青春シンコペーション


第1章 先生は金髪美少年!?(2)


「そ、そんな……! ハンスがまさか噂のバウアー先生だったなんて……」
井倉は硬直し、目の前が真っ暗になった。

――君は私の顔に泥を塗る気か!

黒木教授に言われた言葉が頭の中で何重にも増幅され、反響し、彼を打ちのめした。

――バウアー先生はとても気難しくて厳しい方なんだ。バウアー先生は……

(その厳格な先生に僕は何ていうことを……)
先輩顔して思い切りタメ口を叩き、クリームソーダまで奢ってもらった挙句に女の子達のバッグを運ぶなどという仕事まで手伝わせてしまった。
(終わった……)
井倉は人生最大の失態をやらかしたのだ。あまりのことに涙さえ出なかった。

「どうしましたか? どうぞ。曲を弾いてください」
ハンスが言った。瞳の奥できらりと鋭い光が反射している。
(逆らえない……)
井倉はロボットのようにギクシャクと間接を動かしてその椅子に座った。が、頭は真っ白。目の前に立てかけた楽譜を見ても、まるで音符と音が一致しない。黒いおたまじゃくしの群れは彼を嘲笑うように連なってそこから抜け出し、何処かへ飛んでいってしまった。
「……弾けません」
およそ12小節分の沈黙を経て井倉が言った。
「では、弾けるようになったら来てください」
そう言うとハンスはパタンと楽譜を閉じて井倉に返した。
(視線が冷たい。きっと怒ってるんだ)
なす術もなく、井倉はがっくりと肩を落とし、楽譜を受け取ると力なく頷いた。
「……わかりました」

(どうしよう? おしまいだ……)
井倉は震えるような目でハンスを見た。彼は何の感情も浮かべずにじっとこちらを見つめている。あまりにストレートなその視線に耐えられず、井倉は俯いた。
「失礼します」
やっとのことでそれだけ言うと部屋を出ようと扉の取っ手に手を掛けた。重い扉が微かに軋み、隙間から廊下の緩慢な空気が流れ込む。白い蛍光灯の光。そしてそこに佇む黒い影……。
(く、黒木教授……!)
鬼のような形相で睨まれ、思わず心臓が止まりそうになった。井倉は開き掛けた扉を慌てて閉めると恐る恐る後ろを振り返った。ハンスはまだこちらを見ていた。
(もう、あと戻りは出来ない)
と悟った。井倉はゆっくりと深呼吸した。それから、意を決してもう一度ピアノの方に向かった。

「弾かせてください。お願いします」
そう言って頭を下げる。
「どうぞ」
ハンスが頷く。井倉はもう一度ピアノの上に楽譜を立てると椅子に座った。それから、目を閉じ、心を落ち着かせようと努力した。
(もう逃げ場はないんだ。弾くしかない)
そう何度も自分に言い聞かせた。が、心は焦り、身体は震えてばかり……。最初の音さえ探せずにいる。と、そんな井倉の肩に手を置いて彼が言った。
「大丈夫。信じたらきっと弾けますよ」
ハンスは微笑した。
「ね?」
しかし、それは慈悲深い天使と意地悪な悪魔が同居しているようにしか思えない表情だった。
「信じればいいんです」
ハンスが手を放してもその温もりが井倉の肩に残り続けた。そこからじんわりと熱が伝わり、凍りついた筋肉にゆっくりと血が通い始める。

(不思議だ)
井倉は思った。
(少しだけ楽になった気がする……)
井倉は軽く指先を動かし、拳を握ると膝に置いた。それから、静かに目を閉じて数を数える。そして、叩きつけるように最初の和音を弾いた。しかし……。
(駄目だ。乱れた。タイミングがずれた。左手が追い付かない。音を外した。スラーが繋がらない。アクセントが……)
しかし、ハンスは何も言わなかった。黙って最後まで弾かせた。
(酷い。めたぼろだ。こんなの……)
焦れば焦るほど曲は分裂し、自分自身でさえ、聴くに耐えないと思った。曲が終わり、井倉は弾いたことを後悔した。

――私の顔に泥を塗る気か!

