青春シンコペーション


第1章 先生は金髪美少年!?(1)


春。うららかな陽射しがラウンジいっぱいに射し込んでいた。ここ、薬島音楽大学では、今日から前期の授業が始まり、才能溢れる学生達で賑わっていた。大きなバッグや楽器のケースを持った者達が頻繁に行き交うエントランス。そこから少し離れた場所に丸いソファーが並んでいる。ところどころに置かれた観葉植物とさり気なく飾られた彫刻。大きな窓の向こうには広々とした芝生の中庭が覗き、ゆったりとした空間が広がっていた。

そんなコーナーのあちこちで、女子学生達が集まり、小鳥のように囀っていた。中でも、一段と華やかな雰囲気を醸し出しているのは、この大学のクイーンとも言える有住(ありずみ)財閥の一人娘である彩香(さやか)とその取り巻きだ。
「まあ、バウアー先生の特別レッスンに選ばれるなんて、さすがは彩香さんだわ」
「ほんとにうらやましい限りですわ。バウアー先生って、あの滅茶厳しい黒木教授が崇拝しているという天才ピアニストなんでしょう?」
「そう。幻の天才と言われている方で、滅多にお顔も拝めない凄い方らしいわ。今回は黒木教授のたっての願いを聞き入れて、特別に選ばれた者だけにレッスンをしてくださるそうよ」
「まあ、それって本当に素晴らしいわ。彩香さんって美貌にも才能にも恵まれていらっしゃるのね」
「うふふ。そりゃそうよ。彩香さんはお小さい頃から各種のコンクールでことごとく優勝されている実力がお有りなんですもの。当然だわ」
学生達が褒めたてる。それを彩香は軽く聞き流しながら前方を見た。煌びやかな女子の一団に混じって地味な服装の男子が一人、たくさんのバッグを抱え、よろよろしながらこちらに向かって歩いていた。

それは、彩香と同じピアノ科の2年生。井倉優介(いくら ゆうすけ)である。彼は屯している女子に飛び出した鞄の角がぶつからないように気をつけて歩いていた。それでも、リアクションの大きな女子達の動きが予期出来ずに腕やバッグが接触し、落としそうになるのも一度や二度ではなかった。
「あ、すみません」
井倉は不意に突き出された肘に突かれてよろめきながらも睨みつけて来るその彼女に謝った。
「バウアー先生ってどんな方かしら?」
「あの黒木教授が尊敬されてる憧れの方だっていうからきっとお年寄りね」
「黒木先生みたいに厳しくて偏屈な先生でないといいんだけど……」
やはり彼のレッスンに選ばれたらしい3年生の彼女が不安そうな顔をする。
「それに、通訳も付かないみたいだし、大丈夫かしら?」

学生達の間では、まだ日本ではあまり知られていないそのピアニストの噂で持ち切りだった。今回、彼のレッスンの対象として選ばれた者は4人。2年生一人、3年生二人、そして、4年生一人のみ。要は、学年トップの者だけが受けられる名誉だった。
(あーあ、特別レッスン……か。僕も一度でいいから、そんな凄い先生のレッスンを受けてみたいな)
うれしそうに話す彼女達の横顔を見ながら井倉は思った。ピアノ科の中でも落ちこぼれと言われている自分には縁のない話だとはわかっている。しかし、同じピアノ科に席を置く者として、羨ましくないと言えば嘘になる。彼とて、最初は希望に胸を膨らませ、この薬島音大に入学したのだ。合格した時の喜びといったら他に表しようがないほどだった。しかも、子供の頃からの憧れだった彩香と同期だと知り、どれほど胸が高鳴ったことか。

(そんな僕の気持ちなんか、彼女はちっとも気づいていないんだろうな)
彩香はいつも取り巻きの少女達に囲まれていた。が、他に何百人の女子がいようと、一番光を放っているのは彩香だ。子供の頃からそうだった。彼はそのことをよく知っていた。艶々とした美しい黒髪、見つめられると、どんな我侭でも聞いてしまいたくなるような不思議な瞳。そして、甘い果実のような赤い唇……。
(そうだ。僕が一番、君のことを知っているのに……)
ふと彼女と目が合った。しかし、二人の間にはまだ大分距離がある。彼女の前には複数の人間がいて、幾つかのソファーと大きな観葉植物と柱を越えて行かなければならない。
「井倉! 何をしてるの? 早く来るのよ!」
彼女が言った。
「はい。すぐに」
彼は落ちかけた荷物を抱え直すと急ぎ足でそちらに向かった。

