PLANET DESIRE
Clue Ⅱ デザイアー
Part Ⅰ
わあんと耳の中で音が反響して聞こえた。雷のような、爆発のような、拍手と歓声に包まれて、少年は剣を構え、相手に一礼した。と同時に、再び歓声が上がる。それは正式な国際試合。整えられた競技場の中だった。
「おめでとう!」
「優勝おめでとう!」
虹色の照明に照らされて彼は剣の光が眩しいと感じた。しかし、それは彼にとっては誇らしい名誉の光だった。競技とはいえ、真剣と同型の剣を携えての勝負。その闘技部門で彼は無敗の神話を打ち立てた。
「おめでとう!」
誰もが彼を賞賛した。彼は応援してくれた会場の人々に笑顔を向けた。その度にフラッシュの嵐が巻き起こる。
「優勝おめでとう!」
司会者が叫んだ。
「史上最年少10才11ヶ月での優勝です。第37回武道選手権大会、真剣闘技部門の優勝者は、彼、ユーリス ジムレイト君に決定しました!」
記者会見の場が用意され、次々と質問が浴びせかけられる。
「どうですか? 並み居る年上の強豪達を破って優勝した感想は?」
と、興奮した司会者が訊いた。
「はい。とてもうれしいです」
試合の時には大人でさえ震え上がる程鋭い眼光を放っていた少年も、今は愛らしい普通の10才の少年に戻っていた。
「それで、君は世界一ということになりましたが、これからの抱負といいますか、目標はどんなことにありますか?」
「はい。これからも修行を積んでもっと立派な剣士になりたいと思います」
彼はキッパリと言った。
「あれ? 君は世界一になったのだから、もう十分に立派な剣士なんじゃないですか?」
「いいえ。ぼくはまだ子供ですし、もっとがんばらなければいけません。ぼくは、もっと強くなりたい。立ち止まりたくないんです。運命にも時間にもどんな相手にも負けたくないから……。ぼくは、ずっと走り続けていたい。たとえ、どんなに辛いことがあっても、諦めず、前だけを見て、走り続けたいんです。そして、早く大人になって、たくさんの人を助ける仕事をしたいと思います」
明るくはっきりとした子供だった。大きな優勝杯とメダルをもらって微笑む彼。ユーリスの未来は皆から嘱望され、その瞳は誰よりも輝いていた。
「ユーリス、おめでとう! よくやったわね」
と母親が来て彼を抱いた。
「ありがとうございます。お母さん」
彼は最上の笑顔で母を見つめた。
「そうだ。本当に偉いぞ。ユーリス」
と父も来て頭を撫でてくれた。
「ありがとうございます。お父さん」
それは、彼にとって何よりも幸福を感じることのできる時間だった。普段は学校と道場とを往復するだけで、ろくに家族と話をする時間も取れないのだ。しかし、大きな大会が終わった後には、両親は必ず彼を抱き締め、喜んでくれた。
「すごいわよ。ユーリス。今度の大会の賞金は1,000,000ゴールドですって!」
と母がニコニコと言った。
「そりゃ、お父さんの年収より多いぞ。この先2年くらいは余裕で遊んで暮らせるなあ」
と父親も顎を撫でながら笑顔で言った。
「そうなの? でも、ぼくはお金には興味ありません。それは、かわいそうな子供達のために使ってあげて下さい。そうだ。学校でも貧しくてノートが買えない子達がいました。その子達は両親がいなくて、施設から学校へ通っているのですけど……。その施設の人達にでも差し上げたらよいと思います」
とユーリスは言ったが、母親は彼を回れ右させると早口で言った。
「そんなことより、ほら、あの人達がユーリスに会いたいって……。宣伝に出てくれないかって言うのよ。そしたら、もっともっとお金が入るわ」
「そうだぞ。それに、テレビの番組でおまえのことを取り上げたいって……そしたら、おまえも有名人になれるんだぞ。そうなればお金もざくざく入って大金持ちになれる」
と言う両親にユーリスは言った。
「ぼくはそういうことには興味がありません。有名人にならなくてもいいし、お金だって随分たくさんもらってるでしょう? もう十分ではありませんか?」
が、両親は渋い顔をして彼を説得した。
「そんなこと言うもんじゃないぞ。お金はいくらあってもいいもんだ」