黒木教授に言われるまでもなく、井倉自身、自己嫌悪に陥っていた。しんと静まり返ったレッスン室。ハンスは何も言わない。

「……すみません」
消え入るような声で井倉が言った。
「何故謝るんですか?」
ハンスが訊いた。
「何故ってその……全然上手く弾けなくて、その……」
おどおどしている井倉にハンスが言う。
「そうですね」
彼に肯定されると、井倉はがっくりと肩を落とした。
「この曲が何なのか、僕にはさっぱりわかりませんでした」
痛烈な言葉だった。
「君は一体何を弾きたかったのですか?」
「……ショパンのエチュード12番『革命』です」
「では、もう一度、最初から弾いてみてください」
「はい」

そして、井倉が最初の音を弾いた瞬間、ハンスがパンッと手を打って止めた。
「もう一度」
「はい」
井倉が弾く。
「ちがう。もう一度」
何度弾き直してもハンスはちがうと言って止めた。
(一体、何時までこんなことが続くんだろう? 最初の音が見つからない。曲のイメージが掴めない。先生の言っている意味がわからない)
乾いた空気。乾いた心。彩香が見下したような瞳でこちらを見ている。取り巻きの女達が笑い、黒木教授が怒鳴っている。そんな幻覚が頭の中でぐるぐる回る。

(昔はあんなじゃなかったのに……)
いっぱいの光を浴びて、花の中で戯れていた二人……。
(彩香ちゃん……)
それがある日、突然壊れてしまった。父の会社の倒産が二人が生きる世界に亀裂を生んだ。取り返しようのないその亀裂が二人を遠く隔ててしまったのだ。
(彩香ちゃん……!)
その憤りと悲しみとやるせない気持ちがどうしようもないほど熱く、心の中で渦巻いた。叩きつけるのではなく、瞬時に貫いた奮起と波紋のように広がるエコー……。そんなどうしようもなく溢れ出る感情の波……。ピアノの影はやがて暗雲の光へ飲み込まれ……。やがて聞こえて来る人々の嘆きと悲しみ、そして銃弾の音……。風が運んで来る故郷の香り……。しかし、それは幸せに満ちた花の香りではなく、血と硝煙と涙の匂いだった。

――革命……

それは、光と闇とが渦巻いた時間……。引き裂かれた絆……。罅割れた心と大地の叫び……。
(どうして……?)
涙が流れた。それは心のずっと奥深くに隠してあった人間の最も大切な部分に触れて広がる。

「はい。では次に行きましょう」
ハンスが言った。井倉は黙って続きを弾いた。二人の間を通る風は、もはやレッスン室の閉鎖された空間ではなく、渦巻いた光と影が激しく交錯する歴史の狭間へと続く扉の向こう側から吹いていた。
理不尽な想い……。
突然、断ち切られた魂の叫び……。
届かない想いと心のジレンマ……。
精一杯搾り出してもまだ届かない。
鬱屈した時間……。
それは熱く哀しい魂の狂気……。
(何だろう? この感じ……)
未だ味わったことのない何かが井倉の胸を締め付けた。見たこともない異国の町で、風を感じ、大勢の見知らぬ魂とすれ違った。その大勢の中にきっとハンスや黒木教授や彩香、そして、在りし日のショパン……彼がいる。そんな気がした。光と影とやさしさに包まれて、彼は何を想い、何に涙を流したのか?
(わからない……)
しかし、井倉は、そのすべての想いをピアノにぶつけた。言葉にならないその想いを……。そして幻想の霧が動いた。万華鏡のように人の心を映す鏡のように……。その磨かれた鍵盤の上で彼は懸命に何かを表現しようとしていた。届かない想いを伝えようと……。

「今日のレッスンはここまでにしましょう」
ハンスが言った。気づくと、そこは閉鎖された空間のレッスン室だった。独特な匂いと静寂。凛と張り詰めた空気。黒いピアノとそこに飾られた天使のように佇んでいるバウアー教授。
(ここは本当に日本なのだろうか?)
そう錯覚してしまうほど、演奏中に見た映像は生々しかった。
「あ、ありがとうございました」
そう言うと、井倉は椅子から立つと楽譜を取って頭を下げた。
「来週。テストをします。よく練習しておいてください」
ハンスが言った。
「はい。わかりました。それでは、失礼します」


井倉がレッスン室を出ると次の学生が待っていた。彩香だ。
「あの……」
声を掛けようと思った。が、彩香は黙って井倉の前を通り過ぎた。時計を見ると、もう次のレッスンが始まる時間だ。
「彩香さん、バッグをいつものところに……」
彼女がソファーに置きっ放しにしていたバッグを掴んで井倉が言った。が、彼女は扉の前で振り向いて言った。
「いいえ。結構」
「でも……」
戸惑う井倉。
「黒木先生は、何故あなたを特別レッスンの受講者に選んだのかしら? あまりに稚拙な演奏が聞こえてきたものだから、まさか大学生とは思わなかったわ」
そう言うと彩香は扉をノックし、中から返事があると、静かに開いて中へ入った。
「彩香さん……」
井倉は酷く落ち込んだ。

