それは、今時珍しい。素晴らしい生徒さんですね。自らの命をも顧みず、燃え盛る炎の中に飛び込んで赤ちゃんの命を救うなんて、誰にでも出来ることじゃありませんからね。校長先生も、さぞかし鼻が高いでしょう?」
記者達からおだてられると、校長はますますニコニコし、自慢の生徒を褒めまくった。
「やれやれ。うちの校長って案外お調子者なんですね」
弁当を突きながら火野が言う。
「それはちょっと言い過ぎじゃありません?」
窘めるように薬島が首を竦める。
「そんなことより、これから先のこと考えといた方がいいんじゃないですか?」
もう食べ終えてしまった厚井が言った。
「そうですね。マスコミ対策とか」
武蔵野も言う。
「それに、肝心なのは、あの子の心のケアではないかと……」
白神の意見に皆もそうだそうだと頷き合った。
(心の……。そうだ。短い時間に、いろいろな事があり過ぎたんだ。僕にも、あの子にも……)
結城は会話には加わらず、弁当にも手をつけず、じっと思いに耽っていた。
(風見……。何としても、あの子を立ち直らせてやらなければ……)
校長の会見が終わり、結城は席を立った。そして、職員室を出ようとその扉に手を掛けた時、急にテレビの中が慌しくなった。
――「えー、ただ今、大変なニュースが飛び込んで来ました。風見君が何者かに襲われ、重態になっている模様です。今、カメラを病院へ切り替えます。山崎さん。そちらの状況はどうですか? 一体、何が起こったのでしょうか?」
――「はい。こちらは、風見君が入院している病院前です」
一瞬、パッとカメラが切り替わり、病院の全景が映し出され、すぐに正面玄関前に詰めているレポーターの顔がアップになった。周囲はざわつき、レポーターは緊張した面持ちでメモを読んでいる。が、結城はその病院の背後に過ぎった闇の風を瞬間的に捉えていた。
――「病院側の発表によりますと、今日、午後12時48分頃、巡回中の看護師が部屋でぐったりとしている風見君を発見。すぐにI・C・Uへ運ばれ処置が行われましたが、今も意識不明の重態が続いている模様です。どうやら、何者かにより、毒物を混入されたらしいとの事で、現在、警察も入っての捜査が続けられている様です」
――「それは、何か個人的な恨みなのでしょうか? それとも、単なる偶然なのでしょうか? ヒーローが一転、とんでもない悲劇が起こってしまいました! それで、何か犯人の手がかりは掴めているのでしょうか?」
と、スタジオが問う。
――「いえ、まだ、何も詳しい事情はわかっていません。また、何か新しい情報がありましたら、お知らせします」
そこでCMになった。職員室は騒然となった。
「一体、どういうことなんだ?」
と、厚井が怒鳴った。
「全く。信じられませんよ。これ程の人やマスコミがいたというのに」
(闇の風が、何故……?)
結城は、画面を見つめたまま蒼白になっていた。もう、誰の声も聞いていない。深い後悔の念がキリキリと胸を締めつけているだけだ。
(離れなければよかった。あの子から……)
強く握り締めた手の内に、熱いエネルギーを感じた。光の波動が具現化しようともがいている。
(ダメだ!)
結城は強く制した。が、波動は彼の中で高まり続けた。結城の周りから仄かに風が回り始める。
(いけない……!)
結城は焦った。彼の中で光が、闇が、主導権を奪おうと激しくぶつかり合っているのだ。風は時として、風使いの制御を失わせる事がある。それは、誰にも止める事の出来ない災いの嵐となる。もし、コントロールを失えば……? しかし、彼は耐えた。彼は、心を開放し、音楽を奏でた。光のタクトが鼓動を刻み、闇が黒鍵へと変わり、光と闇とを織り込んで流れるような「アラベスク」、印象派の世界を――。
「結城先生、どうかしたんですか? 顔色が……」
と、覗き込むように白神が訊いた。
「え? ああ、はい。ちょっと気分が……」
「それはいけませんね。今日のところは家に戻って休まれた方がいいですよ。昨日からいろいろありましたし」
武蔵野も心配そうに声を掛けた。
「そうそう。飯も食えないようじゃねえ」
手が付けられていない弁当箱を見て、火野も言った。
「そうですね。申し訳ありませんが、そうさせていただきます」
そう言って頭を下げると結城は静かに職員室を出た。
(それにしても、どうしたというんだ?)
