クリスマス特別公演「ダーク ピアニスト」(中編)

 リート クリフザート……。彼はルビーそのものだった。誰もがその登場に驚き、座長の目の確かさを認めざるをえなかった。
「で? 彼は何処に?」
エリックが訊いた。夜。それはダニールのマンションだった。
「今、シャワーを使わせてるよ」
ダニールが言った。二人は向かい合わせで酒を飲んでいた。
「彼をここに住まわせるんですか?」
「仕方ないだろう。他に行く当てがないと言うんだから……」
「そうですね」
彼らは同じマンションで暮らしていた。ルイとダニールの親子が826号室。エリックが隣の827号室だ。他にも何人かの団員がこのマンションで暮らしている。
「ところでクリスマス公演の記者発表なんだけどね、明日、劇場ですることにしたから……」
「明日? 急過ぎませんか?」
「はは。好機は逃さない主義なんでね。早い方がいいんだ」
ダニールはそういう意味でも抜け目のない男だった。
「でも、大丈夫ですかね、彼……」

劇場に現れた時のクリフは不敵で堂々とした感じだったのに、皆からあれこれ質問されると、たちまちその自信は崩れ、おどおどし出した。そして、軽い稽古をしようということになって、いざ発声練習などを始めてみるとまるで声が出ていない。それでは駄目だと注意されると怯えたように人の影に隠れようとし、挙句の果てに泣き出して皆から呆れられた。
「公演までもう時間がないんですよ。本当に大丈夫なんですか?」
エリックが懸念する。それは団員達の代弁ともいえる質問だった。
「大丈夫だ。だが、明日、彼には会見席ではない別の場所にいてもらう」
「それじゃ、宣伝にならないんじゃないですか?」
「そんなことはちゃんと計算済みさ。彼を記者達から守って最も効果的な宣伝をする」
ダニールはニヤリと笑んでグラスを傾けた。
「したたかな人ですね」
「それくらいのことはしなきゃ、劇団の運営なんか出来やしないよ」
と言って笑う。

と、その時、いきなりルイが飛び込んで来て言った。
「パパ! 来て! クリフが大変なんだ」
「何だって?」
ダニール達が浴室の前まで駆けつけてみると、中から悲鳴のような声が聞こえている。
「クリフ! どうした? クリフ!」
ノブを回して開けようとするが、中から鍵が掛かっていて開かない。
「どうした? 鍵を開けなさい」
どんどん叩いてダニールが言った。
「開かないよ! 助けて……! このままじゃ僕、泡の怪物に食べられちゃう……!」
「泡の怪物……?」
ダニールとエリックは顔を見合わせて沈黙した。
「彼、バスソープの分量間違えちゃったみたいなんだ」
ルイが言った。
「間違えたって別に大した問題じゃないだろう」
ダニールは言ったが中からまた悲鳴が聞こえた。
「早く助けてあげてよ。換気扇も回らないし、このままじゃ窒息しちゃうよ」
ルイが言った。

「仕方ない。壊しますか?」
エリックが言った。
「そうだな」
ダニールも頷く。中からはもう声がしない。
「おい、クリフ、生きてるか?」
ダニールが呼んだが、返事がない。エリックがドアに体当たりした。が、そのドアはびくともしない。続いてダニールも力いっぱい当たってみたが同じだ。ドアは頑丈に出来ていた。二人は交互に体当たりを続け、これでもかとばかりに二人同時にぶつかった。すると、バンッと大きな音がしてドアが外れた。
「何だ? これは……」
浴室は蒸気と泡で本当に窒息しそうだった。その泡を掻き分けて彼を探す。クリフは浴槽に沈み掛けていた。

「大丈夫か?」
二人がかりで掬い上げると急いで外に運び出す。取り合えずルイが持ってきたバスローブに包むとダニールが浴室の中の泡を流そうと悪戦苦闘した。
「すみません」
とクリフは言った。
「僕、うっかりシャンプーを落としちゃって、拾おうとしたら隣のバスソープも落ちちゃってキャップが外れてしまって、慌てて拾おうとしたら手がすべって全部浴槽の中に……。混ざり合ったらすごい泡になって、それで急いで流そうとシャワーを出したら泡が……」
彼は泣きながら訴えた。
「僕、弁償しますから……」
「気にするな。誰にでも失敗はある。それより、泡だらけのままじゃ困るだろう。エリック、君のとこのシャワーを貸してあげて。このベトベトしたソープを何とか落とさせないと……」
「わかりました」