(そんなこと、言われなくったってわかってる。選ばれた者の中では僕が一番下手だって……)
他の者達は皆、優秀者として名を連ねている者ばかりなのだ。何故そのメンバーの中に自分が入っているのか井倉自身にも理解できなかった。
(どうしよう? 今日のレッスンだってボロボロだったし、来週テストするって何だろう? 僕があまりに駄目だったからかなあ? もしかして、バウアー先生に呆れられたんじゃ……。どうしよう? もし、来週そのテストに落ちて、もうレッスンに来なくていいなんて言われたら……? 黒木先生は何て言うだろう? 考えただけでも恐ろしい……)廊下は明るい照明に照らされていた。が、井倉の心は暗く先に見えるのは闇しかなかった。間もなく中から彩香の弾くピアノの音が聞こえてきた。ショパンのエチュード4番。難曲だと言われているその曲を彩香はさらさらと弾いている。
(やっぱり違う。僕と彩香さんでは……)
「……違い過ぎるよ」
井倉はそう呟くとゆっくりとそこを離れた。


彩香の演奏が終わった。たっぷりと余韻の時間を取って、彼女が優雅に振り向くと、ハンスは小さな木製の書き机に寄り掛かってじっと彼女を見つめていた。
「あの……」
彼女が促すように言うと彼は微笑して言った。
「すごいですね。この曲をここまで完璧に弾けるなんて……」
ハンスの言葉に彩香は微かに頬を染めて礼を言った。
「ありがとうございます。バウアー先生」
「ほんと。感心しました。ふふ。まるでロボットみたいだ」
「え?」
ハンスは笑っていたが、何処か皮肉なニュアンスが含まれているような気がした。

「あの、それは一体どのような意味なのでしょうか?」
彩香が質問する。
「意味? 言葉通りの意味ですけど……。君の演奏は素晴らしい。テクニックは完璧だし、ミスがない。まるでロボットみたいに……何の感情もなく、つまらない」
「は?」
彩香が呆然とした顔で彼を見つめる。
「わかりませんか? あなたの演奏はあまりに平板でつまらないと言ったんです」
ハンスが言った。その言葉をじっくりと噛み締めて彩香が訊く。
「つまらない……? 何故ですか?」
彩香には納得がいかなかった。が、ハンスはさらりと返す。
「感じるものが何もないから……」
「何も……? でも、わたしは楽譜通りに……。コンクールでも何度も優勝しました。この曲で……」
「コンクール? ふふ。それはさぞかし機械のような耳を持った審査員が揃っていたんでしょうね。僕なら多分、違う評価をすると思います」
「バウアー先生……」
微かにその唇を震わせてハンスを見つめる。

「来週、テストをします。それまでじっくり考えてみてください。今日のレッスンは終わりです。僕が教えることは何もありません」
レッスンが始まってからたった5分しか経っていなかった。
「……わかりました」
そう言うと彩香は楽譜を閉じて出て行こうとした。
「あ、ちょっと待って。一つだけ音が違っていました。できれば直しておいてください」
ハンスが言った。
「でも、わたしは楽譜の通りに……」
「そう。だから、楽譜の印刷が間違えているんです、多分」
と言って、ハンスはその部分を弾いた。
「ここです。ほら、この音」
「でも……」
「違和感はないけれど、僕はこっちの方が好きだから……もともと、これがオリジナルなんだし……出版社が勝手に手を加えたり、間違えたりして伝わってしまったものが多いんです」
「わかりました。直してきます」
彩香はそう返事をするとレッスン室を出た。
(それにしても何なの? こんな屈辱初めてだわ。けど、彼が弾いたたった1小節の音がやけに耳に残る。どうして? ハンス ディック バウアー……彼は一体何者なの?)