昔は、二人の距離はもっとずっと近いところにあった。有住家と井倉家は隣接し、父が経営していた井倉不動産の会社が順調だった頃は、二人はよく同じ庭で遊んだ。だが、時代が変わり、世の中は不況になった。父が新規に始めた投資が失敗。加えて取引先の大手の会社が不渡りを出したのをきっかけとして、井倉の会社は坂道を転がるように落ちて行った。株を売り、不動産を処理しても返済が追いつかず、遂に自宅まで手放すことになった。お別れの日、井倉は彼女にさよならも言えなかった。彼女は両親に連れられアメリカへ旅行に出掛けていたのだ。遠ざかる電車の窓から、彼女の家の敷地を眺めた。もう二度と彼女と会えなくなるかもしれないと子供ながらに覚悟した。が、何という運命の悪戯だろうか。彼は再び彼女と再会することになった。ここ、薬島音大の新入生、しかも同じピアノ科の学生として……。

考えてみれば、彼がピアニストを目指そうと決意したのも彩香のためだったと言っても過言ではない。元々ピアノが得意だった彩香に憧れ、自分もピアノを習い始めた優介は、遅蒔きながら高校生の時には地方の小さなコンクールで入賞するほどに上達した。もし、このままピアノがうんと上手くなってピアニストとして成功すれば、再び彩香と巡り会えるかもしれないと考えたのだ。もちろん、ピアノは好きだし、ピアニストになりたいというのはそれだけの理由ではない。しかし、今は彩香のことが忘れられずにずっと強い信念を持ち続けていたのだ。そして、それは正しかった。自分が想像したよりもずっと早く彼女と再会することが出来たのだから……。

しかし、親は彼が音大を受験することに強く反対した。音大を卒業したところでプロになれる確率は限りなく低い。しかも、彼は男だった。将来、家族を養っていくためには音大では就職に不利だった。それでも反対を押し切って音楽の道に進むのなら親子の縁を切るとまで言われた。大学の費用も何もかも一切援助しないと……。しかし、彼は決意した。
――それでも僕は夢を目指します
と……。そして、それは正解だったのだ。今は生活も苦しく、バイトがきつくても、好きなピアノを弾き、大学に来れば彩香と一緒にいられる。
(そうだ。彩香と……)
井倉はずり落ちそうになった鞄を引っ張り上げると彩香の前に来た。

「お待たせ」
が、彩香はぴしりとその頬を平手打ちした。
「この愚図! たかがバッグ運ぶのにいつまでかかってるの!」
「あ、ごめん。エレベーターが使えなくて……」
彼が謝り、反動で上に乗っていた鞄が落ちた。
「いやだ。それ私のよ。床に落として汚さないでよ」
取り巻きの一人が怒鳴る。
「あ、はい。すみません」
慌ててそれを拾おうとかがむとまた別のバッグが落ちる。
「まったく。いつまでたっても使えない奴ね」
彩香に言われてぺこぺこと頭を下げながら、バッグを拾う。
「お待たせしました。はい。どうぞ」
彼は一人ひとりにバッグを渡す。が、誰もありがとうなどとは言ってくれない。しかし、それはいつものことだった。薬島音大は女達の楽園だった。男子は数える程度にしかいない。それならば、もっとモテモテになってもよさそうなものだが、井倉の場合、そうはならなかった。

入学式の日。彼はドキドキしながら彩香に声を掛けた。
「あの、僕のこと思えてますか?」
彼女は一瞬唖然として彼を見ていたが、すぐににっこり笑って言ったのだ。
「ああ、パシリの井倉。丁度よかったわ。喉が渇いたの。ジュースを買って来てちょうだい」
「はあ?」
「ジュースよ! まったく気が利かないわね! さあ、早く行って! あ、みんなの分もね」
それが彼女との再会であり、今の二人の身分の格差だった。そして、それは今も続いている。

「あら、バッグに付けていたチャームが一つ取れてるわ」
彩香が言った。一斉に井倉を睨む女達。
「え? 僕? 知らないよ。僕はただ言われた通りに運んだだけなんですから……」
が、彼女達はじっと彼を責める視線で見つめている。中央の彩香が進み出るように言った。
「探して来て!」
「え? えーっ。さっき9階から降りて来たばかりなんですけど……」
井倉が汗を拭きながら言う。だが、彩香は容赦なく言った。
「いいから探して来て!」
「はい。わかりました」
井倉は言うと回れ右をして階段へ向かった。今、エレベーターは点検中で使えない。井倉は仕方なく階段を上って行った。

