劇団ヌーボー


EPISODE W(前編)

 その店は表通りから一本奥に入った細い路地の突きあたりに建っていた。
「ここが『人形の館』か」
錆びた金属の飾りの付いたプレートに刻まれた文字を見てルイが言った。
「何だかここだけが昔の時間のまま取り残されているような雰囲気だね」

 その建物の建築様式は古く、扉も窓も、施された装飾もそこに流れた時間の長さを彷彿とさせるものだった。石段には苔が生えて、蔦の葉が玄関の柱に絡んでいる。ショーウインドーには、19世紀の貴族のサロンが再現され、角にはランプの照明が灯されていた。それらは皆、この店の主人が手作りした物なのだという。

「あの人形。まるで生きているみたいだ」
ルイがウインドーに魅入っていると、先に店の中へ入って行ったシャロンが呼んだ。
「ルイ、何をしているの? 早く来ないと始まっちゃうわよ」
「うん、すぐに行くよ」
彼はそう返事をすると、自分も扉の奥に入って行った。

 その日の放課後、ルイは同級生達に誘われて、そこで上演されるという人形劇を観に来ていたのだ。彼はその店のことを知らなかったが、彼女達の間では密かなブームなのだという。そこには少女達が憧れる美しい小物や人形、それに甘い菓子などがたくさん売られていた。人形の館はパリではあまり見かけない、ドールハウスやミニチュア商品を扱う専門店だった。

だが、彼女達の目当てはそれだけではない。時折店内で上演されている人形劇がとても魅力的なのだと言う。

――しかも彼はお金を取らないのよ
――確かに、ルイの劇団ヌーボーはプロだし、すごいでしょうけど、わたしは彼の人形劇も負けていないと思うわ
――そうそう。わたしなんかもう3回も観たんだけど、毎回彼の演技に魅き込まれちゃうの
――それに人形がまたすごいのよ。まるで人間のように動いたり、表情だけで泣かせちゃうんだから……

シャロンやソフィーが先を競って言った。

――ヌーボーよりもすごい演技だって? そいつは聞き捨てならないな

いつもなら、そんな話には乗らないルイだったが、演技がすごいと聞いては黙っていられない。早速、学校の帰りに彼女達とその店に行ってみることにした。

 無論、父親であるダニールは、その日もいつものように学校まで車で迎えに来たが、放課後は全員参加のダンスの練習があるからと言って、強引に帰ってもらった。
 嘘をつくのは悪いことだとわかっていた。しかし、今回だけは父親に付いて来て欲しくなかった。それでなくても、ルイは学校でファザコンだとか父親なしでは何もできない坊やだとか言われているのだ。これ以上ダニールに口出しされては叶わない。ましてや、今回は女の子達と一緒なのだ。何が何でも帰ってもらう他はなかった。

 その店の中は薄暗く、棚の上で灯されたキャンドルから甘い花の香りが漂っていた。四方に置かれた陳列棚には売り物らしい人形や小物が行儀よく並んでいる。そして、店の中ほどには木製の椅子が幾つもあって、そこに先客の者達が何人か腰掛けて、劇が始まるのを待っていた。
「今日は『灰かぶり姫』ですって……」
先に座っていたソフィーが教えてくれた。
「そいつは随分レトロだね。今時、そんなの上演したってウケないのに……」
ルイは呆れた。

 劇団でも小さな子ども達向けに童話劇を上演することがあるのだが、大抵は現代を舞台にしたファンタジーばかりだ。最近の子ども達には昔ながらのお話など喜んでもらえないからだ。彼はそのことを十分過ぎるほど承知していた。
「しっ! 始まるわよ」
隣の少女が囁いたので、ルイは黙って正面の小さな舞台を見つめた。
はじめに教会の鐘が鳴って、ナレーションの声が響いた。

 「昔々、あるところにとても愛らしい女の子がいました。その子は美しく、働き者で、とても素直ないい子でした。やさしい両親のもと、彼女は幸せに暮らしていました。ところが、ある日、突然の不幸が彼女を襲ったのです。女の子のお母さんは病気で亡くなってしまいました」

見ると舞台の横に立った若い男が手に小さなベルを持ち、胸元にあるマイクを通して語り掛けていた。その人は黄金色の髪を持ち、見る角度によって見える色が変化する瞳で観客達を見回した。
(この人が……)