それからあっと言う間に一週間が過ぎた。
(どうしよう? 遂にまたレッスンの……審判が下る日が来てしまった。僕だって出来るだけのことはしたと言いたいところだけど、バイトは休めないし、他の授業だってあるし、何故だか今週は練習室の予約が込んでいて思うように取れなかった……)
「……なんて言い訳してても仕方がないか」
井倉は覚悟を決めた。午前の講義が終わり、学生達が一斉にロビーに溢れる。昼食の時間なのだ。井倉は混雑しているカフェテラスの前を通り過ぎた。
「とても食事をする気になんかなれないや。少しでも練習しなきゃ……」
と、その時、不意に誰かがその肩を掴んだ。
「あ、井倉君。丁度よかった。一緒に食事しましょう」
「え?」
ハンスだった。

「バ、バウアー先生……」
井倉は硬直した。が、ハンスはにこにこと笑いながらその腕を掴んでカフェに向かった。
「あ、あの、すみませんが、僕、まだ練習しないと……」
何とか逃れようともがくが、ハンスはその腕を放してくれない。
「今日のおすすめは何ですか? それと、僕はまたクリームソーダが飲みたいんですけど……。何処でチケット買えばいいのか教えてくれませんか? 僕、忘れてしまったみたいです」
「あ、はい。わかりました。えーと、ランチのおすすめはこっちで……」
頼まれたのでは仕方がない。井倉は彼を券売機の前に案内した。ハンスはオムライスのチケットを購入した。
「井倉君は?」
ハンスが訊いた。
「ですから、僕は練習があるので……」

しかし、ハンスは券売機から、もう2枚目のチケットを取り出すところだった。
「はい。それじゃ僕と同じでいいですね」
と、言って無理にチケットを渡そうとする。
「あの、でも……」
「オムライスは嫌いだったですか?」
悲しそうな瞳でじっと彼を見つめる。
「いえ、そんなことはありませんけど、その……今はピアノを弾かないと……」
しかし、焦る井倉の手を引いてハンスは微笑した。
「今更練習したところで結果が変わるものじゃありませんよ。さあ、飲み物は何にしますか?」
彼は強引だった。

(今更だなんて……。もう駄目? 絶望的だってことですか? それって酷いよ。あんまりですよ、先生……)
井倉は泣きそうな顔でハンスを見つめた。が、当のハンスは連れて来られた券売機の前に立つと、コインを入れ、クリームソーダのチケットがちゃんと2枚買えたと喜んでいる。
「よかった。適当にお金を入れたら何とか上手く買えました。ほら、見て。井倉君の分も……」
ハンスはどうしても井倉と一緒に食事がしたいようだった。
「わかりました」
井倉は遂に諦めて言った。
「じゃ、お金払いますから……」
と財布を出しているとハンスが不思議そうな顔をして言った。
「え? いいですよ。だって井倉君、お金がないって言ったでしょう? だから、これは僕が払います」
一瞬、皮肉なのかと思った。しかし、彼の表情は素直だ。

「いえ、大丈夫です。今日はちゃんとお金ありますから……」
井倉は、小銭をハンスに渡す。
「ほんとにもらっていいんですか?」
「もらってもらわなきゃ困ります」
井倉は言った。
「はい。わかりました。ではもらっておきますね」
と言ってハンスはその小銭を無造作にポケットに入れた。
「あ、井倉君、向こうの窓際が空いていますよ。あそこに行きましょう」
「あ、ちょっと待って。受付のおばさんにチケット見せなきゃ……」
井倉が慌てて呼び止める。
「ああ、そうでした。ありがとう」
そうして笑っているとハンスは本当に若く見えた。レッスン室での厳しさとはまるで違う印象がした。

「でも、本当に井倉君と会えてよかったです。僕、一人で食事するのって寂しいです」
席に着くとハンスが言った。
「そうですか……」
井倉は複雑な心境になったが、ハンスがうれしそうにしていたので何となくつられて笑ってしまった。
「バウアー先生は食事の時はご家族と一緒なんですか?」
井倉が訊いた。
「ハンスでいいですよ。バウアー先生なんて呼ばれると何だかくすぐったい気がします」
「はあ。それじゃあ、ハンス先生」
「それも変な気がしますけど……まあいいかな」
と言ってハンスが笑う。

「僕は大学に入ってからは一人暮らしなので、一人で食事するのは慣れてるんです」
井倉が言った。
「僕も日本に来る前には一人で食事することもあったんですけど、日本ではいつも誰かと一緒のことが多いんです」
「そうですか」
「井倉君の家族は?」
「親は頑固だし、母はあまり気が回るタイプじゃないし、妹なんか部屋を占領できるってんで大喜びしてますよ。のん気な家族だから、きっと僕のことなんか忘れてるんじゃないかな?」
「井倉君、寂しくないですか?」
ハンスが訊いた。
「え? 別に、そんなことないですよ。一人の方が気楽だし……練習だってできるし……」
運ばれてきたクリームソーダにストローをさしてかき混ぜようとして、慌てて止めた。グラスの淵からクリームが溢れそうになっている。それを慌ててティッシュペーパーを出して拭いていると、ハンスは黙ってグリーンの液体の中に現れては消える気泡を見つめていた。
「バウアー先生……?」