「あまり遠くじゃないところに落ちていてくれないかな?」
そんな独り言を言いながら彼はため息をついた。しかし、チャームは階段の何処にも落ちていなかった。
「やれやれ。また9階まで来ちゃった。廊下にもないみたいだし、教室の中かな?」
井倉は誰もいない教室のドアを開けた。そして、ぐるりと一蹴して机や椅子、床を見渡す。すると、最後に回った椅子の座面にそれが落ちているのを見つけた。
「あった。よかった」
彼はふーっと胸を撫で下ろした。もし、見つからなかったら一晩中探し回らなければならなかったかもしれないのだ。井倉はそれを握ると扉に向かった。

その時。奥の戸が開いて、黒木教授が声を掛けた。
「ああ、君、井倉君、ちょっと」
「は、はい」
一瞬、心臓が止まるかと思うほど驚いた。鬼より怖い黒木教授に呼び止められるなど余程不吉なことに違いなかった。
(もう今年からは来なくていいなんて言われたらどうしよう)
薬島音大の中でも最も優秀で最も厳格な黒木は指導も厳しく、レッスンに付いて来れない学生については容赦なく切り捨てるという噂だった。他にもピアノ科の先生は何人かいたが、よりによって井倉は黒木教授に当たってしまったのだ。
(もし、教授にそんなことを言われたらここにいられなくなる)
井倉は目の前が真っ暗になるのを感じた。見込みがない者は大学に残る必要はない。そう言われて大学を去った者もいた。
(一体どうしたら……?)
井倉は恐る恐る教授の顔を見上げた。

「君、バウアー先生のレッスンを受けてみる気はあるかね?」
黒木教授は単刀直入に言った。
「え? あの、僕……」
彼が戸惑っていると黒木は苛々したように言った。
「受けるつもりがあるのかないのか。早く決めたまえ」
「は、はい。あります」
井倉は飛び上がって言った。
「よし。では、明後日の午後1コマに入れておく。しっかり練習しておくように」
「はい!」
井倉はうれしさと緊張で頬を引き攣らせて返事した。
(僕がバウアー先生の特別レッスンに……?)
教授と別れ、階段を降りている間も彼の頭には何度も黒木の言った言葉がリピート再生されていた。

――君、バウアー先生のレッスンを受けてみる気はあるかね?

その言葉は他の誰でもない自分に向けられているのだ。
(それって実力を認めてくれたってことなのかな?)
特別レッスンが受けられるのは限られた人数の選ばれた者だけに与えられる特権なのだ。その数少ないチャンスに恵まれた。井倉にしてみればそれは宝くじに当たるよりもずっとうれしいことだった。
(彩香ちゃんに教えてあげよう)
心の中では、いつもそう呼んでいた。子供の頃のように……。
「有住さん!」
現実にはそう呼んだ。彩香は彼が手にしたチャームを見て笑った。
「見つかったのね。よかった。これ、安物だけど、結構気に入ってたのよ」
彼女はそれを受け取るとさっと踵を返して行こうとした。井倉が声を掛けようとするが、取り巻きの女子達がさっと彼女を隠すように割り込んだ。その中の一人の四角いバッグが当たって、彼はよろめき、見ればもう彼女は大学のエントランスを出て行くところだ。
「あの、有住さん! 僕も特別レッスン受けることになりました!」
彼は叫んだ。微かに彼女の肩が震え、こちらに首を動かしたように見えた。が、次の瞬間にはもうその自動扉は閉まっていた。


翌日。井倉が大学に行くと黒木に呼び止められた。
「井倉君、練習の具合はどうかね?」
「は、はい。昨日は家に帰ってからずっと練習してました」
「なら、ちょっと弾いてみたまえ」
「い、今ですか?」
「そうだ」
有無を言わさぬ迫力で言う黒木に圧倒され、つい、次は授業なのだと言えずに井倉はピアノの前に座った。が、最初の小節を弾きだした瞬間、黒木の雷が『革命』を打ち砕くような勢いで炸裂した。
「これで一体何を練習したと言うのかね? バウアー先生はとても気難しくて厳しいお方なんだ。君は、この私の顔に泥を塗るつもりなのか!」
「い、いえ、そんな……」
井倉はおろおろとたじろいだ。
「レッスンは明日なんだ。死ぬ気で練習したまえ!」
「はい! 今夜は大学に泊まって徹夜で練習します!」
井倉はそう叫んだ。
「ならばよし! がんばりたまえ」
そう言うと黒木は部屋を出て行った。