廊下に出ると、結城は自問した。
(制御が出来なくなるなんて……!)
確かに、昨日から目まぐるしく状況は変化し、寝不足の上、神経は張り詰めて疲れていた。だからといって、自分の力を制御出来なくなるとは……。人一倍自制心の強い彼にとって、それは、とても考えられない事だった。
(一体、何故……?)
目の前を生徒達が通り過ぎた。
「風見……」
結城はハッとし、ついさっき画面に映った闇の風を思って、職員通用口へと急いだ。
病院の中は、不気味な程静かだった。外はマスコミや野次馬や取材のヘリコプター等が飛び回って騒がしかったが、病棟の廊下はまるで忘れられたように沈黙していた。並んだドアはどれもぴったりと閉じられ、部屋番号が記された数字とネームの入った札だけが無機質に並んでいる。
その白く長い廊下を結城は静かに歩いていた。靴音がやけに響く。時折、看護師が小走りに駆けて行った。
龍一の部屋の前には、「面会謝絶」の札が掛けられており、カーテンで仕切られたその部屋を覗く事は出来なかった。どれくらいの時間が過ぎたのか。結城は、通路を引き返し、中央にあるガランとしたロビーの長椅子に腰を下ろした。そこには大きな観葉植物があり、その脇でジュースの自動販売機が微かな呻りを上げている。
大きな窓からは陽射しが注ぎ、窓際で一人、紙コップを弄んでいた少年の頬を照らした。短いジーンズに上着、ベルトに巻かれたチェーン。少年は髪を染めていたが、瞳は憂いに沈んでいるように見えた。どことなく龍一に似ていると結城は思った。この少年の方が若干背が高いが、年も同じくらいではないだろうか、と……。
不意に、少年は持っていた紙コップをぐしゃりと潰し、丸めてゴミ箱に放った。そして、上着のポケットからタバコを取り出すと口に咥えてライターで火をつけた。
結城はさっと立ち上がり、少年に近づいた。
「君。ここは禁煙だよ」
迷惑そうな顔で少年が振り向く。やはり、龍一に似ている。少年は威嚇するように不敵な笑いを浮かべたが、その顔は幼い。
「それに、君、年は幾つ?」
「十七」
「それなら、まだ学生だろ? タバコは早いんじゃないのか?」
「別にいいだろ? 俺の命だし……」
悪びれもせず、フーッと煙を吐きかけて来る。
「やめなさい、と言ってるんだ」
結城は静かに言った。
「いやだと言ったら?」
少年はじっと結城を見つめた。
「ここは病院だよ。やめなさい」
結城は無理矢理タバコを取り上げた。
「うぜえな。あんた、何者?」
「僕は教師だ。たとえ他校の生徒でも、喫煙を見過ごす訳にはいかないな」
「ふん。随分偉そうにしていると思ったら先公か」
煙の背後に闇が見えた。
(この子は闇に取り憑かれている……!)
少年の背後には無数の闇が蠢いていた。歪んだ顔が少年の表情に重なった。
「チッ! どいつもこいつも……俺を食い物にして……。親父も龍一もみんな……」
そう言うと彼は、いきなりポケットからナイフを出して振り翳した。
「よせ。バカな真似はやめろ!」
結城が叫び、凶器を取り上げようとした。
「放せ! あの闇を殺らなきゃ、俺が殺られちまうんだ……!」
少年は宙に向かってナイフを振るう。
「闇だって? 君には見えているのか?」
結城が訊いた。
「そうさ。ずっと俺に付いて来て……俺を……!」
彼は闇雲にナイフを振り回した。
「やめろ! 闇の風はナイフでは消せない!」
結城が言った。が、少年は手にしたナイフを取られまいと必死に抵抗する。二人はお互いの襟首と腕を掴み合ったまま転倒し、床を転がった。長椅子が斜めになり、観葉植物の鉢に足が当たった。大きな鉢植えがぐらりと揺らぐ。
(危ない!)