「そうよ。稼げる時にめいっぱい稼いでおかないと……さあ、あまり待たせたらよくないわ」
と追い立てられた。
「でも……」
振り向くと、眩しい照明が彼の目を射た。
「光が……」
彼は目を閉じた。
「痛いよ。光が眩し過ぎるんだ……」
――光が眩し過ぎて……
――痛い……
闇の中だった。何の音もしない暗闇にぼっと明かりが灯った。松明の灯りだ。それを手にした大きな影が動いている。影はゆっくりと横たわったままの人間に近づいた。ここに連れて来てから、もう何日も経つというのに、男はまだ眠ったままだった。怪物は、そっとかがみ込んで彼の様子を見た。浅い息をして、時折、声にならない声を上げた。が、それでもその表情は堅く、何事にも屈しない意志の強さを表していた。苦痛に耐え、恐怖に耐えて、彼は今も闘っているのだ。
「傷……」
と言って、怪物はそっと当てていた布をめくった。血はもう乾いていたが、抉れた傷跡が幾重にも重なって痛々しい。普通なら、到底助からないであろう深手の傷が幾つもあった。が、彼は生きていた。傷と骨折とで体中ぼろぼろになっていたが、彼は生きることを諦めなかった。
怪物は彼のサッシュベルトの布を裂いて包帯にした。出血している部位を縛り、血止めの薬草を当てる。そして、折れた腕には添え木をし、口に水分を含ませてやった。初めのうちは、なかなかうまく行かなかったが、何度も繰り返すうちにコツを覚えた。傷口に当てた布はすぐに血で真っ赤になった。その度に、怪物は水で洗い、乾かした。怪物は、道具の使い方を知っていた。火で煮炊きすることも熟知している。彼は、男が、早く目を覚ましたらいいと願った。そうしたら……。怪物はそっと男の傷に再び新しい薬草の葉を当てると土壁に立て掛けておいた彼の竪琴に触れた。爪の先でそっと弦を弾いてみる。僅かにじゃりんと音がした。が、どうしてもあの美しい音は聞こえない。怪物は再び男に近づいた。男がううっと苦痛の声を漏らした。
「痛……い……?」
怪物が喉から搾り出すようなザラついた声で訊いた。が、男は何も反応しない。
「ううっ」
と唸って微かに指を動かした。が、意識は戻って来なかった。怪物は、薬草を煮て作った痛み止めの薬を小さなしゃじで掬って男の口に運んだ。
「口……」
と怪物は言ったが、男の口は堅く閉じたまま動かない。怪物はそっとかれの顎を挟んで持ち上げると爪でそっと口を開かせ、流し込んだ。が、咽たりこぼしたりして、なかなか飲み込んでくれない。が、それでも、怪物はそれを根気よく繰り返した。
「……痛い…な…い……る……」
小さな子供に言い聞かせるように怪物が呟く。
「痛い……な…い……」
と繰り返す……。
「うう……」
怪物が覗き込むと男の口がそして、体が微かに震えている。
「寒…い?」
怪物が再び訊いた。
「……」
洞窟の中は温かかったが、怪我をして、何も着ていなければ寒いかもしれないと思い当たったのだ。彼の服は傷の手当てをするために邪魔だったので、みんな爪で裂いて脱がせてしまった。彼の体は筋肉のよく張った最高の肉だった。食ったらさぞかし美味だろう。しかし、怪物は彼を食すことはしなかった。男は最高の腕を持っていた。これまで怪物が出会ったことのない最高の洗練された戦闘能力。そして、あの美しい音のする楽器を奏でる指。……あの澄んだ響きを、もう一度聴いてみたかった。食うならいつでも出来る。ましてや味にこだわらなければ、食する肉など、他にいくらでもある。だが、楽器を弾いていたのはこの男なのだ。そして、生まれて初めて、彼を戦いで燃えさせた人間……そして、彼が唯一知っていた人間……ミアに似ていると思った。
「ミア……」
バチバチと燃える火を見つめて名前を呼んだ。もう決して自分の所には戻って来てはくれないだろう少女の名前を……。その小さくてあたたかい手の温もりにもう一度触れたくて、怪物はそっと男の手に触れた。が、彼の手は冷たかった……。
「ユ…リ……」
怪物は何処かから持って来た大きな布を広げ、そっと彼に掛けてやった。
「……も……寒い…な…い……」
――寒いよ
彼は凍えていた。
(どうして、ここは、こんなに寒いの? どうして、ぼくは……?)