そして、遂にその日が来た。彼は午前中の授業をすべて休んでずっとピアノを弾いていた。が、昼少し前、さすがに空腹が募ったので食堂へ行くことにした。さっきからお腹の虫がぐうぐう鳴っている。初めてのレッスンで派手な音を立てられたのではレッスン前から終わったも同然だ。それに喉も渇いていた。
「さすがに水分と食料を補給しなきゃ……」
食堂の前は込んでいた。見慣れた顔もいたが、まだ入りたての新入生も大勢いた。職権の自動販売機の前にも一人、まだ初々しい感じの新入生らしい人物がそれを見ていた。井倉は後ろに並んだ。すると、その彼が振り向いて言った。
「あの、これってどうやって使うんですか?」
金髪に青い目。恐らく留学生なのだろう。が、外国人にしてはきれいな発音をしている。井倉は思わず見蕩れた。その彼がまるで少女のように美しい顔立ちをしていたからだ。国際化の波でこの大学にも何人かの外国人がいた。それはいずれも女子だったのだが、目の前にいる彼はミスキャンバスに推薦したいくらいだった。

「よろしかったらお手伝いします」
井倉は言った。
「ありがとう。助かります。僕、初めてなのでよくわからなくて……」
(やっぱりそうか。今年来たばかりの新入生なんだ。前に一度でも見ていたら忘れないほどの美人。いや、可愛いというべきか)
井倉は男相手にときめいている自分が信じられない気がした。が、気を取り直して言う。
「えーと、どんな物がいいですか? ここのおすすめは日替わり定職で、今日はハンバーグかおさしみですね。単品でのおすすめはカツカレーかオムライス、それにから揚げかなあ」
「僕はハンバーグにします」
と留学生が言った。

「それじゃ、480円ね。ここは、学食だから、外のレストランより少し安いんだ。ここからコインを入れてこのボタンを押せばOKだよ」
「ありがとうございます。飲み物もありますか?」
「ドリンクはこっち。ホットならコーヒー、紅茶にカフェオレ。アイスなら、オレンジ、コーラ、アイスティー、フロートもあるよ。ああ、僕はクリームソーダにしようかなあ。結構美味いんだ」
そう言うと井倉は財布を開いて神妙な顔をした。中には小銭しかなかった。しかも、全部で347円。とても飲み物代までは回らない。
「じゃあ、僕はクリームソーダにします。ボタンはこれでいいですか?」
彼が訊いた。
「ああ。そう。値段は250円ね」
井倉は言うと小銭を出して食堂で一番安い280円の掛けそばを買った。

(明日がバイトの給料日だから、今日はお金ないんだった)
内心焦ったが仕方がない。今はそばと水で胃袋を宥めてやるしかない。井倉は掛けそばのチケットを握り締めて彼の方を振り返った。留学生はチケット口からそれを取り出すとにっこり笑った。
「ありがとう。ちゃんと買えました」
「よかったね。また、わからないことがあれば訊いてよ。よかったら一緒にテーブルに着いてもいいかな?」
井倉が言うと彼は笑って頷いた。
「もちろんです。一緒に食べましょう」

受付でチケットを渡し、彼らは窓際に座った。
「僕は井倉。君は?」
「ハンスです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は互いの手を差し出して握手した。
「ところで」
と言ってハンスがくすりと笑う。
「井倉っておすし屋さんにあるあのイクラと同じですか?」
「あは。そうそう。インパクトある名前でしょ? 意味は違うんだけど、音が同じだから、一度聞いたら忘れられない名前だってよく言われるんだ」
「はい。僕もきっと忘れないと思います」
と言ってハンスが笑ったので井倉も笑った。

「ところで、君は何科? 僕はピアノ科なんだけどさ」
井倉が言った。
「僕もピアノ科です」
「へえ。そうか。奇遇だね。ここってほんと男少なくてさ、2年生は僕一人なんだ。歓迎するよ」
「それじゃあ、いろいろ教えてくださいね」
「はは。任しといてよ。よく使い走りさせられてるからこの辺りのことなら詳しいよ」
「頼りにさせてもらいます」
ハンスは気さくないい奴だった。井倉は彼に好感を持った。1年生でも生意気な女子とは違い、彼はきちんと礼儀も弁えている。男としてはずっと一人で孤独だったが、ついに後輩が出来たのだ。友人として、先輩としてこれからの学生ライフを充実させて行こうと決意した。

「ところで、君、日本語ぺらぺらだけど、日本で生まれたの?」
「いいえ。僕はドイツ生まれなんですけど、母が日本人なんです」
「ハーフなんだ。それできれいなんだね」
ハンスは発音のことを言われたのかと思ったようだが、井倉は顔のことを言っていた。
(君って可愛いから、きっと女の子達がほっとかないぞ)
「そうですか?」
ハンスは苦笑した。
「はい。お待たせ」
そこへおばさんがクリームソーダを二つ持って来て置いた。
「あれ? 僕は頼んでいませんけど……」
井倉が言った。
「いえ、僕が二つ頼んだんです」
ハンスが言った。