 そうして、クリフはバスローブのまま隣の部屋へと移動した。
「使い方は同じだが、ソープは使うな。それだけ付いてれば必要ないだろうからな。それと、ここのドアは開けっぱなしにしとけ。また閉じ込められたら厄介だから……」
「はい。すみません」
そうしてクリフは827号室のシャワールームに入って行った。
「やれやれ」
エリックは呆れたが、これですべては落ち着くだろうと思った。が、また、中から悲鳴が聞こえた。
「今度は何だ?」
「いくら流しても全然取れないんです……どうしよう……このままじゃ僕……」
チョロチョロ流れる水の下で彼はまた泣いている。エリックはふーっと長いため息をついた。

「おまえ、ソープ体質なのか?」
「え?」
「いいからそのまま立ってろ。手伝ってやる」
あまりの手際の悪さにエリックはイライラした。そこでシャワーを全開にして頭からバシャバシャ掛けてやった。それから壁や浴槽に付いた泡も流し去る。
「よし。これくらいでいいだろう」
それは思ったよりも時間が掛かった。もし、彼一人にやらせていたら一晩かかっても浴室から出て来られなかっただろう。
「初日からこれじゃあ、先が思いやられる。座長の酔狂は今に始まったことではないが、今度ばかりはとんでもない厄介な荷物をしょいこんでしまったのかもしれないぞ」
エリックは先を思うとため息をついた。


 そして、翌日。稽古の間中、クリフはずっと落ち込んでいた。基礎体力作りの柔軟や腹筋などはともかく、発声、滑舌、早口言葉にパントマイム。そんな基礎的な練習でさえ彼は満足にできなかった。それで注意される度におどおどとし、何をやっても怒鳴られた。
「大丈夫。誰だって最初から上手くなんかできないよ。それに、クリフは今日が初めてなんだもの。その割にはいい線いってたところもあったし、これからだよ」
ルイに励まされて微かに微笑む。
「へえ。どれがいい線いってたって? おれにはわかんなかったなあ」
通りすがりにアーネストから皮肉を言われ、またクリフは頬を引きつらせた。
「やめなよ、アーネスト。仕方ないだろ? クリフはつい昨日まで素人だったんだから」
「その素人に主役張らせようってんだから座長は何考えてんだか……」
アーネストが不服そうに睨みつける。

「出番がないからってひがむなよ。大人気ないだろ?」
ルイが言った。
「ああ、そうさ。ルイはいいよな。座長の息子だからっていつもいい役ばかり回してもらえてさ」
「だったらあんただってもっと芸を磨けばいいだろ? この世界は実力の世界なんだからさ。もっともあんたの演技じゃあと10年はかかりそうだけどね」
「何だと、このチビ! 言わせておけば……!」
掴みかかろうとするアーネスト。
「や、やめて下さい……。僕のせいでそんな……」
「そうだ! てめえのせいだよ、何もかも……」
突き飛ばされて床に尻餅をつくクリフ。
「あ、あの、僕……」

「そこで何をやってる?」
背後から声が響いた。エリックだ。
「アーネスト、つまらないことを言っている暇があったらトレーニングでもしろ」
「ふん。座長の飼い犬め」
アーネストは捨て台詞を残すとその場を去って行った。
「あ、あの、すみません。僕のせいで……」
「おまえも何でそんなにいちいちビクビクしてるんだ? 誰ぞに弱みでもあるのか?」
エリックが苛立って言う。
「い、いえ、別に……」
クリフはまたおどおどと下を向く。
「なら、真っ直ぐ前を見ていろ」
「は、はい」
「座長が呼んでる。早く行け」
「はい」
クリフが行ってしまうとルイが肩を竦めて言った。
「本当に大丈夫かな? 夕方には記者会見があるんでしょう?」
「ああ。確かにあいつだけ見てると不安になるが、ダニールにはいい考えがあるそうだから……」
「ふうん。いい考えね」
ルイは何となく胸騒ぎを覚えた。