恐ろしかった。悪魔のような怪物が彼の枕元で囁くので、少年は目を開けることが出来なかったのだ。
「歩けない? このまま一生寝たきりってどういうことですか?」
母の声に似ていた。
「残念ですが、ユーリス君の頸髄には重大な損傷が認められまして……。手術の結果、何とか命は助かったものの、首から下の神経が完全に麻痺している状態なのです。根気強くリハビリを続ければ、もしかしたら多少は回復するかもしれませんが、恐らく、一生ベッドから離れることはできないと思います」
医者らしい男の声が説明した。
「そんな……!」
父も母も呆然とし、声を失った。それから、医者に詰め寄る。
「何とかならないんですか?」
「この子はそんじょそこらのただの子供じゃないんですよ! この子は……」
「存じております。しかし……」
と医者は言葉に詰まり、それから、ボソリと一言だけ言って出て行った。
「お気の毒です」
「ちょっと! 待って下さい。待って」
両親は医者を追って出て行った。後には、ただ、規則正しい電子音とシャーッと掠れるような機械の音だけが続いた。
(どういうこと……?)
ユーリスは混乱する頭の中で考えた。
(どういう意味? 一生寝たきりって……歩けないって、一体……? それってぼくのこと? ぼくは、一体どうしちゃったの? ここは何処?)
彼が薄く目を開けると眩しい光と白い天井が見えた。
「お母さん……」
声に出して呼んでみた。自分の声がひどく遠く聞こえる。
「何処?」
視線だけで周りを見た。窓が一つ。そして、白い壁と扉。彼の周りには様々な機械があり、その機械から伸びているたくさんの管が皆、彼の小さな体に繋がっていた。まだ、たった十一才の彼の体に……。
「どうして……?」
何も思い出すことができなかった。
「眩しい……それに、寒い…よ……」
彼はまた目を閉じると、滲んだ涙を拭こうとした。が……。
「動かない……!」
彼は驚愕した。手も足も、指一本さえ、まるで死んだようにぴくりとも動かないのだ。まるで誰か他人の体のようだった。いや、それどころか、何も感じない人形か石像のようだ。
――残念ですが、ユーリス君には、頸髄に重大な損傷がありまして……。恐らく一生ベッドから離れることはできないでしょう
頭の中で、さっきの医者らしい男の声が響いた。
「どうして?」
ユーリスは勇敢な少年だった。どんな時にも弱音を吐かず、練習に励んで来た。そして、真剣と向き合って来た。たとえ、その相手がどんなに強くても、大男だろうと大人だろうと恐れを感じたことはない。しかし今、彼は、腕に刺された小さな針が、細くて長い管が、そして彼を取り巻く小さな箱型の機械が、恐ろしくてたまらなかった。白い天井が、清潔な白い壁が、小さな彼を押し潰そうと迫って来る。そんな錯覚を覚えた。
「怖い……」
繋がれた天敵の透明な管にポタリポタリとしずくが落ちて、彼の中に入って行く……。
「痛い……」
と少年は言ったが、痛かったのは心の方で、体は何も感じていなかった。
「お母さん……来て……今すぐ、ぼくのところへ……」
少年は静かに目を閉じて願ったが、彼の望むような人間は遂に来てくれなかった。
(寒い……それに、眠い……)
再び眠りに落ちそうになった時、乱暴に扉が開いて突然誰かが入って来た。
「冗談じゃないわ! 何が一生寝たきりよ! あの医者ときたら、命が助かったのは奇跡。正しく神の思し召しですって?」
母の声だった。
「まったくだ! おれ達に一生こいつの面倒を見ろってのか?」
父もいっしょだった。
「本当よ! いっそのこと死んでくれたらよかったのに……!」
(お母さん……?)