 その声は張りのあるテノールでよく通った。
しかし、一旦劇が始まると彼の手の中で巧みに操作される仕掛けと共に、彼の声も変化した。
 「ああ、大好きだったお母さん、どうして死んでしまったの?」
少女の嘆きと悲しみ……。
(まるで本物の女の子みたいだ。あの人形も、この声も……いったいどうやって……)
空に浮かんだ三日月と小さな動物達が悲嘆にくれる少女を慰めた。その背に一瞬だけ細い糸が見えた。
(マリオネットか……)
だが、仕掛けの糸は必ずしも鮮明ではなかった。もしかすると、他にもからくりがあるのかもしれない。ルイは舞台を凝視した。

「それから間もなく、女の子の家に新しいお母さんがやって来ました。新しいお姉さんも一緒です。女の子はとてもうれしくなりました」
ナレーションに続いて、彼女は躍動感溢れる動きで喜びのダンスを披露した。
(本当にうれしそうに笑ってる。人形に何故こんな繊細な表情が出せるんだ?)
ルイは不思議でならなかった。

「何故おまえがそこに座ってるの? おまえに食べさせる物なんかないよ! さっさと向こうへ行って竈の灰を掃除しとくんだよ!」
継母が意地悪く命じた。それでも女の子ははいと返事して竈の中に入り、掃除を始める。美しかったブロンドの髪も薔薇色の頬も今ではすっかり灰色の煤だらけ……。それでも彼女は笑顔で歌を歌う。

「ほら、何をぐずぐずしているの? 早くわたしの髪を結うのを手伝ってちょうだい!」
「わたしの新しいドレスを仕立て屋に取りに行ってくれたんだろうね?」
継母の連れ子の姉達は我儘ばかり言って彼女を困らせる。しかし、彼女はそれを嘆いたりしない。何でも言われた通りに返事して休む間もなく働き続けた。

 舞台の上では人形達が生き生きと動き、表情も仕草もまるで人間そのものだった。そして、彼が発する台詞の一言一言が人形の口から発せられているかのような錯覚に囚われた。
(演じているのは彼一人なのに、何人も別の役者がいるみたいだ)
確かに役者の中には複数の役を演じ分けられるという器用な者もいる。彼の父、ダニールもそうだ。しかし、この男のそれは何かが違う。そんな気がした。

サンドリヨン……。彼女が継母達にいじめられ、一人舞踏会に行けず月光に向かって話し掛けているシーンでは、やはり母を亡くしているルイにとってはあまりに胸につまされて、涙が出そうになった。

(何て表情をするのだろう。それに、何て寂しさの滲んだ台詞回しだ……)
少ない台詞と僅かな表情の揺らめき……。それだけで観客の涙を誘った。
それだからこそ、現れた魔法使いの老婆の言葉に観客すべてが同意したのだ。
「さあ、おまえを舞踏会に行かせてあげようね。ただし、時計の針が12時を打つ前に必ず帰って来るんだよ」
かぼちゃの馬車は彼女を乗せ、夜空を駆ける。そのあまりに幻想的なシーンに観客達は皆ため息をついた。

そして、華やかな舞踏会で踊る人形達。
「すごい」
「きれい……」
女の子達が見惚れる。
そして、時が経ち、やがて時計が12時を告げる。
「もう行かなくちゃ……」
切なそうな目をした人形がふと振り返って客席を見た。
(これがただの『灰かぶり姫』の劇だって……? 違う。これは……。ここに流れる時は……あの人形達とともに生きている。芝居なんかじゃない)

ルイの心臓は異様なまでに高鳴っていた。
舞台の上から人形がじっと彼を見つめる。
儚気な微笑み。ルイは彼女のつぶらな瞳に釘付けになった。
そして、虹色に光るガラスの靴がぴったりと彼女の足にはまった時、ルイはもうすっかり舞台の虜になっていた。

 フィナーレは出演者全員の人形達が華麗に踊り、観客の脇を通って退場するという楽しい仕掛けも施されていた。
「すごいや……」
ルイは拍手を惜しまなかった。無論、それは他の観客達も同じだ。が、そこに集っていた人数はあまりにも少なかった。店内に明かりが灯ると皆、口ぐちに称賛とお礼の言葉を彼に告げた。が、そこにいたのは子どもばかりで、たった13人。
そして、多くの者は一つ二つの菓子を買っただけで店を出て行った。彼らのおこづかいで買える物は限られていた。