(もしかして、先生も寂しいのかな? 遠く日本に来て……。家族と離れて……それで……)
井倉がそんなことを考えていると彼はにこりと微笑んで言った。
「ソーダの泡ってエメラルド色の海に沈む宝石のようで素敵ですね。ここのソーダはすごく甘くて美味しいです」
「そ、そうですか」
井倉は何となく拍子抜けした。
それから間もなくメインの料理が運ばれてきて二人は食事を済ませた。それでもまだ、レッスンの時間までにはたっぷり30分ほどあったので井倉は早々にハンスから離れようとしたが、彼はずっと井倉のあとに付いてきた。

「井倉君はまた女の子達の荷物を運ぶんでしょう? 僕、手伝います」
ハンスの言葉に井倉は飛び上がって言った。
「と、とんでもない。先生にそんなことしてもらう訳には……」
「どうしてですか? この間は手伝いましたよ」
「あれは……あなたが先生だったなんて知らなかったからです」
「でも、僕達、もうお友達になったんだし……。どうせ僕、時間まで何もすることがないし……」
「先にレッスン室で休んでいてもいいでしょうし、中庭を散歩されるのもおすすめです」
井倉は何とか逃れようと必死だった。
「中庭? そこには何があるんですか?」
「庭園が……。すみれやチューリップの花壇がありますよ。それに桜も何本かありますし、池が……」
「わあ。それは素敵です。一緒に行きましょう」
そうして、またハンスは井倉の腕を引っ張った。
「あ、あの、困ります。僕はまだ荷物運びが……」
が、ハンスは有無を言わさず井倉を外に連れ出した。


花や緑に囲まれたその空間は、確かに見る者の心を和ませた。春の風も気持ちがよかった。これから試験なのだという事実さえなければ……。桜はもう散りかけていたが、ハンスは花びらが池に散る様を見て美しいと言って見蕩れた。その池に映るハンスの姿の方が
もっと美しいのではないかと井倉は思った。
(外国の人ってほんとに綺麗だな。日本人みたいにのっぺりとしていないからかな? その中でも僕なんか特に普通な感じだし……)
井倉はぼんやりとそんなことを考えた。
「あ、そうだ。試験のことなんですけど……」
突然、ハンスが言った。
「合格するまで何度でも挑戦してもらいます。井倉君もそのつもりで」
「は、はい」
井倉の頭に再び暗雲が立ち込めた。
「それじゃ、そろそろ時間ですね。行きましょうか」
ハンスはうれしそうだったが、井倉は命運尽きたかのような暗い顔でそのあとに付いてレッスン室へ向かった。


ところが、試験は驚くべき結果となった。演奏が終わった井倉に告げられたハンスの言葉は意外だった。
「あなたはC。合格です。来週からは次の曲に進みます」
「え?」
思わず聞き返した。
「ほんとですか?」
「はい。合格です」
ハンスはにこりと頷いた。自分が合格したことが信じられなかった。最も評価はS、A、B、Cまでが合格ということなのでぎりぎりだったということだが、それでも信じられないような気がしたのだ。
(よかった。Cで喜んではいられないけど、それでも……うれしい。バウアー先生って評価には凄く厳しいと聞いたけど、ほんとはやさしいのかもしれないな)
と、井倉は思った。
「ありがとうございました」
何はともあれ、彼は深々と頭を下げて出て行った。

続いて彩香が入ってきた。彼女は自信満々に弾き始めた。先週、ハンスから指摘された音の間違いも完璧に直してきた。彼女は今回もまた自分はSに間違いないだろうと確信していた。今までずっとそうだったように……。ハンスも彼女の演奏が完璧であると認めてくれているのだ。悪い評価が付く筈がない。が……。演奏が終わるとハンスは即座に言った。
「あなたの演奏はD。不合格です。またチャレンジしてください」
「不合格……?」
それを聞いた彼女は呆然と彼を見返した。
「何故ですか? どうしてわたしが不合格なんですか? 理由を教えてください、理由を」
しかしハンスは冷たく言った。
「理由がわからないようでは次もきっと不合格でしょう。僕のレッスンを受けるつもりがないならいつでもやめて構いませんよ」
「そんな……!」
彩香は微かに頬を震わせて唇を噛んだ。
「わかりました。では、もう一度よく考えてみます」
そう言って彼女は出て行った。