「ああ。とんだお荷物だぜ」
(お父さん!)
「チッ! せっかく金の卵だと思ったのによ。こんなに早く壊れちまいやがって……これから稼げるって時に……! これじゃ、一体何のためにこいつに飯を食わせて来たんだってんだ! 大損だぜ」
(お父さん、お父さん……? それ、何の話?)
「それで、あんた、どうするんだい? この厄介者のガキをさ」
「おれは真っ平だからな。こんなガキの面倒見るなんて……」
「わたしだってそうよ。稼げると思ったから世話してやったのに……もう、いらないわ」
(いらないって何? お父さんもお母さんも一体、何を言ってるの?)
「いっそのこと殺っちまったらどうだい?」
「まずいんじゃないか?」
「何ビビってんのよ。金も稼げない上に自分じゃ何一つ自分自身の面倒さえみられなくなっちまったガキになんか用はないだろ?」
「当たり前さ。だが、どうやって? ここは病院だし、ヘタに手を出したらまずいんじゃないか?」
「だから、いいんじゃないか。わたし、昔、看護士をしてたの。こういう患者の急変なんてよくあることなんだから……こうやって点滴の速度を変えて、心臓に負担をかければ簡単よ」
と言って、その速度を最大にする。ユーリスは、ぎゅっと固く目を閉じていた。
「こうしとけば、30分も持ちゃしないわ。それに、誰もわたし達を疑ったりしない。あくまでも病院の過失ってことになるわ」
と笑う。
「そうだな。ユーリスが死ねば保険金が入るし、世話もする必要がなくなる」
「そうよ。そしたら、また、才能のある子どもを買って育てりゃいいのよ」
二人は笑っていた。
(どういうこと……? いらないって……? ぼくを殺すの? いらなくなったから、ぼくが邪魔なの? そんなに、ぼくが憎いの? お金が稼げなくなったから……? ぼくがこんな怪我をしたから? 動けなくなったから? それで、ぼくがいらなくなったの? 邪魔になって、ぼくの代わりにちがう子を……!)
鼓動が早くなっていた。さっきまで規則正しかった電子音は乱れ、呼吸が浅くなった。
(息が……できない……! 苦しくて……痛い……! 痛い! やめて!)
涙が流れていた。硬直した手も足も彼の自由にはならなかった。そして、心さえも……。聞きたくなかったのに……眠ってしまいたかったのに……。せめて、目は開かないままでいよう。彼の耳元でしゃべっている怪物が自分の両親であることを認めなくなかった。もし、ここで目を開けて見てしまったら……ここにいるのが怪物ではなく、彼の父親と母親なのだと認めてしまったら……彼はどうして生きて行けるだろう? ……彼は固く目を閉じていた。
涙が流れていた。それを怪物は大きな手でぎこちなく拭ってやった。ユーリスは、覚醒しかけた意識の底で、長い長い夢を見ていた。
(寒い……だが、あたたかい何かがわたしに触れる……一体、誰の……?)
彼の意識はまだ混沌としていた。が、誰かの手が自分に触れ、顔や手を布で拭いたり、胸の傷に手当てをしてくれているらしいことを感じた。
(傷……そうだ。傷だ。わたしは怪物と戦って負傷した)
だんだんと記憶がはっきりして来た。
「ここは……?」
薄っすらと目を開ける。が、そこは真の闇のように真っ暗で何も見えなかった。彼はそっと指先を動かしてみた。ぎこちなかったが、確かにそれは動き、感覚として感じることもできた。彼は更に腕を動かそうとして、痛みを感じた。
「ううっ……!」
と彼は顔を顰めたが、痛みを感じたことがうれしかった。それなら、麻痺はないということになる。それなら、いずれ傷は治り、また動けるようになるだろう。それが、彼にとっては大切なことだった。
(それにしても、ここは一体何処なんだろう?)
