ダーク ピアニスト
前奏曲4 千の薔薇と千のキス

中編


 「あの、マルコ、まだ怒ってる?」
夕食の席でルビーが訊いた。
「いいや。あれは、私の方が悪かったんだ。君に無理強いしてごめんよ」
マルコが言った。ルビーはホッとして頷く。
「うん。わかればいいよ。許してあげる」
そんな横柄なルビーの態度にジェラードは顔をしかめたが、せっかく時間を掛けて謝るように説得したエスタレーゼが父を突いた。

「それはよかった。君が怒ってピアノを弾いてくれないんじゃないかと思ったら悲しくてね」
とマルコがオーバーにゼスチャーする。
「ピアノを?」
「そうだよ。君のピアノ、とても楽しみにしてたんだ。私は特にショパンの曲が好きなんだけど、君はどうだい?」
「うん。僕もショパンは大好きだよ。それに、僕は彼の曲が1番得意なんだ」
とうれしそうに笑う。
「そう。それはますますもって楽しみだなあ。他にはどんな曲が弾けるの?」
「ベートーヴェンとかバッハとかモーツァルトも得意だよ。僕、クラシックの曲なら、何だって上手に弾く事が出来る」
「そうか。君はピアノの天才だったね」
とマルコもにこにこと笑う。

「うん。それにね、1度聴いた曲なら何だって弾けるんだ」
「ほう。それはすごいね。それじゃあ、一体、全部で何曲くらい弾けるんだい?」
「えーとね、あるだけ全部。千だって2000だって弾ける」
「おいおい、そりゃ、いくら何でも無理なんじゃないのかい? 千とか2000なんて言ったら、2時間のコンサートを100回連続したって終わらない数だよ」
とマルコが言った。
「出来るもん。僕、同じ曲を弾かないで2時間のコンサートを100回連続だって開ける」
ルビーが言った。

「本当かい?」
「本当だよ」
「なら、賭けるかい?」
「賭ける?」
「もし、君が同じ曲を全く弾かずに100回連続コンサートを成し遂げたら、私は君に1億ユーロ払おう。ただし、もし、君がそれを実行出来なかったら、ずっとここに住んで私のものになる」
「あなたのものに……?」
ルビーが聞き返す。

「ん? どうしたね? やはり、出来ないのかね? あれはハッタリ? 本当は自信がないんだろう? いいよ。無理をしなくても……」
ギルは、挑発だと気づいて、ルビーに合図を送ったが間に合わなかった。
「いいよ」
あっさりとルビーが言った。
「100回連続コンサート、聴かせてあげる。でも、それは1億ユーロが欲しいからじゃない。僕が僕である事の証明のためにするんだ。それに、あなたがどんなに愚かしい事を言ったのかを証明してあげる」
そう言って彼はクククと笑って席を立った。

「ルビー」
ジェラードが呼んだが振り向かない。
「マルコ……。君も大人気ないよ。一体どういうつもりだね?」
ジェラードの言葉にマルコはしたたかな笑みを浮かべて言った。
「私は、あの子が気に入ったんだ。いくらあの子が天才でも100回連続は無理だろう。ジェラード、あの子はもらったよ」
と席を立つ。ジェラードも呆れたように軽く首を振って出て行った。
「ルビーってば、あんなこと言って……。大丈夫かしら?」
エスタレーゼが心配そうに呟く。
「さあ……」
ギルフォートは、最後のコーヒーを飲み終えると自分も席を立った。

「ちょっと、ルビー、大丈夫なの? あんな事言って……」
エスタレーゼが彼の部屋に来て言った。
「大丈夫に決まってるだろ? 僕が信用出来ないの?」
「信用してるわよ。でも……」
「あいつは、僕のプライドを傷つけたんだ。許せない」
「だからって……」
「平気だよ。僕は天才なんだ」
「それって自分で言う言葉じゃなくてよ」
「どうして?」
「本当に天才だったら、わざわざ自分で宣伝しなくても、周りの人達が認めてくれるはずだからよ」
「でも、その周りにいる人がわかってくれなかったら? ちゃんと言葉に出して伝えないと相手の心に通じないって母様が言ってたよ」
「それとこれとは違うわよ。ちゃんと口に出して伝えなきゃいけない時と、思っても言ってはいけない時があるの」
「そんなの、僕わかんないよ」