「え?」
井倉の前に一つ差し出して彼は言った。
「教えてもらったお礼です。それともクリームソーダは嫌いでしたか?」
「いや、そんなことないよ。ありがとう。ほんとは僕も飲みたかったんだ。けど、給料日前で、今、ちょっとピンチなんだよね」
と井倉が笑う。ハンスには意味がよくわからなかったようで質問してきた。
「それってどういうことですか?」
「お金がないってこと。アルバイトして大学の学費とか生活費とかみんな払ってるから……。お金がもらえるの明日なんだ」
「大変ですね」
ハンスが同情したように言った。
「あ、でも、自分で決めた道だから後悔なんかしてないよ。ピアニストになりたいってのは僕の夢だからね。ピアニストになって、世界中の子供達に夢を届けて回りたいんだ」
井倉は目を輝かせて言った。が、奥のテーブルに彩香達が入って来るのを見ると少しだけ顔を顰めた。彼女達がこれ見よがしにこちらを見て笑っていたからだ。

「あは。僕みたいのじゃとても無理かもしれないけどね」
「出来ますよ。井倉君ならきっと……」
ハンスが彼の手に自分の手を重ねて言った。その手の温もりが井倉の心も熱くした。
「ありがとう。君っていい奴だね」
料理が運ばれて来た。二人は周囲の食べ物屋の話をして盛り上がった。
「井倉君ってほんとに詳しいんですね。これからもいろいろ教えてくださいね」
ハンスに言われて悪い気はしなかった。
「実は、今日、これから初めてのレッスンなんです。それで、僕、緊張しちゃって……」
ハンスが言った。
「へえ。僕もだよ。今日から新しい先生のレッスンが始まるんだ。それで、やっぱりドキドキしてる」
井倉も言った。
「よかった。僕だけじゃないんですね」
「そうさ。みんな初めてって緊張するよ。けど、きっと上手く行くって信じれば大丈夫。お互いがんばろうね」
井倉が言って、ハンスがはいと返事した。
そして、二人は食堂を出た。

「あの、もう一つ訊いてもいいですか?」
とハンスが言った。
「いいよ。何?」
「黒木教授のお部屋は何処ですか? 僕、そこへ行かなきゃならないんですけど……」
「ああ。なら、案内してあげるよ。えーと、何時に待ち合わせ?」
「45分なんですけど……」
「まだ早いね。それじゃあ、ちょっとそこのソファーに掛けて待っててよ。ちょっと荷物を運ばなきゃならないんだ。時間までには戻って来るから……」
「荷物運びですか? それなら僕もお手伝いしますよ。二人でやった方が早く済むでしょ?」
ハンスはにこにこと言う。
「でも、それじゃ悪いよ」
「悪くありませんよ。僕達、もう友達になったんだし……」
「うーん。それじゃあ、ちょっとだけ手伝ってもらっちゃおうかな」
井倉は言うと毎回仕事になっている彩香達の荷物を教室へ運んだ。今日はハンスが半分持ってくれたので移動が楽になった。

「いやあ、ありがとう。助かったよ、ハンス」
井倉が礼を言うとハンスは首を横に振って言った。
「どういたしまして。これくらいのことならいつでも言ってください。僕、お手伝いしますから……」
「サンキュー」
そして、時計を見た井倉がハンスを黒木教授の部屋の前まで案内してやった。
「助かりました。ありがとう」
ハンスが言った。
「がんばれよ」
と井倉も言って別れた。
(ハンスの担当は黒木教授か。可哀想に……。でも、留学してくるくらいだから相当上手いんだろうな。こいつはうかうかしてられないぞ)


井倉も午後の授業が始まる5分前に、指定されたレッスン室の前で待った。そして、1分前。井倉は深呼吸するとドアをノックした。
「はい。どうぞ」
返事があったので扉を開けて入って行く。
「失礼します」
しかし、ピアノの前にいた人物を見て井倉は呆気に取られた。
「あれ? ハンス、どうして……? 部屋間違えたの?」
井倉の問いにハンスはにっこり笑って言った。
「いいえ。間違えていませんよ。僕はハンス ディック バウアー。今日から君のレッスンを担当することになりました。どうぞよろしくお願いします」
天使のような微笑を浮かべてハンスは手を差し出した。
「バウアーってあの……」
恐る恐るその手を握る井倉に彼はさっとピアノの椅子を引いて言った。
「それでは、どうぞ。最初のレッスンを始めましょうか」