ユーリスは体を起こそうとしたが、酷い眩暈と痛みとでとても起こせる状態ではなかった。右腕には添え木がしてあった。左手も軽く手を突いただけで痛みが走り、胸と肩の傷は更に深く、僅かに動かしただけでも激痛を伴った。そして、体は重く、呼吸さえも苦しく、彼は喘いだ。しばらくして呼吸が落ち着くと、彼は改めてそっと手や足を動かしてみた。
(大丈夫。ちゃんと神経は繋がっている……あの時とはちがう)
彼はほっとして天井を見た。暗くて何も見えはしなかったが、そこは、何となく土壁のように思われた。そっと手を伸ばして触れた床が土の感触だったからだ。彼は、その土の上に敷かれた絨毯のような物の上に寝かされていた。そして、薄い布が一枚掛けられている。枕は枯れ草を束ねたような物で、驚いたことに、傷に巻かれた布の他に、彼は何も着せられていなかった。が、それでも、きっとこれは誰かの好意なのだろうと彼は思った。この当たりには怪物も出るし、砂漠と荒野が続く土地柄だから、人間はさぞ暮らしには不自由しているだろうと想像は出来る。今までにも彼は、小さなバラックのような小屋や山の中の洞窟で暮らしている種族や人間達を見たことがある。恐らくここも余儀なくそういう暮らしをしているのだと理解した。
(それにしても、一体誰がわたしをここへ連れて来たのだろう? あの怪物は……?)
彼がこうして生きているということは、誰かが助けてくれたにちがいなかった。
(わたしは、よくよく運のいい男だ)
とユーリスは思った。
(あの時のように……また、わたしは命を与えられたのだ。多分、わたしにしか出来ない何かを成し遂げるために……)
それが何かなのかは薄々感じていた。が、それはまだ時期を待つことにしようと思っている。どちらにしても、この状態では話にならない。すべては回復してからのことだと彼は思った。
(それにしても、わたしを親切に手当てしてくれたのはどのような美女なのか? 一刻も早く体力を回復し、手厚くお礼を致さねば……)
と空想し、彼は少しばかり元気を取り戻した。そして、それはどのように言葉を言い、どのような態度で感謝すれば伝わるだろうか? といろいろ想像を巡らしているうちに、ユーリスは再び眠りに落ちた。
誰かが微笑み掛けて来た。明るい陽射しの中で、彼は白く清潔なベッドに寝かされていた。あれから、一体どれくらいの時間が過ぎたのか? 彼にはもうわからなくなっていた。が、相変わらず、腕には点滴が、そして、鼻からは酸素が注入されている。
「初めまして。ユーリス。僕はダニエル。今日から、君の担当になった医者だよ。よろしくね」
と笑顔を向けた。が、その容姿は医者というには、あまりに若い。どう見ても10代の少年にしか見えなかった。
「どう? 気分は。何処か痛いところはない?」
ダニエルは気さくに訊いてきたが、少年は黙ったまま天井を見ていた。
「ユーリス。きっと不安なんだね。もし、僕が君の立場だったらやはりそうだと思うもの。でもね、もう、何も不安に思うことはないんだよ。君は、これから僕達といっしょに医学に素晴らしい奇跡を残すための計画に参加するんだ。そうしたら、君は、また、走れるようになるんだよ」
ユーリスの黒い瞳が微かに反応を示した。
「そう。本当だよ。走れるようになるんだ。それだけじゃない。君はまた、元通り何でも望むことをやれる体になれるんだ。僕の計画に参加して、その治療を受けたらね」
と微笑む。ユーリスにとって、それは夢のような話だった。頸髄損傷で全身麻痺となり、一生ベッドの上での生活をしなければならないと宣言された彼にとっては……。しかし、ユーリスは返事をしなかった。
「どうしたの? 君はうれしくないの? また、剣の道を究めることだって夢じゃないんだよ」
ダニエルがやさしく言った。
「……」
「そうか。君は、お父さんやお母さんと別れることになったのが寂しいのかい? でも、それは、仕方がないんだ。この研究はまだ世間の人達には秘密なんだよ」