「とにかく、その『天才』という言葉は自分に対して使わないの」
「どうして? みんな、僕のこと、天才だって言ってくれたよ。あれは嘘なの?」
「嘘じゃないけど……」
「ないけど、何?」
「わたしには、ピアノの事はよくわからないわ。あなたがとても上手に弾けるのは知ってる。でも……」
「じゃあ、エレーゼは、僕があいつのものになってもいいの? 僕が嫌いなの?」
「フーッ……」
彼女は深いため息をついた。
「そんな事は言ってないでしょう? ただ、謝るなら今のうちだと思うわ」
「また僕に謝れと言うの? どうしてさ? 僕はいやだからね! 絶対にコンサートを成功させて、あいつの方謝らせるんだ!」
「ルビー……」
「もう、決めた! 僕は決めたからね! 早速明日から始める。毎日6時からきっちり2時間、100日連続開催する。そう伝えといて」
言うと彼はベッドの淵にとんと弾みをつけて座った。スプリングの利いたマットが揺れる。ルビーは子供のように、その揺れを楽しみながらとんとんと足でリズムを取っている。

「仕方ないわね」
エスタレーゼは肩を竦めて言った。
「わかったわ。それじゃあ、わたしがプログラム作るの手伝ってあげる。いつ、何の曲を弾いたのか、ちゃんとつけといた方がいいでしょう?」
「そうだね。それじゃ、お願い」
ルビーは言ってとんとベッドから降りた。
「あ、それと、楽譜をたくさん持って来てくれる?」
突然思いついたように言うルビーにエスタレーゼが不審そうに訊いた。
「いいけど……あなた、楽譜なんか読めるの?」
「読めないよ」
「それじゃ、何で要るの?」
「音が聞こえるから……」

「音?」
「うん。僕、文字は読めないけど、楽譜に並んだ音符を見てると自然に音が聞こえて来るんだ。その曲に込めた作曲者の想いとか、その時、何が起きていたとか、いろいろ……僕が楽譜から読むのは心。作曲者が生きた時間……。それを忠実に再現して僕は弾くだけ……」
「すごい……。そんな事が出来るなんて……。それじゃ、ルビーは、みんなそうやって覚えたの?」
「みんなじゃないよ。楽譜なんか見なくても自然に心で感じて弾く曲もある。ショパンの曲はそうだね。あとは、テレビやラジオやいろんな所で聞いたことのある曲とか……」
「すごい……! あなたって天才だわ」
「それは使っちゃいけない単語でしょ?」
と言ってルビーが苦笑する。
「わたしは本人じゃないからいいのよ」
と澄ましている。

「とにかく楽譜を持って来てよ。出来れば、なるべく原本に近いやつをね。最近のってやたら間違ってるのが多いんだ」
「間違い?」
「解釈の相違。確かに、難しいところを弾きやすくとか、指使いを変えるとかならいいんだけど、明らかに音が違ってるのとかあって、しかも、それが正しいなんて言ってる学者までいて困るんだ。僕のが絶対正しいのに……」
「ふうん。よくわからないけど、とにかく楽譜を持って来るわ」
そう言うとエスタレーゼは出て行った。
「薔薇のいい香りがする……。ここはとてもいい所だよ。でも……」

――ルビー……私の赤い宝石……

(シュミッツ先生……)

――ルートビッヒ、あの子ってばまったく髪を切らせないのよ
――お風呂にも入らないの。不潔だわ

(昔、病院という折の中にいた時……消えない消毒薬の臭いの中で看護士達が言った。僕が変わってるって……僕の頭がおかしいって……。何もかも滅茶苦茶なあの病院で……)

――ルビー? なぜお風呂に入らないの?

シュミッツ先生が訊いた。
「消えてしまうから……」
「消える? 何が消えてしまうの?
「……」
「それじゃあ、どうして君は髪を切らないの?」
「なくしてしまうのが怖いから……」
そういう少年を抱きしめてくれた人の体は熱く、やはり、その手は少し振るえていた。

「何もなくしたりしないよ。誰も、君を置いて行ったりしない。誰も君を傷つける事なんて出来ないんだよ。点から預かりし魂を誰も汚す事なんか出来ないんだ」
「けれど、ぼくのここには冷たい矢が刺さってる。あの時からずっとぼくの心臓は止まったままでいるんだ。そして、それはどんな偉いお医者さんでも抜く事は出来ないんだよ。だから、ぼくはこのままでいるの。ずっとあの時のまま大きくなったりしないの。だって、ぼくが急に大きくなってしまったら、次に母様に会った時、ぼくだってことがわからないかもしれないでしょ? だから、このままにしてるの」