「いいか? 台詞は三つ。特に大きな声を出す必要ない。マイクが拾ってくれるから……。出来るな?」
カンペを渡してダニールは言った。
「これ……」
「合図が来たらこの台詞を言う。そうすればあとは全部上手くいく。わかるな?」
「あとは全部……」
彼は紙に書かれた文字だけをじっと見つめた。そして、ぶつぶつと口の中で繰り返す。何度も何度も繰り返し……。そして……。


 午後6時。記者会見が始まった。
「本日はお忙しい仲、我が劇団ヌーボーの会見のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます。早速ではありますが、今年のクリスマス特別講演会の演目を発表させていただきます」
集まった記者達が一斉にフラッシュを炊く。
「演目は、『ダーク ピアニスト』キャストは……。ルビー ラズレインにリート クリフザート」
「何だって?」
「あのピアノのクリフザートか?」
どよめきが起こった。

「その通り。彼は最高のピアニストであり、最高の役者となる。正しく演劇界に旋風を巻き起こす反逆児としてね。どうです? 彼こそ、ルビーという役柄にピッタリだと思いませんか?」
ダニールの言葉に記者達も頷く。
「確かに……」
「これはすごいトクダネだ!」
「彼は何処です?」
「一言インタビューを」
記者達が色めいた。が、ダニールはそれを留めて静かに言った。
「待って下さい。まだ、キャストの発表の途中ですから」
「ああ、そうでしたね。注目のギルフォートは? エスタレーゼは誰が?」
再び記者達が食いついてきた。

「まず、ギルフォート グレイスはエリック サバン」
彼が会釈すると、会場からどよめきが上がった。
「エスタレーゼはソフィー サンティーヌ」
彼女もにっこりと微笑む。フラッシュの嵐。
「ジェラード役をセオドア ジョーン……」
発表は続く。そして、最後にダニールが自分の脇にいる息子を照会する。
「ルビーの子供時代をルイ ヴァリエ、そして、その父親フリードリッヒをダニール ヴァリエ、この私が演じさせていただきます」
一通りの挨拶が済むと記者達は座長やキャストに幾つかの質問をした。
「ところで、注目のピアノは誰が弾くんですか?」
「無論、クリフザート自身の演奏で存分に楽しんでいただきます」
期待していた者達が歓声を上げる。
「これはすごい。ビッグなクリスマスプレゼントになりそうですね」
「ところで彼は……」
と記者が言い掛けた時、突然照明が落ちた。

「何だ?」
「どうした? 停電?」
すると突然、闇の中から笑い声が響いた。
「ふふふ」
クスクスくすくすとそれはホールのあちこちから反響して聞こえる。
「何処だ? 何処にいる」
「上だ」
誰かが叫んだ。するとぼうっと淡い照明が彼の姿を照らし出す。そして、彼はシャンデリアの上に立ち、黒いマントをなびかせていた。そして言った。
「僕は闇のピアニスト。僕は独り。闇を奏でる者……」
一斉にフラッシュが炊かれ、そこにいた全員が彼を凝視した。が、次の瞬間。彼の姿は消えていた。絶妙な照明のマジックだった。そして、パッと蛍光灯の灯りがついた。

「彼は何処に?」
「何てことだ。こいつはやられた」
記者達は興奮してそれぞれが何かを叫んだり、辺りを見回したりした。
「これで本日の会見は終了致します。お忙しいところ大変ありがとうございました」
それから記者達は外へと誘導され、ドアが閉められた。
「いや、驚いたな」
「今年の公演はすごいことになりそうだ」
「クリスマスが楽しみだぜ」
「それにしても、あのクリフザートに役者としての素質があったなんてびっくりだな」
「音学院教授を怒らせたピアノの腕も見られるチャンスだぜ」
「チケット入手するのが難しくなりそうだ」
そんな声があちこちから聞こえた。