ユーリスは微かに首を横に振った。寂しくなどなかった。自分を育てたあの親は、彼の本当の両親ではなかった。そして、彼のことを心から愛してくれてはいなかったのだ。
彼は拳を握りたかったが、それは出来なかった。彼の体は、彼の意思に逆らってばかりいた。少しも言うことを聞いてくれなかった。そして、そんな体になってしまった彼を、両親は捨てたのだ。金のために殺そうとし、それが叶わなかったとなると、両親は、彼をこの研究施設に売った。それは、彼の戸籍を抹消するということだった。つまり、死んだも同じ扱いをするということだ。多額の金と引き換えに、ユーリスは隔離され、実験体として国の研究に貢献する。家族や友達とは二度と会えない代わりに最先端の実験的治療を受ける。特に、今ダニエルが中心となって研究している画期的な治療が成功すれば、歴史に残る素晴らしい医学の進歩として刻まれることになるだろう。だが、もし失敗すれば命を落とすかもしれない。しかし、そうなったとしても、彼はもともと書類上では存在しない人間だ。失敗したところで責任を問われない。誰からも訴えられる心配のない都合のいい被験者という訳だ。
ダニエルが研究していたのは、神経の接合だった。特に重要な脳や脊髄といった中枢神経を繋ぐ技術。それが成功すれば、不幸な事故で損傷し、不自由な思いをしている人達にとって素晴らしい巧妙になるだろう。そして、様々な事故や病気で損傷した骨や筋肉や臓器を繋ぎ、移植はもちろん、将来的には、永遠の命とて夢でなくなるかもしれない。
「そうなったら、人間は、もっともっといろんなことに挑戦できる。勉強もスポーツも、長い時間が掛かる研究も、何だって……人間はもっともっと賢くなれるんだ」
ダニエルは目を輝かせて言ったが、ユーリスはただぼんやりと壁を見ていた。白い壁にブルーの光がちらちらと反射している。それをじっと見つめるユーリス。と、一瞬、その光が鳥が羽ばたいている姿のように見えた。
(あれは……)
その形は彼が幼かった頃、誰かが読んでくれた絵本の挿絵に似ていると思った。
(青い鳥……)
それは幸福を運んで来てくれるという象徴の鳥だ。彼は慌てて手を伸ばして捕まえようとした。
(あんなところに……)
しかし、それは不可能だった。彼の手は石のように動かず、本物に見えたその鳥も幻でしかなかった。
「どうだい? 素敵だと思わないか?」
ダニエルの問いに、ユーリスは、
「何故……?」
と言って目を閉じた。
「君は、もう一度剣を持ちたいと思わないの?」
「剣を……」
ユーリスが目を開ける。そして、僅かに首を傾けてダニエルを見た。
「ね? 君だってそう思うだろ? 出来るんだよ。それが。君はまた元通り、元気な体になるんだ」
「そしたら、ぼくも幸せになれる? 幸せの青い鳥は、ぼくのところにも来てくれる?」
とユーリスが訊いた。
「青い鳥? ああ。もちろんだとも」
ダニエルがしっかりと彼の手を握る。しかし、その感触もあたたかさも、ユーリスには何一つ伝わって来なかった。彼の手は、今はもう生きていないのだ。
「永遠の命をもらえたら、人は本当に幸せになれるの?」
悲しい目をしてユーリスが訊いた。
「そうさ。きっとね……」
ダニエルは言ったが、その手はさっきより力強くはなかった。そんな気がした。
(ぼくは青い鳥が欲しいんだ)
天井の蛍光灯を見つめてユーリスは思った。
(ぼくだけを愛してくれる幸せの青い小鳥が……)
「手術は痛いの?」
ユーリスが訊いた。
「ううん。全然痛くなんかないよ。眠っている間に終わってしまうからね」
「……そう。なら、いいよ。ぼく、その手術を受けても……」
(飛んで行ってしまった青い小鳥をもう一度捕まえることができるなら……)
ダニエルは彼の手を取ったままうれしそうにうなずいた。
「そう。決心してくれた? よかった。僕も全力を尽くすよ。ユーリス、君が本当に復帰出来るように……」