それでもその人はうれしそうだった。5才くらいの女の子がボンボンを一つ買って、
「劇、すごくよかった」
と笑うと彼はその手にもう一つボンボンを握らせて頷いた。
「ありがとう。これはおまけだよ」
飴を二つもらって女の子はうれしそうに店を出て行った。
(あれじゃあ全然儲からないだろうな)
ルイは要らぬ心配をしながらも、自分も持ち合わせがないことに思い当たってがっかりした。

「あのサンドリヨンの人形も売り物ですか?」
ルイが訊いた。
「ああ。でも、ずっと売れ残ってるんだ」
「値段が高いから?」
「いや、気に入ってくれたなら、値段なんか構わないんだけど、どういう訳だかいつも人形だけが全部売れずに残ってしまうんだよ。だから、こうして劇をやるんだ」

これほどまでに素晴らしい人形が一つも売れないなどとはとても信じられなかった。ルイはその人形が欲しいと思った。
「この人形、いくらなら売ってくれますか?」
ルイが訊いた。彼は微笑んで応える。
「いくらでも」
「でも、まさか5ユーロとかでは無理でしょう?」
「いいよ。5ユーロでも。君がもし、本当にこの子が欲しくて可愛がってくれるのなら……」
何の迷いもなく、彼は言った。

「それじゃ、明日、また来ます。ぼくはルイ ヴァリエ。すぐそこのアパートに住んでいます」
「待っているよ、ルイ。偶然だね。僕も君と同じ名前なんだ。ルイ フランソワ コルジュ。ここで人形やミニチュアを作って売ってる」
「それじゃ、明日、ムッシュウ コルジュ」
「フランソワでいいよ。誰も僕のことをムッシュウなんて呼ばないから……」
「わかった。それじゃ、フランソワ、またね」
「ボン ソワール、ルイ」

 子ども達がみんな店を出て行ってしまうと、フランソワはあのサンドリヨンの人形を抱きあげて言った。
「君もあの子が気に入ったのかい?」
キャンドルの明かりを浴びて人形の目が微かに煌めく。
「僕もだよ」
フランソワはそう言って微笑むと窓の外を見た。
「もうそろそろ、ここも潮時かな」
パリの空はいつも曇って灰色がかって見えた。灰かぶりと渾名されるこの小さな人形が着ている衣装のように……。


 間もなく、ルイは劇団に戻った。
「ルイ、どこに行ってたんだ? ダニールが血相変えて探してたぞ」
事務所の前を通り掛かった時、エリックが呼び止めた。
「ちょっとね」
ルイが俯く。
「何だ? パパに隠れて秘密のデートか?」
「そんなんじゃないよ」
ルイはそう言って立ち去ろうとした。が、不意に足を止めて胸を押さえた。

「どうした? 具合でも悪いのか?」
エリックが訊いた。
「違うよ。でも、何だか切なくてさ」
瞳が微かに潤んでいる。
「そいつはいかん。恋の病だ」
部屋の奥からクロードが出て来て歌うように言った。
「恋?」
「そうさ。ルイもお年頃になったって訳だ」
「そんなんじゃないよ」
少年は否定したが、その頬は仄かに赤く染まっている。

「それで、相手はどんな子なんだ?」
エリックも訊いた。
「だから違うって……彼は……」
「彼だって?」
エリックが驚き、隣を見ると、クロードも大仰に頷いて見せた。
「相手は男か」
「血は争えんな」
「もうっ! そうじゃないってば! ぼくの話をちゃんと聞いてよ」
ルイが抗議する。と、廊下の向こうからダニールが鬼のような形相で駆けて来て、少年を強く抱き締めた。

「ルイちゃん! いったいこんな時間まで何処に行ってたの? 学校に行ってもいないし、近所を探したけど見当たらなくて、劇団の誰に訊いても知らないなんて言うもんだから、パパはてっきりまた悪い奴らに誘拐でもされたんじゃないか、それとも、ママのように事故にでも遭ったんじゃないかと思ったら、心配で心配で……。気が変になりそうだったんだよぉ」
と、涙を流す。
「大丈夫だよ、パパ。ぼくは友達と、近所のお店でやってる人形劇を観に行ってただけなんだ」

「人形劇?」
ダニールが怪訝な顔で息子を見た。
「うん。その人形がすごいんだよ。まるで生きた人間みたいな表情をするんだ。それを作った人がそれらを操って劇をするんだけど、その彼の演技がすごくてさ。ぼく、すっかり感激しちゃった。彼は天才かもしれないよ、パパ」
「彼って?」
「ルイ フランソワ コルジュだよ」