結城は、その鉢の直撃を避けようと少年を庇って転がった。その一瞬の隙に少年は体勢を立て直すと、そこにあった闇に襲い掛かった。つまり、結城と自分との間に広がった風を切ろうとしたのだ。
「これで終わりだ! 俺や龍一や母さんに付きまとう闇を俺がこの手で消してやる!」
少年の声は震えていた。が、手にしたナイフは確実に闇を、結城を刺そうと振り下ろされた。
「かわいそうに……」
結城がそっと掌でそのナイフを受け止めて言う。
「君は、誰にも愛してもらった事がないんだね」
結城が続ける。
「な…に……?」
少年の体に絡み付いていた闇が結城に吸い寄せられるように蠢く。
「君は寂しいんだ」
左手に、じわりとやさしい波動が伝わった。結城の手がゆっくりと伸びて、少年の闇を絡めた。そして、眩い星の煌きと共に忌まわしい風を、闇の陰謀を打ち砕いた。そうして結城は、真っ直ぐに少年の顔を見据えて言った。
「さあ。聞いてごらん。心の声を」
小さな光の粒のメロディーが少年の心にゆっくりと忍び込んで行く……。それは、やさしい子守唄だった。懐かしい風が心地良さを何度も何度も繰り返し奏で続ける……。
「これは……?」
少年は目を閉じ、その表情が知らず穏やかになった。
「もう、大丈夫だ」
結城が頷く。
その時。数人の足音が廊下に響いた。
「明彦!」
派手なアクセサリーを鳴らしながら駆けつけた中年の女が叫んだ。そして、すぐに数人の警察官が来て、結城の上の少年を引きずり下ろした。そして、その中の一人が、既に萎えた少年の手からナイフを奪う。
「怪我はありませんか?」
半身を起こした結城に別の男が声を掛けた。
「ええ。大丈夫です」
と、結城は応えた。
「明彦。おまえは一体、何て事を……!」
中年の女は顔を覆った。
「風見明彦君だね? 殺人未遂の現行犯だ。ちょっと警察に来てもらうよ」
鋭い眼光の刑事が言った。
「現行犯って、今のは……」
結城が口を挟んだが、刑事は冷たく言った。
「庇っても無駄ですよ。この子は、既に従兄弟を毒殺しようとした容疑者なんですからね」
「従兄弟って、まさか、風見の……?」
「そうです」
刑事が頷く。
「でも、何故、龍一を……!」
明彦の母が言った。
「何故だって? そんな事俺にだってわからないよ。ただ、闇はあんたがやろうとしてた事を俺にやらせた。それだけの事さ」
「何言ってるの? 確かに保険金の事は言ったかもしれないけど、まさかそんな、龍一を殺そうなんて……」
泣き崩れる母の姿を見て、明彦は侮蔑するように見下ろす。
結城は、そんな明彦をじっと見つめている。刑事が見かねて連れて行けと目で合図した。両脇を抱えられて少年は母の前から消えようとしていた。母は顔を伏せ、床に崩れたままだったが、最後に一度だけ振り向いた明彦が哀れみの目でその母を見た。それから、ちらと結城を振り返って言った。
「ありがと……」
結城はそっと光を凪いだが、それはもう明彦には届かなかったかもしれない。
「明彦……」
母も警察の人間に支えられ、おずおずとその後に続いた。
「愛してあげてください。明彦君を」
結城はその背中に向かって言ったが、女は振り向かず、その表情をうかがうことは出来なかった。
「あなたは確か、結城先生でしたよね? 宮坂高校の」
と、一人残った刑事が言った。
「はい」
「昨日、学校に侵入した不審者の件なんですがね。あなたがおっしゃってた浅倉という男は、既に死亡していますよ。2年も前にね」
「ええ。僕も今朝、偶然昔の知人に会って聞きました」
「そうでしたか。なら、昨日の男は別人という事になりますね」
「ええ。すみません。何かお騒がせしてしまいまして」
「いえ。こちらとしては参考になりますよ。その浅倉という男に酷似しているというのは大変なヒントですから」
と、刑事は苦笑した。
「それにしても、あなたも、あの子も、昨日から災難続きですな。何かお祓いでも受けた方がいいんじゃないですか?」
「え?」
言われて結城はぎょっとし、刑事を見た。
「いえいえ。冗談ですよ」
と、笑いながら顔の前で手を振ったが、すぐに真面目な顔で言った。
「でも、こんなに続くとね。そうそう。さっきの件、あれは立派な殺人未遂です。被害届を出しますか?」
「いえ。あの子は、本当はいい子なんですよ。親の愛情が欲しくてちょっと拗ねてるだけなんです」
結城の言葉に、刑事はやれやれといった調子で首を竦めた。