シュミッツはそっと少年の髪を撫でた。

「でも、君の髪は、あの時より、もう随分長くなっているよ。あの時と同じだと言うなら、少し切って前と同じくらいの長さに整えた方がいいと思うよ。それに、君のお母様は、きっときれい好きな人なんじゃないかな? 薔薇の香りがよく似合う……。そんな素敵な女性だったのだと思う……」
「うん。そうだよ。いつも母様の近くに行くと甘い薔薇の香りがしてた……。その香りが、ぼくはとても好きだった……。でも、ここは消毒薬の臭いが強過ぎて何もかもを台無しにした。最後に残っていた母様の薔薇の香りのついたハンカチを取り上げられた……。薔薇は枯れてしまったよ。ぼくの中にしみついていた母様の香りをあの医者が無理やり奪ったんだ。ぼくの上着の袖に残ってた母様の血さえみんな洗い流されてしまった……。そうして、ぼくは何もかも失くしてしまったから……もうこれ以上何も失くしたくないよ……。失くしたくないんだ!」
「でも、シャンプーはいい匂いがするよ。君のお母様が使っていた薔薇の香りと同じように……。おいで。髪を切ってあげよう。そして、体をきれいにするんだ。そうすればきっと君は夢の中でお母様に会うことが出来るよ。薔薇の香りの石鹸は、君にきっとよく似合う……。だから、おいで……」

「シュミッツ先生……」
洗面台に置かれた薔薇の形の石鹸は、ちょっぴりルビーを切ない気持ちにさせた。鏡に映った自分は、やはり、まだあの時と同じ髪型をしている。肩より少し長い黒髪はさらさらと流れ、母のそれと酷似していた。


……千の薔薇の悲しみは
千のキスで満たしてあげる
千の薔薇の朝露は
千の涙を含んでる
僕に下さい。千のキス……
あなたに焦がれて愛しくて……
抱き締めたなら、それは罪……
鋭いトゲが傷つけて、赤い涙を流すでしょう
掻く傷だらけの僕の手に
千のキスをしておくれ
薔薇の涙は闇の中……
夜露に濡れて泣いている
薔薇の涙は千のキス……
月の光の闇の中……
千の薔薇を腕の中
抱えて僕も夢の中……
千のキスと赤い薔薇
千の孤独と赤いキス
僕に下さい。赤いキス……
僕に下さい。
薔薇と涙と千のキス……


ルビーが庭で歌っていると不意に後ろから拍手が聞こえた。
「素敵な歌だね。君が作ったの?」
マルコだった。
「私にもくれるかい? 千のキスを」
「……いいよ。もしも、僕がコンサートを成功させられなかったら……」
ルビーが言った。
「ほう。そいつは楽しみだ」
「その代わり、もし、僕が勝ったら、千の薔薇が欲しいな」
「もちろんだとも。君が望むなら、ここにあるすべての薔薇を君にあげよう」
「約束だよ」
「ああ。約束だ」
爽やかな青空の下、そよぐ風は薔薇に絡んで甘い香りを含んで消えた。


 そして、翌日。コンサートにはマルコによって厳選された100人程の客が集まった。サロンを薔薇で飾り、そこに現れたルビーは品のいい貴公子のように愛らしく、薔薇は一層彼の魅力を引き立てた。
「おお。何と美しい……。彼は何をしていても絵になる」
マルコは演奏が始まる前からうっとりしていた。
「ホントに……。ルビーって、普段は単なる童顔で可愛いってだけだけど、ピアノの前に立つと美しいわ」
エスタレーゼも思わずそう呟いた。小柄で子供っぽい彼が妖艶な魅力を発揮する、そんな瞬間だった。

(100回連続コンサート……。これが最初の1曲……)
ルビーはマルコのありきたりな挨拶を聞きながら、心は既に遠い幻想の果てを見ていた。
(ワルツ……。淡い幻想の中で仄かに香る一欠片の記憶……夢の中……薔薇の中……僕は踊る。薔薇の涙を抱き締めて……小さな悲しみはオルゴールに閉じ込めて、回るバレリーナの人形を乗せる。苦しみは花瓶に沈め、その上に飾るよ。数え切れない花の束……。闇も狂気も悲しみも僕のピアノで蓋をする。もう聞こえない。数えない。悲しい過去の記憶など……。もう戻れない愛の記憶……。君をこの手に抱き締めて僕は踊るよ。人形のように……。この手が鍵盤を押す度に何かが壊れ、何かが生まれ、僕が僕だと自覚する。この鍵盤の上だけが僕の世界……。無限に続く砦の中の僕の宇宙……)
閉じられた瞳の奥に映る記憶の扉をそっと開く。その口元には笑みが浮かんでいた。膝に置かれた手を風がくすぐる。心の中で刻む時を数え、彼はしなやかにその手を鍵盤に下ろす。華やかな和音。そして、軽快なリズム……。誰もの心を一瞬で釘付けにしてしまう魔力……。

「美しいわ……」
吐息のようにもらした婦人の言葉。
「彼が? それとも、曲が?」
隣の紳士の問いに、彼女は夢見るような表情で応える。
「どっちもよ」
薔薇のサロンでのコンサートは大成功だった。鳴り止まない拍手……。当初は行わない予定だったアンコールを彼は2曲も弾いた。