 「思惑通りですね」
エリックが言った。ダニールも満足そうに頷く。
「それにしても、さっきのあれ、クリフじゃないみたいだった……初めてなのに、あの笑い……」
ルイが感心したように言う。
「確かにな。どうやって特訓したんです? この短い間に」
エリックも不思議がる。が、ダニールは首を横に振った。
「いいや。特訓なんかしてないよ。ただ、三つの台詞を書いた紙を渡しただけ。あそこで笑うなんてことも指示してない」
「それじゃアドリブ?」
ルイが驚く。
「彼、舞台度胸は満点だ。っていうか、もしかしたら……」

ルイはふと当たりを見回す。
「ところでクリフは?」
「そこらにいるんじゃないのか? ほら、あそこのカーテンの隅とか……」
ダニールが言った。が、何処にもいない。ルイはふと不安になった。
「エルンスト、クリフを見なかった?」
「え? あのあと見てないけど……」
サンドイッチを頬張りながら彼は言った。
「おかしいなあ。会見のあとから姿が見えないんだ……」
ふと上を見上げたルイは思わず叫んだ。
「クリフ! まだあそこにいたんだ。降りておいでよ。もう終わったよ」
が、彼はシャンデリアにしがみついたまま動こうとしない。
「おい、あれってもしかして……」
エルンストが言った。
「降りて来れないんじゃ……」

「クリフ!」
もう一度ルイが呼んだ。
「だって……ここってすごく高いんだもの。怖くて、僕……誰か助けて……!」
泣きそうな声で彼は言った。
「おい、マジかよ」
エルンストが呆れる。
「仕方がない。エリック、ちょっと上に行って下ろしてやって……」
ダニールが言った。
「やれやれ」
エリックは僅かに首を竦め、急いで上に向かった。

「ほら、この鉄棒に捕まって来れば登れるだろ? ほんの3段じゃないか」
高い天井の照明を操作するための板を伝って飾り物のシャンデリアに近づくとエリックが言った。
「いや。こ、怖い……」
「下を見ないで上がって来い」
「だ、だめだよ。足が震えて動けないんだ……」
シャンデリアにしっかりしがみついて離れようとしない。
「まったく、何て手の掛かる……。だったら、おれがそこに行く。動くな」
そう言うとエリックは細いバーだけの梯子を降りてクリフを捕まえた。
「きゃあ、ゆ、揺れてる……。落ちる。落ちちゃうよ。怖い……」
華奢なシャンデリアの上にエリックが乗ったのでかなりぐらぐらと揺れていた。
「黙ってろ! 今下してやる」
が、クリフは怖がってなかなか掴んだ手を放そうとしない。
「いい加減にしろ!」
宥めてもすかしても脅してもクリフはそこから離れない。

「おい、上で面白いことやってるぜ」
アーネストが指差す。そこにいた団員達が一斉に注目する。

「ほら、みんなに見られて恥ずかしいだろ」
「でも、怖い……」
エリックは呆れた。
「さっきは平気で立ち上がってたじゃないか」
「知らない」
「何?」
「僕、知りません、そんなこと……」
「台詞を言ったろ?」
「台詞……?」
クリフはふとポケットからダニールにもらった紙を出した。

「僕は闇のピアニスト……」
「そうだ」
「僕は独り……。闇を奏でる者……」
微かに微笑している。そして、表情が変わる。
「ルビー……」
思わずそう呼んだ。すると彼は振り向いて訊いた。
「僕を呼んだ? ギル」
ふとその顔にさっきまでの恐怖はなく、両手を離してそこにいた。
「よし。来い」
エリックは彼を引き寄せ、腕に抱えて梯子を上った。そして、天井のはめ板を通ると舞台の裏から下に降りた。

「着いたぞ」
エリックが声を掛けるが、彼はまだ口の中でぶつぶつと呟いている。
「僕は闇のピアニスト……」
そして、くすっと笑う。
「おどろいた。こいつは相当重傷だ」
それからエリックは微笑して、彼を床に下した。
「僕は闇の……」
「なるほど。憑依体質か……」

そこへルイとダニールがきた。
「どうしたの? 大丈夫?」
ルイが心配そうに覗きこむ。
「ダニール、この公演は上手く行きますよ」
エリックが言った。
「ああ。そうだろうとも」
ダニールも自信に満ちた顔で頷く。
「明日から立ち稽古を始める」
「え?でも、読み合わせとかは?」
ルイが訊いた。
「各自で適当にやっておいてくれ」