「あなたが出されないと言うのであれば構いませんが、甘やかすとよくないですよ。ああいう輩は」
「ええ……。そうかもしれませんね」
結城も苦笑した。
刑事と別れた後、結城は看護師に呼ばれて龍一の病室に入って行った。少年は点滴や心電図等、様々な機械に繋がれていた。結城が見る度に、痛々しさが増して行くような気がした。
本当に、厄除けのお祓いでもしてもらった方がよいのではないか、などと真面目に考えてしまう。が、風使いの彼が、そんな事をするなんて茶番だ。何故なら、結城は狩人なのだ。負の記憶を持った風の力を、異なるベクトルの性質を持った風によって相殺する。彼ら風の狩人は、繰り返す悲劇を食い止めるため、その力を使えるよう訓練されて来たのだから……。
「本当に、いろいろな事があったね」
結城はそっと少年の手を撫でた。
「でも、これからなんだ。僕にとっても。そして、君にとってもね」
結城は、その手を強く握った。
「先生……」
意識のないまま、龍一が言った。
「先生。ぼくもなれますか? 風の狩人に……」
どうやら夢を見ているらしかった。
「風の狩人……。なれるさ。きっと」
結城は、そっと少年の手を自分の両手の中に包み込んだ。
それから、一体どれくらいの間、そうしていたかわからない。ただ、波が、時の波動が、彼を思い出へと導いていた。
「風の狩人……」
世界中の闇を狩り、みんなが笑顔でいられるように……。そんな理想を目指していた。結城も、そして、浅倉も……。
――世界から災いをなくすんだ。おれ達の力で
浅倉……理想に燃えていた瞳。いつから闇に呼応し、人の幸福を貪り食う魔物になってしまったのか? が、その怪物は、もう、いない。闇は必ず滅ぶものなのだ。魔を宿せば、必ず自分自身を滅ぼす。だから、奴は滅びたのだ。奴は滅びた。滅び……。
――茂は、死んでいないわ。直人
不意に誰かが囁いた。
「え?」
――浅倉は生きているのよ
「ナザリー……?」
かつての彼の恋人は、何故かとても哀しい目をしていた。
「浅倉が生きている……? 何故?」
結城は、ハッとして現実に戻った。それは病院の白い部屋。龍一の静かな寝息と周期的な機械の音の他には何も聞こえない。
「夢を見ていたのか?」
結城は軽く頭を振った。
(きっと神経が高ぶってるんだ。こんな夢を見るなんて)
白昼夢……。ふと腕時計を見た。秋の夕暮れには、まだ少し早い。結城はじっと少年を見つめた。白い。それは、彫像のように生気を感じなかった。一瞬、この子は息をしていないのではないかと心配になった。が、確かに彼は生きている。
「風見……?」
微かに頬が震えた。
「風見?」
その声に呼応するように、龍一が静かに目を開けた。藍色掛かったその瞳を……。
「先生……?」
龍一はじっと彼を見つめ、それから、ぎこちなく笑った。
「夢を見てました。永い永い夢を……」
「夢?」
「はい。父さんも母さんも街の人も誰もいない白い闇の中で、ぼくは一人で何かと戦っていました。形のない闇のような魔物と――。けど、ぼくは、そいつに勝てなかった。でも、奴がぼくに止めを刺そうとした時、先生が来てくれたんです。ぼくは助かって……。でも、先生が……!」
そう言うと、龍一の端正な顔が歪み、涙が溢れた。
「お父さんもお母さんも死んでしまって、その上、先生までいなくなってしまったら、ぼく……」
「風見……」
結城は、嗚咽する少年の手をしっかりと握り締めた。
「大丈夫。僕は、ずっとここにいるよ。君の側に」
「でも、ぼく、先生が……」
言い掛けて、ふと龍一は口を噤んだ。
「大丈夫。大丈夫だからね」
結城はそう言いながら、繰り返しその手を撫でた。と、不意に龍一が微かに震えた。
「どうしたの? どこか気分でも悪い?」
龍一は首を横に振った。それを見て、結城も微笑む。
「何も心配しなくていいんだよ。君は、早く元気にならなくちゃね。さあ、医者を呼ばなきゃ」
そう言って、彼は枕元にあるナースコールのボタンに手を掛けた。と、その手を龍一が止める。怪訝そうに結城が振り向く。瞬間。二人の視線が重なった。
「光……」
結城はハッと息を呑んだ。間違いない。瞳の中にくっきりと光の骨格が浮き上がって見える。拍動する風の鼓動が……。
結城は、少年の目の奥に、はっきりとその証を確認した。
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