「2時間11分で17曲。ちょっと初日から飛ばし過ぎじゃない?」
エスタレーゼが言った。
「どうして?」
ワイングラスに唇を近づけてルビーが言った。
「先は長いのよ。アンコールまでやってたらとても持たないわよ」
「ピアノの曲なんか数え切れない程あるよ」
「でも……まだ、弾いたことない曲とか練習しておかなければいけない曲とかだってあるでしょ?」
「練習なんてそんなにかからないよ」
ワインを飲み干してルビーが言った。そこへマルコがやって来て言った。
「ルビー、君こそは本物の音楽の天使だ。今まで聴いた他のどんなピアニストより素晴らしかったよ」
と大げさに抱き締めて左右の頬にキスをした。
「ありがとう。でも、ちょっと放してよ。僕、とても喉が乾いたの。ワインをもう一杯くれない?」
「ああ。もちろんだとも。最高級の物を持って来させよう」
とマルコは言って早速使用人を呼んでそう命じた。

「特にワルツの7番とバラードの2番がよかった」
「そうですか。僕も好きな曲です」
お代わりのワインをもらってルビーもうれしそうに頷いた。
「これから毎日、君のピアノが聴けると思うと、ここがまるで天の国に思える程だよ。今日ここにいらしたお客さん達も、またぜひ呼んで欲しい、チケットはいくらか、としつこく言われてね」
「チケット? 聴きたいなら来ればいいんだ。僕は構わない」
「では、こうしたらどうだろう? お金を払いたい人は自由にチップを箱に入れて行ってもらう。それに貯まったお金は何処か然るべき施設に寄付をする」
「それはとてもいいね。僕は賛成。マルコって、もしかしてホントはとてもいい人なの?」
「ハハハ。本当も何も私はとてもいい人だよ。それで、君なら何処へ寄付をする?」
「水や食料がなくて困っている子供達がいるって聞いたよ。だから、そんな子供達の所へ」
「オーケー。わかった。君の望む通りにしよう」
とマルコが言うのでルビーもうれしそうに笑った。
「では、初日の成功を祝って乾杯だ」
「乾杯」
皆でグラスを打ち合わせる。


 そうして、2日目、3日目とコンサートは順調に進んだ。
「ルビー、今日のプログラムは?」
エスタレーゼが訊いた。
「そうだね。今日はベートーヴェンのソナタを……14番がいいな。それとブラームス。あとはリストとモーツァルトとショパンの小品にしようかな? あー、でも、相性の悪い曲もあるから、弾いてみて決めるよ」
「それじゃあ、決まったら教えてちょうだい」
そう言って彼女は窓際に立った。さわやかな風が彼女の長い髪を揺らす。それは黄金の細い光の糸が何百も集まって彼女を構成しているかのように見えた。
「……素敵だね」
ルビーが言った。
「まるで光の束で出来たお人形みたいだ……」
「何?」
彼女が振り向く。
「お人形……」
彼が呟く。

(目の前にある。けれど、僕には決して手の届かないお人形……君)

薔薇の甘い香りは、時として彼を淡い幻想に酔わせた。
そして、回が進むにつれてルビーの演奏は絶頂を極めた。

「こんなにずっとピアノだけを弾いていられるなんてすごく幸せ……」
ルビーは満足し、輝いていた。
「そうだ。これこそが君本来の姿。ジェラードのところで地味で危険な仕事なんかしていないで私のところへおいで。そうすれば、毎日自由に、好きなだけピアノを弾いて、好きなだけ歌って過ごせるんだ。素敵だろう?」
マルコが囁く。
「確かにそれは素敵だけれど、代わりに僕はあなたのお人形にならなければならない」
「お人形? そうだね。でも、私は君を大切にするよ。最高の料理人と最高の仕立て屋を揃え、君の望むものなら何でも買ってあげる。遊び相手が欲しいなら、君の好みの女の子を何人だって連れて来てやる。だから来ないか? 私のところへ」
「素敵だね。魔王の誘惑みたいに……」
ルビーはほんのり頬を染めてグラスの光り目を見つめる。
「でも、僕は僕の行きたい方向に行く。それがたとえ、どんなに複雑で曲がりくねった道であったとしても……。暗闇の中、手探りで這いずり回らなければならなかったとしても……。僕は自分で選びたい。いっぱい迷ったり間違えたりしながら少しずつ前に進む。僕は僕だけの責任で動きたいんだ」

やがて、ジェラードとギルフォートは別の仕事に行くと出て行った。が、ルビーは残り、コンサートを続けた。そして、エスタレーゼも彼に付き添い、彼のサポートをした。