「さあ、知らないな」
ダニールが首を傾げた。
「ちょっと待って下さいよ。ルイ フランソワ コルジュだって? その名前、どこかで聞いたことがあるような……」
クロードが考え込むように言った。
「彼は人形やドールハウスの小物なんかを作って売ってるんだ。人形作家というのかな? 店はこのビルのすぐ裏手だから、一度行ってみたらいいよ」
ルイが頬を紅潮させて言った。
「そうだな。ルイがそれほどよかったと言うのなら見てみる価値がありそうだ」
ダニールは思慮深そうな表情で蛍光灯の反射する窓の向こうを見つめて言った。
「わかった。パパも近いうちにその店へ顔を出してみるよ」


 その夜。フランソワの店に突然の訪問者があった。
「何ですか? あなた方……」
「ちょっとお邪魔しますよ」
強引に入り込んで来たその男達は皆、黒いスーツに身を包んだ柄の悪い三人組だった。
「待って下さい。店はもうおしまいなんです」
劇の舞台となった台の上に灯った三本のキャンドルだけが、店内を照らしていた。そんな炎の陰影の中で、棚に並んだ人形達が侵入者達を見つめる。

「用事が済んだらすぐに出て行きますよ」
「そうそう。あなたが素直に払ってくれればね」
「払う?」
フランソワにはその意味がわからなかった。すると、先頭に立っていた男が手にした借金の証文を突きつけて言った。
「ここにちゃんとした証拠もあるんだ。今夜こそは払ってもらいますよ、ムッシュウ コルジュ」

「確かに、それは以前、僕がお借りした時の証文かもしれませんが、それはもう、随分と前にお返しした筈だと思うのですが……」
困惑したように、フランソワがその書類を見つめて言う。
「利息の一部を返したからってそんなことおっしゃってもらっちゃ困りますね」
男達は凄むと、店の中を無遠慮に見回した。そんな男達の前で、人形達は怯えたように肩を寄せ合っている。

「それじゃあ、あなた方はいったいいくら返せと言うんですか?」
フランソワが訊いた。
「そうですね。元本と利息、それが積もりに積もって全部で5万7000ユーロ。今日がその期限だ。全額払ってもらいましょうか」
「馬鹿な……。僕が借りたのはたった750ユーロだ。しかも、あなた達の方から依頼して来た仕事で、人形製作の材料費として勝手に貸し付けたんじゃありませんか」
彼は凍てついたような目で男達を見回す。

「ほう。払えないとおっしゃる? ならば、ここにある物で払ってもらいましょうか。もっともこの店にあるのはがらくたばかりだが、まあこんな人形でもマニアに売れば、少しは足しになるかもしれない」
そう言って男は笑った。それから、従えていた二人に店の品をすべてかき集めて持って行けと命じた。

「やめて下さい! それを持って行かれたら、商売ができなくなってしまう!」
人形を取り返そうとする彼の手を乱暴に払い退け、男達はそれらを袋に詰めた。無造作に扱われた人形達はどれも悲しそうな目をして、じっとフランソワを見つめた。男の手があの灰かぶり姫の人形に掛かった。

「待って! それだけは持って行かないで下さい。お願いです。その人形は売約済みなんです。明日、お客さんに渡す約束になっているんだ。だから、……」
しかし、彼の必死の願いも空しく、人形は彼らの手に落ちてしまった。
「頼む! それだけは返してくれ」
必死に取りすがろうとしたフランソワを、男達は殴り、壁に叩きつけた。
「あうっ……!」
壁面の鏡が割れて破片が散った。人形を操る糸のような白い罅割れが、蜘蛛の巣のように四方に広がって行く……。ブルーの瞳に映るキャンドルの赤……。頭の中でそれが何重にも分裂し、彼を嘲けるように笑う。

「ルイ……ごめん……」
朦朧とする意識……。彼はゆっくりと床に倒れた。男達はそんな彼を放置したまま出て行った。乱暴に閉められた扉。
 蜀台のキャンドルは微かにずれて彼を照らした。入り口から吹き込んだ風に暗幕が揺れて炎にかさった。三本あったキャンドルのうち、一本は床に落ち、もう一本の炎が暗幕の端をじりじりと焦がした。しかし、フランソワはそこに伏したまま、燃える炎をただぼんやりと見つめていた。