ウーニャの恋


第3話 はじまりの日


 「そもそものはじまりは……」
とウーニャはまたひとりごとを言う。
「彼女がぼくを拾ったことにあったのだ。ああ、いつ思い出してみても、何という劇的な出会いだったろう。あの日、ぼくはこの洞窟に逃げ込んだのだ……」
と目を閉じる。目ン玉の中に映写機でもあるかのように、過去のフィルムがウィンウィンと再生される。


 追われていた。
 雨の日だった。足をもたない彼は土にまみれながら、下り坂を滑るようにして、必死で逃げていた。と、草陰に飛び込んでおそるおそる背後を振り返る。
「ぎゃっ」
と思わず悲鳴をあげた。恐るべき大妖怪の巨大な影が、じっと彼を見下ろしていた。
「み、みみ、み……」
とそいつの名を言いかけるも、恐怖のために舌が回らなかった。慌てて地を滑り、洞窟の中へと入り込む。影はゆっくりと付いてきた。もはやこれまでか。そう思って、後ろを振り返る。と、よくよく見ればそれは彼を追うものの影ではなかった。

「おまえは何者だ」
と影が言った。と、ここで稲妻が天に閃いた。彼は、影の正体がフードを纏った女性であることを視認した。彼はとっさに近くにあった枯れ葉を被った。
「うにゃあ……」
とため息を漏らす。
「ネコか」
と女が言った。彼は相手にも自分の姿がよく見えていないことに気づく。
「にゃあ。うにゃあ」
と自前の高めの声を活かして、ネコの振りをした。
「うにゃあ、うーにゃ……」

と、ひょいとつまみ上げられる。悲鳴も出ないほど驚いて、自分を手にする相手を見つめる。ダークグレイの衣。ライトグレイの長髪。やはり彼女は人間ではないと直観した。その目は鋭く、冷たい印象を与えた。
「ウーニャ。それがおまえの名前なのだな」
「え? そ、それは……」
そして、おもむろに彼をひょいと放ると、洞窟の奥を指さした。
「入れ、ウーニャ。おまえは珍しい妖怪だ。今日からおまえは私の保護観察下に置く」
すでに名前として記憶されたあとであった。
「……がっくし!」
そう思った。名前のことを申し出ようとしたが、いいや待て、と思いとどまった。脳内シミュレーションで、言ってみる。「これは本名ではありません」。この怖そうな女性は言い返す。「そうか、偽りであったか。私は騙されるのが嫌いだ」。そして、手にしている鎌でスバッ。ウーニャはぶるると震えた。相手は何者かわからない。何か言って、不条理なことが起きてしまっては大変だ。おとなしく、きわめておとなしくじっとしていよう。

 それから彼は彼女のペットとなり、使い魔となった。彼女は短気でときどき鎌を振り回して脅したが、それを直接に振るわれたことはなかった。彼女が何かワケありの一族で、人間界に潜伏するも、人付き合いが苦手なためにこうして洞窟に暮らしているらしいということも知った。しかしその頃にはとうとう、名を名乗る機を逸していた。


 ウーニャはすべてのはじまりの日を思い出しつつ、そのあまりに運命的な出会いの場面にしばし酔いしれていた。そして、何より彼女が自分をここに置いたという事実。それを改めて思い返して、いらぬ自信と誇らしさを催していた。
「うふふ、そうですとも。彼女は最初っから、ぼくに……」
ここで少し間をとる。
「ぼくに、運命を感じていたんだよ」
囁くように言ってみた恥ずかしさで、のそのそそわそわと動き回る。と、何かを確信したように、大騒ぎし始めた。
「だってそうじゃあないですか。こんな洞窟で一人で暮らすなんて、なんだかとっても寂しいじゃないですか。使い魔と言いつつ、彼女はきっと家族が欲しかったのだ。そこへぼくが現れたはじめはね、きっと彼女も思ったはずですよ。こんな小さな妖怪には、せいぜいビー玉を転がしたり、楊枝を折ったりするくらいしか、できないだろうと。でもぼくは違った。お手をしたり、口笛を吹いたり、縄跳びを跳んだりもできるのだ」

ウーニャはおおいに演説した。
「そうですとも! ぼくはこう見えてタフガイ。彼女が投げたフリスビーを、咥えて取ったりすることもできるのです。そんなぼくの有能さを理解した彼女はね、もはやぼくを使い魔としてではなく、一人の男性として意識せざるをえなくなってゆくのは必定。へいへい国民よ! ここんとこ重要なんだぞ、わかってんのかいベイベー!」
その時、ガサッと音がした。思わずビクッと体を震わせた小さなタフガイは、恐る恐る後ろを向いた。影があった。彼に覆い被さるようにたなびくフードの影。あの時と同じだった。その中から、リーガの冷たいまなざしが降り注いでいた。
「うるさい」
とリーガは言った。ウーニャは萎縮した。
「ごめんなさい。ごめんなさい」

「何をしていた」
「回想に耽っておりました。ぼくらの出会いの日の回想。ああ、なんという劇的な出会いであったことか、運命とはなんと素晴らしいのか、と」
リーガは眉一つ動かさず、鋭い目の奥で何かを思考しつつ言った。
「私はあの時、この小さな生き物は何だと思った」
ウーニャはこくりとうなずき、息を弾ませて喋くった。
「ぼくもはじめ、この人何だろう、怖いなぁと思ってました。でも、今ではその怖さがぼくの純粋な喜びへと変わりました。リーガさんの怖いところ、ぼく大好きです。今時代は『怖い系女子』なのですよ!」
ここでウーニャは次の台詞を映えさせるため、目をきらめかせた。
「でもね、ぼくは『怖い系女子』だから惚れたんじゃないぜ。それは、君……だからさ」

しかし、リーガはそんなことは耳にも入れず、無視して続けた。
「実は今も思っている。おまえ、実際、何モノなんだ」
ウーニャは面食らったように黙り、少し考えてから、言った。
「何なんでしょう……ぼく……?」
リーガはじっとウーニャを見てから、麦茶のペットボトルの蓋を開け、数口飲むと、背を向けて卓上の饅頭の箱を開けた。そして、袋を開きつつ、言った。
「私は前から思っていたんだが」
ウーニャは告白ではないかと期待し、身を固くした。
「おまえ、まんじゅうの妖精ということはないか?」
ウーニャはぶるると身を震わせて、否定した。
「ないです!」
「割ったらあんこが入っているとか」
「ないです!」
「けっ、喰えねえ奴め」

 こうして、ウーニャの本質は結局それ以上問われずに仕舞った。ウーニャは心の中で、そういえばリーガさんって実際何モノなんだろう、とちらと思ったが、多分ぼくのために神様が遣わしてくださったエンジェルか何かだろう、と一人で納得し、リーガといっしょにおやつを食べるために、まんじゅうの載った卓へとのそのそと這い上って行った。

つづく